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神と科学は共存できるか

1地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:22:48 ID:yb0RBWTc
管理人のブログ記事
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20071105/
のコメント欄におけるやりとりの続編スレですにゃ

2地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:32:58 ID:yb0RBWTc
以下はコメント欄における「懺悔と後悔」と「地下に眠るM」のやりとりの再掲
もとのコメント欄がいまいち読みにくいし、アンカーをつけやすくもなるので、こちらにもおかせてもらいますにゃ。
問題があるのなら言ってくださいにゃ>懺悔と後悔

*****************************
後悔と懺悔 『話の流れをぶった切って、申し訳ないのですけど……。

ドーキンスの著書は『神は妄想である』と『利己的遺伝子』しか読んでいないので、ドーキンスの真意は分かりませんが、『神は妄想である』でのドーキンスの主張は、「科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)は確かにあるが、その問いの回答を(既存の)宗教に求めたり委ねることは、有害である」「科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)の答えを提示するのは、もちろん科学ではないが、(既存の)宗教であるべきでもない」ということだと、私は理解しました。つまり、NOMAは尊重するけど、科学とは別の側面を担うモノとして宗教と呼ばれるモノは著しく有害である──ということだと理解しました。
そして、私はその意見に全面的に賛成です──私がずっと以前からそういう考えを持っていたので、ドーキンスの主張を(彼の意図とは別に)そう受け取ったのかも知れませんが。

NATROM さんは、「これらの問題点を解決することと、NOMAを尊重することは両立しうると思う」と思う理由として、「私が無神論や曖昧な宗教的立場に寛容な文化を持つ日本で育ったからかもしれないが」とおっしゃっていますが、「曖昧な宗教的立場に寛容な文化」ということは、日本人は、科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)の答えを、様々な宗教的立場からその都度自分で考え選び取ってきたということでもあると言えると思います。
しかし、通常私たちが「宗教」と呼ぶモノは、そういった態度を許すことはなく、科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)への答えは、その「宗教」の不可侵で排他的な体系内で完結されるべきとされます(ぶっちゃけて言えば、硬直した思考停止状態を促す)。そこから、ドーキンスが指摘するような負の側面ばかりが目に付くわけです。一方で、(ドーキンスも指摘しているように)私たちが普通「宗教」と呼ぶモノの「良い点」とされていることのすべては、「宗教」などなくても、理性的で合理的な人間ならば同じように振る舞えるはずのことばかりに、私には思えます。』 (2007/11/06 23:39)


地下に眠るM 『本論のほうだけど、ドーキンスは確かに宗教の野蛮についてよくわかっているんだろうけれど、啓蒙の野蛮さ、啓蒙の暴力性についての理解が不足しているのではにゃーだろうか?現在のメリケンにおいて、馬鹿宗教が幅をきかせていることに対して危機感を持つのはよく理解できるんだけどにゃ。
世界各地の宗教と固有文化は分離できるものではにゃー。また、宗教の役割として大国におけるマイノリティ集団のアイデンティティになっているということもあるにゃ。になりかねにゃー。
ことによると、ドーキンスの言い分って固有文化否定のローラー作戦、あるいは貨幣を唯一神とあがめる「グローバリズム」とかいう名の拝金教のイデオローグにもなりかねにゃーんだ。』 (2007/11/07 16:36)

3地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:34:33 ID:yb0RBWTc
後悔と懺悔 『私も、世界各地の宗教と固有文化は分離できるものではないと思います。でも、世界各地の固有文化と「科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)への答えとしての宗教」は分離可能だと私は考えますし、ドーキンスの主張はそういうことです(と私は理解しています)。
つまり、クリスマスを祝ったり、ハロウィンを楽しんだり、教会で結婚式を挙げたりするけど、「中絶・同性愛は是か非か」とか「私たちの子供にどんな教育を与えるか」とか「私たちは何故、何のために生きているのか」とかいった問いの答えを得るのに、キリスト教(の絶対的な教義)に頼ることはしない──ということは、そんなに不可能なことなのか? ということです。
これらは『神は妄想である』第1章の根幹をなすテーマであると、私は理解したのですけど。

「では、科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)に、我々はどのように答えれば・向き合えば良いのか」という点について、ドーキンスは多くの紙幅を費やしてさまざまな観点から徹底的に論じていますが、確かに、それらが一種の理想論であり実現可能性の点で大いに疑問があるのは、私も認めます。地下に眠るMさんが指摘するような誤解・曲解にも晒されるでしょうし、それを乗り越えるのは簡単ではないでしょう。
個人的なことを言わせてもらえば、根拠もなく現実とも反する非常識な被害妄想に取り憑かれ自殺した母と、借金して飲み遊んでは突然「オレなんて死んだ方がいいんだ」などと愚痴るだす父の子として育った身としては、そういうことに悩まされなくてすむんなら、どんな宗教でも(江原ナントカでも)いいから……と、正直思います。宗教は、(その教義に疑いをもつことの決してない)信者だけのコミュニティー内だけですべてが完結している限り、生きるのを非常にラクにしてくれる、何の問題もないシステムであるのは間違いないでしょう。

──でも、これまで人類全体の学んできたことの蓄積と、それらの敷衍状況を鑑みれば、十分な理性と知性・教養を持った健全な人間ならば、もう、そんなモノに頼る必要もないだろう……というのが、私の(そしてたぶんドーキンスの)考えなわけです。つまり、「科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)の答えを得るのに、宗教に頼ることはしない──ということは、そんなに不可能なことなのか?」と思うのです。だって、このブログだって、誰も「聖書によると……」なんて論拠で、医療訴訟や医療報道の問題を論じてる人なんていないじゃないですか。

私が望むような世界を「戦闘的な無神論者」らしく書かせていただければ、どのようなレベルであれ「宗教家」などというものは(皆無にはならないにせよ)、生活保護を受けざるをえない人々や、学校教育を受けられない子供たちに対して、今の私たちがもつ感情と同じような感情をもって受け止められるような存在になって欲しいと思っています(思っているだけなのが恥ずかしい限りなのですけど)。』 (2007/11/07 20:49)



地下に眠るM『>後悔と懺悔
ドーキンスの理屈でもうひとつ問題点を指摘するとすれば、それは
「馬鹿禁止」
ということではにゃーだろうか?
「十分な理性と知性・教養を持った健全な人間」であることを万人に要求した20世紀の政治家の名前を知ってるかい? ポル・ポトっていうんだぜ。毛沢東の文化大革命も同じ理屈なんだにゃ。他にもフランス革命のロベスピエール、清教徒革命のクロムウェル、ナチス、スターリン、こいつらの恐怖政治と虐殺の基本モチーフは、実は啓蒙なんだにゃ。(ついでにいえば、僕の議論スタイルも啓蒙の暴力を地で行っているにゃんな、げらげら)
もちろん、宗教(特にキリスト教)が歴史的に死体の山を築いてきたことも事実だし、今のメリケンの馬鹿クリには頭痛がするけど、少なくとも20世紀は啓蒙の暴力と野蛮が突出しとるだろうにゃ。

暴力的啓蒙とヤクザ宗教の共通点っていうのが、非寛容にゃんな。言い換えると(自分の立場から見た)馬鹿を禁止する、ということにゃんよ。
おみゃーさんのいうことにはうなずけるところも多いんだけど、「十分な理性と知性・教養を持った健全な人間」であることを要求し、馬鹿であったり弱っちいことを否定しちゃうのは、最終的に血の雨を呼ぶことにしかならにゃーと思う。

ただ、馬鹿宗教の馬鹿たるゆえんは、他者への非寛容にあるからにゃー。
馬鹿はお互い様だから仕方にゃーとしても、馬鹿が公的領域に口を出すことはなんとか阻止するシステムを作らにゃーとね。これもムツカシイ問題だけど。』 (2007/11/08 00:06)

4地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:37:16 ID:yb0RBWTc
後悔と懺悔 『「馬鹿禁止」──そう、それが「地下に眠るMさんが指摘するような誤解・曲解」のなかで、ドーキンスが『神は妄想である』において一番説明不足な点だと思うんですよ。だからこそ、私の両親の話や、最後の段落のようなことをわざわざ書いておいたわけなんですけど、どうしたって、「ITが発達すると情報格差で取り残される人たちが否定されることになるから、IT化は避けるべきだ」みたいな論法を持ち出す人はなくならないのでしょうね。
こういう人たちは、きっと、私が(そしてたぶんドーキンスも)思い描いているような世界では、ITを使いこなすようになった人(強者)は皆、情報弱者に配慮したり庇護したり、情報格差が固定・継承されないようなシステムづくりを模索したりなんてことをするとは微塵も想像できず、強者は弱者を愚か者として罵倒し搾取し尽くすことしか、そして弱者が強者の地位を脅かすことになるかもしれないあらゆる可能性を徹底的に潰すことしか考えないだろう──と思うのでしょう。
まぁ、現実問題として、実際なんであれ弱者は強者に罵倒され搾取し尽くされるのは間違いない、歴史が証明している……という反論は(もしされても)否定しませんが、それは「宗教」の有無には関係ないと思うのですけど、どうなんでしょうか。「宗教」がなくなれば、少なくとも「宗教的弱者(マイノリティ)」という弱者は存在しなくなるわけですし。

ちなみに、なんでこの文脈で啓蒙主義(暴力的啓蒙)の話になるのかさっぱり分からないのですけど、私が(そしてたぶんドーキンスも)もっとも強く非難しているのが「宗教」のどんな点なのかということは(納得や同意はされないにしても)理解はされているのですよね。そのもっとも強く非難されている点を変えずに、「宗教」という看板を「啓蒙主義」に変えただけなら、私は(そしてたぶんドーキンスも)まったく同じ観点からまったく同じ非難を、その「啓蒙主義」に対してするだけだと思います。
まぁ、多くの日本人は、ドーキンスの言うニュアンスでの「宗教」は60年ちょっと前にとっくに捨てているので、そういう意味では、多くの日本人にとって『神は妄想である』は「何を今さら」な書なので、かえって(別の意味で)誤解されやすいのかもしれません(っていうか、誤解しているのは私のほうなのか?)。

余談ですけど、私自身は「「十分な理性と知性・教養を持った健全な人間」ならば、宗教から決別すべきだ」ということを主張しているのであって、「「十分な理性と知性・教養を持った健全な人間」であることを要求し」ているのではない──というニュアンスで伝わるように、注意深く文章を選んで書いていたつもりだったんだけどなぁ…… 力不足にがっくり。
もっとどうでもいいけど、「これまで人類全体の学んできたことの蓄積」と書いたなかに、私がポル・ポトや(以下略)の教訓を含めていないと思われていたことも、ちょっとがっくり……。』 (2007/11/08 20:08)



地下に眠るM 『うーんと、ちょっとリンク先の文章を読んでみてもらえにゃーだろうか?
ttp://saiki.cocolog-nifty.com/shoka/2007/03/post_e7e3.html』 (2007/11/08 22:02)



後悔と懺悔 『よく分からないのですけど、地下に眠るMさんは、「宗教」がなければ、人間は道徳的な(現在一般的に道徳的と考えられているような)振る舞いをすることはまったく不可能である。つまり、「科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)」に向き合うときに、「宗教」に頼らなければ、人間は(現在の一般的な感性に照らして)非常に悲惨でむごたらしい答えしか導けない──ということを主張したいのでしょうか。実際、それが真実なのかも知れませんけど、ちょっと悲し過ぎる結論ですね。

この件に対しての私の反論は、『神は妄想である』第6章「道徳の根源──なぜ私たちは善良なのか?」(この章のなかの、とくに「神がいなかったら、どうして善人でいられるのか?」の項)を読んでみていただけないでしょうか──というお願いで代えさせていただきます。
ただそれが、上のような地下に眠るMさんの決定的核心的な指摘に対して説得力を持ちうるのかどうかは、正直言って自信がありません。(私にとっては)非常に悩ましいです。』 (2007/11/09 00:32)

5地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:39:01 ID:yb0RBWTc
後悔と懺悔 『ところで、地下に眠るMさんが紹介された(この議論とはまったく何の関連性も見出せない見当外れの)文章に対して、わざわざここで私が、今の議論の文脈でのこの文章の馬鹿馬鹿しさ・ナンセンスさ・レベルの低さを説明する必要があるのでしょうか。この人たちは、まさに「神」という看板を「啓蒙」や「強者の法則」や「自然の法則」などに付け変えただけという好例ですね。

余談ですけど、せっかく話のついでですので、この機会に『kikulog』(地下に眠るMさんはご存知ですよね)の『道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない』エントリでの議論に少しでも興味をもってもらえる人があらわれれば幸いです。
ttp://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987
コメント欄がとてつもなく長いので、差し当たって、以下のコメントから数コメント(少なくとも125くらいまで)だけでも読んでいただければと思います。
ttp://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987#CID1169988833
もし、興味ももってくれたなら、次のコメントとそれに対するきくちさんの返信もできれば。
ttp://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987#CID1170079605
ttp://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987#CID1170513000
結局は、NOMA原理の議論に話がループすることになるのかな?』 (2007/11/09 01:13)



地下に眠るM 『直接的なレスは後で気が向いたらね>後悔と懺悔
ちょっと思いついたジョークのアレンジだにゃ。まだいまいち面白くにゃーのだが。
1)原理的宗教家 平行線は交わると信じている。なぜなら教典にそう書いてあるから。
2)穏健な信仰者 日常生活においては平行線は交わらないということは受容しているが、平行線が交わる場合もあると信じている。
3)穏健な無神論者 平行線が交わるはずはないが、交わると信じている人が感情を害するかもしれないので、大きく主張することは無礼だと考えている。
4)おい、ここでの距離は2センチだよな。ほら、ここでも距離は2センチだ。どこまでいってもこれは縮まらないから平行っていうんだ。十分な理性と知性・教養を持った健全な人間ならわからないはずはないんだが』 (2007/11/10 03:26)

6地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:40:11 ID:yb0RBWTc
後悔と懺悔 『「中絶・同性愛は是か非か」とか「私たちの子供にどんな教育を与えるべきか」とか「私たちは何故、何のために生きているのか」とかいった「科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)=以下「問い」と略記」というのは、もしも人間が一人しかいない世界、またはすべての人がまったく同じ思考・感性をもった世界ならば、その人の答えはどんなものであれ必ず「正しい」のは明らかなわけで。でも、現実の世界はそうなっていないわけで。どんなに全体主義(宗教も含む)を徹底させようとしてもダメらしいということも歴史が証明しているわけで。だからこそ、この「問い」が悩ましい問いであるわけで。なんでこの「問い」が“問い”たりえているのか──ということを忘れている・目を背けている人が多すぎるような気がするのは、気のせいでしょうか。
「問い」の答えは、あくまで人間対人間(人間社会)の関係のなかで見出していくしかないのに、人間(人間社会──未来の人間社会も含む)に向き合うことから逃げ出して、「神」とか「自然の法則」とか見当違いのモノに飛びついて閉じ籠もる人たちを非難しようとは思いませんけど(自分も弱い人間だから)、閉じ籠もることを積極的に奨励・強制したり、ちゃんと人間(人間社会)に向き合おうという人たちを罵倒・迫害しようとする人たちには、とても悲しい感情を覚えます。
──ドーキンスも指摘していますが、現在のもっとも非道徳的な人でさえキリスト時代のもっとも道徳的に優れた人よりも全体的にははるかに道徳的であるように、あの時代の人たちが現代の感覚で無知で幼稚なのは当然だと思いますけど、現代の人たちが地下に眠るMさんのいう「啓蒙主義」に正当性や説得力を感じるのだとしたら、これまで人類全体の学んできたこと・成し遂げてきたことの蓄積は、いったい何だったのかなぁ……とか。』 (2007/11/11 01:13)



後悔と懺悔 『まず、本当にごめんなさい。「十分な理性と知性・教養を持った健全な人間」といった表現は非常に不適切でした。撤回します。
私の立場としては、今は平行線が実際に交わるかどうかを問題にしているのではなく(まぁ、宗教家側のNOMA原理の侵犯はどうかと思いますけど)、どう信じることが人間社会全体(および人類全体の将来)にとってどう影響するかを問題にしているわけです。繰り返しますけど、ドーキンスもNOMA原理自体は認めているわけです。その上で、科学とは別の側面を担うモノとして「宗教」は著しく有害ではないかと訴えているだけです。そういう意味で、3)の立場をとることも人間社会全体にとって有害ではないかというのが、私の(そしてたぶんドーキンスも)言いたいことなわけです。

私の長年の切実な疑問は、人間は「宗教」か「啓蒙主義」のどちらかの立場に立つことでしか、(上のコメントの)「問い」に向き合うことができないような弱く悲しい存在なのか──ということなんです。
ドーキンスは「そうではない。人類は別のもっと望ましい第3の立場で「問い」に向き合うこともできるはずだ」と説得力をもって主張してくれました。だから、私は(なかば盲目的に)飛びついてしまったわけです。でも、地下に眠るMさんがおっしゃるように、それは幻想なのかも知れません。少し冷静になれたと思うので、地下に眠るMさんのご意見をお聞かせいただければ幸いです。今なら落ち着いて両者の主張に耳を傾けることができると思います。』 (2007/11/11 01:37)

7地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:41:47 ID:yb0RBWTc
地下に眠るM 『>ドーキンスも指摘していますが、現在のもっとも非道徳的な人でさえキリスト時代のもっとも道徳的に優れた人よりも全体的にははるかに道徳的であるように

え? 本当にそんなことをドーキンスがいってるの? 問題にゃんなあ。
まず、おみゃーさんも意識しているように、現代における道徳的感性を過去のニンゲンにあてはめて判断するのは意味がにゃー。
次に、現代の基準を過去に当てはめたとしても、その主張はおかしいにゃ。ソクラテスや孔子がヒトラーやブッシュよりも道徳的に劣るなんてことありえるの?
古代世界よりもたくさんのニンゲンが20世紀において虐殺されているのはなぜ?

そして、本当にドーキンスがそんなことをいっているのであれば、彼は人文科学や哲学について根本的にわかってにゃーことになる
ヤスパースの哲学入門には以下の1節があるにゃ
>また哲学的思惟には、科学のように、進歩発達の過程というものがないのであります。確かに、私たちはギリシア時代の医者であったヒッポクラテースよりもはるかに進歩しています。しかし私たちはプラトーンよりも進歩しているとはいえないのです。私たちは、プラトーンに利用できた科学的認識の材料に関してだけなら、彼よりも進歩しているといえる。しかし「哲学すること」それ自身に関していえば、おそらく私たちはもう一度彼の水準に到達することはほとんどできないのではないでしょうか。

それと、「啓蒙」についてなんだけどにゃ
啓蒙ってのは「正しくて知的な者が、まちがった愚者を教え諭す」ことだろ? 正しさというものが一つの何かに集約されることともいえますにゃ。
で、集約された「ひとつの正しさ」というのは、それが「神」と呼ばれようが、「科学」と呼ばれようが、「理性」と呼ばれようがニンゲン社会において同じような結果を生み出すにゃんな。すなわち、
「俺が正しくお前がまちがい。愚かなお前は正しい俺のいうことを聞かなければならない。嫌なら死ね」

正しさなんてものは、いくらでもあるんだにゃ。石を投げれば正しさにあたるって。正しさがいくらでもあるから、政治は意見を調整しなければならにゃーわけだ。
問題は「正しさ」を独占しようとすることにあるのですにゃ。現代のメリケンにおいて、馬鹿宗教が正しさを独占しようとしているのは明白なように思えますにゃ。だからそれに抗するのは正しいとして、だからといって科学が「正しさ」を独占したらやっぱり血の雨が降るよ、というだけのことですにゃ。』 (2007/11/11 11:36)



後悔と懺悔 『う〜ん、激しく議論が噛み合ってない気がしますね(苦笑)。ちょっと私なりに整理してみます。

【問題提起】人類は「(上のコメントで私が定義した意味での)問い」に対して「宗教」よりもマシな向き合い方はできないのか。

【前提1】なぜ、ドーキンスや私が「宗教」を非難しているかと言うと、何度も書いてますけど「問題は「正しさ」を独占しようとすることにあるのですにゃ」からです。それは『神は妄想である』全体を通じて主張され続けていることです(特に第8章)。
(帰結1a) ここで「“正しさ”を独占しようとするモノ」がいかに危険であるかを力説される必要はまったくありません。論者は皆その点を十分理解しているということが、この議論の前提なので。
(帰結1b) もし人類が「問い」と向き合うのに、(「宗教」という名で呼ばれているかどうかは別にして)いずれにせよ「“正しさ”を独占しようとするモノ」にしか頼ることができない存在なのだとしたら、ドーキンスや私の主張(理想論)はその時点で無意味なものになります。地下に眠るMさんは、この観点から私に反論されているのですよね(一応念の為に確認しておきます)。

【前提2】「問い」の答えとしての「科学」も「(地下に眠るMさんのおっしゃる)啓蒙主義」も、「“正しさ”を独占しようとするモノ」であることは、誰もがとっくに知っています。
(帰結2) 「問い」の答えとしての「科学」や「(地下に眠るMさんのおっしゃる)啓蒙主義」がいかに「“正しさ”を独占しようとするモノ」であるかを力説される必要は(ここではもう)まったくありません。
(余談2) 「え?“誰もがとっくに知ってるだって? オレは知らないよ」という方は、ぜひ、上に挙げた『kikulog』のエントリを参照していただければと願います。

以上は私が勝手に今まで共有されていると思い込んでいた前提なのですけど、どうもそうではなかったようで……。まずこれらの前提について、ご意見をお願いします。』 (2007/11/12 00:31)

8地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:42:57 ID:yb0RBWTc
後悔と懺悔 『>chochonmageさんへ。いい議論かどうかは別にして、「馬鹿禁止」については、ぜひ、上の私のコメント(下記URLのコメント)に対するご意見をうかがいたいです。いい議論だったのは「ここまで」にならないように(苦笑)。
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20071105#c1194520113
>地下に眠るMさんへ。まず、私の「ドーキンスも指摘していますが、現在のもっとも非道徳的な人でさえ(以下略)」という発言は、誇張が過ぎたことを認めます。より穏当で妥当な(と私には思われる)形で『神は妄想である』第7章(特に「道徳に関する時代精神」の項、395頁)に述べられていることを不適切に曲解し誇張してしまいました。その部分を全面的に削除した上で、当該の文章の私の主張を検討していただければと願います。ちなみに余談ですけど、古代世界よりも多くの人間が現代において虐殺されているのは、単に能力の問題かと考えますがいかがでしょうか。私の知る限りにおいて、古代世界の人々が現代の装備を持っていたらと想像すると、空恐ろしいものがあります。
次にヤスパースの引用は勉強になりました。ありがとうございます。ただ、プラトーンに並ぶ人間がプラトーンの時代から増えていないという主張には同意するとしても、プラトーンの100分の1くらいなら思想できるかもしれない人間は、プラトーンの時代からは確実に増えているのではないでしょうか。また、そこまで高いレベルでなくても、少なくとも、たとえば、女性が参政権を持たないことにそもそも何の疑問も感じない人と、「もしかしたら女性も参政権を持ったほうが全体として良い社会になるのではないだろうか?」ということを考えることのできる人の割合は、確実に時代とともに(良い方向に)変わっていってると主張するのは、楽観的で我田引水にすぎるでしょうか。』 (2007/11/12 01:17)

9地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:49:45 ID:yb0RBWTc
さて、コピペここまでですにゃ。

それはそうと
「懺悔と後悔」ではなく「後悔と懺悔」が正しいハンドルでしたにゃ。まちがえててごめんなさい(ぺこり

こちらにスレ建てしたのでじっくりやらせてもらうつもりなんで、とりあえず茶々でも入れておいてくださいにゃ>おおる

10chochonmage:2007/11/12(月) 22:33:17 ID:Qhwn4442
地下に眠るMさま、新スレッドありがとうございます。
結構な作業だったようで、お疲れさまでした。
今はちょっと時間が無いので、本論についてはまた後ほど書き込ませて
いただきます。

11chochonmage:2007/11/12(月) 22:48:25 ID:Qhwn4442
地下に眠るMさま、新スレッドありがとうございます。
結構な作業だったようで、お疲れさまでした。
今はちょっと時間が無いので、本論についてはまた後ほど書き込ませて
いただきます。

12chochonmage:2007/11/12(月) 22:52:24 ID:Qhwn4442
うわっ、2重カキコごめんなさ〜い!

13地下に眠るM:2007/11/13(火) 05:59:22 ID:yb0RBWTc
うーん、変な時間に起きちゃったにゃー

実のところ、僕も「神は妄想である」と思っていますにゃ。
ただ、「文化」も「理性」も「愛」も妄想だとも思ってるけどにゃ。

ドーキンスの著作は、「利己的遺伝子」と「ブラインドウォッチメイカー」しか読んでにゃーんでなんともいえにゃーんだけど
彼は「神は妄想である」とは知っていても、「理性は妄想である」とは思ってにゃーだろうね。
仮想敵を「妄想」と断じ、自らの立場を妄想だとは思ってにゃーとしたら、それはすなわち「啓蒙」にほかならにゃーんだな。

14chochonmage:2007/11/13(火) 07:29:38 ID:Qhwn4442
さて、化け猫さん(すんません。私の中の心象風景です。尊敬がこもってます。いや、ほんま。)
に対してレスするとなると緊張するにゃぁ。過去ログさんざん読んでますから。(笑)
罵倒されないようにぐぁんばりますぅ。

えーっと、私がお二人の議論の趣旨をちゃんと理解できてるかどうか
確認させていただきたく思います。誤解してるところがあったらご指摘いただければ
幸いです。

お二人とも「おバカなことや、おバカを信じちゃう人々」がいなかったり、少なかったり
する世界のほうが好ましいとは思ってらっしゃるのですよね?(何がおバカか、という
議論はちょっと置いておいてください。それから、ちょっとぐらいのおバカはあった方が
面白いとか、潤いがあるとかってのもちょっとパスで。)

そんで、ドーキンスや後悔と懺悔 さんの(そして私も基本的には)「本音」は
「おバカ撲滅論」かと思います。
もちろん、ドーキンスも後悔と懺悔さんも、そして私も、いきなり「撲滅」がならないのは
よく理解しているので、NOMAにおける科学の反対側の代表が宗教であるというのは
納得がいかない、というような言い方をしているのでしょう。(少なくとも私はそのようです。)

化け猫さんは、その「本音」部分を見抜き、それが「啓蒙主義」であると看破し、
その危険性につき警鐘をならしている。

と、この辺で正しいでしょうか。

15GB:2007/11/13(火) 19:27:33 ID:UK61EP2o
横からすみません。私なりの理解からすれば、
「おバカなことや、おバカを信じちゃう」のが当たり前なのだと考える方がいいと思うんです。
違う時代の人たちが言ってることはみんなおバカに見えたりするけど、われわれだって
きっとおバカに違いない。

科学という方法が発明されてから、世界の一部はかなりすっきりしてはきたけれども、
あいかわらず人はおバカ、でいいのではないでしょうか。

16後悔と懺悔:2007/11/14(水) 01:13:19 ID:TLGZVI4U
恥ずかしながら、ここでのこれまでの議論を知りませんでした。掲示板の存在自体は知っていましたが、あらためてほんの少しだけ目を通してみました。ここにいらっしゃる皆さんは、すでに広く深い見識と検討に磨かれた方々のようですから、私などが私見を述べるのもおこがましくて恐縮ですけど、まずは、私の立場を明確にしておきたいと思います。

──────────
【立場1a】NOMA原理は認める。「科学」の側のNOMA違反も、「宗教」の側のNOMA違反も、どちらも重大な問題である。
(補記)ただし、『神は妄想である』が議論の出発点であるので、私はここでは「宗教」の側のNOMA違反についてのみ主に取り上げている。「科学」の側のNOMA違反についての私の見解は、上のコメント>>5で紹介した『kikulog』のエントリおよびコメントを参照。

【立場1b】そもそもNOMA違反を犯さない「宗教」を考えること自体が困難である。NOMA違反を犯さない「宗教」とはどんなモノなのか。それはどんな教義を持つのか。その教義の「正しさ」の根拠は何か──想像できるだろうか(NOMA原則を遵守する「宗教」がもしあったとしても、おそらく我々はそれを「宗教」と呼ぶにふさわしいモノと思わないのではないか──と、私は思う)。
(補記)私の理解が正しければ、『神は妄想である』第2〜5章はこの観点からの徹底的な批判的検討である。「穏健な宗教家」が極めて謙虚に慎ましく述べる宗教的見解の多くでさえ、(注意深く見れば)どれほどNOMA原理の「科学」領域の成果に対する挑戦になっているか気づくだろう。たとえば、ドーキンスも引用しているビアスの『悪魔の辞典』にはこう書かれている。「【祈る】取るに足らないことが明々白々なたった一人の嘆願者のために、宇宙の全法則を廃棄してくれるように頼む(角川文庫、p.291)」──それが悪いこととは思わないが、NOMA違反ではある。

──────────
【立場2a】そもそもNOMA原理の「科学」とは別の側面を担うモノに求められているのは何か。それは、「中絶・同性愛は是か非か」とか「私たちの子供にどんな教育を与えるべきか」とか「私たちは何故、何のために生きているのか」とかいった「科学に答えられない問い(それも人間にとってとても大切な問い)」(以下括弧付きの「問い」と略記)にどのように向き合っていくのか、その態度の指針・方針ではないのか。
(補記)求められているのが、“「問い」の答え”ではなく、“「問い」への向き合い方の指針・方針”としている点に特に留意して欲しい。

【立場2b】「問い」の答えそのものに対して、絶対的な「正しい」答えなどない──ということは歴史が証明しているように、私には思える。NOMA原理の「科学」とは別の側面を担うモノが、「問い」の答えそのものを提示し、その答えの「正しさ」を独占しようとすることは(それが何であれ)絶対にあってはならない。

【立場2c】この観点から、NOMA原理の「科学」とは別の側面を担うモノとして、「科学」も「(地下に眠るMさんのおっしゃる)啓蒙主義」も、そしてもちろん「宗教」も、絶対に相応しくない──このことが、私がここで主張したいことのほとんどすべてである。

【立場2d】「問い」に絶対的な「正しい」答えなどない──と主張する「宗教」があったとしよう。では、その「宗教」はどうして成立していられるのか。人が「宗教」に望むほとんど唯一のことは、「問い」の「正しい」答えを与えてくれることではないのか。「問い」の「正しい」答えを与えない「宗教」など有り得るのか。
(補記)「宗教」が与えてくれる「問い」の「正しい」答えを信じつつ、しかし注意深く「“正しさ”を独占しようとする」態度を回避するよう振る舞うことは可能であるし、実際多くの「穏健な宗教家」がそのように振る舞っているのは、私も知っている。そういう態度を非難するつもりはない。しかし、いとも容易に「“正しさ”を独占しようとする」態度に陥りうるという「宗教」のとてつもなく大きな負の側面を伏せて、「宗教」を擁護したり敷衍したりすることには疑問を呈したいとは思う。

──────────
お気づきいただけると思うのですけど、「宗教」に対する批判として、【立場1】の観点からの批判は、私自身はあまり重視していません。【立場2】(とくに【立場2c】)の観点が、もっとも問題視したいこと──「宗教」の最大の問題点であると私が考える点です。
だから、このスレッドのタイトルは「神と科学は共存できるか」ですけど、私の(そしてたぶんドーキンスも)問題意識は「神に存在価値はあるのか」なのです。「ある」となってはじめてようやく「それは科学と共存できるか」という問題に移れるわけです。

17後悔と懺悔:2007/11/14(水) 01:26:10 ID:TLGZVI4U
>>14
>そんで、ドーキンスや後悔と懺悔 さんの(そして私も基本的には)「本音」は
>「おバカ撲滅論」かと思います。

ドーキンスの本音は分かりませんけど、私は違います(違うと思ってます)。うまく説明できそうにないんで、こんなたとえ話で何かしら伝わるでしょうか。

3人のサラリーマンが昼食に出掛けます。和食・洋食・中華の店があります。

(1) いつどんなときに行っても、必ず3人の意見は一致します。
→「昼食は何を選ぶべきか」という「問い」が存在すること自体、気づかれることはないでしょう。

(2)「神の御心は和食である。聖書の記述はそうとしか解釈できない。洋食や中華を選びたいなどというのは悪魔の誘惑だ。地獄に堕ちたくなければ和食にしろ。どうしても洋食や中華がいいと俺を誘惑するなら、神に代わって俺が悪魔(つまりお前)を滅ぼすだけだ」
→まぁ、典型的な宗教批判ってことで、まずは分かりやすいのを一つ……。

(3)「和食がもっとも健康に良いということは科学的に証明されている。和食を選ぶのが正しい。愚かなお前は正しい俺のいうことを聞かなければならない。嫌なら死ね」
→っていうか、そもそも「健康への影響」を基準に決めようなんて、まだ誰も合意してないんですけど(苦笑)。健康よりも「味」とか「店の雰囲気」とか「ボリューム」とか他の基準で選びたいと考えてる人もいるかも知れないのに……。

(4)「俺、最近太り気味だから和食がいいなぁ」「俺は中華がいい」「俺は和食以外なら何でもいいけど。あの店、マズイんだもん」「俺も中華がダメなら洋食かなぁ」「洋食は昨日も食べたじゃん、ヤダよ」「健康にいいんだから和食にしようよ」「どうしても意見が一致しないんなら別々に食べる?」「それはつまんないなぁ。そこまでして和食にしようとは思わない」「ジャンケンで決める?」「でも、ジャンケンで油っぽい中華になったら嫌だなぁ」「じゃあ洋食にしよっか」「いいよ、もうジャンケンで」
→結論が「正しい」か「愚か」かかはともかく、「問い」に向き合う態度としては、(2)(3)よりはいくらかマシなんじゃないのかなぁ……と、思うのですけどいかがでしょう?

これを読んでもらった後に、>>6の最初(2007/11/11 01:13)のコメントを読んでくれると、私の本音が単純な「おバカ撲滅論」ではないことが伝わるかなぁ……。
「自分と異なる価値観・思考・感性を認めない、理解しようとしない」人や、「自分と異なる価値観・思考・感性から学ぼうとしたり、そこから自分の価値観・思考・感性をより望ましいものにしようと考えない」人を、「おバカ」と呼ぶのだとしたら、「おバカ撲滅論」と呼ばれるのも仕方ないのかな……とも思うけど(そういう態度こそ「“正しさ”を独占しようとする」態度だから)。
もう一度、>>16の【立場2a】を読んで欲しいのですけど、皆さんは、その人の出す“「問い」の答え”が「おバカ」な人を撲滅するとかしないとか言っているのでしょうか? その人の“「問い」に向き合う態度”が「おバカ」な人を撲滅するとかしないとか言っているのでしょうか?

──でも、(4)程度のことなんて、誰でもいつも当たり前にしてることですよね。それができないことや、それをできなくさせるモノを非難するのって、そんなに嫌悪されることなのかなぁ……。人間は容易にそれができなくなることを知ること、それをできなくさせるモノをなくすこと──それだけで良いと思うのですけど、それを主張することが「おバカ撲滅論」?

最後にもう一つだけ弁明させて下さい。
私は、自分自身が“「問い」に向き合う態度”も「おバカ」なのを知っています(特に最近痛切に思い知らされました)。というか、“「問い」に向き合う(私が考えるような)望ましい態度”なんて、誰もが簡単に出来るものじゃない。わがままで理不尽で非合理で自分勝手な人間(人間社会──未来の人間社会も含む)に向き合うことは、悩むこともあるし、傷つくこともあるし、打ちのめされることだってある。いや、そんなことばかりだと言ってもいい。「神」とか「自然の法則」とかにすがったほうが遥かにラクなのは分かってる。
でも、“「問い」に向き合う(私が考えるような)望ましい態度”がうまくできなくても、理解されるし助けてくれるし生きられる──そして少しずつでもそういう態度がうまく出来るように成長していける──そんな土壌が、人類の(血塗られた?)蓄積から今まさにつくられつつあると思うんですよ(引き籠もりとか不登校とかは分かりやすい例かも)。むしろ、そういう(私が望ましいと考えるような)土壌を荒らすだけの存在でしかないのが「“正しさ”を独占しようとする」態度に他ならないと思うわけです。別の言い方で言い直せば、>>4のコメント参照。

18後悔と懺悔:2007/11/14(水) 01:42:22 ID:TLGZVI4U
本当にすみません。私はこの問題になるとどうしても感情的になってしまいます(自分の生い立ちとか両親のこととかあるんで、なかなか冷静になれないんです)。
読み返してみると、今回も感情的に溢れるモノをそのまま吐き出していました。普通の冷静な人なら10分の1の分量で述べなければならない内容でしょう。でも今の私には無理でした。

そんなわけで、まともに冷静に「議論」に参加できるように、自分ルールを作ります。私は返信したくなったコメントが書き込まれてから最低3日間はそのコメントに対して返信しないことにします。だから、しばらく私の返事がなくても、書き逃げしたと思わないで下さると幸いです(苦笑)。

なお当然のことですけど、私以外の皆さまは遠慮せずに御自由にどんどんと有意義なコメントを書き込んでいただけると幸いです。

19chochonmage:2007/11/14(水) 13:29:30 ID:Qhwn4442
>「自分と異なる価値観・思考・感性を認めない、理解しようとしない」人や、
>「自分と異なる価値観・思考・感性から学ぼうとしたり、
>そこから自分の価値観・思考・感性をより望ましいものにしようと考えない」人を、
>「おバカ」と呼ぶのだとしたら、「おバカ撲滅論」と呼ばれるのも仕方ないのかな……
>とも思うけど(そういう態度こそ「“正しさ”を独占しようとする」態度だから)。

後悔と懺悔様

まず、「おバカ撲滅論」と書いてしまったことをお詫びいたします。
正確には「おバカなこと撲滅論」でした。

私は「おバカを信じちゃう人」を後悔と懺悔さんが上記で示されたたような意味で
使ったつもりです。

私が「おバカなこと」と呼んだのは、「人を、後悔と懺悔さんが上記で示されたたような、
盲目状態・思考停止状態にしてしまうかも知れない大きな影響力をもったワケの分からない理屈とか考えとか」
(その中でも最も影響力があるのが宗教かなと思っています。)であり、人のことではありません。
人については、「おバカを信じちゃう人々」と記述しました。

何が「おバカか?」という議論は私が後悔と懺悔さんと猫さんの議論を誤読してないかどうか
はっきり確認してからしたかったのです。

が、GBさんからのコメントもあったし、ここで考えを述べさせていただいたほうが良さそうなので、
そうします。(とか言って、実ははっきり定義できてないんですけど。これってメッチャむつかしい。)

私の思う「おバカなこと」というのは、極力簡単に言えば上記の
「人を盲目状態・思考停止状態にしてしまうかも知れない大きな影響力をもったワケの分からない理屈とか考えとか」で、
例をあげると:

人をして旅客機で高層ビルに突っ込ませたり、突っ込まさせられたり、自発的に突っ込んだり、あるいは
棄教したら死刑みたいな法律作っちゃったり、それを擁護したり、させられたり、あるいは子供たちを、信じなければ
地獄に落ちて永遠に火で焼かれるぞと脅迫したり、信じてないやつは市民とは考えられないとかいうやつを大統領に
してみたり、その大統領に「God Bless自分の国」とか言わせてみたり、
地下鉄内にサリンガスをまかせちゃったり、まかさせられちゃったり、自発的にまいちゃったり、何千年前かの
お告げだかなんだかを根拠に、長〜く続く極めて悲惨な地域紛争をおこさせちゃったり(これには経済的な理由の
方が大きいのかなとも思いますが、状況を一般の人たちに容認あるいは耐え忍ばせる、
また使える兵士を育てるのに「おバカ」を信じ込ませることがひじょ〜に役立つ、ということで)、人間魚雷をこさえて
人間を詰め込んじゃったり、詰め込まれちゃったり、自発的に中に入っちゃたり、神風吹くからダイジョブとかで
耐え忍ばせたり、させられたり、守るべきものは某尊きものなどと信じこませちゃって、集団自決させたり、
させられたり、しちゃったり、肌の色を「罪」のせいにしちゃって人種差別思想を敷衍しちゃったり、それを支持しちゃったり、

とかを人間にさせちゃう大きな動機になり得るのが、私のいう「おバカなこと」です。

で、「人を盲目状態・思考停止状態にしてしまうかも知れない大きな影響力をもったワケの分からない理屈とか
考えとか」を「おバカなこと」と単純化した表現にしたのはドーキンスの「神は妄想である」が議論の出発点で、
論点が「科学と宗教」であり、そこで共通の土台があった(と私が思っていた)ということでご理解いただけると
思ってしまったからです。

ですから、私の記した「おバカ撲滅論」はあくまで「おバカなこと」に対するもので
「人間」に対するものではありません。
かさねがさね明確でなく申し訳ありませんでした。

20chochonmage:2007/11/14(水) 13:36:22 ID:Qhwn4442
そしてこの「おバカなこと」については、やはりできることならば撲滅されたらいいなぁと、私は思っているのですが、
猫さんの「固有文化否定のローラー作戦」、「啓蒙主義の血塗られた歴史」等の
記述を読んで、現在考えが色々と揺れております。
というのは、「おバカなこと」を撲滅することは、即ち「おバカなことを信じちゃう人」を撲滅する
ことに繋がることに気がつかされたからです。それってやはり血塗られた道になりそうです。

が、やはり基本的には「おバカなこと」が無くなって欲しいと思っています。。

それと、後悔と懺悔さんは

>皆さんは、その人の出す“「問い」の答え”が「おバカ」な人を撲滅するとかしないとか言っているのでしょうか? 
>その人の“「問い」に向き合う態度”が「おバカ」な人を撲滅するとかしないとか言っているのでしょうか?

と記述なさっていますが、「皆さん」は言っていません。私だけです。
そして、繰り返しになりますが、私の本意は「おバカな人」撲滅ではありません。


で、やはり後悔と懺悔さんは「おバカなこと撲滅論者」ではありませんか?


ダブルレスで失礼になりますが、
GB様
上記なような「おバカなこと」も信じちゃうのがあたりまえだと考えた方がいいのでしょうか?

21地下に眠るM:2007/11/14(水) 22:41:26 ID:yb0RBWTc
科学という知的体系は、人類史的にみても特殊な地位を獲得した知的体系だということは僕も率直に認めますにゃ。この特殊な地位というのは、科学が《「中絶・同性愛は是か非か」とか「私たちの子供にどんな教育を与えるべきか」とか「私たちは何故、何のために生きているのか」とかいった》問い(以下「重要な問い」とでも書きますかにゃ)にそもそも答えようとしにゃーところから得られたものなのではにゃーでしょうか。

科学は「重要な問い」については直接的にはノータッチ(判断の材料を提供するという意味では無関係とはいえない)であり、自らに判断の資格があるともみなしてにゃーわけだ。
だから
・宗教は「重要な問い」に答えられるか否か
について、科学は判断できないし、してはならにゃーのよ。もしそれを行ったら、それこそNOMA違反だろ?
宗教には「重要な問い」に答えられない、と判断してしまったとしたら、その時点でその判断者は「重要の問い」の「正しい答え」を独占したのと同じことになるにゃんが。

僕は、ドーキンスは「啓蒙」の立場だと思ってるにゃ。
まあ、「神は妄想である」は未読なので断言はしにゃーけどな。

僕は別に、宗教に「重要な問い」の答えを独占させようとしているのではにゃーのだよ。ただ、宗教は「重要な問い」に答えられない、という判断は少なくとも科学がしてよいことではにゃーといっているんだにゃ。
文化相対主義の立場(各文化の間に優劣はなく、現代が古代や中世に優越するわけではないという立場。つまり「啓蒙」からもっとも遠い立場)では、「重要な問い」への答えは「それぞれの文化次第」ということになるわけで、各宗教がそれぞれの立場で「重要な問い」に答えることこそが自由と寛容の精神にのっとることに一応なるわけにゃんな。
(ここでは通文化的な普遍性については触れないでおく)


ちゅうわけで個別に
>chochonmage
>化け猫さんは、その「本音」部分を見抜き、それが「啓蒙主義」であると看破し

本音部分もなにも、形式論理的にドーキンスの立場は「啓蒙」ですにゃ。
宗教に答えられないと判断できるということは、自分が当の答えを知っているのだと主張しているに等しい。


>GB
>違う時代の人たちが言ってることはみんなおバカに見えたりするけど、われわれだって
>きっとおバカに違いない。

「理性は万人の狂気である」(アンドレ・シュアレス)
僕たちは狂っていにゃーことが不可能なんだと思いますにゃ。



>後悔と懺悔
>立場2c】この観点から、NOMA原理の「科学」とは別の側面を担うモノとして、「科学」も「(地下に眠るMさんのおっしゃる)啓蒙主義」も、そしてもちろん「宗教」も、絶対に相応しくない──このことが、私がここで主張したいことのほとんどすべてである。

繰り返すけど、ドーキンスの立場こそ啓蒙主義ではにゃーのかね?
正しさを独占したがる宗教と啓蒙とは双子みたいなものでにゃ。
「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」(ニーチェ)
ドーキンスはミイラになっちゃったんでにゃーのか?

22地下に眠るM:2007/11/14(水) 23:43:25 ID:yb0RBWTc
加藤尚武「現代倫理学入門」講談社学術文庫P167によれば
(この本↑オススメにゃんぜ。事例(10人の命を救うために1人を殺すことは許されるのか、とか、10人のエイズ患者に対して特効薬が1人分しかないとき誰に渡すか、とか)をベースに説き起こす本)

自由主義の原則は、要約すると、「1判断能力のある大人なら、2自分の生命、身体、財産に関して、3他人に危害を及ぼさないかぎり、4たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、5自己決定の権限をもつ」となる。
ここで
3の原則を「他者危害原則」、4の原則を「愚行権」と言うのですにゃ。ここが自由主義のキモなんだにゃー。
他者の愚行(お馬鹿な行為)に対して、説得することはできても禁止することは「自由主義社会」ではできにゃーのさ。いったん「愚行」の禁止を認めてしまったら、公権力やら多数派の気に入らないあらゆる行為が「愚行」の名のもとに禁止されるのは明白なんだにゃー。

「分別がある者は、自分を世界に合わせようとする。 分別がない者は、世界を自分に合わせようと躍起になっている。 ゆえに、分別がない者がいなければ、進歩はありえない。」(バーナード・ショウ)
などという話もあって、愚行を禁止したら確かにニンゲン社会の進歩なんてありえにゃーよな。種痘の予防接種法を発見したジェンナーなんて、愚行の極みを地でいっとるよにゃ。

ドーキンスはミイラをとりにいって、自由主義者を廃業しちゃったんだろか?

23chochonmage:2007/11/15(木) 08:35:58 ID:Qhwn4442
うーむ、さすが猫さん。簡潔にして明瞭、いつもながら感服いたします。
ですが、いくつか疑問点があります。

>各宗教がそれぞれの立場で「重要な問い」に答えることこそが自由と寛容の
>精神にのっとることに一応なるわけにゃんな。

ここは、「各宗教」でなく「各文化」なのではないでしょうか。
それとも現実的に文化=宗教だということですか?

>宗教には「重要な問い」に答えられない、と判断してしまったとしたら、その時点でその判断者は「重要の問い」の
>「正しい答え」を独占したのと同じことになるにゃんが。

>宗教に答えられないと判断できるということは、自分が当の答えを知っているのだと主張しているに等しい。

おっしゃりたいことは何となく分かるのですが、

例えば浅見定雄氏の「にせユダヤ人と日本人」(あまり一般的でなく、かつ異論が出そうな例で
申し訳ない。ですが過去ログのどこかで猫さんがこの本を既読という記述をなさってたような記憶が
あったもので。ウロなんですけど。)や、山本七平氏と佐伯真光氏との間での「Do not swear at all.」の
解釈に関する論争を読んだ後に、山本氏はユダヤ教や英語に対する問いには答えられないと読者が判断する
のはその読者が「正しい答え」を独占したり、自分こそが答えを知っているのだと主張することと同義でしょうか。
些細な間違いを指摘されということでなく、内容がとんでもなく出鱈目でしかも捏造が多くあるような事を知った後に
山本氏の指摘された部分と関係のない記述、発言についてもうさんくさく思ってしまうのは、推論としてそれほど
とんちんかんだとは思えません。
そして、各宗教の聖典なり、教義なりに出鱈目が多いと思った人が、宗教は「重要な問い」に答えられないと
判断したとしても、自分は答えを知っていると主張しているわけではないと思うのですが、いかがでしょう。

24AH1:2007/11/15(木) 12:58:09 ID:8sNrdPpc
たとえば、和食か中華か洋食かを討議している時に、誰かが宗教的理由で中華と言い出したとします。
ここで
「ちょっと待てよ、それって俺らにはどうでもいい事じゃん」
「お前、なんでリクツ抜きなんだよ、頭悪いんじゃねえのか?」
「こういう時は協議するのが当然だろ、馬鹿じゃないならお前の考えを改めろよ」
となると、やはり「理屈と協議を理解できないおバカを撲滅する啓蒙主義」になっちゃうんではないかと。
(こんなに挑発的な言い方はしないかもしれませんが敢えて罵倒モードで)

「なるほど、ではそれに合わせますか?」
「まあ、中華がどうしても嫌な人は他へ行くということで」
くらいに話を合わせておくのが「オトナ」な態度かもしれません。
もちろんオトナな態度が良いのかどうか、これは場合によりけりでしょう。中華にしたからって死にはしないでしょうが、命に関わることだってありますから。
これが地下猫さんの書いておられる「3他人に危害を及ぼさないかぎり、・・5自己決定の権限をもつ」という部分でしょう。

協議しましょうというやり方は、一応「異なる意見の言い分も聞く」形にはなっているので、形式としては異なる意見への侵略性は低いかもしれません(まあ**教に帰依しなければ殺すと言われるよりゃよほどマシでしょう)。
それでもメタレベルで言えば「協議して決めよう」という同じ土俵に上がる事を要求します。
(日本人は黙っているから欧米人から見ると何を考えているかわからない、というような話がありますが、それって「違いにワーワー言い合って意見を調整する文化」を前提にしてるだろ?自己主張自体が不作法とされる文化はどうしてくれるのよ?というような話です。*)
この問題は「同じ世界で生きて行く時に、最低限の『同じ土俵』をどこに定めるか」という問題であるかと思います。ただ・・「オレサマの言うことを聞かない奴は殺す!」と叫ぶ無法者がいれば、そいつと共存するのは難しいでしょうから、地下猫さんの挙げた付帯条件くらいがギリギリの線ではないかと思います。

*いや、日本人が本当に黙っているかどうかは別としてですが。
ただ、ドナルド・キーンが川端康成のことを「欧米のジャーナリストは彼を寡黙な、もしくは気難しい人物と紹介するが、それは違う。彼は喋ることがある時は喋り、そうでない時は黙っているのだ」とわざわざ書いている文章を読んだ記憶はあります。

25カクレクマノミ:2007/11/15(木) 17:22:45 ID:THRtI5kM
ん・・・?何だか変な方向に進んでいるいるような。
ドーキンスは価値に関してはどちらかと言えば文化相対論的だと思いますし、愚行権を否定してもいないと思うんですが。
ドーキンスのどの主張が文化相対論や愚行権を否定しているのか僕にはわからないので、ちょっと議論について行けません。

ところで、「重要な問い」に答えを出す単位は、「各文化」ないし「各宗教」なのでしょうか?答えを出すのは、各個人なのでは?
個人が出した答えよりも、文化ないし宗教が出した答えは優先されるのですか?

26GB:2007/11/15(木) 19:37:17 ID:UK61EP2o
>>20
「おバカなこと撲滅」については、もちろん賛成です。
でも、既存宗教を否定すればいいとも思えない。私なりの問題意識としては…

・科学が答えられない「重要な問い」に関しては、宗教を含む文化が答えるしかないのではないか。
人の「理性」がそれらの問題に答え得るというのは、幻想なのではないか。
・理性が取扱い可能なのは、世界認識の方法としての科学や、政治的な手法としての民主主義などの
(価値を棚上げにする)「手続き」でしかないのではないか。
・しかしその手続きを現代社会の合意事項にしようというのも、実は一定の文化的な背景を持っているので、
たとえばテロに対する米国の「民主主義の戦い」も難航してる。

ど、どうしたらいいんだ!

27Kosuke:2007/11/15(木) 20:02:17 ID:NkrhEzds
チョットだけ口を出させていただくとすれば、「宗教」という用語の定義がまちまちだと議論はかみ合いません。
究極的には、個人の心の中だけの営みとして宗教を定義(限定)してしまえば、かなりのトラブルは防げると思います。

もちろん、既成宗教(団体)の多くはそれ(「宗教」を個人の心の内に限定すること)には賛同しないでしょうが。

28地下に眠るM:2007/11/16(金) 12:20:48 ID:cizMQ0FI
>chochonmage

>ここは、「各宗教」でなく「各文化」なのではないでしょうか。
>それとも現実的に文化=宗教だということですか?

文化∋宗教、なので。

>例えば浅見定雄氏の「にせユダヤ人と日本人」

浅見には聖書学について答えをいう資格があるだろ? 専門家が自らの専門の範囲において無知を無知と断じただけにゃんね。何の問題もにゃーだろ。
科学には「重要な問い」に答える資格がそもそもにゃーのに、宗教には何もわからんと断じるのとは訳が違いますにゃ。
それに
山本ベンダサンという特定個人の無知蒙昧とデタラメぶりを、書籍や議論から判断することは可能であるけれど
ある種の宗教がデタラメだからといって、既存宗教すべてについてデタラメとは判断できるわけにゃーよな。
山本ベンダサンがデタラメだからすべての保守系評論家がデタラメである、という判断をするようなものだにゃ。

既存宗教はダメだとか「重要な問い」に答えられないとかいっているのなら、ドーキンスは「戦闘的」というより「無謀で野蛮で非論理的」無神論者といっていいにゃ。

29地下に眠るM:2007/11/16(金) 12:21:18 ID:cizMQ0FI
>カクレクマノミ

>ドーキンスは価値に関してはどちらかと言えば文化相対論的だと思いますし、愚行権を否定してもいないと思うんですが。
>ドーキンスのどの主張が文化相対論や愚行権を否定しているのか僕にはわからないので、ちょっと議論について行けません。

僕もドーキンスは自由主義者であると思っていたけどさ、どうも相手が宗教になると自由主義を返上しちゃってるのではにゃーかということにゃんね。
で、僕自身は「神は妄想である」は未読なので、ナトロムのブログから孫引きすると

>同じように、私たちはみな、科学に道徳的価値観について助言する役割を務めさせるのは、控え目に言っても問題であるということについては意見が一致するだろう。しかしグールドは本当に、何が良くて何が悪いかという権利を特に宗教に譲り渡したいのだろうか?宗教がそれ以外に人類の英知に貢献すべきものをもたないからといって、私たちに何をなすべきかを教えるフリー・ライセンスを宗教に手渡すべきだ、ということにはならない。そもそも、どの宗教を選べばいい?私たちがたまたま育てられた宗教なのか?あるいは、聖書のどの書のどの章によればいいのか―なぜなら、聖書中の見解は聖書全体を通じて一致しているというにはほど遠く、またあるものは、いかなる理性的な規準に照らしてもおぞましいものだからである。(「神は妄想である」、 P89)

1)宗教は道徳的価値観「以外に人類の英知に貢献すべきものをもたない」などとなぜ生物学者のドーキンスが断言できるのか?

2)「そもそも、どの宗教を選べばいい?」以下の記述は、どうみても「1つの正しさ」を前提にした物言いだにゃ。動物行動学者であるドーキンスは、生物がある行動をとるときに多様な要因が働いていることはよく理解しているはずだにゃ。キリスト教だけをとっても、聖書の相互に矛盾するように見える記述について厖大な解釈がなされているのは僕だってしっているにゃ。相手が宗教となると極めて表面的で単純で逐語的、要するに愚昧な批判をするというのはどういうわけだろにゃ。

つまり、ドーキンスはこと宗教さんが相手だと文化相対論的ではにゃーのよ。文化相対論者は特定の考え方を無益だとか悪だとか撲滅せよとは言わにゃー。また、「1つの正しさ」を前提に議論するものが愚行権を認めているとは言い難いにゃ。
少なくともドーキンスは、信仰者の愚行権を認めているようには見えにゃーよな。

また、(2)でもちょい触れたにゃんが、宗教文献・神話などのテキストを逐語的に読むのは馬鹿の極みだろにゃ。
聖書を逐語的に解釈するという意味では、創造科学とドーキンスは同じ穴の白痴だにゃ。心からの侮蔑に値するにゃんね。

というわけで、ごくごく部分的な引用だけでも問題が山のように見て取れますにゃ<「神は妄想である」
批判しておいて無責任なようだけど、気分が悪くなりそうなので読む気になれにゃー。

30地下に眠るM:2007/11/16(金) 12:40:46 ID:cizMQ0FI
>ところで、「重要な問い」に答えを出す単位は、「各文化」ないし「各宗教」なのでしょうか?答えを出すのは、各個人なのでは?
>個人が出した答えよりも、文化ないし宗教が出した答えは優先されるのですか?

おっとっと、これに答えわすれてたにゃんね。
個人という単位で「重要な問い」に答えられると考えるのは、近代人に特有の思考でしょうにゃ。
ちゅうか、文化的なバックグラウンドなしで「重要な問い」にどう答えるのでしょうにゃ?
極端にいえば、利己的な動機による殺人がなぜダメなのかについて、文化的バックグラウンド抜きで根拠を出すのはムツカチイのではにゃーかな?
(まあ、思いつかなくもにゃーけど)

このあたりの話は、いくらでもでかくなってしまいますからにゃー。困った。

とにかく、個人という単位で「重要な問い」に答えるなんてのは、古代のニンゲンから見たらまさに狂気の沙汰でしょうにゃ。
昔と今ではニンゲンは別の狂い方をしているのでしょうにゃ。

31カクレクマノミ:2007/11/16(金) 14:22:42 ID:THRtI5kM
まず最初に。たぶんドーキンスは宗教の否定よりもむしろ、無宗教の擁護に重きを置いています(少なくとも僕はそう理解しています)。

>1)宗教は道徳的価値観「以外に人類の英知に貢献すべきものをもたない」などとなぜ生物学者のドーキンスが断言できるのか?

この部分はむしろNOMAに対する皮肉なレトリックでしょう。大事なのは、科学が及ばない範囲だからと言ってそれが宗教の領分だとは言えないという、それだけのことです。
宗教が道徳的価値観を独占的・特権的に扱えるとする理由はこれといって示されていません。強いて言うなら、宗教は他のことに役立たないから道徳ぐらいしか居場所がないってことじゃないの?とちょっとからかっているわけです。

>2)「そもそも、どの宗教を選べばいい?」以下の記述は、どうみても「1つの正しさ」を前提にした物言いだにゃ。

「1つの正しさ」を前提としなくても、この記述は理解できますよ。
各個人ないし各文化、まあ何でもいいんですが、何かの単位が宗教に基づいて「重要な問い」に答えたいときには、どの宗教を選ぶかによって、また宗教のどの記述を、どの解釈を選ぶかによって答えは変わってしまいます。文化によって答えは違うとしても、この問題は残るでしょう。
愚行をするにしても、宗教に基づいて愚行をするとしたら、どの宗教に基づくかによって話は違うでしょう。

それに続く記述においても、ドーキンスは宗教の原典を逐語的に理解するのは馬鹿だということをよく知っています。それどころか、それこそがドーキンスの議論のキーポイントになります。
地下猫さんのおっしゃる通り、宗教から「重要な答え」を出そうとするとき、まともな人は逐語的に読んだりしません。

たとえば、ある宗教の聖典に「異教徒は直ちに殺すべし」という記述と、「みだりに人を殺すなかれ」という記述があったとき、たぶん現代の多くの人は前者を逐語的に受け取ったりはせず、後者を重視して「重要な問い」に答えを出すでしょう。
実際、今の穏健なキリスト教徒はそうしていると思います。
なんで前者よりも後者を重視するかと言うと、僕たちは「みだりに人を殺すのはよくない」と思っている(注)からです。聖書を読む前から何がしかの倫理基準を持っていないと、取捨選択はできません。
だったら、そのもともと持っている倫理をそのまま答えとして採用しても、答えは変わらないでしょう。聖書解釈というステップをはさむのは、よく言っても冗長です。

だから、宗教が独占的・特権的に道徳的価値を扱えるという主張(しばしば、だから無宗教では倫理が崩壊するという含みを持たせてなされる)は誤りです。
ドーキンスが宗教と道徳の問題について書いているのは、おおむねこういうことです。

僕にはこの主張は、かなり説得力があるように感じられるのですが、どうでしょうか?


>ちゅうか、文化的なバックグラウンドなしで「重要な問い」にどう答えるのでしょうにゃ?

それはそうなんですが、でも文化的バックグラウンドをもとに答えを出すのはその文化に属する個人なのではないでしょうか?
そもそも、"文化"という実体のない存在が、どうやって判断を下すのでしょうか?


(注)これがどこから出てくるのかという問題について、ドーキンスはヒトの生得的な傾向と、"道徳に関する時代精神"について論じています。でもこれはたぶん本質的な問題ではなく、由来はともあれ何らかの倫理基準を持っているというのがミソ。

32地下に眠るM:2007/11/17(土) 00:06:12 ID:yb0RBWTc
レス前後しますにゃ

>Kosuke
>究極的には、個人の心の中だけの営みとして宗教を定義(限定)してしまえば、かなりのトラブルは防げると思います。

ジンケンの基本は自由権にあり、さらにその核は内心の自由にありますにゃ。
この内心の自由というのは、いかなる専制主義政体や全体主義国家においても現実的に取り締まることができにゃーというシロモノにゃんね。言い換えれば、地上の権力、世俗の権力が一切及びようがにゃー領域が個々人の内心ちゅうことになるわけですにゃ。

で、自由権の拡張の歴史ちゅうのは、内心の自由の拡張の歴史なんですよにゃ。
内心の自由を認めるからこそ、表現の自由や身体の自由を認めなければならにゃーわけで、そこから政治的自由にも直結しますよにゃ。逆にいえば、表現・身体・職業・政治的自由などを認めにゃーということは、内心の自由を認めてにゃーことになる。
内心の自由の発露として政治にかかわること自体は、自由主義においては必然なんですにゃ。

だから、宗教を個人の心に限定して政治的活動を認めにゃーというのは、自由主義の原則に反することになっちまいましてにゃー。
無論、自由主義の寛容につけこんで、馬鹿宗教の非寛容が跋扈したりすることもあるわけで、このあたりが自由主義の悩ましいところですにゃ。

33地下に眠るM:2007/11/17(土) 00:13:36 ID:yb0RBWTc
>カクレクマノミ

逐語的にレスする前に聞いておきたいですけどにゃ
おみゃーさんの言う通りに
>たぶんドーキンスは宗教の否定よりもむしろ、無宗教の擁護に重きを置いています(少なくとも僕はそう理解しています)。
のであれば、グールドを犬呼ばわりする必要なんてまったくにゃーと思うんだけど。

NOMA原理って、そもそも無宗教の擁護なんでにゃーのか?
グールドへの犬呼ばわりって、NOMA原理への否定でにゃーの?
つまりそれは無宗教擁護というよりは宗教否定とはならにゃーのかね?

その辺についての意見をお聞かせ願えにゃーですか?

34カクレクマノミ:2007/11/17(土) 14:46:13 ID:THRtI5kM
ドーキンスの考えでは、宗教は、自分たちが道徳的価値を扱うのに適した存在であるということを説得力を持って示してはいません。
にもかかわらずグールドは、道徳的価値を宗教の教導権下に置いてしまっています。

積極的な理由がないのに、道徳的価値を宗教のなわばりに献上するというのは、宗教へのご機嫌取りではないかとドーキンスは主張しているわけです。

35地下に眠るM:2007/11/18(日) 12:56:55 ID:yb0RBWTc
とりあえず簡単なレスね

>ドーキンスの考えでは、宗教は、自分たちが道徳的価値を扱うのに適した存在であるということを説得力を持って示してはいません。

ふーん、なんでドーキンスにそんなことがわかるのかにゃ?
カガクには道徳を扱えないことを認めていながら、なんで宗教、しかも既存の宗教全てに対してそういう判断ができるの?
僕にはぜーんぜんわかんにゃーんだけど。


>にもかかわらずグールドは、道徳的価値を宗教の教導権下に置いてしまっています。

え?
グールドは道徳を宗教に独占的に扱わせろとかいってるの?
そういう悪意に満ちた誤読をして相手を否定するという、創造カガク信者のような手口をドーキンスがしているのではにゃーのかね?

グールドがそんな白痴的な主張をしているというのなら、証拠を見せてほしいものだにゃ。

1)道徳の領域にカガクが口をだすべきではない
2)道徳の領域は宗教が独占するべきである

確かに(1)はグールドが主張しているけど、(2)をグールドが主張してんの?
もし(2)をグールドが主張しているのなら、ドーキンスによるグールドの犬呼ばわりは妥当でしょうにゃ。
しかし、グールドが(2)を主張してにゃーのなら、ドーキンスは創造カガクの連中と同じ類いのカスだにゃ。

もしもグールドが(2)の主張をしてにゃーのなら、ドーキンスはカスだとカクレクマノミも認めるかにゃ?

36chochonmage:2007/11/18(日) 14:21:32 ID:Qhwn4442
う〜、書きたいことがいっぱいあってどこから手をつけたらいいのか
よくわからん。とりあえず猫さんからいただいたレスについて。


猫様。
>>23へのレスありがとうございました。
しかし、私の比喩が良くなかったのか、少々ずれを感じましたので
再吟味していただけたら幸いです。

>浅見には聖書学について答えをいう資格があるだろ? 
>専門家が自らの専門の範囲において無知を無知と断じただけにゃんね。
>何の問題もにゃーだろ。

私の行った比喩は、ある「読者」(ドーキンス)が山本七平という人の著作を読んだり、
浅見さんの本を読んだりした後に(ドーキンスが各種宗教の経典を読んだり、信頼できる文献に当たった後に)
山本七平氏にはユダヤ教や英語に対する疑問には答えられないと判断しても(ドーキンスが「重要な問い」には
宗教は答えられないと判断しても)その「読者」(ドーキンス)自分はその答えを知っていると主張しているようには
私には思えないということです。

浅見さんとドーキンスを比べたわけではありません。

37カクレクマノミ:2007/11/18(日) 17:07:07 ID:THRtI5kM
はじめに断っておきます。僕としてはできる限りドーキンスを代弁しているつもりでいますが、議論が進むにつれて当然、僕自身の解釈による部分が多くなってくると思います。
というわけで、これはドーキンス自身の議論というよりも、僕なりのドーキンス解釈として読んでください。

>カガクには道徳を扱えないことを認めていながら、なんで宗教、しかも既存の宗教全てに対してそういう判断ができるの?

まず第一に、ドーキンスが科学者だからといって、科学のみに依存した議論しかしてはいけないということはないでしょう(それとも、科学者には殺人犯を非難することも許されないのですか?)。科学者であるグールドが主張してNOMAだって、科学の範疇内に収まるものではありません。
実際、「神は妄想である」のドーキンスの議論には、科学だけでなく倫理学などの分野も関連しています。

そして、ドーキンスの主張は、「宗教は道徳的価値を扱うのに適していない」ではなく「仮に宗教は道徳的価値を扱うのに適しているとしても、その理由は示されていない」というものです。
一般論として、何かが何かを扱うのに適した枠組みかどうか、適していると主張する側に立証責任があるでしょう。

>グールドは道徳を宗教に独占的に扱わせろとかいってるの?

訂正します。「独占的・特権的」というのは強すぎる表現でした。
しかしグールドは(独占的ではなくとも)道徳的価値を扱う資格を宗教に認めています。少なくとも、宗教による道徳についての意見は尊重すべきものだとグールドが考えているのは間違いないでしょう。
そして繰り返しになりますが、宗教が道徳的価値を扱うのに適した存在であるということについての説得力のある理由は示されていません。


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