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中国のサイトの回想録 その1)
42
:
苹@MOMOの代理投稿
:2007/08/07(火) 08:35:16
(本文開始)--------------------------------------------------------------------------------
「幻想を最小にとどめる」必要はないと思いますが、取り敢えず補記。
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/6914/1137398557/19
>ご貴殿の主張である「向こう岸」の閲覧
これ(↑)はどうやら、八月二日の拙稿(↓)に基づく記述なんでしょうねぇ…。
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ふと脳裏を過ぎるのは、例えば連歌。…そこには唐突に繰り広げられる言葉があり、ちぐはぐなイメージが後続の詠み人を「恰も自由であるかのごとき脈絡のなさで」拘束していく。所与のテクストが「拘束された自由」に向けて詠み人をいざなう。テクストからの離脱により不安定となる自由連想は、距離〜或いは「向こう岸」が遠目に見えるかの様な感覚と重なり合う。また〜そうした感覚に於て詠み人は、相互に「見守り合い」「見守られ合う」のを予感しながらも、たえず「承け方」に拘束されている事に変わりはない。時には沈黙する閲覧者から見守られるかの様でもあるが、にもかかわらず「沈黙しているがゆえに」予感できた筈の相手をひょんな事から存在確認した途端、破られた沈黙が「沈黙者たる所以を変質させる」事に自らおののいたりもする――
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この箇所は、本板での遣り取りを連歌に喩えたくだりですね。
拘束されていないなら、わざわざ連歌に見立てる必要はない。ここでは複数の詠み人が互いに意識し合う際の距離が重要で、近過ぎても遠過ぎてもいけない筈です(私のは「遠過ぎた」らしい)。また〜「向こう岸」に居る相手の提示した歌を他方が「閲覧」する訳ですが、「向こう岸」と「こちら」のいづれに回ろうと、どのみち双方の視点は「お題」を向くかの様に「優先して」振る舞う筈。言い換えるなら、「お題」が歌を「要請」するかの様に捉える余地が生まれる(選択肢の中には当然「沈黙」もある)。片や沈黙者もまた「閲覧」している限りは「お題」を見つめ、かつ双方の詠み人が提示した歌を見つめる…と、そんな有様について書いた訳です。
私は「お題」の「向こう岸」に留学生様を見ています。尤も〜環境汚染や著作権の話題は私が持ち出した「お題」ですが、それは同時に(私にとっての「お題」たる)留学生様の稿に対する「返し」でもあります。
(余談)
ところで、支那には唱和詩がありますなあ。昔は日本人もやってました(開国後も)。例えば、こんなのがあります。「一庵稱米壽。瀟灑老生涯。萬緑叢中雨。紅沾躑躅花。」…で、それを承けての次韻が「蒼茫東海水。一碧渺無涯。時有天風至。千層浪起花。」
前者は清浦奎堂「熱海間適五絶十首」の第六首。後者は西脇呉石「次奎堂老伯五絶十首瑶韻」十首の同じく第六首。「奎堂」は清浦奎吾(1850〜1942)の号。幼時に広瀬淡窓から漢学を学び、大正十三年には内閣総理大臣となる。西脇呉石は国定手本乙種を書いた書家。二人で遊んだのが昭和十五年八月頃。清浦元首相は泰東書道院の会頭なので、その縁で老伯と西脇役員との次韻と相成ったそうな。
これ(↑)に絡むネタを八月二日稿の途中で書きかけましたが、その後が長くなりそうだったので端折りました。
日本人の用いる漢語には、中国人が違和感を感じる例も多々あるだろう。〜手持ちの資料には老伯筆書の便箋一枚と封筒の写真が載っている(内容は「東海水ノ一首ハ最佳構ト感吟」云々の御礼と挨拶)。便箋の短い全文を例示すれば、「日本人の漢語使用」の話題を膨らませたり遡ったりする上で参考になるのではないか、と。
(本文終了)--------------------------------------------------------------------------------
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