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現代人が納得できる日蓮教学

149乾闥婆:2005/08/07(日) 00:05:52
>>124
犀角独歩さん。

>今回の乾闥婆さんのご投稿は、現代人が納得するというより、ご自身がこのように「納得していたい」というニュアンスと、わたしは読めました。

そうですね。といいますか、私は現代人ですので、その私がどのように納得しているのか、そしてその納得はどのように解体されうるのか、解体された後にどのような納得が残りうるのか、そういった行程を踏まえる上でのひとつのサンプルとして、自分があればいいと思っています。実のところ私自身の思いなど解体されていいのです。

>ここで乾闥婆さんは、一つの思弁上の混乱を来しています。これは多分、たとえば天台の止観の実践的な意味を読み取っていないためではないかと観察します。止観は全編をお読みになりましたか。

止観は菅野博史氏「一念三千とは何か」に正修止観章の冒頭から観不可思議境までが現代語訳されており、そこだけ読んだことがあります。しかしよく分かりませんでした。岩波文庫版は手元にありますが、おそらく読んでも今の私の力ではよく理解できないでしょう。いつかは取り組んでみたいと思っているのですが、なかなか勇気が出ません。

>>125

正直、驚きました。

>ここで日蓮が言う「己心に観じる」仏菩薩というのは、印度応誕の釈尊、八品来還の地涌菩薩ではありませんよ。

>そして、実際の菩薩道、成仏はいわばその追体験で可能になりますが、釈尊の三妙合論は衆生の体験ではありません。釈尊の霊山永遠の説法は我等の己心ではありません。これは釈尊=仏側のことです。しかし、我々はそれを己心でしか観じられないことを「一心欲見仏」から読むのが天台法華教学であり、日蓮が受容したところでした。

>いまここ娑婆世界(霊山)に釈尊は説法し続けている体感を、日蓮は南無妙法蓮華経と絶唱し、寿量本仏・仏像を祀る寺院の建立も予言するのが本尊抄です。

私は久遠実成の仏の側へ同化する行為を、曼荼羅へ向かっての唱題に見ておりました。ゆえに久遠実成は理念として己が心に観じられるものであり、そこ以外に久遠実成の仏はありえないのだと、考えていました。久遠実成の仏とは凡夫の我らが心のうちにあるのだと思っていました。愕然としております。


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