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現代人が納得できる日蓮教学
262
:
乾闥婆
:2005/10/09(日) 00:44:02
古池さん、犀角独歩さん。該当箇所を以下に引用します。
引用開始
仏教思想を空の系統と有の系統に分けるとすれば、法華経は有の系統に属するというべきであろう。法華経の前半の「一乗」の思想にしても、後半の「仏心常住」の思想にしても、「実在」に立脚する思想である。そこにはまだ「仏性」が明確に打ち出されてはいないが、発展すればこの思想になっていくものと考える。(中略)
法華経が「有」の立場に立つことは、法華経が「信」を重視することにも関係がある。信仰は実在を対象とするからである。法華経には随処に「信」について説いているから、それらを検討することによって、法華経の信の性格を明らかにする必要がある。
法華経が有の立場に立っていることは、法華経に「空」の教理がきわめて少ないことからも考えられる。法華経には、空の思想は断片的に見られる程度である。たとえば信解品に、四大声聞が声聞としての自己の悟りを述べる一節に「但だ空・無相・無願を念じ」とあるが、ここに深い意味は認められない。つぎに「薬草喩品」に、如来が「一相一味の法」を知ることを説明する一節に「終に空に帰す」とあり、さらに偈頌の中に「諸法の空を聞いて、心大いに歓喜す」とあるが、両者ともにその空の説に特に重要な意味は認められない。さらに「法師品」に法華経を法師が、「如来の室に入り、如来の衣を着し、如来の座に坐して」説くことを言うが、つぎに、如来の室とは一切衆生の大慈悲心のことであり、如来の衣とは柔和忍辱の心のことであり、如来の座とは「一切法空是れなり」とある。ここには空に安住することを如来の座となしているのであり、空に重要な意味を認めている。さらに「安楽行品」に第二の親近処を説くうちに、菩薩は「一切法を観ずるに空なり、如実相なり、顛倒せず、動ぜず、退せず、……」と観ずることを説き、さらに「一切諸法は空にして所有なし。常住あることなく、亦た起滅なし」等と説いている。
法華経において、「空」を説く教説は大体以上で尽きるのである。これらは、法華経全体から見るならばわずかな教説である。しかも他の教説に附随して説かれている場合が多い。しかしもちろん「空」は大乗仏教の基本的な教理であるから、法華経においても肯定的に取り扱われている。しかし空を基調にして、教理を展開しているとまでは言えない。そのことは般若経や維摩経等の空の取り扱いと、法華経とを比較してみれば明らかである。ただし本田義英博士は、その『法華経論』に「地涌の菩薩を以って蓮華に譬えるということは、法華経の立場が般若空観であることを示す、云々」と述べて、法華経の立場が般若空観にあると見ておられる。しかし地涌の菩薩を蓮華に譬えることだけで、このように結論することは無理であると思う。蓮華が泥に染まない点に無執着の意味はあるであろうが、しかしそのことは空思想に限るものではない。如来蔵思想にも「自性清浄心、客塵煩悩」の思想があるが、これも自性清浄心が煩悩に染しないことを示している。しかも『小品般若経』や『大品般若経』には、とくに蓮華を重視する思想は見当たらない。さらに蓮華を空思想や他の教理に譬えているところも見当らない。したがって蓮華の譬を般若経に結びつけることは困難であろう。
すなわち法華経は、空系列の経典であるよりも、真如や如来蔵思想に発展してゆく有の系列の経典と考えるべきである。
引用終了
『講座・大乗仏教4法華思想』(春秋社)平川彰「大乗仏教における法華経の位置」(P41-43)
法華経を空の系列と有の系列のどちらかに振り分けるということ自体にはあまり意味はないと思いますが、大乗仏教が展開してゆく過程に法華経を位置づけるとどう見えるのか、といったことを提示してみた、といったところでしょうか。
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