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現代人が納得できる日蓮教学

107犀角独歩:2005/08/02(火) 20:36:51

乾闥婆さん

> 蓮祖…久遠実成の釈尊と他の始成正覚の釈尊とをどのような整合性

これは整合性というより従浅至深、前判御判、また、五重相対と言われるところの権実、本迹相対の見地でしょう。

> …久遠実成とは実態性のない一種の理念的存在…蓮祖は実態的に見ていた…我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所願の三身にして、無始の古仏也…信仰者による内面化・理念化

「現代人が納得する」という当スレッドのテーマからは離れますが、これはつまり、「理・事の一念三千」という教学的な姿勢に回答が為されている点ではないでしょうか。

地涌菩薩を、日蓮は三度しか出現しないと限定しています。久遠下種・初発心、三千年前法華説処付属、そして末法の初めの五百年の流通です。五百塵点劫を永遠と見る教学的姿勢にわたしは反対の立場ですが、しかし、日蓮は「無始古仏」を言います。となれば、それは仏菩薩を己の心に観るという宗教的な境地であるにせよ、実際の上行の出現を待つ日蓮にとって、これが理念であるはずはありません。

> 虚空会はまさに、時間・空間を現実相から飛び越えて永遠の相へと没入してゆく装置

乾闥婆さんの宗教的体験は、日蓮とは違いますね。
乾闥婆さん、モニターから目をそらし、少しうえを凝視してみてください。壁でなく、天上でもなく、その中間にある空間です。それが虚空です。もっと正確に言えば、霊鷲山から仰ぎ見た天空、そこが虚空です。虚空会には元来、乾闥婆さんが仰るような意味は有していません。
多分、乾闥婆さんは驚かれると思いますが、真跡遺文に「虚空会」はただ1回しか記述されていません。

「阿弥陀仏等の十方の諸仏は各々の国を捨てゝ霊山虚空会に詣で給」(下山御消息)

もちろん、二処三会という教学的用法は日蓮が用いるところですが、これは説処をいうものであって、虚空会は永遠の説処ではなく、後霊鷲山会が始まれば終了します。つまり、常住此説法は、「霊山一会儼然未散」、寿量品で言えば「常在霊鷲山…我浄土」、すなわち霊山浄土です。虚空会が久遠の儀式であるという考えは、日蓮のみならず、天台にもありません。

つまり、乾闥婆さんが「虚空会」という記す宗教的な思弁は、「霊鷲山・浄土」のことでした。


> 法華経では、虚空会の儀式において末法における正法流布の参加者への付嘱があり、虚空会を終えて現実世界へ立ち戻ってのその実践がある

残念ながら、このような思弁は日蓮にはないと思います。
ただあるのは、上行菩薩塔中付属の正体が、妙法蓮華経であるという自覚ではないでしょうか。日蓮は虚空会に永遠を観、現実と往還するような思弁はなかったのではないでしょうか。ただ、あるのはこの世界は釈尊の御領であり、正法とは南無妙法蓮華経であるという思弁ではなかったでしょうか。

> …唱題も、曼荼羅も、振り切れない

乾闥婆さんは、日蓮が、別々に考案した漫荼羅と唱題に関連性を見出した派祖教学から、そこに虚空会を見、永遠性に意義を感じるという宗教的な感得を体験的に取得されたのであろうと思います。その在り方は、概ね、わたしが再考するに日蓮その人の意図とは違っているとは思えます。ただ、わたしにある興味は、では、日蓮が考えた形のままでやればどうなるのかという点です。

しかし、乾闥婆さんの漫荼羅唱題を否定的に捉えようと言うことではありません。しかし、ただ、乾闥婆さんがご覧になっている世界には先があるということです。


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