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現代人が納得できる日蓮教学

275犀角独歩:2005/10/11(火) 06:53:42

一字三礼さん

274のご投稿、たいへんに興味深く拝読しました。

> 化城喩品第七…薬王菩薩本事品第二十三

Kern 訳では以下のとおりで、仰るように無量寿仏です。

Tathâgata named Amitâyus(CHAPTER VII.ANCIENT DEVOTION.)
Amitâyus(CHAPTER XXII.ANCIENT DEVOTION OF BHAISHAGYARÂGA.)

それに対して、たしかに観音経のみ、無量光仏となっています。

the Chief Amitabha,(CHAPTER XXIV.CHAPTER CALLED THAT OF THE ALL-SIDED ONE, CONTAINING A DESCRIPTION OF THE TRANSFORMATIONS OF AVALOKITESVARA.)

> アミターユスの方が仏格成立が古い…その発生場所自体が異なる…

なるほど。そして、観音を伴うのは無量光仏であるということですね。
一字三礼さんに申し上げるまでもありませんが、法華経に現れる観音は、「観自在」とするほうが正しく、「観世音」は合成語理解の混同から生じた訳だというのが岩本師の解説でした。「あらゆる方角に顔を向けたほとけ」とは、 Samantamukha という別名を充てたということでした。この点は岩本師は Kern/Nanjiou の英訳を踏襲しているのだろうと見えます。

> 「正法華経」
こちらの漢訳は実に難読で、対照するのに骨が折れますが、観音に相当する菩薩は「光世音」と訳されているわけですね。ここでも、無量光仏に該当する箇所はないようでした。

いちおう、『添品妙法蓮華經』でも当たってみましたが、無量光如来(Amitabha)に該当する章句は、やはり、ありません。

> 欠落していたのではなく、後代に付加

なるほど。たしかにこの見方は説得性があります。

> 岩本師の採用したテキストがかなり新しいもの

岩本師が、というより、Kern 師・南条師本が、ということですね。

Saddharmapundarika,ed.by H. Kern and B. Nanjio, St.-Petersbourg 1912(Bibliotheca Buddica X)

実際のところ、羅什が翻訳した梵本法華経と、Kern/Nanjiou 本、特に観音・陀羅尼のあたりでは、相違が著しいわけです。元より、違うテキストによる二つの訳を並べて編集するという岩波文庫『法華経』の編集方針というのは、感心しません。

話が横道に逸れましたが、一字三礼さんのご指摘からすると、

Amitâyus > 羅什翻訳梵本成立 > 羅什訳 > Avalokitesvara(Samantamukha)/Amitabha > Kern/Nanjiou 本

という成立推移があるということになるのでしょうか。


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