したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

 佛教の經典・祖録・禪語等の保管庫

1安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 02:13:41 ID:iNWvsNmI0
もともとは仏法仏道は円かに全体に通じている。どうやって修行して悟りを証する必要があるというのか。
仏の教えという乗り物は自由自在で何処にでも誰にでもある。どうして巧夫してそれを得ようというのか。
ましてや何もかも全てが塵埃煩悩穢れなど越えているのであり、
誰がその塵埃を払拭する手段が必要だと信じるというのか。
おおよそはじめからド真ん中にいるのだ。だから悟りのための修行行脚に出る必要などないのだ。
だが、わずかでも分別が生ずれば、天地の差が生じてしまう。自分の主義と違うとか同じだとか、
そういう分別がわずかでも起これば滅茶苦茶になって仏心は失われてしまう。
仏法をわかったつもりになり、悟った気になり、瞥地の智通をチラ見して、仏道を得て、心を究め、
天にも昇るような自信を得るかもしれない。だがそれは入口周辺を知って調子に乗ってるだけで、
迷悟善悪仏悪という対立から脱出する活路を欠いているのだ。
生まれながらの智者である釈迦牟尼が、六年端坐したのを知るべきだ。
少林寺に仏心印を伝えた達磨が面壁して九年端坐したのも知られている。
現代人の我々がどうして坐禅をしないでいられようか。


『普勧坐禅儀』

2安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 02:29:03 ID:iNWvsNmI0

だから書物や文章を読んでわかろうとする哲学的究明をいい加減やめたまえ。
外を照らすのではなく、内なる自己を照らし、本来の自己へ戻りたまえ。
さすれば身心は自然に脱落して、本来の面目が現れるだろう。
完全なる解脱を得たいと思うなら、今すぐ坐禅をせよ。


『普勧坐禅儀』二

3安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 02:37:21 ID:iNWvsNmI0
坐るなら静かな部屋で飲食を慎み、諸縁を捨て、万事休息し、
善悪を思わず、是非に及んではならない。
念想観の測量はやめて心意識の運転停止したまえ。仏になろうとか思ってはならない。
行住坐臥にかかわらずそのようにしているべきである。
厚い敷物の上に坐蒲を起き、結跏趺坐か半跏趺坐すべし。
結跏趺坐は右足を左足の上、次に左足を右足の上に置く。
半跏趺坐は左足を右足に置く。衣はゆるいのがいいが整ってるものを着るべし。
次に右手の掌に左手の掌を起き親指同士をくっつけて定印をつくり、
正身端座して左右前後にグラグラ揺れてはならない。 耳と肩は地面に対し垂直にし、
鼻と臍も地面に対し垂直にし、舌は上顎につけ、歯にもつけよ。
目は常に開いておくべきだ。息は鼻から微かにすべし。
まずは深く深呼吸してから、左右に体を揺らして真ん中に定め、 不思量底を思量する。
不思量底をどうやって思量するするか。非思量が坐禅の要術である。

『普勧坐禅儀』三

4安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 02:56:23 ID:iNWvsNmI0

いわゆる坐禅というのは、何らかの方法で無になったりするものではなく、安楽の法門なのだ。
これは悟りや佛道を極め尽くすための修行であり悟りなのだ。
何ら手を付けずに悟り仏法であり、牢獄や檻などないに等しい。
こうなれば龍は水を得たように昇天する様に、山を縄張りにする虎の如くに近寄りがたい様に誰も寄せ付けぬ。
そのように励めば正法は自ずから現れ、心が沈んだり乱れたりすることは消え失せることを知りなさい。

もし坐から起きるときには、ゆっくりと体を動かして、緩りと起きなさい。
急に雑で性急な動きをしてはならない。

『普勧坐禅儀』四

5安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 03:35:23 ID:iNWvsNmI0

かつては、凡を越え、聖を越え、坐したまま、立ったまま死した者もこの力による。
倶胝に対する天龍和尚の一指禅、迦葉が阿難に命ずる門前の旗竿を降ろせ、
提婆の一針、釈迦が坐れば文殊が鎚を打つ・・・、などの転機によって悟らせた。
よって馬祖の払子で百丈大悟、趙州が庵主に拳上げてありや、徳山は棒で叩き、臨済は喝をくらわす、
というのも当然の悟りの転機だ。それらは思量分別で解るものではない。
かの神通力ですら修行や悟りは解らないことなのだ。
人間の見たり聞いたりすることを越えた威儀なのだ。
いったい誰が人間を越えたこの知識や見解たる真理を知りえようか。

『普勧坐禅儀』五

6安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 03:49:26 ID:iNWvsNmI0

このように経典・祖録・禅語などの一片を載せて欲しい。

誰でもわかる現代語にしてな。どんな経でもかまわん。

誰かの役に立つかもしれない。

お願い申す。


普勧坐禅儀は最後まで今後私が記す。

7安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 04:09:12 ID:iNWvsNmI0

よって頭が良いか悪いかは関係ない。要領が良い悪いも関係ない。
専一に巧夫して坐ればだれもが弁道なのだ、誰でも修行しておるのだ。
修行の中に、自分は悟ったとか、未だ悟れず迷いだとかは無い。
修行も悟りも、浄なるも汚なるもなく平常でもとのままなのだ。
この世に於いては何処でも同じく仏法を伝えてきたのだ。
ただ何者にも邪魔されずに坐禅に打ち込んできたのだ。
様々な道はあれども坐禅をして只管打坐に参ずべし。
どうして自分のやるべきことがあるのに、他のところをうろつき回って探すのか。
坐禅に専一に打ちむのだ。少しでも外れれば天地の差が出て的外れになってしまう。

『普勧坐禅儀』六

8安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 04:32:17 ID:iNWvsNmI0
すでに人には備わっている要があるのだ。虚しく光陰たる日々を過ごしてはならん。
佛道の機要をしっかり保って守っていろよ。
誰が火打ち石に生じた火花の如くに短く儚い世を楽しむというのか。
そればかりでなく、体は草木の露のようで、命運も雷光の如く儚いものと同じではないか。
あっという間に、これら体も命も刹那のうちに消え失せるものと。

本気の坐禅修行者にはこいねがう。
全体の一部に過ぎない偽仏法で調子に乗って、真なる仏法を疑ってはならない。
直指端的のド真ん中仏道に精進し、思想哲学を越えた人を尊び、仏と仏らに合わさり、
祖師方の三昧の嫡子となれ。


『普勧坐禅儀』七

9安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 04:38:01 ID:iNWvsNmI0

そして、長らく坐禅の修行してきたた者は、やっただけやったことを受ける。
つまり、宝蔵は自ら開き、自らそれを開けて、
思いのままになるのだ!!!!!!!!!!!!!!!!!

『普勧坐禅儀』八 終

10安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/18(水) 00:54:32 ID:iNWvsNmI0

壹、菩提心を発すべき事
貳、正法を見聞して必ず修習すべき事
參、仏道は必ず行に依りて証入すべき事
肆、有所得心を用って仏法を修すべからざる事
伍、参禅学道は正師を求むべき事
陸、参禅に知るべき事
柒、仏法を修行して出離を欣求する人は須く参禅すべき事
捌、禅僧行履の事
玖、道に向かって修行すべき事
拾、直下承当の事

『学道用心集』


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板