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minglingましょう

1名無しの神学さん:2012/01/12(木) 16:02:05
んでは神学しましょう

ご参考に
ttp://logsoku.com/thread/uni.2ch.net/psy/1323911382/

2ニュッサ:2012/01/12(木) 16:19:23
ここは、懐かしいところですね。勝手知ったるところです。

ではゆっくりと。

訳については、intoを変化に捉えたのですが、目的語を間違いましたから、
私の間違いです。

申し訳ありません。

3名無しの神学さん:2012/01/12(木) 17:22:08
リー「"Mingling (混ざり合い)"」
ttp://localchurch.web.fc2.com/part2/mingling.html

SPCKが1921年に出したアーサー・ジェイムズ・メイスン訳『偽マカリオス大書簡』(五十説教集)がWebarchivesで無償公開されとります。
いわゆる「神性と人性のmingling」がホントに講述されてんのかどうか、精査しましょう。
ttp://www.archive.org/details/fiftyspiritualho00pseuuoft

>>2
どもども

4暇人:2012/01/12(木) 17:25:20
A man ought therefore rather to rejoice and be glad
because such wealth and such an inheritance is prepared
for Christians, that no one can utter it or reckon it up.
With all diligence and humility therefore we ought to set
ourselves to the Christian's contest and to receive that
wealth. For the inheritance and portion of Christians is
God Himself. The Lord Himself, it says, is the portion
of mine inheritance and of my cup.
Glory to Him who
gives Himself, and mingles His own holy nature with the
souls of Christians, for ever. Amen.

以下ニュッサ氏訳
「それゆえ、人はむしろ喜ぶべきだ、
 キリスト者のために、このような富と受け継ぐべき財産が用意されているのだから。
 それは、誰も、言い尽くすことも認識し尽くすこともできないほどのものなのだ。

 そういうわけで、あらゆる勤勉と謙遜をもって、私たちは、自分を、キリスト者の
 競争に参加させ、この富を受けるべきである。

 というのは、キリスト者の財産と分け前とは、神ご自身なのだから。
 主ご自身が、私の財産の分け前であり、私の与るべき文であると書いてある。
 
 ご自身を与え、ご自身の聖なる性質とキリスト者の魂を混ぜ合わせたもうお方に
 とこしえに栄光あれ。アーメン。」

 人間の魂と神性の混ざり合いを言っているのは、間違いないですね。

5暇人:2012/01/12(木) 17:29:38
p280
This was the purpose of the Lord's coming,
to alter and create our souls anew, and make them, as it is written,
partakers of the divine nature, and to give into our soul a heavenly soul,
that is the Spirit of Godhead leading us to all virtue,
that we might be enabled to live eternal life.
これが主が来たりました目的であり、
我々の魂を新たに変え創り、記されているのだが
我々を神性の参与者とし、我々の魂を天国の魂に与らせます。
それが、あらゆる美徳に我々を導き、我々を永遠のいのちに住ませ給うことのできる神の精神なのです。(暇人誤訳)

「主が来られたのはこの目的のためであり、
私たちの魂を新しく作り変え、書かれているとおり、神性の参与者とし、
私たちの魂を天的な魂、それは全ての徳に私たちを導く神格の御霊に変化するまで
与え尽くすためです。
私たちが永遠の生活を送ることができるようにするためです。」 (ニュッサ氏初期訳)

「御言葉に記されしごとく、我らの魂を神の性質に与らせるためである。
しかして、我らの魂に天的魂を注入したもう。
この天的魂とは神の御霊であって、我らを諸徳に導き、我らに永遠の生命を生くるを得さしめたもう」(山谷真少佐訳)

6ニュッサ:2012/01/12(木) 18:05:07
一部、訳を変更します。

「主が来られたのはこの目的のためであり、
その目的とは、私たちの魂を新しく作り変え、書かれているとおり、神性の参
与者とし、 私たちの魂の中に、天的な魂、それは全ての徳に私たちを導く神
格の御霊を与えることです。
私たちが永遠の生活を送ることができるようにするためです。」

7山谷真少佐:2012/01/12(木) 21:50:15
ニー派もリー派も、人の三分説を金科玉条としてますけど、この英訳マカリオスが救済を「魂」という用語で考えてるのは、どう扱うんでしょうね?

特に、「魂という漢字はサタンの内住を暗示している」とすら説いているんだから、「天的な魂は神格の霊だ」という一文はどうなるのか。

8ニュッサ:2012/01/12(木) 22:15:19
>>7

まあ、マカリオスを例として持ってきたのは、彼らではなく、私なので、
彼らがマカリオスのこのテキストを見ても、最終的な啓示の権威である
ニーとリー以前のものとして、別に、そこに整合性は考えないのではな
いでしょうか。

(直接、関係ないですが、マカリオスは、確か、心を最重要視していた
ように思います。
そう言えば、ウェスレーが東方の霊性に触れて、神化を知ったのも、
マカリオスだと言われているようですね。)

私は、聖書も、それ以後の教父も、厳密な意味での三分説は成立しない
と考えていますが、

山谷さんはどう思われますか?

9山谷真少佐:2012/01/12(木) 22:30:05
確かに新約聖書は人の三分説を言いますが、これがニー派、リー派においては、もっぱら「魂への憎悪」として語られると、途端に辟易してしまいます。

魂への批判。そっから、教会の活動全般への「魂的である」という理由をもってしての教会活動の全否定。

こうなると、新約聖書から異質なものになっていると感じますね。

10ニュッサ:2012/01/12(木) 22:57:51
>>9

私も同じ意見です。

魂が人間の構成要素としてあるならば、当然、魂もある機能を果たしているわけで
それを憎悪して、魂と霊の区別を必要以上にすることによって、自我はかえって
膨張するのではないかと考えております。

だから、私は、リーの神学を決して健全なものであると考えているわけではないの
です。

ただ、それにも関わらず、異端とまで言っていいかどうかとなると、フェアでない
気がするわけです。

11暇人:2012/01/13(金) 01:50:07
一宮基督教研究所「Watchman Nee の神学の研究」
ttp://www.aguro.jp/d/file/j/jec_wn00.htm

2chログ「ウォッチマンニーとウィットネスリーの真実」05/01/30
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1107014205/
特に16以下で「人間の三部説」についての論究あり

12暇人:2012/01/13(金) 02:28:43
>>9

山谷少佐は意図されてないでしょうけど、私にはこの発言がビオラ神学批判と
聞こえます。
ttp://makotono.tou3.com/Category/30/
「キリストにあって、私達が受けたものは、永遠の命(ゾーエー)であり、
私達が生まれながらにして持っていたアダムの命、魂の命、動物的命(プシュケー)とは異なります。
しかし、主イエスを救い主として信じて受け入れ、永遠の命を得た後でも、
もしもキリストの十字架の御業をより深く実際として経験することがないならば、
私達の魂は、罪に汚染されたアダムの動物的な命、肉の強い影響下に置かれたままなのであり、
つまり、私達の魂はサタンの作業場となってしまいかねない危険性を持っているのです」

むしろ山谷少佐のお立場は「家族にレッテルを貼らないで」の
「信仰の目でもって、その人の未来を見ることであります。現
状においては、問題がたくさんあるでしょう。
未熟なところがたくさんあるでしょう。ため息が出るでしょう。
しかし、10年後、20年後、30年後、50年後の成長した姿を、
信仰の目で見て、信じて、信頼して、自分の大切なものをその人にゆだねて、
任せて行きたいのであります。」と言う視点でビオラ氏を見守っておられるのでありしょうけど
私がビオラ氏神学を読む時、氏の優れた探究心が【極端】に走り勝ちで
「バランスを取る」という認識が欠落しているように思います。

13ニュッサ:2012/01/13(金) 03:18:01
>>9

そのスレは立てたのは、通りすがり=私つまりニュッサです。

そのスレッドのなかで、969というHNで書いているのは、私が出会った地方教会の
兄弟です。

私が、自分の意見としては、リーの神学に反対にも関わらず、
それを異端とまでは考えないのは、彼の存在が大きいです。

私は、K氏の集会を出たあと、2ちゃんのあるスレッドを通して、
彼と出会いました。

K氏、まはそのHPを通じて、地方教会の人に対して、恐ろしいカルト
という先入観を抱いていたため、
戦々恐々として会ったわけです。

しかし、実際に会ってみると、本当に素朴な青年でした。

すでに、その時から、立場がかなり違うのにも関わらず、
私のために祈り続けてくれております。

これが、私が、彼とは全く違い、
むしろ、ニー及びリーの神学に、現在、決定的に批判的な
意見をもっているにもかかわらず、

それでも、それを異端とまでは思わない、
キリスト教のそういう形もありうるのだと考える個人的な
理由です。

14ニュッサ:2012/01/13(金) 03:24:16
ですから、

正直に言って、ヴィオロンさんにも、それとアナロジカルな感情を抱いており
ます。

ヴィオロンさんが書いているのは、まさにニーそのものと言って良いわけです。

しかし、それは、私が過去にどっぷり浸かっていたものであり、
まさに、過去の自分が書いてもおかしくない文章です。

ですから、一面で、私は、ヴィオロンさんに決定的な批判を持つ
訳ですが、

同時に、それは過去の自分と向き合うことであり、

それにもかかわらず、そういう形もありうるのではないかという
矛盾した気持ちを持っています。

15ニュッサ:2012/01/13(金) 03:46:02
暇人さんのおかげで、

「ウォッチマンニーとウィットネスリーの真実」で、自分が地方教会の兄弟と
対話したことを読み返してみた。

神化についての考えはその頃と変わっていないし、
また、私と対話した地方教会の兄弟が決して常軌を逸した人間では全くなく、
素朴かつ真摯な人間であるという印象も変わらない。

ただ、違うのは、
私は、今では、神化の神学ではなく、むしろ受肉の神学の立場をとっており、
アタナシオスの「神が人になったのは、人が神になるためである」ではなく、
「神が人になったのは、人が人になるためである」という自分なりの定式を
持っている。

それは、自分の内なるカルト思考を克服するためであり、
そこには、当然、他の神学への批判が伴うが、
しかし、それは唯一絶対の神学ではなく、単なるモデルとしての神学にすぎず、

他のモデルも有りうることを認めている。

16暇人:2012/01/13(金) 04:55:54
中世思想原典集成3と4を発注しましたので着次第読んでみます。

さて中世思想原典集成2は所持しているのですが
ニュッサのグレゴリオス「教理大講話」が収録されています。
第六章の最初の項
「悪の起源を解明する出発点として世界が二つの本性からなる事を説明する」の(4)
p528
(4)このために、人間における知性的なものと感性的なものとの混合が、
神的本性によって実現されいるが、それは創世記の話が教えるとおりである。
それによると、「神は土の塊を取って、人間を形づくった。そしてご自分の息を
その造られたものに吹きかけることによって、生命を植え付けられた」(創2:7)とある。
それは、土でできたものが神的なものと並ぶものとなり、より劣った本性が
この世界を超えた本性と混ぜ合わされることによって、同一の恵み(カリス※原文ギリシア語)が
創造された世界全体に等しくいきわたるためであった。」

このニュッサのグレゴリオスの
「より劣った本性がこの世界を超えた本性と混ぜ合わされること」の
混ぜ合わせは「人性と神性のmingling」かもですが、
(より厳密には土性と神性のminglingが人間ということか)
土でできた人間に、神の息を吹きかける事が既にminglingであり神化
なのではないでしょうか。

飛躍しますが、ビオラ氏の
「アダムの命、魂の命、動物的命を批判しての
「永遠の命(ゾーエー)」賛美は、
ニュッサのグレゴリオス的に言うと、
「神の息=アダムの命、魂の命(プシュケー)」という神性批判となります


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