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中国のサイトの回想録 その1)
39
:
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40
:
平和は共に栄だ
:2006/06/08(木) 17:39:36
中日両国の人民の間はお互いにこれが最大の残念な思いであることを理解することができない。
41
:
留学生
:2006/06/10(土) 03:47:59
最近私は中国語のサイト(多分中国で読めれないサイト)で意味深い投稿が見つかった。もちろん日本人と関係があります。
その作者の意見は私完全に賛成ではない、しかし新しい視点からほぼ全体的に日中関係を見ていったので、
けっこう参考価値があると思った。前私たち議論した内容もほぼ触れているで、いい観点もあるし、私は息に読んで感慨にした。
私の認識を一部間違っている、変えないといけないなあと思った。再認識の必要がある。時間があったら、要点を整理してここでチャント投稿すると考えている。
42
:
苹@MOMOの代理投稿
:2007/08/07(火) 08:35:16
(本文開始)--------------------------------------------------------------------------------
「幻想を最小にとどめる」必要はないと思いますが、取り敢えず補記。
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/6914/1137398557/19
>ご貴殿の主張である「向こう岸」の閲覧
これ(↑)はどうやら、八月二日の拙稿(↓)に基づく記述なんでしょうねぇ…。
--------------------------------------------------------------------------------
ふと脳裏を過ぎるのは、例えば連歌。…そこには唐突に繰り広げられる言葉があり、ちぐはぐなイメージが後続の詠み人を「恰も自由であるかのごとき脈絡のなさで」拘束していく。所与のテクストが「拘束された自由」に向けて詠み人をいざなう。テクストからの離脱により不安定となる自由連想は、距離〜或いは「向こう岸」が遠目に見えるかの様な感覚と重なり合う。また〜そうした感覚に於て詠み人は、相互に「見守り合い」「見守られ合う」のを予感しながらも、たえず「承け方」に拘束されている事に変わりはない。時には沈黙する閲覧者から見守られるかの様でもあるが、にもかかわらず「沈黙しているがゆえに」予感できた筈の相手をひょんな事から存在確認した途端、破られた沈黙が「沈黙者たる所以を変質させる」事に自らおののいたりもする――
--------------------------------------------------------------------------------
この箇所は、本板での遣り取りを連歌に喩えたくだりですね。
拘束されていないなら、わざわざ連歌に見立てる必要はない。ここでは複数の詠み人が互いに意識し合う際の距離が重要で、近過ぎても遠過ぎてもいけない筈です(私のは「遠過ぎた」らしい)。また〜「向こう岸」に居る相手の提示した歌を他方が「閲覧」する訳ですが、「向こう岸」と「こちら」のいづれに回ろうと、どのみち双方の視点は「お題」を向くかの様に「優先して」振る舞う筈。言い換えるなら、「お題」が歌を「要請」するかの様に捉える余地が生まれる(選択肢の中には当然「沈黙」もある)。片や沈黙者もまた「閲覧」している限りは「お題」を見つめ、かつ双方の詠み人が提示した歌を見つめる…と、そんな有様について書いた訳です。
私は「お題」の「向こう岸」に留学生様を見ています。尤も〜環境汚染や著作権の話題は私が持ち出した「お題」ですが、それは同時に(私にとっての「お題」たる)留学生様の稿に対する「返し」でもあります。
(余談)
ところで、支那には唱和詩がありますなあ。昔は日本人もやってました(開国後も)。例えば、こんなのがあります。「一庵稱米壽。瀟灑老生涯。萬緑叢中雨。紅沾躑躅花。」…で、それを承けての次韻が「蒼茫東海水。一碧渺無涯。時有天風至。千層浪起花。」
前者は清浦奎堂「熱海間適五絶十首」の第六首。後者は西脇呉石「次奎堂老伯五絶十首瑶韻」十首の同じく第六首。「奎堂」は清浦奎吾(1850〜1942)の号。幼時に広瀬淡窓から漢学を学び、大正十三年には内閣総理大臣となる。西脇呉石は国定手本乙種を書いた書家。二人で遊んだのが昭和十五年八月頃。清浦元首相は泰東書道院の会頭なので、その縁で老伯と西脇役員との次韻と相成ったそうな。
これ(↑)に絡むネタを八月二日稿の途中で書きかけましたが、その後が長くなりそうだったので端折りました。
日本人の用いる漢語には、中国人が違和感を感じる例も多々あるだろう。〜手持ちの資料には老伯筆書の便箋一枚と封筒の写真が載っている(内容は「東海水ノ一首ハ最佳構ト感吟」云々の御礼と挨拶)。便箋の短い全文を例示すれば、「日本人の漢語使用」の話題を膨らませたり遡ったりする上で参考になるのではないか、と。
(本文終了)--------------------------------------------------------------------------------
43
:
苹
:2007/08/15(水) 14:51:30
・・・気になったのは、以下の留学生様発言。
>中国は親としたら、日本と挑戦はお子さんです。しかしなぜ朝鮮は孝行息子で、日本は親不孝息子ですか?
既に「華魂洋才」は孫文の時代に自覚している筈なのに、それを当初なぜ蒸し返すかの様に疑問視したのか。もしかしたら中国人は、嘗て日本に中毒した事を韓国の様に「反省したがっている」のではなかろうか。日本が嘗て「尊皇攘夷」を目指したのと同様、中国は今「尊華攘日」(?)の懐古精神に囚われつつも、別の先進性を自国内で創造しようとしているのではないか。それだけの歴史的自信がある。ところが実際は自信自体が分裂的で、「先進性」に纏わる著作権問題を下から勝手に反古にしつつ、それを共産党政府が上からどうにかして軟着陸させようと、政治的に躍起となっているかの様に見える。
ここには悪しき民主主義が垣間見える。都市部五億の民が一斉蜂起したら、億単位に遠く及ばない日米欧資本家は脅威を感じざるを得なくなる。かてて加えて、それを地方政府の指導者達が八億人に煽るとしたら、そうした巨大な流れに中国の「健全な」資本家達は太刀打ちできるのか?
私は中国を「規模の限界を知る国」と見ていますから、政治的規模と共産党の親和性に秘密結社の来歴を絡める価値についても一目置いていますし、そうした原点に立ち返る必要があるのは今だ…とも思っています。共産党の指導力と権威は歴代王朝より遙かに先進的である、とも思います。しかしそれは「規模の限界を知る」がゆえの政治的判断に過ぎない筈。民主的混乱を上から平定するための歴史的手段が全体主義のそれであるなら、政体そのものが初めから爆弾を抱えている様なものではないかと。
各国には各国の事情があるでしょう。そうした制約を前提する場合のみ、私は全体主義の必然性を「やむを得ない」と見たりもする。嫌なら各自、中国から出て行けばよい。もしくは革命勢力に参画して国家転覆を謀ればよい。なんなら台湾に行く手もありそうではある。しかしそれでは国を捨てる事になりかねない。華僑は国と民との重なり合いまで否定していない筈。かと云って、「国」を薄めて「民」から小集団へ細胞化すると逆に困った面も出てくる。「満州に渡って馬賊になる」感覚を歪め裏返すかの様に、「日本に出かけて爆窃団になる」ケースは既に現実となっている模様。
日本人口の総量感覚で中国人犯罪者数を量ると過剰反応が起こりそうだけれども、かと云って〜比率を以て実数の示す意味を覆す見方には賛同できませんわな。中国人口の総量感覚で日本側の反応をミニマムと捉えるかのごとき「大国感覚」を私は危険視しています。そうした意味でも、あきんど様の「相手の立場になって物事を考え」って指摘にはまた別の感慨があります。
44
:
苹
:2007/08/15(水) 14:52:41
(拾遺)
…ううう、なんか脱線不足だなあ。もっとトンデモ系カキコの練習しとかなきゃ。
ttp://dokuhen.exblog.jp/d2007-08-12
話は変わる。〜福田逸先生のブログ(↑)に興味深い記述(↓)があった。
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> 例のマイク・ホンダ議員の経歴を、苦難の末議員にまで上り詰めた美談にし、彼が戦時中(アメリカにより)強制収容され、財産を失つたがゆゑに戦争被害者だとしてゐる。しかし、文章の流れからすると、まるで日本国から被害を受けたかのやうに読める、といふより、どう読んだらよいのか実に曖昧な文章になつてゐる。ホンダ議員が戦争被害者だと断ずる文の前に、彼がIT産業が盛んな地域から選出された議員であり、そこには労働者にアジア系が多く、中国系・朝鮮系の移民もかなりゐるといふ趣旨の文章がある。そして直後に、アジアからの移民にも戦争被害者が多い、と来るから、私には朝日新聞お得意の自虐的文章に見える、つまり、アジアからの移民と共にホンダ議員も日本国による戦争被害者だと読まざるを得なくなる。かういふ書き方は、洗脳、誘導、操作とでも言ふのではないか。少なくとも、サブリミナル効果はある。
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その曖昧さを「明晰な曖昧さ」の形で記述するのが難しい。人間の判断が常に明晰だったら却って異常だし、明晰なだけの判断は得てして紋切り型になりやすい。どこが曖昧なのかを、どこまで自覚しつつ書いているか、それが予め分かる様な書き方をしたいものだ。
あきんど様の文章は分かりやすい。「分からない」領分をハッキリ、しかし大雑把に示している。つまり「分からない」領分の微分にはなかなか踏み込まない。勿論「分かる」領分は徐々に差し引く。それはそれでいい。私も出来る事ならそうしたい。が、それはもはや「分からない」領分には踏み留まれない。
教員は屡々「生徒は何処が分からないのかが分かっていない」と云う。ひょっとしたら、「分かる」と云うより「分からない」と云う方が難しいのかも知れない。「分かる」領分は限定的だが、「分からない」領分はそれ自体が世界的である。どんなふうに分からないのかを「分かりやすく」記述するのはもっと難しい。「全部が分からない」と水増しする方が潔く見える事もある。その反対に、相手が「分かっている筈」と思い込んだ通りに応えないと不正直と思われる事すらある。ここでは「分かる」と「分からない」との境界が他者側の憶見に委ねられ、それを筆者側の感覚に引き戻そうとする試み自体が時には文献学的に否定されていく。つまり文献学は読者による独裁的判断の拠り所となる。
この点では、世界一の訓詁経験を重ねてきたのが中国知識人…と見る事もあながち的外れとは云えまい。日本に「まともな手段で」留学する中国人には、そうした素養が荒間…もとい(汗)、あらまほしきものであって、その関門を通り抜けてきた人々が留学生様や夢幻様ではないかと私は想像している…。
45
:
キラーカーン
:2009/04/14(火) 22:32:36
>不法滞在の罪は国家を前提とする国家が定めた移動ルールの違反に過ぎませんから
純粋な意味での夜警国家というものが現在では不可能であり、かつ、現行の主権国家体制を前提とする限り、行政権をはじめとする国家権力(国家主権)によって一般国民に保障される権利(社会権)というものも現代社会には存在します。現代社会において、人権は国家からの自由(自由権)だけではありません。その意味で、本件に関して、自然犯と国家権力が犯罪と決めた犯罪とを分離して議論する実益はないと思います。
国家の存在を前提とする犯罪だからといって、自然犯と比べてことさらに過小評価することは現行の日本社会では一般国民の意識からますます乖離していくことになるでしょう。専門家がそういう意識から脱却できないから司法制度改革というものが必要とされたと言う側面もあるのではないでしょか(そういう一般国民の意識が「間違っている」か否かという問題はとりあえずおいておきます)
単純化していえば、そのような国民を守るための国家権力という機能に対して
モトケンさんは不感症(過小評価)であり
このデモに参加した人々は過敏症(過大評価)
であるわけです。さらに
46
:
キラーカーン
:2009/04/14(火) 22:33:35
>不法滞在の罪は国家を前提とする国家が定めた移動ルールの違反に過ぎませんから
純粋な意味での夜警国家というものが現在では不可能であり、かつ、現行の主権国家体制を前提とする限り、行政権をはじめとする国家権力(国家主権)によって一般国民に保障される権利(社会権)というものも現代社会には存在します。現代社会において、人権は国家からの自由(自由権)だけではありません。その意味で、本件に関して、自然犯と国家権力が犯罪と決めた犯罪とを分離して議論する実益はないと思います。
国家の存在を前提とする犯罪だからといって、自然犯と比べてことさらに過小評価することは現行の日本社会では一般国民の意識からますます乖離していくことになるでしょう。専門家がそういう意識から脱却できないから司法制度改革というものが必要とされたと言う側面もあるのではないでしょか(そういう一般国民の意識が「間違っている」か否かという問題はとりあえずおいておきます)
単純化していえば、そのような国民を守るための国家権力という機能に対して
モトケンさんは不感症(過小評価)であり
このデモに参加した人々は過敏症(過大評価)
であるわけです。
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