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鬼和尚に聞いてみるスレ part3
879
:
太陽くん
:2014/07/14(月) 23:40:41 ID:j9unD0U60
鬼和尚さま
観察に関して分からないことがあります。
アドバイスをいただけると嬉しいです。
座禅が深まってくると、様々な思いや感情の生滅をただ眺める状態になります。
そのとき、生滅を見ている意識があります。
それを、外から情報が入ってくる日常生活においても保つことができれば、
視力を奪われずにすむのではないかと考えています。
そのように、日常生活に観察を取り入れようと努力しているのですが、
日常生活において行う観察は、自我が観察の「主体」に混ざっているような感じがしています。
たとえば、自我の目覚め、として「物心つく」という表現がありますが、
僕の日常の「観察」は、「物心」が行っているようです。
そこに「主体」を設定するものが自我である、とは思います。
ですが、座禅において観察している意識と、日常における「物心」とが同じものなのかどうか、ということが分かりません。
形成されるものそのものを見ているのか、解釈を見ているのかが分からなくなります。
物心、の時点では、形成する主体が無いために、自我ではなく、それは観察する意識だと思って良いでしょうか?
これは頭で考えても解決する問題でないことは分かっています。
観察のアウトプットは気づきであると思います。
気づきと、言葉の間には距離があるのですが、
自我が接着してくると、言葉に気づきが覆い隠されてしまいます。
その状態を認識できているのですが、気づきの所在が分からなくなります。
言葉以前の気づきを保つための具体的なこつがあれば、それも伺いたいです。
よろしくお願いします。
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