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「崇拝」と「崇敬」

1へっぽこ:2004/03/22(月) 00:29
イエスの母マリアを「崇敬」するべきだが、「崇拝」
するべきではない。
「崇拝」は神に対するものであるから、「人」にしてはならない。
「神格化」とは、およそクリスチャンである限り、「父なる神」と
同一である事を意味する。だから、マリアを「神格化」している
教理は、まともなキリスト教ならば、オーソ/カト/プロすべて
有り得ない...と

2へっぽこ@続きです:2004/03/22(月) 00:49
なれば、「崇敬」とは...
カトには「聖母・聖人」、オーソには「生神女・聖師父」...
「崇拝」してはならないが、「崇敬・尊敬」するべき人物がいる。
信仰のお手本として、大切な人々。だから「尊敬」しても「批判」も
禁じられていない。

そこで、へっぽこは気付いたのであります。プロにも「崇敬」する
べき人物がいるんじゃないの?

一番思い当たるのが、プロテスタントの草分け、マルチン・ルター先生
であります。ルター派の信徒の方にはシツレイかもしれませんが、
せっかくのマルチン・ルター先生に対する「崇敬」が足りないんじゃないか?

ルター先生は、「マリア崇敬」をしていたようであり、マニフィカートも
作曲している。「告解機密」も行なっていた。現代のルーテル教会が
必ずしもルター先生の信仰を受け継がず、「プロテスタント」という
アイデンティティの中で、ルター先生のカラーを逆に無くしてしまっている
としたら、「もったいないオバケ」だと思うのであります。

プロテスタントでも「万人司祭主義」を標榜しているところが多い
ようですが、「民主的」という利点はあるものの、「盲人が盲人を手引きする」
愚を犯していないか?(あまり解ってない人が、自分より後で入った人を
躓かせるようなこと..視覚障害者差別の聖句じゃありませんからね)

本スレの目的は、プロテスタントでも「崇敬」するべき人物を確認し、
ルーテル:マルチン・ルター、メソジスト:ジョン・ウェスレー
バプテスト:ジョン・スミス、改革派:ジャン・カルヴァン...
...個人的な好き嫌いはあるけど...
各派が「崇敬」するべき人物を正しく理解して、「万人司祭主義」の弊害を
緩和できないか?というものであります。

また教派間の無理解、誤解も少しでも緩和できないか?との意図もあります。
...へっぽこが大風呂敷ひろげちゃった..あとが怖いけど...

30990:2004/03/22(月) 13:21
ルーテルではハイでベルクの信仰問答集を基準という。現実は教職のみが読む。信徒は聖書66巻のみ。
イエスさまを唯一の救い主とする。ルターの説明はさほどしない。良い意味で聖書中心主義である。私の影響もその辺である。

4へっぽこ@むずかしいとこ..:2004/03/22(月) 20:05
0990さん
むずかしいとこなんだよね...
>>イエスさま(三位一体の神)を唯一の救い主とする。
これが大前提。
しかし「じゃ、なんでルター派なの?」と聴きたくなっちゃう。
オーソの神父さんもルター先生と共感するところがあるとの事。
他教派から注目されてるのに、本家本元がなんかもったいない
気がするんだよな−...

ルター先生の「聖書中心主義」を押さえておかないと、
他のプロの「逐語霊感説(聖書信仰)」と見分けがつかなくなっちゃう
のを怖れるのであります。

5アイ:2004/03/22(月) 20:08
私もへっぽこさまと同じようなことを感じています。
使徒信条の中に、「我は聖徒の交わりを信ず」ってありますでしょう?
(福音派教会ではめったと唱えられませんでしたが)
これって、生きている人だけ、教会で顔を合わせる人だけの交流のことではないと思うのですよね。
すでに亡くなった信仰の先輩のことを思い起こす日というのがあってもいいと思うんです。いや、むしろそれがないと、なんだか信仰に温かみがないというか、模範もないし、それから過去の歴史を反省するということがない。先人が聖書をどう解釈してきたか、教義化される前の過程を知ることも大事じゃないかと思いますし。
信仰って聖書解釈のことじゃなくて、人の営みそのものですよね?聖人伝なんていうのは主にある人の生き様が感じられますよね。

6アイ:2004/03/22(月) 20:16
聖書中心主義っていうのは、カトリックでも正教会でも、どの教派でも一緒だと思いますよ。
聖書は聖伝の中で最も大切なものと教えられていますし。
ただ、プロテスタントでは万人祭司といわれているように、聖書それだけを単独で解釈して良いとするのか、その他のように、教会の歴史の中で解釈していくのか、という違いなのではないでしょうか?

7へっぽこ:2004/03/22(月) 21:46
>>聖書は聖伝の中で最も大切なものと教えられていますし。
アイさま
レスありがとうございます。
へっぽこも神父にそう教わりました。一方「聖神(聖霊)によらずに
聖書を読むと、大変な事になる。」とも教わりましたが。

また聖書はかつて「読み聞かせするもの」だったそうですね。
エズラ先生のように。そこに「私的解釈」とは違った、
「読み聞かせ」する人の「信仰が生かされている」
感じがします...

ところで、昨日のM神父(へっぽこが崇敬する人)
のE-mail説教、今までの中でも
特に素晴らしかったと思いますがいかがでした?

80990:2004/03/22(月) 21:58
だから、ルーテル(福音派は)私的解釈にうるさい。福音派はカトリックの伝統、聖書解釈の教義もよくも悪くも引き継いでいる。万人祭司だからこそ私的解釈は私は戒める。
要は、神様の意思に反しないように聖書解釈をとやかましい。最近のプロテスタントは某教団のように、不正行為があり信徒も乱れすぎ。メインのスレが物語る。

9へっぽこ@それだけに...:2004/03/23(火) 00:03
>>万人祭司だからこそ私的解釈は私は戒める。

0990さん、ほんとにその通りだ。
へっぽこもアホだった。福音派で「万人祭司主義」の教会では、
平信徒の分際で(自分もそうだけど)断言できない事を断言してしまう
図々しい信徒が多かった。それを鵜呑みにしては、悩んでいた。

「あんたのおばあちゃんは、キリストを知らずに死んだから、可哀相だが
地獄に落ちたよ。」とかね。牧師も同じように思い込んでるからたちが悪い。
聖書の根拠はどうだ?っつーの!!(黙示録の読み違えだね、これ)

神の国か地獄か決めるのは主イエスだけですよ。(マタイ25:31〜46)
こないだ、牧師に怒ってやった。
「主イエスしか決める事ができない事を勝手に決めるな!」ってね。
そして、困窮している「キリストの小さき兄弟たち」に何の憐れみも
掛けないならば...地獄だ..と。

「神学のかたまり」みたいな正教会の神父さんが、断定的にものを言わず、
非常に慎重なのが、好感がもてるし、尊敬できるのであります。
なるほど、キリスト(ハリストス)の前に、”謙遜”の手本...

「崇拝」は三位一体の神様に対する信仰。
「崇敬」は神の前に謙遜であることを示してくださった先輩クリスチャン
に対する尊敬の気持ち...イエスの母マリアがその最たるものだと思うので
あります...もちろんルター先生も。

各教派の信仰の先輩=お手本を大事にしましょう...

10アイ:2004/03/23(火) 09:00
聖人について、カトリック新聞からの抜粋です。
「聖人カレンダー」というHPで見つけました。

聖人─無力を知り、神の救い信じる人
 奥村一郎(カルメル会司祭)

 カトリック教会で聖人といえば、列福、列聖されるような、飛び抜けて聖徳に達した人のことを考えるのではないでしょうか?
 確かにそうした人にたくさんいてもらうことはありがたいことです。そのような模範によって励まされ、教会も成長します。そうした信仰の高揚をはかり、福音宣教の力を増強するための公的制度として、列聖調査が定着してきました。形は異なっても、これに類した聖人の顕彰方法はどの宗教にもあります。

 しかし人間のすることは、どんなことでも表と裏があります。良い面と悪い面が出てきます。特に個人のレベルでなく集団のレベルになると、集団心理としての自己顕示欲や虚栄心が強く出てくることがあります。そのような聖人はいつのまにか伝説化され、神話化されることさえあります。カトリック教会でいわれる聖人とか、聖性とかいわれる本質はそのようなピカピカした面だけを指すのではなさそうです。特に聖書に見られる教えはむしろ反対とさえ言えます。

 イエスは言われます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠し、小さい者に現してくださいました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子を知るものはなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」( マタイ1.25-27 )

 聖パウロも次のように言います。「兄弟たち、神に召されたあなたたちのことを考えてもみなさい。人間的に言えば、知恵のある者は多くない。力ある者も、身分の高い人も多くはない(霊的に優れた人も…筆者加筆)。しかし、神は知恵ある者を恥じ入らせるため、世の愚かな者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれた。…それは、だれ一人、神の前で誇らないようになるためである」( 1 コリント1.26-29 )

 このような言葉からすると、キリスト教における「聖人」というのは、生き神様のように完徳の人のことではなく、どこから見ても「無」でしかない、哀れな自分を救ってくださるのは神だけということに、限りない感謝と喜びを見いだす人のことのように思われます。

 教会は列聖、列福された人はもちろんですが、その数において彼らよりはるかに多くの神に祝福された無名の人々が、涙のうちに蒔いた種で育った「果実」によって大きくなってきたのです。「諸聖人の通功」というのは、そういったことではないのでしょうか。大聖人も小聖人も、凡人も罪人も、みんながキリストにおける父なる神の子として、ひとつの愛に結ばれている聖なる事実を指す言葉と思います。

 「通功」とはラテン語で "Communio" と言います。「交わり」あるいは「一致」を意味します。それは個人の聖性ではなく、共同体の聖性を言います。少し固い言葉でこの稿を結ぶならば、カトリック的聖性は『個の霊性』からではなく、『関係の霊性』に由来するということです。自己完成を目指す孤高の霊性ではなく、自他共生の愛の霊性、兄弟愛の霊性です。一人で救われるのではなく、共になることによって救われる、いや、それしか救いがないことを知る人、それがカトリックでいう聖人の本質なのです( ヨハネ13.34-35、17.20-23参照 )。
(「カトリック新聞」1996年3月10日第3370号より)

11chiara:2004/03/23(火) 09:33
アイ様
そうそう。聖人は特別ではなく、だれしも「聖人」であるんですよね。
他者の中に聖性をみることは、客観的に考えやすいということで、規範となる聖人が存在しますが、
彼等のエピソードを読むと血や肉の通った普通の人間が存在することを発見します。
人気の高い聖人、アシジのフランシスコは、わがままだし、変だし、頑固だし、
たぶん隣人としていたなら、うっとおしい人だったでしょうが、しかし彼の聖性は同時代人でも
認めていました。他者の生き様の中にもイエスの言葉が生きていること、聖霊が働いていること
それを知ることが「聖伝」なのですね。およそわがままでどうしようもない人を
聖人として受け止められるには、赦しの心が必要で、それがないとその人に働く聖霊は見えなくなります。
「聖伝」とは教会共同体に働く聖霊に着目し、それが伝えてきたことをさすわけです。
それは、現在でも進行形なのですね。

12アイ:2004/03/23(火) 09:35
「崇拝」とは神と私個人との関係から始まっており、
「崇敬」とは、共同体との関係から始まっている。
ということだと思います。
これがもし、共同体から始まる「崇拝」だとすると、それは「カルト」に繋がり、
私個人から始まる「崇敬」だとするなら、それはやはり「神格化」に繋がるのだろうと思います。

13アイ:2004/03/23(火) 09:52
あ、chiaraさま、レスありがとうございます。
本当に、聖書であろうが、聖伝であろうが、その内容そのものよりも、そのスピリッツというのでしょうか、そういうものを理解することが大事なのだなぁ、と思います。

人間は間違えやすいけど、だからといって、何もかもを取り上げるのはどうかと思うのですね。
私が洗礼を受けた時には「偶像崇拝をしない、また、偶像崇拝と紛らわしい行いをしない。」という宣誓がありました。
つまり、本人も思惑がどうであれ、人が見てあれは偶像を拝んでいるのだ、と誤解されるような行為はしてはいけないと。そういうわけで、墓前礼拝をしたときに、子供が「これって偶像崇拝じゃないの?」と親に聞き返していました。
しかし、そういう理解だと常に人の目を意識していなければならないし、また、他者の行為に対しても監視しているような信仰になってしまうわけです。
どのような行為であれ、どういう精神でそれを行っているかが大切だし、それはその場では神にしかわからない。
わかるのはその歴史の中で、その行為がどういう実を結んだか、ということです。

140990:2004/03/26(金) 22:45
 偶像礼拝は仏さんなどを拝むばかりとは限りません。つまり不適正な聖書の理解、私的解釈により神様の意思に反する神様礼拝です。だから聖書は偶像を作りこれを安置するものは・・・と警告する。

15chiara:2004/03/28(日) 21:17
アイ様、0990様、
イエス・キリストが伝えたかったことは、まさに新たな視点を我々にもたらせることだったと、
思うのですね。その「スピリット」とは畢竟、聖霊に他ならず、常に我々を取巻き働きかける
わけですが、価値をイエス・キリストの言葉に置いておけば、わたしたちは聖霊を見いだすことが
出来るのだと思います。その軸が「他者の視点」という他のものになってしまうと見失ってしまうのでしょう。
0990様>
0990さんは、教派スタンスが「聖書のみ」であるお立場なわけですが、不思議とわたくしの
教えられてきた聖伝をも含むスタンスのあり方と考え方が同じです。結局、これらを分けること
自体ナンセンスで、普遍の真理は同じであるからこそ、行き着く結果の回答が同じなのでしょう。
単に言葉の用い方が違うに過ぎないと、改めて感じ入ります。そもそも聖伝も聖書から発して
いるわけですから、見方を変えればやはり「聖書のみ」なんですよね。

16へっぽこピーメン:2004/05/03(月) 02:15
「聖書のみ」はそもそも「聖書に帰れ」ルター先生の主張ですよね。
0990さんの言葉は、文脈からはルターの考え方に近いと
わかるんだけど、ともすると「聖書書物崇拝主義」と混同される
恐れあり...
いちいち「聖書にはこう書いてある...」ばかり言ってる牧師さん
がいたから、「キリストの言葉は”ロゴス”神の言葉だけど、
聖書は所詮”紙の言葉”なんだよ!キリストを踏み外して読んではイケナイ!」
とエラソーに言っちゃいました...

17へっぽこピーメン:2004/05/04(火) 21:23
...ただ、「さばく」ような読み方から、
「救い」を読み取ろうとする読み方に変わって来ていた...

18へっぽこピーメン:2004/05/07(金) 22:33
そして「兄弟のために救いに、癒しになる個所がないだろうか...」
という気持ちで読んでくれていた。
へっぽこの方が、牧師さんを裁く目的で聖書を読んでしまっていた。
「貧しい者の救済をしない者は地獄に落ちる」と言うように...

へっぽこが責めていた牧師さんのほうが、ずっとキリストによって
聖書を読んでいた....

19名無しの神学さん:2005/01/01(土) 23:51
でも、その教会の体質が変わったわけではなく、
「攻める権利があるんですよー!」という教会に
いとも簡単に戻ってしまっていた。

「カルト」は一筋縄では行かない・・・

20名無しの神学さん:2005/01/05(水) 14:24
目からウロコの本がありますので紹介します。
意表をつく神ジエラードWヒューズ女子パウロ会です
カルトにとらわれ神の愛と赦しが見えないという方におすすめです

21名無しの神学さん:2018/02/24(土) 15:02:39
作詞:聖イエス会教祖様

時の流れははやく 終末は迫り
しののめが近いと みな告げしめす
神の期待に われらは こたえん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


十字架の旗のもと 決意も新たに
いのちにはいのちを 愛には愛を
心燃えたち われらは こたえん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


新しいエルサレム ゴールをめざして
ハシッドの召命 神化の道を
ただひとすじに われらは こたえん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


神のビジョンを見つめ 聖霊に燃えて
新しい歴史と 輝く未来
メシヤの世紀 われらは 開かん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


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