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群馬県民スレPart2
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群馬の現状と将来分析。本音で語る。雇われ学者やマスコミや政治家やその他のお決まりの美辞麗句が空っ風にこだまするなか、その空しさや時間の無駄に嫌気がさしている者のスレである。
前スレ「群馬県民スレ」
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3750/1093944383/
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世界には先進国と後進国という分類があるように、日本の都道府県にも存在する。グンマの後進県ぶりは特筆する。グンマが経済的な統計がどん底でないのは東京一極の地理の理。だれが知事に選ばれようが要するに政府の方針に沿っていればそこそこ面目は保てるというもの。それがグンマの歴史である。もし仮に北海道や沖縄の遠方にあったら、確実に群馬という自治体は消滅するだろう。笑 後進県としての面目躍如は今の県政。やること為すこと。それを知れば納得する。
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蚕育て学んだ絹文化 小中5校が県庁で発表会
2016年1月31日(日) AM 11:00
群馬県の新規事業「絹文化継承プロジェクト」に参加した小中学生による学習発表会が30日、県庁2階ビジターセンターで開かれた。
参加校を代表して小学3校(南牧、東吾妻岩島、高崎西)、中学2校(藤岡小野、安中松井田南)の児童生徒がプロジェクトを通じて学んだことを発表した。
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グンマは子供を良く楯に使う。子供たちには将来は分からない。大人の言いなりになるほかない。物心付く頃には、他の先進県出身の子供たちと収入を得るキャリアを含んだ職業選択や就職活動を巡っての厳しい競争が待っているというのに。
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伝統歌舞伎で名場面 前橋
2016年1月31日(日) AM 06:00
地域に伝わる古典芸能を紹介する「伝統歌舞伎の祭典」が30日、前橋市のベイシア文化ホール(県民会館)で開かれ、県内3団体とワークショップで歌舞伎を学んだ子どもたちが稽古の成果を披露した=写真。
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グンマは日本のアフリカ。笑
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林中原II遺跡(長野原町)縄文人人骨 事業団調査で県内最古【群馬】
2016年1月31日東京中日
出土した縄文時代の焼骨の破片=渋川市で
県埋蔵文化財調査事業団(渋川市)が発掘調査した長野原町の林中原II遺跡で、縄文時代中期から後期の焼かれた人骨(焼骨)の破片が多数出土したことが分かった。古い焼骨は四千五百〜五千年前にさかのぼり、事業団の調査では県内で最古の人骨。出土状態から葬送儀礼を営んだとみられ、縄文人の死生観をうかがわせる興味深い発見といえる。 (菅原洋)
発掘調査は八ッ場(やんば)ダムの代替地工事に伴って進め、焼骨は二〇〇八〜〇九年度に出土した。事業団が焼骨を分析した結果、貴重な出土物と判明、今年三月にまとめる報告書に盛り込む。
焼骨が出土したのは、直径約百メートルの環状に設けられた集落の跡。中央付近で出土した約十基の土坑から焼骨が見つかった。
土坑は円形や楕円(だえん)形に近い。直径は一メートル数十センチほどが多く、深さは五十センチ前後。焼骨は土坑の底部から数センチ上部にかけて出土した。
焼骨は破片で、大きい骨は五センチ程度あった。成人が多く、体のさまざまな部分が無数にあった。一つの土坑に一人ずつ埋葬したとみられる。土坑内から土器の破片も出土した。
焼骨と土坑は縄文時代から弥生時代にかけて東日本各地で出土しているが、これほどまとまって出土したのは県内では初めてという。
県内は火山に囲まれ、酸性の火山灰土壌が骨を残りにくくしているとされる。焼骨は焼けたことで水分がなくなり、骨の分解も進まず、残ったとみられる。
発掘調査の整理を担当している事業団の山口逸弘(としひろ)上席専門員兼資料課長は「土坑に焼けた痕跡と炭があったため、中で骨を焼いたのは間違いない。土坑は環状集落の外れではなく、中央付近にあるので、何らかの葬送儀礼を営んだ可能性が高い」とみている。
一方、英国のオックスフォード大大学院や東京大大学院で人類学を学び、事業団にも在籍した生物考古学研究所(高崎市)の楢崎修一郎所長は、出土した現地を見た上で焼骨は土坑で「再葬」されたもので、土坑は「再葬墓」だとの見解を示す。
再葬とは、死者を一度は土坑に埋葬し、数年後に白骨化してから掘り出し、土坑内で焼いて埋葬し直す行為。出土した焼骨は全身としては残存量が少なく、一部を土器に入れ、別の神聖な場所に埋め直したと推定できるという。
楢崎所長は「縄文の人々は、骨を焼くことで立ち上る煙を見て、死者が天へ昇る姿を想像し、再生を願ったのではないか」と太古に思いをはせている。
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現実がまったく読めない。それが群馬の現実。
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世界遺産のお膝元 養蚕が消滅の危機 農家が減少
2016年2月1日(月) AM 06:00 Jomo
群馬県の絹産業の歴史を伝える世界文化遺産の田島弥平旧宅(伊勢崎市境島村)と荒船風穴(下仁田町南野牧)を抱える両自治体で、養蚕農家が消滅の危機に直面している。本年度に繭を出荷した農家は伊勢崎市で2戸、下仁田町で1戸。それぞれ全国有数の蚕種の産地、蚕種の貯蔵施設として日本の絹生産を引っ張ってきた歴史があるだけに、養蚕技術が途絶えることに対する関係者の危機感は強く、継承を模索する動きも出ている。
伊勢崎市上植木本町の青木勲さん(87)は先代の後を継いで70年間、養蚕を続けてきた。以前は年に4回飼育、妻のトラ子さんが3年前にこの世を去ってからは春と晩秋の年2回に減ったが、本年度も178キロの繭を生産した。ただ、「年が年だから、いつまで続けられるか分からない」と声を落とす。
県によると、1960年代ごろから海外の安価な生糸や繭が流入して繭の価格が下落、他の作物に転向する養蚕農家が増えた。戦後の本県の養蚕農家数は58年の8万4000戸をピークに減り続け、69年が6万8000戸、89年1万5000戸、2009年373戸で、現在は137戸になっている。
こうした中、養蚕を後世に残そうとする動きも出てきた。元消防士の毒島吉一さん(62)=伊勢崎市羽黒町=は昨年9月、青木さんから譲り受けた蚕種を家の車庫で育て、繭30キロを生産した。「伊勢崎の発展の基礎を築いた養蚕がなくなるのは寂しい。当面は青木さんのもとで学びたい」と力を込める。
下仁田町でただ1人、養蚕を続ける石井昭一さん(79)=下小坂=は本年度、県の蚕糸業継承対策事業に参加して増産に取り組み、前年度の約1.7倍の384キロの繭を生産した。「代々受け継がれてきた養蚕の灯を絶やさないよう、健康である限り続けたい。若い人も興味を持ってほしい」と話す。
県は本年度、蚕糸業継承対策で増産に取り組む農家に対する補助を拡充。繭生産量は47.4トンとなり、32年ぶりに前年度を上回った。県蚕糸園芸課は「民間企業や若手農家の参入を推し進めたい」としている。
富岡製糸場(富岡市富岡)のある富岡市で本年度に繭を出荷した農家は15戸、高山社跡(藤岡市高山)のある藤岡市は5戸だった。
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群馬県産絹糸で白無垢 80着を紹介 高崎
2016年2月1日(月) AM 06:上毛
群馬県の絹文化を守り伝えていこうと「ウエディングファッションショー」が31日、高崎市江木町の結婚式場で開かれた。
生演奏を交えながら婚礼というハレの日を祝う和洋の衣装約80着が紹介された=写真。
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群馬県民スレPart3
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