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現代人が納得できる日蓮教学
124
:
犀角独歩
:2005/08/05(金) 09:44:02
乾闥婆さん
ここでのテーマは「現代人が納得できる日蓮教学」ということですので、やや論点がずれてきてしまいましたね。しかし、押さえておくべき点がいくつかありますので、やや脱線して記させていただきます。
今回の乾闥婆さんのご投稿は、現代人が納得するというより、ご自身がこのように「納得していたい」というニュアンスと、わたしは読めました。
ここでのテーマは、日蓮がどのように考えていたかというのが一つ、次にその間替えのどの部分が21世紀でも通用するかが第2番目に考える事項というのが、当スレッド参加の意義と考えています。
> 久遠実成…現実相を超えている
日蓮の記述から、それを理念とするような‘不信仰’な記述は見られないと思いますが。
つまり、現代科学から見れば、ということではないでしょうか。
故福島源治郎さんが…学会は蛇蝎のように嫌いますが、わたしは蘇生の会の勉強会に何度か出たことがあります。しかし考えはまったく違いますが、それでも、…五百塵点劫を時間的に遡ったら今の宇宙すら存在していなかったはずだと言ったのをいまでもよく覚えています。しかし、これは今の科学的な成果を知っているからこその発言であるわけです。古代インド人にしても、上古鎌倉の日蓮にしても、四劫(常・住・壊・空)と認識していたとしても、十界衆生は永遠流転のものであったと思っていたはずでした。
乾闥婆さんは理念と実態と言う言葉をよくお使いになりますが、わたしはこの点に注目し、この言説を読むたびに、日蓮門下教学で言われる理事の三千が彷彿としします。
日蓮は理念は天台によっています。しかし、日蓮の自覚は、そこに留まりません。それまで、末法の初を在世以上に重んじ「仏意を推知するに、仏の出世は霊山八年の諸人の為に非ず。正像末の人の為也。又、正像二千年の人の為に非ず。末法の始め、予が如き者の為」と宣言する日蓮の自覚は、理念であるはずはありません。日蓮が求めたものは、常に釈尊が法華に、天台が釈義に記した理念が現実となる時を「末法今時」と睨んだ現実、乾闥婆さんの言葉で言えば実態にあります。
> 地涌の菩薩は地涌の菩薩として現れるのではなく、上行も上行として現れるのではなく、ある姿をとって現れる
ええ、もちろん、日蓮はそう考えていたでしょう。具体的には僧となり摂受、賢王となって折伏を為すという具体性です。つまり、自身僧として上行の自覚で摂受、日本を攻める蒙古は梵天帝釈の仰せを被った賢王折伏という具体性でしょう。
> …己心に観じるがゆえに、「経に云く_我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数等云云。我等が己心の菩薩等也。地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属也」といった言葉も出てくるのではないでしょうか。顕現されるものは実態的なものであるよりも、むしろ理念的なもの
ここで乾闥婆さんは、一つの思弁上の混乱を来しています。これは多分、たとえば天台の止観の実践的な意味を読み取っていないためではないかと観察します。止観は全編をお読みになりましたか。
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