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現代人が納得できる日蓮教学

106乾闥婆:2005/08/01(月) 22:27:27
>>102

>現代社会における理念と現実の乖離が、宗教の存在意義とどう関わるかという問いに解があれば、それは現代人を納得させうる力となるでしょうね。

私は宗教にしろ文学にしろ、その重要な役割は世界観の提示であると思っています。理念をその世界観によって提示する、そのことで現実社会を引っ張る。しかし、そのような提示された世界観に説得力がなければ、それらは力を持ちえません。また世界観の提示は危険な方向へと現実社会を引っ張る力さえ有しています。

>乾闥婆さんは、たとえば、漫荼羅に向かっての唱題によって得られる極個人的な体感を宗教であると考えますか。わたしは違います。野放図、ぐうたら、自己中心的、社会のことも考えない自分が、苦・空・無我・無常という達観に到達し、かえって対個人、対社会に対して行動しようと言う精神と行動にわたしは宗教を見ます。

私はその両面を不可分であると考えています。不可分であるから宗教であるのだと。分離しうれば、それは宗教の名を冠さずともいいのではないでしょうか。哲学であり、思想であると。その意味で、初期仏教は宗教であるよりも、むしろ哲学であるように思います。ギリシャ哲学が宗教にならなかったように(キリスト教への影響はあったでしょうが)、仏教も宗教にならない道がありえたのではないかと考えます。

>他に与えられた漫荼羅を複写して使うことを日蓮は考えていたか、また、万人共通の大量生産される漫荼羅(形木から印刷まで)を考えていたか、どうか。もし、考えていなかったとすれば、漫荼羅を拝むという日蓮以後の発想と共に、それを日蓮に仮託して拝むことの説明もまた、併せて考えなければならないことでしょう。

そうですね。そこは意識して考えていかなければならないと思います。蓮祖以後の受容の中で曼荼羅の構造にたとえば日蓮本仏論などの影響はあるのでしょうか。私はその部分からは抜け出てしまっているので(また本門戒壇之第御本尊からも)、曼荼羅へ向かって唱題をしていても、その中心に蓮祖がいることはないのですが。いずれにしても蓮祖自身の思弁の中にそれはないのでしょう。そのような認識の下に達師や寛師の曼荼羅に向かうのはもはや違っているのかもしれません。

>虚空会と思って見た世界は(わたしが涅槃経の所説を引用するのはなんですが)魔仏の世界である可能性は視野に入れてはいらっしゃらないのでしょうか。

私は結局のところ曼荼羅は道具であるのだと思っています。私の意識内の問題として魔があるのであれば、魔仏の世界に魅入られているのだと思います。

>これは、創価学会人間革命で言うところで、本尊相伝とは違います。

それが本尊三度相伝なのですね。「人間革命」第一巻に出獄したばかりの戸田氏が自宅にある曼荼羅を手に取り、じっと見つめるシーンがあります。「彼は心につぶやきながら、獄中で体得した、不思議な虚空会の儀式がそのままの姿で御本尊に厳然として認められていることを知った」とあります。もしかすると、創価学会自体が富士門流と違って受け止めているのかもしれません。


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