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鬼和尚に聞いてみるスレ part8

1避難民のマジレスさん:2016/12/05(月) 22:15:12 ID:5WAaNl9c0
鬼和尚と修行者の為の交流スレです。

鬼和尚が提唱している修行に関する意見交換や実践しての感想などはセーフとしますが

あからさまな批判レスや中傷、論争及び自説の主張等はアウトです。

ルールを守って使用しましょう。

前スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part7
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1463059357

35避難民のマジレスさん:2016/12/10(土) 15:53:49 ID:Hasf7zeM0
>>28

なるほど、観照は日々の自我の観察、厭離の積み重ねの結果である、
ということも言えるでしょうか?

そして、どの程度まで行えば必ず観照が起こる、といったことはないが、
自我の観察を行えば行うほど観照が起こる確率もそれに比例し高めることができる、
そのように日々の自我の観察と観照には深い相関関係というか因果関係が
ある、ということも言えますでしょうか?

36鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/10(土) 21:45:28 ID:wTZcXC0U0
>>30 意欲があれば悟れるじゃろう。
 人によって違うじゃろう。
 長いほうがチャンスは多くあるじゃろう。
 恐れを乗り越えていければ悟りも近いのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>31 そうじゃ、ただ有効な行いを選択するじゃろう。
 苦があれば苦を観察するじゃろう。
 既に苦は観念であり、滅せることを知っているからのう。

>>32 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

37鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/10(土) 21:51:45 ID:wTZcXC0U0
>>33 祈る程度ならば慈悲といえるのじゃ。
 今ここには無いことを望む気持ちが強いほど、執着となり苦を起こすのじゃ。
 慈悲の瞑想も本来のお釈迦様の教えには無いものじゃ。
 お釈迦様の本来の教えは止観であり、縁起を観察することなのじゃ。

 もし慈悲の瞑想が執着に近くなるならば苦を生むじゃろう。
 諸刃の剣なのじゃ。

>>34 効果はあるじゃろう。
 観察も表面的なことから始まって少しずつ深くなっていくものじゃ。
 日々続ければ観察もわかってきて深くなってくじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>35 そうじゃ、そう言えるじゃろう。
 そのように日々の実践が大きな気付きに繋がるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

38としぼっくり:2016/12/11(日) 00:25:18 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。できるだけ二回頑張ってみます。

39避難民のマジレスさん:2016/12/11(日) 15:32:20 ID:AEHmLzF60
鬼和尚、質問させてください

私は慈悲の瞑想がどうしてもできません
慈悲の瞑想はしなくて呼吸の瞑想だけしてもいいのですか?

40避難民のマジレスさん:2016/12/11(日) 16:01:56 ID:Dp/qMVVc0
>>37 ありがとうございます。
慈悲の瞑想も本来のお釈迦様の教えには無いということは、知りませんでした。
囚われずに進もうと思います。

ここのところ自我の観察に励んでいるのですが、観察による厭離で自我消失の恐怖は減っているものの、まだ根強く残っています。
そこで自己暗示も取り入れて、自我生成の一部始終を逃げずにしっかりと見られるようにしたいのですが、
この場合、どのような言葉をどのように繰り返したら良いでしょうか。
例えば「自我消失の恐怖が消える」なのか、「自我をしっかり見られる」なのかとか、
「私」を入れた方が良いのか、入れない方が良いのかとかがわかりません。

41避難民のマジレスさん:2016/12/11(日) 17:34:35 ID:Hasf7zeM0
>>37

ありがとうございました。

42避難民のマジレスさん:2016/12/11(日) 20:17:17 ID:5rhNNt1Y0
感情を言葉で表現できず、相手にうまく伝えることができません。そして、物に当たったり、手を出したり、声を出すなど、先に身体が動いてしまいます。
いけないのはわかっていますが、その時は身体の反応を抑えることができません。
どうすればいいでしょうか。

43鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/11(日) 21:37:19 ID:wTZcXC0U0
>>38 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>39 それでよいのじゃ。
 止観が行えればそれがお釈迦様の教えなのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>40 自我が観られるというほうがよいじゃろう。
 自らの理想を言葉にするのじゃ。
 そうすればそれが実現するのじゃ。

44鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/11(日) 21:42:21 ID:wTZcXC0U0
>>40 私とかも入れてよいのじゃ。
 それによって障害になることは無いじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>41 どういたしまして、またおいでなさい。

>>42 そのような反応もまた心の中の原因によるものじゃ。
 原因がわかれば消えるじゃろう。
 そのような反応をする親に育てられたからかもしれん。
 或いは友人などから影響を受けたのかもしれん。
 そのような原因から反応が起こり、原因が無ければ反応もないと観察するのじゃ。
 そうすればその反応も消えるじゃろう。

4542:2016/12/12(月) 05:02:14 ID:5rhNNt1Y0
>>44
お返事ありがとうございます。
おっしゃる通りで、今私がやっていることを父親にされてきました。やめなければと思いながらも、頭で考える前に自然と手や身体が動いてしまいます。
深く心に刻まれているようで、過去にそのようなことがなかったとは思えないのです。

46避難民のマジレスさん:2016/12/12(月) 12:39:46 ID:uJqErxRM0
>>44 ありがとうございます。
「私は逃げずに自我生成の一部始終を全て逃すことなく観察している」
という感じにしてみました。
これをまずは1日100回繰り返すことから進めていこうと思います。
もし何かアドバイスなどがありましたら、お願いします。

47避難民のマジレスさん:2016/12/12(月) 18:18:19 ID:Hasf7zeM0
鬼和尚は無我になれば認識を滅するのは容易い、とおっしゃっていますが、
それは無我になれば認識する作用が見えやすくなる(=捉えやすくなる)
という理由からそうおっしゃっているんですか?

無我になると認識を観察するのが容易くなる理由はそれ以外でありますか?

48避難民のマジレスさん:2016/12/12(月) 20:20:49 ID:o53.qpeA0
>>37 ご指導ありがとうございました。

49鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/12(月) 21:52:40 ID:wTZcXC0U0
>>45 そのような原因がわかれば消すこともできるのじゃ。
 親がそのようであったために、おぬしもそれが正しいと思っているのかもしれん。
 原因からそのような反応があることを観察できれば消えるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>46 それでよいじゃろう。
 後は実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>47 その他に無我による智慧や観察力が向上したことも理由になるじゃろう。
 自我は認識を観察するためには大きな障壁なのじゃ。
 そうであるから先ずは自我を滅する必要があるのじゃ。

>>48 どういたしまして、またおいでなさい。

50避難民のマジレスさん:2016/12/13(火) 03:22:22 ID:Hasf7zeM0
>>49

ありがとうございます。

でも、認識する作用を観察するって、実際どんな感じで見えるんですか?

例えば目の前にペンがあるとして、それを見てペンだと認識するのなんて一瞬ですよね、
目を閉じた状態から目を開けてペンを見る、ということをやってみましたけど瞬時に終わりすぎて認識の作用をとらえる間なんてありませんでした、

ペンを見て「これはペンだ」と思えばそれはもはや思考だし、実際認識する作用の全容をとらえる、なんてのはどんな
感じで見えるのでしょうか?
「あ、今まさに阿頼耶識がこれをペンであると認識しているな」みたいな感じでありありと認識作用が見えるんでしょうか?

51鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/13(火) 21:59:50 ID:wTZcXC0U0
>>50 何かを観たり聞いたりすれば、その特徴から記憶が照合されるのがわかるじゃろう。
 それが認識されることとされているのも気付くのじゃ。
 無我であればもはや早さも関係なく詳細に観られるのじゃ。
 記憶から認識したということもわかり、それを認識としていることもわかるのじゃ。
 実際には記憶を観ていると気付くのじゃ。
 言葉通りではないがのう。
 実践によって確めるのじゃ。

52避難民のマジレスさん:2016/12/14(水) 00:10:22 ID:Hasf7zeM0
>>51

え?! 無我であればもはや認識作用の早さが関係なく認識の作用を捉えられるんですか?!

それは大げさに表現したわけでも何でもなく、無我になれば本当に「認識の作用の早さが関係なく」認識作用
(=阿頼耶識)を容易に見れる、と?

53としぼっくり:2016/12/14(水) 02:24:23 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、自己観察していても、本心を観ていなかったら、自我に気付きませんか?

5445:2016/12/14(水) 21:08:27 ID:D4OzIXtQ0
>>49

5545:2016/12/14(水) 21:09:18 ID:D4OzIXtQ0
>>49
ありがとうございます。
頭で考える前に身体が反応しまうのですが、その場合はどのようにすれば良いでしょうか。

56鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/14(水) 21:23:29 ID:wTZcXC0U0
>>52 そうじゃ、わしには出来ないのが不思議な位なのじゃ。
 どれほど早くとも阿頼耶識の認識には記憶を蘇らせるという過程があるものじゃ。
 本来の認識に比べれば遅いものじゃ。
 そのようにわかっていれば気付くのも容易なのじゃ。
 
>>53 そうじゃ、気付かないじゃろう。
 本心とは自らを偽らない心なのじゃ。
 偽りの心を幾ら観ていても自我には気付かないのじゃ。
 観念遊戯をしていることになるからのう。
 本心を観るのじゃ。

>>55 肉体が反応するということも観察すればなくなるじゃろう。
 肉体も心の反応によって動いている故に心が変れば体の反応も変るのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

57としぼっくり:2016/12/14(水) 21:34:30 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。本心を観て、自己観察に励みます。

58避難民のマジレスさん:2016/12/14(水) 23:11:18 ID:Hasf7zeM0
>>56

なるほど、ということは話をまとめると、
自我の観照が未だ起こっていない状態だと自我が障害となり認識を観察するのは困難であるが、
観照が起こってしまえば(=無我になれば)認識を観察するのは文字通りに「容易になる」
ということでいいでしょうか?

実際に容易になるから、認識を滅するという最終目的を達するにはまだ無我じゃないのに認識を滅しようと
奮闘するのではなく、その前段階として自我の観照を起こすために自我がどこに投影されているかを観察して厭離していき、
そして観照が起こればようやく認識を滅するための好環境が整うが故に認識を観察するということを行う。
全体的な道筋ということではこんな感じで間違ってないでしょうか?

59避難民のマジレスさん:2016/12/15(木) 00:39:58 ID:QoQZrmNc0
鬼和尚さん

こういうイメージが自分である、と自分で想定しているらしい自己イメージがわかってきた気がします。
そこで、そのイメージを作った元の記憶がなかったら、そのイメージもないことを観察することにしました。
ただ、どんどん自己イメージを薄めていくと、日常生活に支障をきたすのではないかという心配が生まれてきたのですが、大丈夫でしょうか?
感情がなくなったりしてしまいませんか?
それから、自己イメージを薄めていくという観察はどこまでやれば良いと思いますか?

6055:2016/12/15(木) 17:42:28 ID:OO0gal4M0
>>56
ありがとうございます。
観察継続してみます。

61避難民のマジレスさん:2016/12/15(木) 19:57:19 ID:cV9mwi860
以下は真実でしょうか?
①アドラー心理学では、人生の幸せや喜びは、人と交わることでしか得られないとされています。
②人間関係を避けている限り、マイナスにはならないけれど、プラスも生まれません。
③“自分だけ”と考えることは、いわば幸せを避けることなのです。

62鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/15(木) 21:22:59 ID:wTZcXC0U0
>>57 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>58 そのような理解でよいのじゃ。
 言葉通りではないがのう。
 実践によって確めるのじゃ。

>>59 感情は常にあるじゃろう。
 日常も上手くやれるじゃろう。
 どこまでもどんどんやるとよいのじゃ。
 それによって知ることができた事は、今まで盲目のまま走っていたようなものと気付くじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

63鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/15(木) 21:32:29 ID:wTZcXC0U0
>>60 そうじゃ、反応に気付くことができれば変るじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>61 ① 嘘なのじゃ。
 真の幸福は他人に関わらずあるものじゃ。

 ② 独りで進むことで修業も進むのじゃ。
 お釈迦様も犀の角のように独り歩めと勧めているのじゃ。

 ③ 先ず自分が平安でなければ他人にも混乱をもたらすだけなのじゃ。
 自らの目標を目指すのじゃ。

64避難民のマジレスさん:2016/12/15(木) 21:40:03 ID:Hasf7zeM0
>>63

ありがとうございます。しつこいようですが確認として無我になれば本当に
実際問題として認識を観察することは無我になるまえに比べて「容易」になるんですよね?

それから、認識を観察して厭離できたらその瞬間というかその直後に何が起こるのでしょうか?例えば世界がすごくリアルに見えるとか、
何か色々あれば教えてください。

65としぼっくり:2016/12/15(木) 23:45:07 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん何度もすいません。本心を観るのと、自己観察は両方やった方がいいですか?

66避難民のマジレスさん:2016/12/16(金) 18:46:48 ID:6ZZgOq8Y0
鬼和尚様

質問です。
西式健康法はどこで無料で読めますか?
1404円の本を購入する必要はありませんか?

鬼和尚様は床に木枕で寝ていらっしゃるのですか?
講習会は参加なさったことはありますか?
よろしくお願いいたします。

67避難民のマジレスさん:2016/12/16(金) 20:05:14 ID:JjiX2Cic0
>>62
鬼和尚さん、ありがとうございます。
安心して自己イメージを薄める観察をどんどんしてみます。
またわからないことが出てきたら教えてください。
いつもありがとうございます。

68鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/16(金) 21:44:57 ID:wTZcXC0U0
>>64 そうじゃ、容易になるじゃろえ。
 実践によって確めるのじゃ。

 それができればもはや言葉として語るものは何もないのじゃ。
 全ての観念がなくなり言葉もイメージもないのじゃ。
 世界とかもないのじゃ。
 全てが同じ本質を持つ意識としてのみ認識できるのじゃ。
 それが阿頼耶識を滅した後にある本来の認識なのじゃ。

>>65 本心とは偽らない心なのじゃ。
 自らを飾らず、偽らずに観ればそれが本心からの自己を観たことになるのじゃ。
 本心を観なければ観察もないのじゃ。

>>66 西式健康法で検索すると無料でまとめられているのが見られるのじゃ。
 著作権切れになった本が無料で公開されているというのじゃ。
 それを見てから買うかどうか決めるとよいのじゃ。
 古本のほうが安いじゃろう。
 いろいろ見てみるのじゃ。

>>67 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

69避難民のマジレスさん:2016/12/17(土) 00:19:31 ID:Hasf7zeM0
>>68

そうですか、ということは認識を厭離できたら、その瞬間から以前のような観念だらけのフィルターがかった世界から
何の観念の投影もない、全てが一つの意識である(無理やりにでも言葉で表現してみれば)、ということを体感している状態へシフトする、
そんな感じになる、ってことでしょうか?

そして、そのシフトは瞬間的なものであり、厭離できた瞬間にそうなる、という感じでしょうか?

70としぼっくり:2016/12/17(土) 01:18:07 ID:DAY232aw0
本心を観れば、自己観察していることになるんですか?

71としぼっくり:2016/12/17(土) 11:36:41 ID:DAY232aw0
連投すいません。自分とは何者か、に気付けば自我を観照した事になるんですか?

72避難民のマジレスさん:2016/12/17(土) 18:16:37 ID:6ZZgOq8Y0
>>68
鬼和尚様
ありがとうございます。
すごく古い文字の本が読めるサイトを見つけられました。少しずつ読んでみます。
鬼和尚様は木枕も使っていらっしゃいますか?
床には布団を敷かれていないのですか?
冬は寒くありませんか?
健康にはそのほうがいいと思われますか?

73鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/17(土) 21:46:02 ID:zY7LPVuY0
>>69 そのようなものじゃ。
 気付きによる厭離は瞬間的に起こるものじゃ。
 苦を滅するのと同じように自動的に起こるじゃろう。
 自ら実践して確めるのじゃ。

>>70 本心だけならば怒ったとか楽しんだというのも偽らなければ本心なのじゃ。
 虚偽のない心を見ることで自分の観念も実際に見ることができるのじゃ。
 本心というものがある訳ではないのじゃ。

>>71 ならないのじゃ。
 何者とか性質を見ただけならば見性程度なのじゃ。
 更に自我が観念に過ぎないことに気付くのじゃ。

>>72 木枕は使っていないのじゃ。
 敷き布団は使っていないのじゃ。
 なれれば寒くはないのじゃ。
 健康によいようじゃ。

74避難民のマジレスさん:2016/12/17(土) 22:36:39 ID:Hasf7zeM0
>>73

ありがとうございました、それならわかりやすそうですね。

それから、また質問なんですが、「観照」というのは
一回起これば充分なんですか?

よく一瞥体験をした人の話を聞く限りでは、自我がいなくなった後、またすぐに自我が戻ってきて一瞥体験以前の
状態に戻ってしまった、と言う話をよく聞くので「観照」が起こってもまた自我が戻ってこないか不安です。

そもそも「観照」と「一瞥体験」、この二つには何か違いのようなものはあるんでしょうか?

75としぼっくり:2016/12/17(土) 23:44:02 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。偽りのない心を観る事で、自分の観念が見れて自我に気付く事ができるんですか?

76としぼっくり:2016/12/18(日) 00:21:35 ID:DAY232aw0
↑偽らない心です。すいません。何者かの見解ありがとうございます。

77鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/18(日) 21:35:21 ID:JKddmxgk0
>>74 本来は一回で十分なのじゃ。
 しかしやはり自我が戻ってしまう者も居るのじゃ。
 無我になったら更に認識をも滅しなければいつでも自我が戻る可能性はあり続けるのじゃ。
 大悟徹底まで油断なく進むのじゃ。

 一瞥とはほぼ忘我に等しい体験じゃな。
 深い集中の瞑想によって起こるサマーディの状態が何かの原因で起こったのじゃ。
 忘れているだけであるから直ぐに戻るのじゃ。

 観照は自我に気付いて無我になるのであるからかなり長く続くのじゃ。
 観念が残っているから主体が想起されるまで無我であり続けるじゃろう。
 そのような違いが有るのじゃ。

>>75 そうじゃ、偽りのない自らの心身を見ていればそこに自我を投射していたと気付くじゃろう。
 偽っていては観念ばかり観ていることになるのじゃ。
 常に気をつけて自らの本心を観るのじゃ。

78避難民のマジレスさん:2016/12/18(日) 21:39:04 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚にリクエストなのですが、1ヶ月位で良いので、今の初老のお爺さんみたいなキャラからルパン三世みたいな軽い兄ちゃんキャラでコメントしてもらえないでしょうか?自我の厭離が自由自在に行われる様を見てみたいのです。
他の人の修業の参考になるとも思うのですがどうでしょう

79避難民のマジレスさん:2016/12/19(月) 01:13:49 ID:Hasf7zeM0
>>77

一瞥体験はむしろサマーディ的な体験であって観照とは明確に違う、といったところでしょうか、、

それから、鬼和尚の

「観照は自我に気付いて無我になるのであるからかなり長く続くのじゃ。
 観念が残っているから主体が想起されるまで無我であり続けるじゃろう。
 そのような違いが有るのじゃ。」

という文章を見る限り、観照が起きても観念が残っている故にその観念がいずれ主体を生起
させる、と言う意味かと思ったのですが、それなら観照により無我の状態に至ったとしても
残存している一つ一つの観念によりいちいちまた主体が想起されるのなら
無我の状態なんて「あっ」という間に終わってしまいませんか?

例を挙げれば、無事、観照が起こって無我になった直後、お腹が空いたので目の前のテーブルの
上にあったパンを食べようとしたら、「これはパンである」とか、「パンは食べられる」といった様な観念が
すぐに主体を生起させてしまい、せっかくさっき無我へ至ったばかりなのにすぐ終わってしまうんじゃないでしょうか?

80としぼっくり:2016/12/19(月) 05:05:05 ID:DAY232aw0
本心を観るとは、偽らない心を観るという事ですか?偽わらない心で心身を観るという事でしょうか?

81としぼっくり:2016/12/19(月) 08:06:33 ID:DAY232aw0
書いてて分かりずらかったんで書き直します。1.本心を観るとは、偽らない心を観るという事でしょうか。
2.偽りのない心で自らの心身を観るという事でしょうか?

82避難民のマジレスさん:2016/12/19(月) 08:33:39 ID:o7TfOr0I0
理想や目標を持つと、今、ここにある現実に盲目になるので良くないと言う人もいるのですが、鬼和尚はどう思われますか?
理想が絶望を生み、目標が失望を生む
理想なければ絶望なく、目標なければ失望なし
今を生きる

83避難民のマジレスさん:2016/12/19(月) 12:25:27 ID:czRftzgI0
自我を乖離するとき、自分の属性以外に自分に起きた出来事(の記憶)も乖離する必要があるのでしょうか?
そうだとして、辛い出来事のみならず、自分にとっていい思い出になっている出来事も乖離するほうがいいのでしょうか?
毎日回答ご苦労様です

84避難民のマジレスさん:2016/12/19(月) 17:53:15 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。おかげさまで副業もある程度軌道に乗ってきたのですが、メインの事業を成立させるのに
やはり、独りでは限界があります。
経営相談などもしても大丈夫でしょうか?

85避難民のマジレスさん:2016/12/19(月) 20:19:16 ID:o7TfOr0I0
西式健康法で腰痛は治りますか?

86避難民のマジレスさん:2016/12/19(月) 20:51:56 ID:o7TfOr0I0
床に寝たら疲れが取れず腰が痛くなりそうだが、そうでもないのかな?
金魚体操は気持ち良さそうだけどね。
今日やってみます。

87鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/19(月) 21:35:20 ID:JKddmxgk0
>>78 そのようなキャラクターも実際はおぬしの頭の中にだけあるものじゃ。
 語尾だけ変えてみればそのように感じるじゃろう。
 おぬしにレスする時だけ語尾を変えてみるC

>>79 そのようなものじゃ。
 真実に気付くのが観照なのじゃ。

 真実に気付けばそのように簡単に戻らないのじゃ。
 例えば道に落ちている縄が蛇ではないと気付けばもはや蛇とは思わないようなものじゃ。
 観念である自我に気付けばそれを主体と間違うことは無くなるのじゃ。
 しかし習慣の力により主体が想起されれば戻ることもあるのじゃ。

>>80>>81 1 そのようなものじゃ。
 2 それでよいのじゃ。
 そのように自らを偽らず心身を観察するのじゃ。

>>82 持ってよいのじゃ。
 目標が無ければ人は努力を続けられないものじゃ。
 自ら試してみるのじゃ。

>>83 そのようなことはしなくてよいのじゃ。
 ただ自我が観察されただけで全ては変容するじゃろう。
 今ここが最高の楽園になるじゃろう。
 おぬしもご苦労さんなのじゃ。

88鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/19(月) 21:37:27 ID:JKddmxgk0
>>84 善かったのじゃ。
 なんでもするとよいのじゃ。
 自由なのじゃ。

>>85>>86 治るじゃろう。
 いろいろ試してみるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

89避難民のマジレスさん:2016/12/19(月) 21:44:01 ID:o7TfOr0I0
ありがとうございます。
ではら、機会がありましたらホームページの方に(経営関係の)相談を書かせていただければと思います。

ちなみに、目標を立てず、今を生きると言う目標もありですかね。
大抵の目標と言うのは、死の恐怖とか劣等感から生じた幻想みたいなもので、それを追いかけても余り幸せじゃないことが多いんですよね。

90としぼっくり:2016/12/19(月) 22:09:16 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。本心を観て、偽わらない心で自らの心身を観察しようと思います。

91避難民のマジレスさん:2016/12/20(火) 00:34:45 ID:Pa.OexZY0
鬼和尚、初めまして。

観瞑想をして気づいたことがあります。

私が音を認識した瞬間こそ、音という現象が起こった瞬間である。
そしてその瞬間に意識は音にそのものに成っている。
そこに主客はない。

その後すぐに意識が「私」という思考に成った時、「私が音を聞いた」という幻想の時系列が出来上がる。

このように常に意識が次々と変化しているのがこの現実だと気づきました。

なぜ次々と変化するのか?
その原動力は、生きていればある大なり小なりの落ち着かなさ、衝動、󾀕󾀕したいという欲…
つまり「苦」だなと。
苦があるからこそ自分の世界、意識が次々と展開するのだなと気づいたのですが、いかがでしょうか。

もしスレルールの自説の主張に抵触しているようでしたら申し訳ございません。

92避難民のマジレスさん:2016/12/20(火) 04:30:39 ID:Hasf7zeM0
>>87

なるほど、観照が起これば主体という観念から離れることができるが、たまーに主体という
観念が生起してしまうこともある、しかし、それはまれなことであって基本的には
自我がただの観念だと気づいているから基本的には主客という観念から離れている状態にいる、
ということでしょうか

93としぼっくり:2016/12/20(火) 06:24:07 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、心を偽らなければ、本心は観れますか?

94避難民のマジレスさん:2016/12/20(火) 19:45:20 ID:4r9Nyxn.0
鬼和尚さん、この世の仕組みについて教えてください。

時々、理由もなく酷い犯罪に巻き込まれてしまったように見える人がいるのですが、それはどうしてなのでしょうか?
目に見えない行いの結果、報いとして殺されてしまうのでしょうか?
それともいくら善行を積んでいても、運が悪ければ酷い殺され方をしてしまうということなのでしょうか?

名古屋で起きた凶悪事件の犯人の一人が、自分の行いについて反省せずに、「俺も相手も運が悪かっただけだ」と言っています。
この考え方は正しいのでしょうか?

私は、犯罪の被害者に対して、それはあなたの行いの報いだとはとても言えません。
でも、だからと言って、運が悪かっただけだというのも納得がいかない話です。
しかし、行いの報いだと言えないのならば、運が悪かったとしか言いようがなく、
運が悪かっただけだと言えないのならば、目に見えない行いの結果だとしか言えないという二者択一になりませんか?
この世の仕組みはどうなっているのでしょうか?
そして、犯罪に巻き込まれないための何かの方法があれば、教えてください。

95鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/20(火) 21:55:23 ID:7RVx5EPA0
>>89 そうじゃ、書くとよいのじゃ。
 それもよいじゃろう。
 特に成し遂げたいことがなければそれもよいのじゃ。

>>90 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>91 よい観察なのじゃ。
 そのように観察を続けたならば観照も近いじゃろう。
 更に精進あるのみなのじゃ。
 
>>92 そのような理解でよいのじゃ。
 嘘でも習慣で本当にしているうちに本当と思えるようなものじゃ。
 真の大悟徹底まで油断してはいかんのじゃ。

96鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/20(火) 22:02:47 ID:7RVx5EPA0
>>93 そうじゃ、できるじゃろう。
 偽らない心が本心であるからのう。
 日ごろから自分の心を偽らなければ本心も明らかになるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>94 例えば野生動物などに生まれればいきなり獲られて食われても不思議はないのじゃ。
 そのような世界に生まれることが既に報いなのじゃ。
 人間も犯罪などに遭遇する世界に生まれた事が既に報いなのじゃ。
 それは人であれば避けられない事でもあるのじゃ。
 犯罪がなくとも老病死は人には避けられないものなのじゃ。
 人の世界は理想の天ではない故に常にそのような苦があり続けるものじゃ。
 そのように一切皆苦の世界であるこは忘れてはいかんのじゃ。
 全ての苦を滅するために修行あるのみなのじゃ。

97避難民のマジレスさん:2016/12/21(水) 01:06:48 ID:MUlEv4Ts0
>>95
鬼和尚、>>91です。
ご返信ありがとうございます。
これからも精進して参ります。
ありがとうございました。

98避難民のマジレスさん:2016/12/21(水) 07:11:12 ID:Hasf7zeM0
>>95

ありがとうございました。

それから、観照について質問なんですが、鬼和尚はよくいろんなところで、
「この人は悟っている」、「この人は無我までだ」、とか「この人はサマーディまでじゃな」、
みたいな感じでその人がどの段階にいるかについての判断を述べているレスをよく見るんですが、「この人はサマーディまでだ」
というのはおそらく自我の観照は起こっていない(=無我には至っていない)という意味かと思うんですが、

どうしてそのようなサマーディまでで無我には至っていない人たちってそれほど長く非二元というか
悟りの教えに触れていて、もう既にさんざん実践、探究し尽くしたであろうに未だ無我に至っていない(観照が起こっていない)んでしょうか?

それほど、「自我の観照」というのは起こる確率が低く、いくら探究しても起こらないかもしれない
というような難易度の高いことなのでしょうか、、、

それとも彼らは観照が起こるために必要な何らかの重要な要因を見逃しているのでしょうか?

認識を滅するのは観照が起これば容易とは言っても、その前提である観照が彼ら同様起こらずに
終わるんじゃないか、とも思ってしまいます。

99としぼっくり:2016/12/21(水) 07:15:42 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。質問ですが、心を偽らず、自らの心身を観察すればいいという事でしょうか?何度も同じ様な質問大変申し訳ないないです。

100避難民のマジレスさん:2016/12/21(水) 12:34:45 ID:czRftzgI0
和尚さんは以前この世は無だとおっしゃいました
では、この世界は仮想現実だという私の理解は正しいでしょうか?

101避難民のマジレスさん:2016/12/21(水) 19:27:00 ID:Jw3dzeXk0
>>96
鬼和尚さん、ありがとうございます。

この世の不条理についてよく考えていましたが、この世界に生まれたことが既に報いだとは考えたことがありませんでした。
この世界以外の世界があるとは思ったことがなかったのです。
そういう目で見てみると、たしかにこの世界は苦しみの世界で、でも、別の世界があるのならば、救いがあるのかもしれません。
できれば、そこに到達してみたいです。
そして、この世には逃れられない苦しみがあることを忘れないようにしたいと思います。

ところで、鬼和尚さんは以前、無意識のうちに交通事故を避けた経験について教えてくださったことがありますが、同様に悟った人は犯罪に巻き込まれることを自然に避けることができますか?
それとも、運が悪ければ犯罪に巻き込まれてしまうこともあるのですか?

102鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/21(水) 21:58:35 ID:7RVx5EPA0
>>97 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>98 それは大抵恐れがあるからなのじゃ。
 知識で自我は幻想とかわかっていてもやはり実際に自我が消えることが怖いのじゃ。
 長く修業していればおそらく何度も自我が消えそうになる瞬間を経験したじゃろう。
 その度に恐れから止めてしまうのじゃ。
 心に少しでも恐れがあれば反応は直ぐに起こるからのう。
 自我を滅するには 恐れを超えていく勇気が必要なのじゃ。

>>99 それでよいのじゃ。
 自らの心身を偽らずにありのままに観察することで自我も観えるのじゃ。
 自分の醜さや卑劣さや臆病や後悔も全て否定も肯定もせずありのままに観察するのじゃ。
 そうすれば自我にも達することができるのじゃ。
 何でも聞くとよいのじゃ。
 そのためのスレなのじゃ。

103鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/21(水) 22:00:34 ID:7RVx5EPA0
>>100 そうじゃ、人の心が創っている仮想現実なのじゃ。
 記憶から今の世界を創っているのじゃ。
 記憶への依存がなくなれば真の世界がみえるのじゃ。

>>101 そのようなこともできるじゃろう。
 普通の者でも無意識に危険を避けることはあるものじゃ。
 昔の侍は殺気があると避けるようにしたというのじゃ。
 今の者でも鍛えればできるじゃろう。

104避難民のマジレスさん:2016/12/22(木) 06:53:43 ID:czRftzgI0
>>100
そのように考えられるのは少しは進歩したからだと思います さらに精進を続けます
ありがとうございました

105避難民のマジレスさん:2016/12/22(木) 07:14:08 ID:Hasf7zeM0
>>102

恐れが止めてしまう、ですか、誰とは名前を出して言うことはできませんが、鬼和尚が「サマーディまで」と
判断した人はその道について大勢の人の前で話すなどだいぶ精通、熟達している印象が
あるので、流石に自我消失の恐怖を未だ超えていない、というのは考えづらいと思いますが…

106としぼっくり:2016/12/22(木) 07:28:55 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。心を偽らず、修行を続けて行こうと思います。

107としぼっくり:2016/12/22(木) 10:18:11 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、自分を追求したり、心身を観察のも、前提に心を偽らない事があるのでしょうか?

108避難民のマジレスさん:2016/12/22(木) 19:43:47 ID:kV7xIwD.0
>>103
鬼和尚さん、ありがとうございます。
普通の人でも危険を察知できると知って、ちょっと安心できました。
第六感を鍛えて無事にいられるようにします。

それで、今回の質問で思い出したことがあり、また疑問が生まれてしまいました。
以下、ちょっと長い質問になります。すみません。

じつは、鬼和尚さんに質問していて思い出したのですが、私は以前にも似たような「なぜこの世は不条理な目にあったり残虐なことが起きたりするのか」というような質問を別の掲示板でしたことがあって、鬼和尚さんに回答をいただいたことがあるのです。
その回答をもう一度調べてみると、「(人間が残虐なことをしてしまうのは)人間も動物より少しましなものに過ぎないからじゃ。��
 一切衆生の内、一番下から地獄、餓鬼、畜生、人間、修羅、天人と段階があるのじゃ。��
 人間は動物の次だからまだ残虐性が抜けないのじゃ。(以下略)��」というものでした。
その頃はまだ鬼和尚さんについてよく知らなかったので、鬼和尚さんの回答をうまく理解できませんでしたが、今読み返してみるとまた疑問が生まれてしまったので、教えてください。

まず、地獄や餓鬼は本当に存在するのですか?
私はもともとそれほど仏教に詳しくなく、どちらかというとキリスト教などに親しみを感じて何となく神様がいると思っています。なので、地獄や餓鬼という世界があるのが信じられません。
つまり、神様がそんなに酷い世界を作るわけがないと思っているのです。
地獄や餓鬼があったらとても悲しいです。
「神様が酷い世界を作るわけがないのに、どうしてこの世は不条理なことが起こるのか」というのが、私のこの世界についての大きな疑問になっていて、これが私を鬼和尚さんのところへ導いたといっても良いのです。
でも、悟りという救いがあっても、地獄があったら、また同じ疑問が生まれてしまいそうです。
どう考えたら良いでしょうか?

次に、悟った人はこの世界にいると、天国にはいられないのですか?
私は、悟った人はこの世界にいても天国にいるのと同じになって、別の世界が存在しなくても、いつかみんなが悟ってここが天国になるのかと思っていました。
それとも天国は別のところにあるのですか?

最後に、鬼和尚さんの回答だと修羅が人間の次にありますが、ネットで調べてみると、修羅の次に人間をおいている解説が多いです。これは鬼和尚さん独自の解釈なのですか?

109鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/22(木) 22:16:17 ID:7RVx5EPA0
>>104 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさぃ。

>>105 そのような者が本当の師であったならば、おぬしがここでわしにいろいろ聞く必要も無かった筈なのじゃ。
 既に正しい指導によって結果を得ている筈であるからのう。
 更に他の誰かに道を聞く必要も無いはずなのじゃ。
 自ら実践し、行った道でなければ他人に教えることもできないのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>106 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

110鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/22(木) 22:23:36 ID:7RVx5EPA0
>>108 地獄も餓鬼も今この世界にいるのじゃ。
 戦争によって苦しみ、飢えた者も十億は居るというのじゃ。
 この平和で豊かな地域に居ると現実とは思えないのじゃ。

 それも心が創っているのであるがのう。
 心に苦がなければどこでも天国なのじゃ。
 修羅とはアスラというインドの神なのじゃ。
 元は善い神であったが他の神と戦闘をして戦いの神となったのじゃ。
 仏教に入って戦争ばかりしている闘争の境地をあらわすものとなったのじゃ。
 本来は神であるから人より上なのじゃ。

111としぼっくり:2016/12/22(木) 23:15:38 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん分かりづらく書いてすいません。質問ですが、自分を追求したり、心身の観察をする為には、本心、心を偽らない事があるから出来るのでしょうか?

112としぼっくり:2016/12/23(金) 00:07:12 ID:DAY232aw0
↑心を偽らないからです。すいません。

113避難民のマジレスさん:2016/12/23(金) 05:15:44 ID:Hasf7zeM0
>>109

わかりました、ありがとうございました。

114避難民のマジレスさん:2016/12/23(金) 18:36:54 ID:Mv1H2QeE0
>>110
鬼和尚さん、長い質問に答えてくださってありがとうございます。

一連の質問に回答いただいたおかげで、この世界についてどうしても納得できずにいたことがかなり解消できた気がします。
ありがとうございました。
やっぱり悟りが救いとしてあるということで、そこを目指してみたいと思います。
また質問が生まれてしまったら、教えてください。
いつもありがとうございます。

115避難民のマジレスさん:2016/12/23(金) 20:41:32 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。ホームページのコメントにも是非目を通してくだされ

116鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/23(金) 21:40:13 ID:7RVx5EPA0
>>111 そうじゃ、偽らないことで自分の本当の観念が見えるのじゃ。
 自分に嘘をついていれば観念も自分に都合よく変えてしまうのじゃ。
 本心を観るようにしていれば自我も心身も観えるのじゃ。

>>113 どういたしまして、またおいでなさい。

>>114 そうじゃ、実践によって確めるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>115 行ってみるのじゃ。

117としぼっくり:2016/12/23(金) 23:15:41 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。質問ですが、心を偽らないければ、自我も観えるって事でしょうか。何回も質問申し訳ないです。

118鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/24(土) 21:40:48 ID:7RVx5EPA0
>>117 心を偽らないだけではいかんのじゃ。
 自分とは何か追求するとか、心身を全て観察するとか実践するのじゃ。
 観ようとしなければ何も見えないのじゃ。

 何度でも聞くがよいのじゃ。
 何度でも答えるのじゃ。

119としぼっくり:2016/12/24(土) 21:46:54 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。早速実践していきます。またわからない事があればよろしくお願いします。

120避難民のマジレスさん:2016/12/25(日) 04:42:20 ID:ItNUDocI0
鬼和尚さま

非二元の話が出ていたので便乗させて質問させてください。

・対談 禅とらくちんこ道 井上哲玄老師 じゅんころさん [悟りへの道]
・悟りへの道 ノンデュアリティどう思われますか? 向令考老師

上記の動画で非二元に対して禅の方が話しています。(urlはNGワードなようで貼れずずみません)
これらの動画では、自分がなくなったいう自分がまだ消えていないとか、道元の心身脱落から脱落心身のように、
言葉だけ聞くと見性や小悟のあとの大悟について話しているように思えました。

ただ、この禅の方たちも大悟はしていないということですよね?
鬼和尚さまの言う認識を滅するということは自分がないという自分がなくなること(観照者が消えること?)や、
心身脱落から脱落心身ということと同じことですか?

違うのででしたら認識が消えるというのは別の言葉で言うとこの後何が消えると言えるでしょうか。
認識が消えるということが何を指しているのかいまひとつわからないので質問させていただきました。

この禅の方たち、あるいは自分がないと言ってはいてもまだ大悟していない非二元の方たちにあと何が足りないかというと、
自分の外側(対象)に対しての執着が消え、対象としての自分への執着も消えたけれど、
自分が存在しているという観念(心と身体を自分と同一視すること)がまだ完全に消えていないのかなと思いました。
認識を滅するというのはそういうことでしょうか?

認識を滅すると聞くと、認識を滅したとどうしてわかるのか、それも認識ではないのかと思ってしまいます。
言語の限界なのかもしれませんが、単純に主体がなくなるということでもいいのでしょうか。

自分がないという自分もないとか、心身脱落脱落心身とか、主体が完全にないような言い方をしている方でも、
まだ主体がある、存在と非存在(有と無)が別である、という錯覚(無明)が残っているということかなと思ったのですが、
どうなのでしょうか。

121偽和尚★:2016/12/25(日) 12:12:45 ID:???0
>>120
この板の管理者ですが、URLが書けないのはjbbsのバグのようです。
https はダメで http は大丈夫です。

YouTube のURLは https ですが、これを http にするとリダイレクトされて自動で https の方の
URLにアクセスするように YouTube 側でしてあるようなので下記のようにすればできます。

対談 禅とらくちんこ道 井上哲玄老師 じゅんころさん [悟りへの道]
http://www.youtube.com/watch?v=5LR1qAbKY9o

悟りへの道 ノンデュアリティどう思われますか? 向令考老師
http://www.youtube.com/watch?v=Ppkoy7plVQc

122偽和尚★:2016/12/25(日) 12:28:07 ID:???0
>>120
jbbs のバグはちょっと前に直ったようで、今やったらできました。

対談 禅とらくちんこ道 井上哲玄老師 じゅんころさん [悟りへの道]
https://www.youtube.com/watch?v=5LR1qAbKY9o

悟りへの道 ノンデュアリティどう思われますか? 向令考老師
https://www.youtube.com/watch?v=Ppkoy7plVQc

123鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/25(日) 21:28:39 ID:7RVx5EPA0
>>119 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>120 そのような理論的なことは唯識論で語られているのじゃ。
 つまり記憶に依存した認識が観念を起こし、主客の別を起こし、苦を起こすということなのじゃ。
 記憶に依存した認識を滅し、本来の認識に回帰すれば観念は観念としてのみ認識され、
 主客はなくなり、苦も起こらないのじゃ。
 そのような言葉通りではないがほぼそのような事と解釈するとよいのじゃ。

124鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/25(日) 21:30:13 ID:7RVx5EPA0
>>121 ご苦労さんなのじゃ。
 正に菩薩の行ないじゃ。

125120:2016/12/25(日) 22:14:45 ID:ItNUDocI0
>>121
>>122

ご配慮ありがとうございます

126120:2016/12/25(日) 22:23:50 ID:ItNUDocI0
>>123
お答えありがとうございます。

ということは、和尚さまがおっしゃる認識を滅したそのあとも、本来の認識は残るということなのでしょうか。

主客がないという大悟や対象にならないという涅槃でもその本来の認識はあるということですか?
それとも本来の認識に回帰されることでそれを経過して大悟したり涅槃に入れるということなのでしょうか。

本来の認識とは和尚さまがおっしゃっている意識だけがあるという意識と同じことですか?

127避難民のマジレスさん:2016/12/25(日) 23:35:18 ID:6ZZgOq8Y0
鬼和尚様

これは参考になりますか?

https://matome.naver.jp/m/odai/2136257773758613101

よろしくお願いいたします。

128避難民のマジレスさん:2016/12/26(月) 08:19:05 ID:czRftzgI0
最近ラマナ・マハルシの「あるがままに」を読みはじめまして、すると和尚さんがここで言っていることが書かれていました。
大悟に至らないサマーディ状態の危険についても書かれてありました。
それならこの本を仏教勉強会のサイトに参考文献として書いておいてもらえたら、回り道をしないでこの本にたどり着けると思うのですが、どうでしょうか?
参考文献はまとめておいてもらえるといいのですが、和尚さんまたは管理人さんどうですか

129避難民のマジレスさん:2016/12/26(月) 09:59:21 ID:Dp/qMVVc0
鬼和尚、
自己暗示のやり方について、少し詳しく教えてください。

現在、 >>46 の言葉を毎日集中して繰り返し唱えているのですが、時々勝手に観察が起こることがあります。
この、自己暗示中の観察は起こるに任せていていいのでしょうか?
それとも観察が起こりにくいように、意志を使ってより言葉に集中した方が良いのでしょうか?

130蓮恵:2016/12/26(月) 14:06:15 ID:gBQKXI6A0
和尚様

浩然の気の本体を言うと、分量は至りて広大(至大)で限りなく、又至りて堅固(至剛)であって屈し撓(たわ)ますことの出来ぬものである。

孟子のいう浩然の気は、和尚様の仰る自己イメージのひとつに分類される物でありましょうか。
言葉の通り、おおらかで一切に囚われず、至大至剛、天地に充満すらという自己イメージです。

131避難民のマジレスさん:2016/12/26(月) 18:42:35 ID:czRftzgI0
>>128
ラマナ・マハルシのあるがままに関して、マハルシが「あなたがそう考えている時それを考えているのは誰か?私だ。では私は誰か?を見なさい」とあります。
「私は誰か?」を問う時、私は自我であるとあり、すると、誰か?と問うのは、自我が記憶より生じる認識・思考作用であることを観察せよと言っているのか、その自我を見ている真我を見よと言っているのかどちらでしょうか?

132鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/26(月) 21:21:42 ID:7RVx5EPA0
>>126 そうじゃ、それが本来の認識なのじゃ。
 すべてはただひとつの同じ本質を持つものと認識するのじゃ。
 それに到達することが涅槃であり、大悟徹底の境地なのじゃ。
 意識と同じなのじゃ。

>>127 ならないのじゃ。
 でたらめなのじゃ。

>>128 わしは読んでいないのじゃ。
 おぬしがブログなどに書いておくとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>129 そのままにしておくと善いのじゃ。
 善い気付きが起こるじゃろう。
 それこそ無意識の観察なのじゃ。

133鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2016/12/26(月) 21:23:43 ID:7RVx5EPA0
>>130 そうかもしれん。
 理想の自己イメージといえるじゃろう。
 それを養うとよいというのじゃ。
 至言なのじゃ。

>>131 どちらでもないのじゃ。
 ただそれを追求しありのままに観るべきなのじゃ。
 予め何かを見ることを決めるのではなく、そこにあるなにものかを見出すようにするのじゃ。
 それが自分を追及する観察なのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

134避難民のマジレスさん:2016/12/26(月) 21:49:46 ID:czRftzgI0
>>131
おお、なるほどそういうことですか。決めないでみるのですね。
ありがとうございました


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