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現代人が納得できる日蓮教学
83
:
乾闥婆
:2005/07/25(月) 16:04:12
>>79
>たとえば、日蓮の信仰姿勢というのは、まさにこのような納得ずくめで確立されたものであると、わたしには映じます。
もちろんそのようにして蓮祖は突き詰めてゆき、自身の信仰に至っているのだと思いますが、蓮祖はその突き詰めたぎりぎりの段階で一気に飛躍する人間であると考えています。唱題行の提唱など、学問的に突き詰めて納得した果てに、その向こう側へと突き抜けて誕生した易行形態なのではないでしょうか。開目抄にしても、その信仰者としての自覚は、「鎌倉当時に考えられる最高水準の「学問」をもって自身納得していった」ことを前提としながら、その体験を通しての大きな飛躍を垣間見せる遺文であると思うのです。
>「せめぎあう」ですか。それは不条理、納得できないことを、それでも信じたいという心があるからでしょうね。そこを過ぎると、せめぎあいは消えていきます。
私の心の中ではもはやせめぎあってはいないのです。物語を物語としてきちんと認識していれば、物語はその外部へと自身の物語世界を押し広げていく必要がないからです。しかし外から見ると、また違ったように映ることでしょう。たとえば蓮祖の非科学的な信仰から、その精神だけを取り出して、うまく社会に受容されえたとしても、唱題行、虚空会の儀式、といった「物語」はその信仰を保つ者以外にはよく理解し得ない、「納得」されえない部分として残ると思います。そこは結局信仰の内部と外部の融合し得ないラインとして残り続け、せめぎあい続けると思います。心の内部のせめぎあいではなく、内部と外部のせめぎあいという構造的な問題はどこまでいっても残り続けるだろうといったことを言いたかったのです。
>また、自分一人で納得するだけであれば独り善がりです。
そうですね。そこは私がこれからも考え続けていかなければならない問題点です。ただ社会的受容と、宗教の個人的受容は、分けて考えなければなりません。もちろん社会的に受容されえないような行動は慎むべきです。しかし宗教の個人的受容の社会的連帯ということは難しい問題であると思います。今後創価学会や既成教団はそのような連帯の機能をうまく果たしえるのでしょうか。宗教の、信仰としての個人的受容の、その社会化は、一歩間違えれば結局オウムや創価学会の様な形態に至ってしまう危険性を孕んでいるのだと思います。
>わたしは現代の水準で納得がいけば、あるいは信仰というカードをもう一度手に取るかも知れません。
現代の水準とは科学的基準をクリアする必要が生じると思います。それは非常に難しいのではないでしょうか。ある意味、初期仏教がそれに近いのではないかと考えます。八正道と四聖諦ですね。それは犀角独歩さん自身も触れられていることでした。
>このような一面もあります。しかし、それだけではない、その点を模索したいというのが「納得」というテーマです。
了解いたしました。物語ということは置き、今後のこのスレッドを拝読させていただきたいと思います。また考えのあるときは書き込みに参加させていただきます。
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