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現代人が納得できる日蓮教学

234犀角独歩:2005/10/04(火) 10:20:40

―233からつづく―

対して、松山師は、法華経における合成語を考えるのであれば、同時代の、もしくはそれ以前の、類似した用法を参考にすべきなのだと指摘します。

たとえば、narasimha という合成語の場合、nara は人、simha は獅子であり、これを以上の次第で訳せば、この人は獅子のごとしとなるが、実はこれまったく違う、narasimhaとは頭が人で体が獅子であるという想像上の生き物を指しているといいます。
また、nabhipundarika という場合、臍(nabhi-)が白蓮のごとし(pundarika)というのではなく、これは Visnu(ビシュヌ神)の臍を意味する合成語で、まさにビシュヌ神 の臍は白蓮そのものなのだといいます。また、一つの例なのでしょうが eka-pundarika という合成語の eka は「唯一の」ということで、であれば「唯一の白蓮華」となりますが、しかし、これは白象の名前として文献に載ると言います。白象は国の宝であり、大切なものであることからこの名前が付けられたとのことですが、名が白蓮でも、その実体は象であるという例です。

この pundarika という語は白蓮というのがもはや常識となっていますが、2000年前から1000年前の文献を見ると一概にそうとは言えないとも言います。

これは既に常識になっていることですが、法華経原典では、pundarika のほかに padma が使用されるわけで、経典=pundarika に対して、地涌菩薩は padma になっており、白蓮と紅蓮の相対関係があることが指摘されます。(なお、ここで考証するのに関連するかどうかわかりませんが padma の末尾が padm[-/a](aの上に-が付く=音を伸ばす、強いてカタカナで書けばパドマー)となると、女性形)

また、pundarika は白蓮ばかりではなく、虎(インドにおける最強の獣)を意味することもあり、上記、 nabhipundarika の用法に見られるように、松山師は、しばしば Visnu との関連で語っていました。師が仰ったことではありませんが、以上のことから法華経の成立とその経題は、Visnu 信仰と何らかの関係があるのかという思いを起こさせます。また、羅什が「慧日大聖尊」(方便品)と訳した naraditya は、nara は人間、aditya は際限のないものという意味で古くから太陽を指す語であると言います。これを、岩本師は「人間の太陽」と訳すわけですが、先に見宝塔品に使われる saddharma-pundarika が釈尊を指し、この pundarika は天上の白蓮=太陽に対応する地上の太陽を意味するので、ここから類推すると地上の太陽である白蓮=釈尊は地上にいる人間の太陽的な存在であるという意味なのでしょう。通じて、考えるとき、Visnu に使う pundarika 、また、naraditya という釈尊に対する形容を示す古層に属する方便品の合成語は、法華経を産んだ先行文化の影響を窺わせるようで興味深いものがあります。

それはともかくとしても、以上の用法と併せ、saddarma が agradharma に代わり、散文で使用されるに至る過程も踏まえて、法華経の経題は訳さなければならないというのが松山師の主張です。では、何と訳すべきかということになりますが、実はこの点は、講義が現代進行形であり、今回の講義では、その答は示されませんでした。

また、松山師は漢訳仏典に記される訳出年代は疑ってかかること、また、学説は頭から信頼しないことと常に注意を促します。

以上、敢えて、横道に逸れ、昨日の松山師の講義に触れたのは、現段階では、学術的見地からしても、現代人が納得できる日蓮教学を考える前提の依経である法華訳、それも経題一つを取ってもかくのごとしであるという現実をロムの方に知っていただこうと思ったからです。


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