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現代人が納得できる日蓮教学

102犀角独歩:2005/07/30(土) 11:16:45

―101からつづく―

> 理念と現実との乖離は現代社会においてますます大きいとは思われますが、それゆえに宗教のあり方やその存在意義が問われる

現代社会における理念と現実の乖離が、宗教の存在意義とどう関わるかという問いに解があれば、それは現代人を納得させうる力となるでしょうね。しかし、いまの学会を含む石山は自集団と指導者がいちばん素晴らしいという宣伝マンであることが信仰であると思う倒錯心理に陥っています。また、体験は、自己実存の‘藁’として、信仰者が手放さないものになっていませんか。

> 蓮祖の現代的受容とはそのような時代の相違を踏まえながら、なおかつ現代人にとってどのように有効かを考えなければならないのでしょう。

そうですね。その具体的な答がなければ、やがて、日蓮門下は死滅するでしょう。その壊死は既に始まっています。止められるかどうかは、理解しない一般人が悪いのではなく、その納得する日蓮を素描できない信仰者側にその責任にあります。

> それはある意味で宗教者の行う慈善事業などへの理解ではありえても、宗教そのものへの理解ではない

ここです、ポイントは。乾闥婆さんは、たとえば、漫荼羅に向かっての唱題によって得られる極個人的な体感を宗教であると考えますか。わたしは違います。野放図、ぐうたら、自己中心的、社会のことも考えない自分が、苦・空・無我・無常という達観に到達し、かえって対個人、対社会に対して行動しようと言う精神と行動にわたしは宗教を見ます。それを菩薩道と換言してもよいと考えています。山林に閉じこもり、人、社会を縁を切って自分の精神世界に埋没するのではなく、法華経から帰結した自己の成果を、人に対し、社会に対して、実現しようとしたところにこそ、わたしは彼の宗教を見ます。一方、生身虚空蔵、不動・愛染感見といった密教的神秘体験は宗教病理、妄想に分類し、評価しません。

> 宗教のその教義内容へと足を踏み入れて現代的受容がありえるのかを検証するのが、この掲示板の重要な意義であると考えております。

まさにそのとおりで、では、その教義内容と成果は、個人が神秘体験か、否、対他的功利性か、後者こそ、実は宗教ではないのかというのが、わたしが問いかけていることです。
>> …漫荼羅…オーダーメイド
> レディーメイド

他に与えられた漫荼羅を複写して使うことを日蓮は考えていたか、また、万人共通の大量生産される漫荼羅(形木から印刷まで)を考えていたか、どうか。もし、考えていなかったとすれば、漫荼羅を拝むという日蓮以後の発想と共に、それを日蓮に仮託して拝むことの説明もまた、併せて考えなければならないことでしょう。

シビアなことを記します。魔札に祈って見られる世界があるとすれば、それは魔界でしょう。日蓮の意図と裏腹の書写漫荼羅は本当に、乾闥婆さんが仰るような虚空会を見せるかどうか、一考を要します。虚空会と思って見た世界は(わたしが涅槃経の所説を引用するのはなんですが)魔仏の世界である可能性は視野に入れてはいらっしゃらないのでしょうか。

> 曼荼羅は虚空会に擬した

これは、創価学会人間革命で言うところで、本尊相伝とは違います。

「今此の本尊大漫荼羅とは霊山一会の儀式を書き顕はす処なり、末法広宣流布の時分に於いて本化弘通の妙法蓮華経を受持せん輩は霊山一会の儀式を直に拝見し奉る者なり」

乾闥婆さんの拝んでいらっしゃる漫荼羅が石山歴代住職のものであれば、以上の相伝に基づいてい記されていることになります。

つまり、ここでも、元来、意図されたこと(霊山一会の儀式を直に拝見)と、ご自身がなさってきた用途(虚空会を見る)されてきたことは違っていたわけです。

これは偽らざる一面の現実です。


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