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「崇拝」と「崇敬」
10
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アイ
:2004/03/23(火) 09:00
聖人について、カトリック新聞からの抜粋です。
「聖人カレンダー」というHPで見つけました。
聖人─無力を知り、神の救い信じる人
奥村一郎(カルメル会司祭)
カトリック教会で聖人といえば、列福、列聖されるような、飛び抜けて聖徳に達した人のことを考えるのではないでしょうか?
確かにそうした人にたくさんいてもらうことはありがたいことです。そのような模範によって励まされ、教会も成長します。そうした信仰の高揚をはかり、福音宣教の力を増強するための公的制度として、列聖調査が定着してきました。形は異なっても、これに類した聖人の顕彰方法はどの宗教にもあります。
しかし人間のすることは、どんなことでも表と裏があります。良い面と悪い面が出てきます。特に個人のレベルでなく集団のレベルになると、集団心理としての自己顕示欲や虚栄心が強く出てくることがあります。そのような聖人はいつのまにか伝説化され、神話化されることさえあります。カトリック教会でいわれる聖人とか、聖性とかいわれる本質はそのようなピカピカした面だけを指すのではなさそうです。特に聖書に見られる教えはむしろ反対とさえ言えます。
イエスは言われます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠し、小さい者に現してくださいました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子を知るものはなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」( マタイ1.25-27 )
聖パウロも次のように言います。「兄弟たち、神に召されたあなたたちのことを考えてもみなさい。人間的に言えば、知恵のある者は多くない。力ある者も、身分の高い人も多くはない(霊的に優れた人も…筆者加筆)。しかし、神は知恵ある者を恥じ入らせるため、世の愚かな者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれた。…それは、だれ一人、神の前で誇らないようになるためである」( 1 コリント1.26-29 )
このような言葉からすると、キリスト教における「聖人」というのは、生き神様のように完徳の人のことではなく、どこから見ても「無」でしかない、哀れな自分を救ってくださるのは神だけということに、限りない感謝と喜びを見いだす人のことのように思われます。
教会は列聖、列福された人はもちろんですが、その数において彼らよりはるかに多くの神に祝福された無名の人々が、涙のうちに蒔いた種で育った「果実」によって大きくなってきたのです。「諸聖人の通功」というのは、そういったことではないのでしょうか。大聖人も小聖人も、凡人も罪人も、みんながキリストにおける父なる神の子として、ひとつの愛に結ばれている聖なる事実を指す言葉と思います。
「通功」とはラテン語で "Communio" と言います。「交わり」あるいは「一致」を意味します。それは個人の聖性ではなく、共同体の聖性を言います。少し固い言葉でこの稿を結ぶならば、カトリック的聖性は『個の霊性』からではなく、『関係の霊性』に由来するということです。自己完成を目指す孤高の霊性ではなく、自他共生の愛の霊性、兄弟愛の霊性です。一人で救われるのではなく、共になることによって救われる、いや、それしか救いがないことを知る人、それがカトリックでいう聖人の本質なのです( ヨハネ13.34-35、17.20-23参照 )。
(「カトリック新聞」1996年3月10日第3370号より)
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