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現代人が納得できる日蓮教学
198
:
乾闥婆
:2005/09/29(木) 22:50:50
>>195
犀角独歩さん。
私も『仏教の思想 第8巻 不安と欣求<中国浄土>』の塚本善隆氏による説明以上のことは知らないのですが、引用してみます。
引用開始
廃仏皇帝下に潜在した信行や道綽は宗教が現在の身に実践され体験されるものでなければならぬことを身をもって味わった。それは仏教が高遠な教理を誇っても、時代と場所から遊離し、今の時限に、この身自体に、体験に進みえぬならば、救いを目的とした宗教としては意味がない。インドの仏教を学ぶことは尊いが、しかしそれが「今」、「ここ」で、「すべての人」に実践され体験されうること、時と人とに適応するか否かが、第一問題である。信行は仏教を三時代に分かった。
第一階 一乗別教 仏滅後五百年間、一乗教の賢者が一乗教を修学してさとりを得た。
第二階 三乗別教 その後千年間、三乗の賢者(声聞・縁覚・菩薩)がそれぞれ三乗の教えを修学してそれぞれのさとりを得た。
第三階 普教 仏滅後千五百年以後、つまり現代では、人は共通に「凡愚」と「罪悪」にして聖賢ではない。その社会も罪悪から離れることができぬ。仏典にいう「五濁の悪世」である。すべての仏教に対して「普敬普行」してさとりに進むのみである。
われらは仏典にいう「生まれながらの盲目の凡人」に等しく、聖者の経論を価値批判のできる能力を持たぬ。しかるに現代の仏教界では、学僧がそれぞれの博学を誇り賢者ぶって、あるいは『法華経』こそ勝れたものだとし、『法華経』を立てて他の経の下位従属性を定め、あるいは竜樹仏教を最勝のものとして他仏教を従属的に配列し、あるいは『涅槃経』、あるいは『華厳経』を最勝として宗を立てて他の諸経を批判して仏教体系を立てる。このような聖典批判は聖者のみに許されることで、生盲の凡夫には許されざる越権であり、それは「正法を誹謗する堕地獄の大罪」である。それを現代の仏教学者は「教相判釈」あるいは「教判」と称して競い行って、各別の自宗を立てる根拠として、みずから誇り他宗をそしっている。「時」と「人」とを忘れた仏教学の遊戯、否、地獄行の罪を犯すもので、その宗はすぐれた教義であるが、今の世、今の人、罪悪社会にまみれて生活する凡人を救うになんの効力もないものである。正法、像法時代の聖賢を救った過去の仏教である。少なくとも選ばれた賢者のみの仏教である。
諸仏や浄土に優劣を論じて、アミダ仏に帰命せよ、ミロク仏のみをおがめ、などという罪深き論争をやめよ。一切の仏に一切のボサツに普く恭敬礼拝をささげるのみが、生盲の凡人われらに許された行である。一切の仏・ボサツを拝するのみならず、仏は「一切衆生に悉く仏性あり」と説かれたではないか。すべての人はいまこそ罪悪にけがれているとはいえ、「将来仏」「仏性仏」であるとおがまれる人々だ。人々よ、すべての個人の尊厳を認めてたがいに将来仏よ仏性仏よとおがみあうこと、「普敬」こそが現代仏教の実践行である。罪悪にまみれた穢土も、これによって浄化の第一歩を踏み出すのである。人間だけではない。悪魔さえも「邪魔仏」と拝してこそみずからをはげましてくれる。そのような実証が当時もっともよく読誦研究され、天台宗の開創にまで進ませた『法華経』に明示されているではないか。
常不軽ボサツは、仏の滅後、仏法滅尽しようとするときに生まれたが、おおよそ人を見れば「われ深く君らを敬う。敢て軽んぜず。君らは当に仏となるべきが故に」と礼拝し賛嘆した。彼らはかえってこのボサツを気狂い扱いをして悪口罵詈し、杖をふりあげ石を投げようとする者もあったが、それでもボサツは走り避けながら「われ敢て君らを軽んぜず、君らは当に仏になる人だから」と礼敬をやめなかった。この常不軽の行をつづけることによって、ボサツはさとりに到達したとあるではないか。
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