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鬼和尚に聞いてみるスレ part3

79鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/03/15(土) 20:24:57 ID:kaXJvxhM0
>>69 おぬしには観えないじゃろう。
 そのような観念を抱いているからのう。
 わしは自分で自分を見るとは書いておらんのじゃ。
 それはおぬし自身に、見る主体としての自分と言う観念があるから、そのように思ったと言う事を気づくのじゃ。
 自分と言う主体無しに観る時、自我は観え、苦しいとかも無いのじゃ。

 おぬし主体が消えたのに寒暑痛苦があるというのはおかしいと想わないのかのう。
 観念だけで考えて実際に主体が無い状態を経験していないから、そのような妄想が沸くのじゃ。
 そのような妄想を捨てて謙虚に観察するのじゃ。

>>70 一切の観念が無ければ善悪の観念も無いじゃろう。
 しかしそれでも善悪があり、その報いがあると説くべきなのじゃ。

 六師外道の一人は一切の観念は無く、善悪の区別も無いと語ったが、お釈迦様はそのように説くべきではないと論破されたのじゃ。
 それがお釈迦様の深い智慧なのじゃ。
 そのように説く事で人々を善に導き、禍を防ぎ、教えを永久のものと出来るからなのじゃ。

 一説に因れば六師外道も悟っていたと言うが、お釈迦様の智慧には及ばなかったのじゃ。
 それ故にその教えは広く伝わる事は無く、お釈迦様の教えだけが長く広く伝えられているのじゃ。

>>71 そうじゃ、実践してみるのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>74>>75 おぬしがそのように観念を抱いている通りに語る大悟した者がいるとしたら、その者はおぬしより智慧が無く、おぬしの観念以下の者ということになるのう。
 大悟した者が自分より劣り、自分の知識だけで判別できると想うならば、おぬしは大悟した者以上の者なのかのう。
 おぬしも勉強はしたようであるが、その知識が己の蒙を啓くためではなく、自らの智慧の及ばないものを見定める事が出来なければ無いほうがまだましなのじゃ。
 大悟した者が人を導く時、初心には悟りを目指すように説き、小悟に安住するものには悟りなど無いと説き、大悟したものには衆生を悟りに導くように言うじゃろう。
 一切の教えの全容を知らず、ただ一欠けらの知識だけを用いて自らの判別の基準にするのは賢いとはいえないのじゃ。

>>76 そうじゃ、もっと後ろの下のほうに意識を持っていくと良いのじゃ。
 実践してみるのじゃ。
 実践するものだけが進んで行くのじゃ。


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