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質問スレッド (なんでもお尋ねください)

1仁雛:2005/12/26(月) 22:15:19
ここは素朴な疑問、スレッドたてるまでもないあらゆる質問を受け付けます。
お気軽にご質問ください。当サイトのこと、晋代(を中心とした中国古代史)のこと、などなど。。。

漢文の翻訳や晋書本文に関する質問は→「漢文翻訳スレッド」にてどうぞー!!

2マナミン:2005/12/28(水) 23:55:06
初めましてこんにちは。参考になるサイト様で本当に助かっています。
ところで周浚って結局誰と結婚したんでしょう??
絡秀は「妾にしたい」って言われたんですよね・・一体・・。

(「雑談スレッド」42 名前: マナミン 投稿日: 2005/12/22(木) 21:46:01 から仁雛が転載。)

3えちぜん:2005/12/28(水) 23:57:50
マナミンさん、初めまして。

周浚のことは全然知らなかったのですが、私なりに資料を確認してみました。
参考になりますかどうか。。。

『晋書』巻六十一列伝第三十一に周浚伝があり、次のようにあります。

  三子:邈、嵩、謨.
  (三人の男子があり、周邈・周嵩・周謨という。)

『晋書』巻六十九列伝第三十九に周邈伝が別にあります。ここではちょっと置いといて。
『晋書』巻九十六列伝第六十六の列女伝に、周邈母李氏伝があります。当サイトでも
列女伝の翻訳がありますので、詳細はそちらを。

  周邈母李氏,字絡秀,汝南人也.
  (周邈の母、李氏は、字を絡秀といい、汝南の人である。)

とあります。周浚が安東将軍の時に、絡秀の家に立ち寄り、絡秀に一目惚れ。

  獨見一女子甚美,浚因求為妾.
  (たいへん美しいひとりの女の子が見えただけだった。周浚はそこで彼女に妾となるよう求めた。)

そして、

  遂生邈及嵩、謨.
  (こうして周邈と周嵩と周謨を生んだ。)

とあります。つまり、周浚の三人の男子は全て絡秀が産んだことになりますね。
さて、ここで『晋書斠注』を見ると、「浚因求為妾」の箇所に注が付けられています。
『世説新語』賢媛第十九18に関連する記述があるようです。語句は違えど、列女伝の記述とほぼ
同じ内容です。劉孝標注に次のようにあります。

  按周氏譜,浚取同郡李伯宗女,此云為妾,妄耳.
  (按ずるに『周氏譜』には「浚は同郡の李伯宗の娘を娶った。」とある。ここで妾にしたというのは、でたらめである。)(訳は新釈漢文大系『世説新語』下 明治書院を引用) 

ところが、『晋書斠注』に戻ると、次のように注があります。

  案:本傳與世説大致相同,必有所本.竊謂伯仁昆弟既從母命,以李氏為親親,故譜中諱言,為妾未可.即斥其妄也.
  (案ずるに本伝(列女伝)と世説新語の内容はほとんどが同じであり、きっと根拠となることがあったのだ。私見では、伯仁(周邈の字)及び兄弟は母の命に従って、李氏と親しくしたとあるので、『周氏譜』で妾としたなどと悪く言うことはできなかったのだろう。なので、妾にしたというのはでたらめという説は採らない。)

絡秀が周浚の妾でないというのは、『周氏譜』の記述のみで、大勢は絡秀は妾であったとあるのですが、
私は絡秀は妾ではなく、正妻であったと思うのです。というのも、

1.周浚の男子三人は全て絡秀が産んだ子供であること。
2.『周氏譜』の記述があること。
3.『晋書斠注』が言うように列女伝と世説新語の内容がほぼ同じであるのは、むしろ列女伝が『世説新語』の内容をそっくりそのまま採用したのではないかと思われ、それを根拠に『周氏譜』を取らないとする『晋書斠注』に納得いかないこと。
4.列女伝に採用される程の女性の話としては、妾からのし上がったとする方がさらに印象が強烈になる(つまり面白くなる)ことから、誇張されたのではないかと思うこと。

私の想像なども入ってしまっていますが、こんなところです。
長々と書きましたが参考になりますでしょうか?

列女伝の訳は本サイトの列女伝訳を借用しました。
『世説新語』は『世説新語校箋』(中華書局)から引用しました。
『晋書斠注』の漢文解釈に誤りがあれば、ご教示下さい。<(_ _)>

(「雑談スレッド」45 名前: えちぜん 投稿日: 2005/12/25(日) 01:05:12 から転載しました)

4仁雛:2006/01/06(金) 14:49:46
ちょっと時間が空いてしまいすいません。風邪で正月前後、伏せっていました^^;

自分は、やはり絡秀は周浚の「妾」として迎えられたと思います。
理由はいくつかありますが、主要な点は『晋書』『世説新語』ともに妾としたと書いてある点、もう一点は、絡秀が息子たちに絡秀の家(=李氏)を「親族」として付き合うように迫り、息子たちがそれに従ってはじめて李氏の一族が「方雅之族」(貴族)となった点です。『晋書』列女伝に以下のようにあります。
「浚因求爲妾。其父兄不許,絡秀曰:「門戸殄瘁,何惜一女!若連姻貴族,將來庶有大﨟矣。」父兄許之。遂生邈及嵩、謨。而邈等既長,絡秀謂之曰:「我屈節爲汝家作妾,門戸計耳。汝不與我家爲親親者,吾亦何惜餘年!」邈等從命,由此李氏遂得爲方雅之族。」
「周浚はそこで彼女に妾となるよう求めた。彼女の父兄は許さなかったが、絡秀が「家門が病みおとろえているというのに、どうしてひとりのむすめを惜しむのでしょうか!もし貴族と姻戚となれれば、将来大きな利益をねがうこともできるでしょう」といったので、父兄はこれを許した。こうして周邈と周嵩と周謨を生んだ。周邈らが成長すると、絡秀は「わたしが節を曲げておまえたちの家の妾となったのは、実家のためを計っただけです。おまえたちがわたしの実家と親しくしない(→と親族にならない)のなら、わたしはまたどうして余命を惜しみましょう!(=余命を惜しまず自殺する覚悟です)」と彼らにいった。周邈らは母の命に従ったので、これにより李氏はとうとう貴族となることができた。」
訳は解体晋書・NAGAICHIさん訳より。カッコ内のみ仁雛注。
絡秀が正妻であったなら、周氏と絡秀の実家の李氏は無条件に親族ですが、そうではなかったからこそ、絡秀が息子たちに李氏を「親族」として認めさせる必要があったわけです。

雑談スレの56のNAGAICHIさんのカキコミにあるように、李絡秀が妾となった時にはすでに周邈は20余歳でした。ということは、周邈を生んだであろう正妻がいたからこそ、妾としてしか迎え入れられなかったわけです。
その後、正妻が死んだかなにかしたのでしょう。絡秀が息子たちに実家の李氏を親族として認めさせた、ということは事実上、正妻の座に位置したことになります。そのことを受けて、(そのことが「事実」となった後に書かれた)伝記上は『周氏譜』の記述となり、また『晋書』などで3人の子どもを産んだ、という記述になったのだと思います。
以上、ご参考までに♪

5NAGAICHI Naoto:2006/01/06(金) 21:56:01
『世説新語箋疏』賢媛篇18は面白いこと言ってます。
程炎震が云うには、「伯仁(周邈)は、永昌元年(322)壬午に年五十四で死んでいる。つまり泰始五年(269)己丑の生まれである。開林(周浚)がもし安東将軍となって李絡秀を納れたのであれば、(李絡秀の子であるはずの)伯仁はすでに二十余歳である。この話がデタラメであるのは言うまでもなく、劉孝標が『周氏譜』をもって証したのは、もっともで手堅い根拠である。それでも『晋書』がこの話を『列女伝』に取り入れたのは誤りだ」
『世説新語』賢媛篇と『晋書』列女伝の話がともに信用ならないとすると、李絡秀正妻説もありですね。

(「雑談スレッド」56 名前:NAGAICHI Naoto 投稿日: 2006/01/04(水) 20:22:14 から仁雛が一部訂正の上、転載。)

6マナミン:2006/01/11(水) 16:14:04
様々な回答ありがとうございました! 私も考えてみましたが
色んな可能性があって頭がこんがらがってしまいました・・笑

一緒に世説新語を調べてるグループのみんなとも話し合ってみます〜。
本当にありがとうございました。

ところで本当に素朴な質問なんですけど、伯仁兄弟の
名前、あれどうやって読むんですか??良ければ教えて下さい┏o

7仁雛:2006/01/12(木) 00:32:35
>>6 マナミンさんへ

自分の意見はかなり(実証部分とか原文の紹介は)省略してしまっているので本意が伝わっているか、不安ですが、ここで出た意見を、ぜひみなさんで検討してみてくださいね。

>伯仁兄弟の名前、あれどうやって読むんですか??

字(あざな)はいらないですよね?(笑)。
周邈ガイ・周嵩スウ・周謨バクですね。

8えちぜん:2006/01/13(金) 01:13:43
私は、周邈ギ・周嵩スウ・周謨ボ だと思っていました。

こういう場合、何を調べれば良いのでしょう?『説文解字』?『康煕字典』??

9仁雛:2006/01/13(金) 15:26:59
周邈ギ・周嵩スウ・周謨ボ

ですね。。。恥をさらしました。

根拠なく、偏や旁の読みにひっぱられて誤読してしまう「百姓読み」の実例になってしまいました^^;
『漢辞海』第二版で確認しました。辞書ひかないとダメですね。
えちぜんさん、ありがとうございます。

10えちぜん:2006/01/14(土) 00:03:36
邈を「ギ」と読むことに、個人的には違和感を感じています。第一印象は怖い。(^^;)

王祥伝を訳していて荀彧の子、荀邈が出てきますが、当初は「ジュンガイ」
と読んでいたのです。しばらくして何かの本で「ジュンギ」とルビが振られて
いるのを見て、邈を「ギ」と読むと知ったのでした。

今でもこの字を見ると、つい「ガイ」と読みそうになります。(^^;)

11名無晋書さん:2006/01/24(火) 11:02:08
いきなりごめんなさい。幽明録や捜神記などをよんで中国における女性のイメージというと、
どんな感じのものがありますか?私としては神聖(神女・天女)・悪女・美しいなどがると思いますが
よければおしえてください

(雑談スレッド 64 名前:名無晋書さん 投稿日: 2006/01/24(火) 01:30:55 から管理人が転載)

12仁雛:2006/01/25(水) 23:16:28
>>11
なかなかイメージとなると難しいので、簡単に答えられないのですが、下記の文章が少し参考になるかもしれません。
黒田真美子「六朝志怪小説の中の女性たち−その愛と死 (特集 中国古典小説入門1−志怪小説の世界」『月刊しにか』8-3・1997年

あと、大学時代に幽明録や捜神記あたりの六朝志怪小説を読んで、「異界や未知なる世界の象徴」としても女性が描かれている、と習いました(か、どこかの本で読みました^^;)。
男性にとっては、女性というのはやはり未知なるもの、男とは違うもの、として対比できる存在ですからね^^; そういうイメージが読み取れる記事があったと思います。

いきなりでも、質問してくださり、ありがとうございます! またどしどしどうぞ。
あと、他の人も答えられる情報をお持ちの方はぜひ書き込みしてください♪

13衛攸之:2006/01/27(金) 03:42:54
 再開おめでとうございます。旧サイトからずっと拝見させていただいておりましたが、今回王導・陶侃伝の翻訳がUPされてるのを拝見し、好きな人物なだけに非常にうれしく感じています。

 さて、陶侃といえば、青年時代貧乏生活で苦労したことで有名ですが、他にも「三横」の一人として地元の民衆から嫌われた周処や、陸機の船を略奪しようとした戴淵など、旧孫呉の出身で父祖が呉の将軍だった人物はどうも経済的な不遇を味わっていたように思えるのですが、この点について言及されている研究書はないでしょうか?もしご存知でしたら教えてください。

14菅原:2006/01/29(日) 22:27:56
>>13 衛攸之さん
代表の菅原です。ご訪問ありがとうございます。
本年も新訳を公開予定ですので、今後ともご愛顧よろしくお願いします。

ご質問の件ですが、ご質問の趣旨と少しずれるかもしれませんが、
陸遜の孫の陸機兄弟についての文章で彼らが不遇を味わった旨を読んだような記憶があります。
ただご質問の呉将の末裔の経済的な不遇について言及した研究については私は存じ上げておりませんので、
この件について知っている会員に回答をお願いしようと思いますので、
もうしばらくお待ちください。

15中根:2006/02/01(水) 20:53:20
>>13 衛攸之さん
会員の中根です。

>旧孫呉の出身で父祖が呉の将軍だった人物はどうも経済的な不遇を味わっていたように思えるのですが、この点について言及されている研究書はないでしょうか?

宮崎市定『九品官人法の研究 科挙前史』(中公文庫)でこのことが取り上げられています。
宮崎氏によれば、魏晋の貴族がほぼ中央政権の要職を独占してしまったために、
呉出身者は低いポストしか与えられなかったようです。晋書にも「呉の三俊」として
挙げられている陸機兄弟と顧栄ですら、出仕(起家)時には八品の郎中という低い官位が
与えられており、魏の文官の子孫が概ね五品〜七品のそこそこの官位を出仕時に与えられて
いるのに比べると著しく低い身分に留まっています。名門であった陸兄弟ですら八品ですので、
呉の一将軍の子に過ぎない陶侃に至っては伏波将軍府舎人という最低クラスの官職にやっとありついています。

16仁雛:2006/02/08(水) 14:03:07
>>13 衛攸之さん

書き込みありがとうございます。
>旧孫呉の出身で父祖が呉の将軍だった人物はどうも経済的な不遇を味わっていたように思えるのですが、この点について言及されている研究書はないでしょうか?
とのことで、>>15で中根さんのレスがありますが、あまりお役に立てませんが自分も少し調べてみたのでご紹介します。

川勝義雄『六朝貴族制社会の研究』岩波書店

学会では言わずと知れた名著ですが、第三章の三「西晋支配下の江南」に孫呉旧臣たちの西晋での状況が若干触れられている部分があります。具体的な将軍名は出てきませんが。

巴蜀の旧臣たちの西晋での状況・動向についての分析(実は私の卒論でもやりました//笑)をした研究論文は、大東文化大の中林史朗先生がいくつか書いていますが、孫呉のは不勉強ゆえ知りません^^;
探せばあるのかもしれませんし、>>14の菅原代表のレスにもあるように陸機関連で文学畑からの論文はありそうな気がします。いずれにせよ、西晋での巴蜀・孫呉の旧臣たちは西晋王朝下ではあまり出世
できない、西晋ですでに貴族制的な体制ができあがってしまっていたので、「田舎モノ」が入り込む余地がなかったのは諸資料から伺えるところです。学会的には、孫呉の場合は、その後東晋王朝の基盤
となるので、外来の東晋王朝と在来の江東豪族の関係はどうだったかという問題があり、川勝氏の上記著書にもこれに関する研究がありますし、その後研究論文もあると思います。

あとは越智重明先生の一連の六朝貴族制社会を論じた専著に当たると、もしかすれば言及されているかもしれません。ご参考までに書誌情報を下にあげます。
越智重明『魏晋南朝の政治と社会』吉川弘文館・1963年、『魏晋南朝の貴族制』研文出版・1982年、『魏晋南朝の人と社会』研文出版・1985年
また、言及している可能性は低いと思いますが「この本ってどうよ?!」スレの70で殷景仁さんが紹介くださった、安田二郎先生の『六朝政治史の研究』もあります。
衛攸之さんが大学図書館などを利用できる立場でしたら、ぜひご覧になってみてください。結果などをレスしてくださるとうれしいです。

と、このスレを書いて、魏晋南北朝の研究書籍の紹介とその目次くらいは「参考文献スレッド」にupしたいな、そうすれば便利だなと思った次第^^;

17無学:2006/03/04(土) 20:44:55
1 名前:無学 投稿日: 2006/03/04(土) 16:38:01

すみません。晉書列傳第五十九の以下の分ですが、読み下しと、どのように訳がせばよいかご教示いただけたら幸いです。
「古人有言:“君子殺身以成仁,不求生以害仁。”又雲:“非死之難,處死之難。”信哉斯言也!是知隕節苟合其宜,義夫豈吝其沒;捐軀若得其所,烈士不愛其存。故能守鐵石之深衷,窅松筠之雅操,見貞心於歲暮,標勁節于嚴風,赴鼎鑊其如歸,履危亡而不顧,書名竹帛,畫象丹青,前史以為美談,後來仰其徽烈者也。」
最初の部分は「古人言う有り。君子は身を殺して以て仁を成し、生を求めて以て仁を害せず。」となり、『論語』の「子曰、志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁」からかと思うのですが。

(「お教え下さい」スレッドの1 名前:無学 投稿日: 2006/03/04(土) 16:38:01 より管理者・仁雛が転載しました)

18巫俊(ふしゅん):2006/03/04(土) 20:46:05
/新校本晋書/列伝/巻八十九 列伝第五十九/忠義/序言
- 2297 -

ですね♪
訳はともかく、読み下しは人によって変わってきたりしますから、まずは意味をとっていったら如何でしょう?
基本的な読み下しの方法は辞書にものってますし。
(しかし辞書の説明ってあんまり読んでないんですよね。やっぱり初心にかえって手引きから読んでみようかな、、)
それと、旧字体は新字体にもどしたくて仕方なくなってしまう巫俊です。。

(「お教え下さい」スレッドの2 名前:巫俊(ふしゅん) 投稿日: 2006/03/04(土) 18:40:57 より管理者・仁雛が転載しました)

19無学:2006/03/05(日) 03:30:36
管理人の仁雛さん、お手数をおかけして申し訳ございません。初めてでやり方がよく分からずにスレッドを立ててしまいました。巫俊さんご教示ありがとうございます。ただ、如何せん無学の者で、さっぱりわからないのです。又雲は又云うでしょうか。

(「お教え下さい」スレッドの7 名前:無学 投稿日: 2006/03/05(日) 01:01:45 より管理者・仁雛が転載しました)

20巫俊(ふしゅん):2006/03/05(日) 03:31:52
>又雲

又云の誤記じゃないかと思いますよ。

(「お教え下さい」スレッドの8 名前:巫俊(ふしゅん) 投稿日: 2006/03/05(日) 02:45:13 より管理者・仁雛が転載しました)

21仁雛:2006/03/05(日) 07:10:42
無学さん、どうもはじめまして。
ところで、なぜに晉書列傳第五十九の意味を知りたいのでしょうか^^; もしよろしければ教えてください。

巫俊(ふしゅん)さん、重ねてレスありがとうございます。ご指摘の通り、該当の部分は「晋書巻八十九・列伝第五十九・忠義」の冒頭部分で、「又雲」は「又云」の間違いですよね。ご指摘ありがとうございます。

とりあえず一行だけ(笑)

「古人に言あり、「君子、身を殺して以て仁を成し、生を求めて以て仁を害せず、と。また云う、死にあらざるを之れ難しとし、死に處るを之れ難しとす、と。信なるかな、この言や」
昔の人の言葉に「君子は、自分の身を滅ぼしても仁義を成し遂げるもので、生きながらえて仁義を損なうことはしない」とあります。他にも「死ぬことは簡単なことだが、どう死ぬかが難しいことだ」とも言います。まったくその通りですね、この言葉って。

前段は、無学さんの指摘の通り、『論語』衛霊公篇の「子曰、志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁」を踏まえています。
後段は、おそらく。『史記』巻八十一、廉頗藺相如列伝論の「知死必勇、非死者難、處死者難」を踏まえた表現でしょう。
いずれも、「仁義・節義のためには、いたずらに生を求めることをせずに、死を選ぶのが立派な人がとる道だ」というニュアンスでの引用だと思います。

22巫俊(ふしゅん):2006/03/05(日) 09:02:20
>名を竹帛に書き

古風な言い回しなのかもしれませんが、晋の時代はまだまだ竹簡の使用される時代だったようで、
『晋書』の背景って奥が深そうですね。
忠義伝に建てられている人の名前をひとりも知らない私..
だれぞ有名な人も混じってるんでしょうか?
中国にはときどき命を放り投げる士大夫がいますが、けっこう文学作品がされで未完に終わったりしかねないんですよね..


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