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現代人が納得できる日蓮教学

121乾闥婆:2005/08/04(木) 21:42:33
>>107
犀角独歩さん。

>日蓮は「無始古仏」を言います。となれば、それは仏菩薩を己の心に観るという宗教的な境地であるにせよ、実際の上行の出現を待つ日蓮にとって、これが理念であるはずはありません。

久遠実成は、やはり現実相を超えていると思います。問題は蓮祖のその時代、久遠実成ということが、どのように受け止められる事態であるのかなのだと思うのです。「地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子也。寂滅道場にも来らず、雙林最後にも訪わず、不孝の失之有り。迹門十四品にも来らず。本門六品にも座を立ち、但、八品の間に来還せり。是の如き高貴の大菩薩、三仏に約足して之を受持す。末法の初めに出ざるべきか。当に知るべし、此の四菩薩は、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」。地涌・上行の出現とは理念の具現化ではないでしょうか。地涌の菩薩は地涌の菩薩として現れるのではなく、上行も上行として現れるのではなく、ある姿をとって現れるはずです。蓮祖の待つ「実際の上行の出現」とは法華経に語られる虚空会「八品の間に来還」した菩薩群の現実相における、ある姿をとった顕現であって、それを待つからといって蓮祖か観じた己心の仏菩薩が理念ではないとはいえないのではないでしょうか。己心に観じるがゆえに、「経に云く_我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数等云云。我等が己心の菩薩等也。地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属也」といった言葉も出てくるのではないでしょうか。顕現されるものは実態的なものであるよりも、むしろ理念的なものなのであると思います。

>真跡遺文に「虚空会」はただ1回しか記述されていません。

確かに驚きました。しかも「霊山虚空会」とセットになった表現ですね。虚空会と霊山会は切り離せない関係にあるのですね。しかし虚空会で語られるところの久遠実成が、現実相を破るものであることには変わりはないのではないでしょうか。そうであるから「霊山虚空会」に参加している諸菩薩は驚き不審に思うのでしょうし、蓮祖も法華経の信じがたさとして、久遠実成をいわれるのではないでしょうか。

>虚空会は永遠の説処ではなく、後霊鷲山会が始まれば終了します。つまり、常住此説法は、「霊山一会儼然未散」、寿量品で言えば「常在霊鷲山…我浄土」、すなわち霊山浄土です。虚空会が久遠の儀式であるという考えは、日蓮のみならず、天台にもありません。

確かに虚空会自体は永遠の説処ではないのですね。了解いたしました。虚空会は永遠が語られる舞台ではあるのでしょう。しかし後霊鷲山会が始まっても、虚空会にて語られた「常住此説法」の釈尊像は残像として残り続けます。法華経は二処三会・八年の説法ですが、蓮祖は「今、本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり。仏、既に過去にも滅せず未来にも生ぜず。所化、以て同体なり。此れ即ち己心の三千具足三種の世間也。迹門十四品に未だ之を説かず。法華経の内に於ても時機未熟の故か。此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては、仏、猶お文殊・薬王等にも之を付属したまはず。何に況んや其の已下をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付属したもう」と虚空会の付属を持って、娑婆世界に常住浄土を見、仏の常住を見ています。そのこと自体は後霊鷲山会が始まっても、消え去らない観念なのだと思います。法華経の二処三会という構造の中でも、語られるところの久遠実成は現実相を超えていますし、そのことを蓮祖は正面から見ていると思うのです。そしてそのような釈尊や菩薩を内在化しているのではないでしょうか。


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