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■■日本宣教と天皇制〜皇室に流れるキリストの命
1
:
明治天皇とキリスト教
:2008/07/10(木) 17:01:31 ID:taPIsFPg
☆皇室に流れるキリストの命(スペシャルインタビュー)
日本における宣教を考える時、天皇(制)の問題は決して避けて通ることのできない問題である。
○ーザーでは今回、○林○利牧師(明治天皇 内親王 仁様の長男)にインタビューを試みた。
驚くべき内容が含まれているが、今後の日本宣教の一助になればと願っている。
☆プロフィール
大正14年、明治天皇の内親王仁様の長男として名古屋に生まれる。
出隆(東京大学教授 哲学博士)のもとでマルクス哲学を学んだ後、
立命館大学で数学物理学を修める。
ナザレン神学校第一期生として卒業後、各地教会にて牧会。
☆「その日、私は、イスラエルの家とユダの家とに新しい契約を結ぶ。・・・
私は私の律法を彼らのなかに置き、彼らの心にこれを書き記す」(「エレミア書」第31章31〜34節)
☆「私のうわさを聞かず、私の栄光を見たことのない遠い島々が、私の栄光を国々に宣言するようになる。
そして彼らがすべての国々からあなたの兄弟を導きだす」(「イザヤ書」第66章19〜20節)
☆「彼らは大集団をなしてここに帰る。彼らは泣きながらやってくる。
わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしはイスラエルの父になろう。
エフライムはわたしの長子(ちょうし)だから」(「エレミア書」第31章9節)
☆「私はあなたがたを諸国の民の光とし、地の果てにまで私の救いをもたらす者とする」(「イザヤ書」第49章6節)
★国際科学振興財団のTRACE研究プロジェクト幹事・今井弥生氏は、ルベン・アルカレイ編「ヘブル・英語大辞典」で学んだことをもとに、
ヘブル語と日本語の類似性に関する膨大なリストを公表している。そしてその中でこう述べている。
「日本語の中心にある大和(やまと)言葉は主として、ヘブライ語の単語により、
ウラル・アルタイ系(古代朝鮮語やツングース系)の語順に当てはめて形成されている。
(「日本語の起源に関する調査研究報告書」国際科学振興財団内・日本語の起源研究会発行)
★インタビュー →
>>2-8
2
:
天皇の権限で調べたのです
:2008/07/10(木) 17:06:28 ID:l6VTH9BU
☆皇室に流れるキリストの命(スペシャルインタビュー)
日本における宣教を考える時、天皇(制)の問題は決して避けて通ることのできない問題である。
○ーザーでは今回、○林○利牧師(明治天皇 内親王 仁様の長男)にインタビューを試みた。
驚くべき内容が含まれているが、今後の日本宣教の一助になればと願っている。
☆プロフィール
大正14年、明治天皇の内親王仁様の長男として名古屋に生まれる。
出隆(東京大学教授 哲学博士)のもとでマルクス哲学を学んだ後、
立命館大学で数学物理学を修める。
ナザレン神学校第一期生として卒業後、各地教会にて牧会。
○Z 今日は、お忙しい中ありがとうございます。今回は、明治天皇以来、皇室にどのようにして、
キリストの命が伝わってきたのかということをお伺いしたいのですが。
○林 私の母の名は、仁(しのぶ)といい、明治天皇自ら命名されたと聞いています。
明治天皇によほど愛された方だったようで、お前が男だったらなぁと、いつも言われていたそうです。
明治天皇は私の母に、次のことを教えられたそうです。
「仁、私は天皇の権限で日本という国を調べた結果、日本は、神道である。
しかし、神道は、本来はユダヤ教である」
○Z そのようなことを、明治天皇は、お母さまに言われたのですか!これは衝撃的な事実ですね。
○林 本当にその通りです。
○Z 明治天皇には、お子さまは何人おられたのですか?
○林 大勢いましたね。私の母と昭和天皇は、川村中将の家で幼少の一時期、一緒に育てられました。
○Z お母さまに、明治天皇は、神道はユダヤ教であると言われたわけですね。
○林 そうです。天皇の権限で調べたのです。ですから、これには誰も反論できません。
○Z それでは、先生は、どのような経緯でキリスト教の牧師になられたのですか?
○林 明治天皇は私の母に、「仁、おまえが結婚して男の子が与えられたならば、
キリスト教の牧師にするのだよ。きっと役に立つときがくるぞ」と厳命したのです。
>>3-8
へつづく
3
:
米国オランダ改革派教会宣教師フルベッキ博士
:2008/07/10(木) 17:14:39 ID:taPIsFPg
>>2
よりつづく
○Z 明治天皇野中で、ユダヤ教とキリスト教はどのように結びついたのでしょうか?
○林 明治天皇は、ユダヤ教の完成がキリスト教であると、理解していたのです。
これにはフルベッキ博士の影響が強くありました。フルベッキ博士は米国オランダ改革派教会派遣の宣教師として、
1859年11月に長崎に上陸しています。当時キリスト教は禁制でしたが、この時を生かして、
将来のために猛烈に日本語と日本の歴史を勉強することになります。その結果、彼は日本人が襟を正すほどに、
荘重で、香り高い日本語の使い手となるのです。
後日、日本の文壇に決定的な影響を与えた文語訳聖書の中の詩篇やイザヤ書の訳も彼によるものです。
フルベッキ博士は、長崎の英語塾「済美館」や「致遠館」で大名の子弟をはじめ、
やがて明治維新の土台となるような、実に沢山の学徒に大きな影響を与えたとあります。
その名声を慕って各地から参集した学徒の数は600人を超えたと言われています。
フルベッキ博士は、キリシタン禁令下にもかかわらず、「ヨーロッパとアメリカを知るには、
キリスト教を知らなければなりません。それにはバイブルを読むことです。そして政治を知るには、
各国の憲法を知る必要があります。憲法は国の基本だからです。」と説いて、
明治維新後の日本の将来に関しても、協力を惜しまず大きな影響を与えつづけました。
明治2年、フルベッキ博士は請われて上京し、当時18歳であった明治天皇に聖書を講義し始めます。
フルベッキ博士は日本政府のために、ほとんどあらゆる分野にわたって援助と助言を与え続けましたが、
彼は頑なと言えるほど、このことに関して沈黙を守って、生涯を閉じました。彼に関する研究と発掘は、
まだ始まったばかりであり、開国にあたって彼の果たした役割がますます明らかになってくると思います。
フルベッキ博士は日本の指導者たちに欧米諸国、特にキリスト教がどのようなものか知って欲しいと思い、
視察団を送ることを勧めるのです。そして日本から初めて、岩倉具視を団長とする日本の重鎮たちが、
約2年という長きに亘って視察団として欧米に渡ったのです。
日本の視察団がアメリカに行くと、各地でキリシタン禁教令を撤廃せよとの抗議に出会うことになります。
アメリカには、すでに密航で渡っていて、アーモスト大学、アンドゥーヴァ神学校で勉強していた、
新島襄(同士社大学創立者)がいました。
当時、密航者は、死刑の大罪ですが、新島襄は、岩倉具視の計らいで赦され、一行の通訳として奉仕したのです。
一行は、アメリカの次にヨーロッパに渡りました。どこの町、村、都会でもキリスト教会が中心にあり
大勢の人が礼拝に出席する姿を見て驚くことになります。
>>4-8
へつづく
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