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現代人が納得できる日蓮教学
152
:
犀角独歩
:2005/08/07(日) 11:14:55
乾闥婆さん
> 実のところ私自身の思いなど解体されていい
これはわたしもそのように考えています。
要は事実は何か、これだけです。
> 止観は菅野博史氏「一念三千とは何か」
菅野師の岩波文庫『法華経入門』は、いまでは定番になりました。わたしは一読して、納得できるところもあり、首を傾げたところもありですが、日蓮宗の僧侶でも、この師以上の法華経解釈は現在ではないという人はいます。
それはさておいて、乾闥婆さんは止観を難しいものとしてとらえていらっしゃるようですが、これは「難しい」という暗示にかかっていませんか。「像法の仏、薬王菩薩の化身といわれる天台大師が説かれたことだから、容易に理解できるはずはない」という暗示です。この手の暗示は「ご本仏である日蓮大聖人が説かれたものが理解できるというのは増上慢」だというような暗示もあります。しかし、論理的な言語であれば、読めば理解できます。
止観も別段、そんなことはなく、実に論理的に書き進み、さらに使用する言葉も逐一説明しながら書かれてあります。最初から順々に読んでいけば、理解できます。文章量が多くて挫折するようでしたら、小止観(略明解蒙初学座禅止観要文)からお読みになってみればよいと思います。ただし、これらは止観禅の解説書ですから、実際に参禅、観念観法をする具体的な態度がないと、「一念三千は生命の諸相」などという漫画みたいなことを言い出すことになります。三千不可思議境は、あくまで止観という参禅法で、己心をどのように観ていくかという話です。実際の大脳が織りなす神経信号とは違いますし、生命など問題外です。それもたった三千に分類してみる観察法です。これが難しいと思うのは、たぶん、いまの唱題の在り方が、ここから離れてしまったからでしょう。祈願唱題のように「これがほしい、ああしたい、こうなりたい」と欲望逆巻き、集中してたくさん唱えれば願いが叶うという在り方に対して、参禅は、何故そのような欲望を自分は懐くのだろう、その欲望の正体は何か、いな、その欲望を懐く自分自身の心、その欲望を懐いた自分と周囲はどうなるのかという点を観察していきます。そんな観察はついには菩薩、仏に及んでいきます。
観じられる十法界、三千法界もさることながら、このような観念状態にある脳波は穏やかで、心身によい影響を与えることも実感できます。たぶん、日蓮が考案した唱題行も、この道からぶれなければ同じ止観禅の、発声(唱題)を伴った行の範囲であったのかも知れません。
> 久遠実成の仏とは凡夫の我らが心のうちにある
正確には衆生が心の内でしか観じられない仏法界ということですね。
ところが一念三千の観法といいながら、その根拠となる法華経に始まって、日蓮の本尊抄にしても、観仏法界については記されません。これは当然で、法華経は「如是我聞」が前提で、記したのは仏ではなく、日蓮もまた仏ではありませんから、仏の正確な記述ができるはずはありません。だからこそ、法華経は「教菩薩法」なのでしょう。寿量品も、一念三千の最後の三妙合論も、その記述から類推するしかない仕組みが、ここにあります。
なお、乾闥婆さんが記されるところは、所謂、凡夫本仏論ですが、これは『秘密荘厳論』の所説を、派祖に当てはめるふりをした法主本仏論という作為に始まるものであるとわたしは見ます。つまり、日蓮のあずかり知らない考えです。最蓮房系疑偽書に倶体倶用の三身などということも改竄であり、天台の意図とは違っています。
そんなに凡夫本仏がいいたいのであれば、凡夫教と名前を変えればいいと、わたしは常々思っています。また、実際、学会を含む石山信者の欲求はまさにそれで、未来成仏を願うと言うより、生々世々に善処に人間に生まれることを欲求の中心になっています。これでは仏教になりません。人教です。しかしながら、唱題活用の欲望実現のための祈祷、換言すれば、法華経の密教化と転落はしかし、日蓮その人にも責任があるようにわたしには思えます。止観が忘れ去られるのも故無くもありません。
> 事実へ向かい合うことによって生じる苦難に屈しない、という信念
この点はもちろん同意です。
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