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ID再考 & 科学と疑似科学とを判別する
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>世で流布されるIDは、特定の進化が、自然選択で起こるには複雑すぎる、という論旨ですよね。
というより、デザイナー(神様)がいなければ、その複雑さを説明できない、という思想的スタンスですね。
>私自身は、鳥の進化を自然選択で説明するのは、力学的に無理があると述べました。それはそれで根拠でしょう。
個人的に「そう考えている」というだけで、客観的に証明された根拠ではないですね。
>要するに、根拠として弱いとおっしゃりたいのでしょうけど、根拠が弱いのと、無根拠は異なります。本当の無根拠なら、複雑さや力学的無理のような、根拠としての説得力を検証できる対象からしてないはずです。
根拠の強弱以前の、科学的検証の出発点となる「考え」ということですね。
>自然選択で進化するには、野生生活の中で繁殖に有利な条件が必要という制約があります。一方、品種改良にその制約はありませんから、野生生活に適さない進化でも起こりえます。
野生生活に適さない進化を起こす品種改良がどのように行われたのか。それを科学的探究のテーマとして措くことは可能でしょうが、
>ゆえに、自然選択で起こる進化はすべて品種改良でも起こりうるが、その逆は非常に起こりにくいことになります。進化を起こす効力は、IDの方が大きいのです。
科学的探究、つまり具体的な検証なしに、そうした結論を導いても、誰も納得できませんよ。
自分の「考え」を「論理的に」敷衍すること、思想としての評価は可能でしょうが、科学の方法に基づいた理論ではありえません。
>ID(品種改良)には飼育者が必要です。ゆえに、過去の地球の飼育者の存在を確認できないなら、進化を自然選択で説明できるかぎりにおいて、ことさらIDを持ち出す必要がないというのが、あなたの主張ですよね。
でも、それで、ID論は18世紀の光波動説よりも、根拠が弱い理論になりますか?
光波動説は具体的な根拠をもとにした「考え」ですが、飼育者が必要なID(品種改良)はなんの根拠も示せない「考え」です。
この違いが、同じ「人間の考え」でありながら、科学と疑似科学を線引きする理由になるでしょう。
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