[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
【ザ】+☆+KKⅦ+☆
711
:
たまご
:2005/12/29(木) 01:15:57 ID:gBHiax.6
>>706
暮れも押し迫って参りました。
エートス氏
>あなた方の信仰は八正道という修行を通じて内に秘められた「仏性」を磨き出すことを目的としていますよね。これは類型化すると、『自らの人間的な努力によって自身の「神性」に到達しようと試みるタイプの信仰』_になるわけです。他方、それと対極にあるのが、『救済は神の側に一方的に委ねられる』_という信仰の類型です。
コメントありがとうございます。これは、別の切り口でヴァイオラさんが説明されているのです。卒啄同時(そったくどうじ―字が違うかも、ごめんなさい)たまごの中から、殻を割ろうとする行為(八正道などの修行)と親鳥がそれを助けて外から殻を割って孵化を助けるという話です。
絶対自力でもなく絶対他力でもない、しかしどちらが欠けても信仰としては不十分というのが、幸福の科学の教えのスタンスと理解しています。
仰有るとおり、仏教においてその傾向が現れたこともあるようです。大乗仏教の興隆前の頃にその萌芽があったようですが。
自身の仏性の発見はまだ入り口で、実はクリスマスツリーの電飾のように全ての人が網の目のように繋がって、高次元に包まれ生かされている、もしくは、タケノコの地下茎のように潜在意識下でつながっているということまで教えていただいています。
これが先にないと、仙人天狗の悟りでとまってしまう、傲岸不遜な悟りになるということではないでしょうか。
謙虚さということは、八正道の中の正思の基準の一つでもあります。素直さ、謙虚さ、自助努力が正しく思うにあたっての三つの基準として教えていただいています。
この時、自助努力と自我力とは区別して考えねばなりません。
傲慢な思いがあれば、自我力で何事か為そうとしているのであり、己の器の小ささを素直に知って、初めて謙虚になり、更なる愛の器の広さ、救済の為の悟りの向上を目指して自助努力する姿がまた、周囲の幸福へとつながる修行となるのだと思います。
ですから、八正道による反省が深まることは、正定に入ったときに仏神近き存在の慈悲、智慧をより感得することになります。個々の境地によって、段階によってその感得は違うでしょうが、仏神の圧倒的な愛、許しの波動とでもいうべきものの一端を感じ取れたならば、その反省は成功したのであり、まさしく神に導かれし己を知るという瞬間かもしれません。
神近き慈悲、智慧に尊大さ、傲慢さは微塵もないものと思います。自身の中の鉱脈の光と仏神の光の同質性の発見です。
人間心では遠く及ばない世界の話ですが、慢心からの転落の危険性については、ご法話の折々に指摘されております。たとえ良く執着を断ち修行が進んだとしても最期の最期まで修行者が悩まされるのが慢心という己心の魔であり、悟りの道を行くということはその意味において厳しいものだと警告していただいています。
そういう意味では、エートス氏のご指摘の通りなのです。しかし、幸福の科学の教義には、忍耐、謙虚さ、愛、という身に備えるべき修行徳目として含まれていますし、それらを深めることによって洞察力を得て、よりよい生き方を選ぶということが、初歩者の我々にとっても大切な修行だと思います。その精度をあげていくには、ちと私には手の届かない世界になるのでここまでにします。
これもほんの一端の話ですし、ヴァイオラさんだったら、この倍以上丁寧に説明してくださると思うのですが…。
あちこち片手落ちで申し訳ないです。神秘と合理は(難しいことはわかりませんm(_ _)m)たとえば、人類が前に進んでいくための右足左足みたいな関係かなと、また横道にそれて考えています。ふー(汗)
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板