したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

現代人が納得できる日蓮教学

104乾闥婆:2005/08/01(月) 22:26:18
>>99−100

>ここで思い描かれるイメージは、同様の信仰体験を持つわたしには容易に想像できます。その前提でお尋ねしますが、乾闥婆さんは、どのように「有効」とお考えになるのでしょうか。参考にお聞かせ願えませんでしょうか。

永遠の相に触れる、ということなのだと思います。この側面は多くの宗教に見られるものではないでしょうか。虚空会はまさに、時間・空間を現実相から飛び越えて永遠の相へと没入してゆく装置であると思っています。そして法華経は再び霊山会へと戻っていきます。この往還の図式を再現することこそ、曼荼羅へ向かい題目を唱えることの意義であると思っています。永遠の相に触れることが何を意味するのか、が問われるのだと思います。法華経では、虚空会の儀式において末法における正法流布の参加者への付嘱があり、虚空会を終えて現実世界へ立ち戻ってのその実践があるのだと思います。そうなると正法とは何であるのか、が問題となるのでしょう。そこで私は壁に突き当たります。

正法とは何であるのか、法華経とは何であるのか。犀角独歩さんは明確に「菩薩道、国家安全、世界平和」と言われています。「その菩薩道に基づいて実践され、記録される事実は、わたしは現代の法華経なのだろうと思えます。2000年前に記された物語の法華経とは別に、各人の実践の法華経ということです」といわれています。その件りにこのたびも私ははっとさせられました。

しかし、そのような吹っ切れ方を私はまだできないでいます。それはおそらく犀角独歩さんが「そうして残っていくものは、実は唱題でも、漫荼羅でもないとわたしは思えます」といわれるようには、唱題も、曼荼羅も、振り切れないでいるからだと思います。またそのように振り切れてしまえば、結局日常の現実の生活のなかで、私は永遠の相に触れる機会を失い、ただただ日常の雑事に流されていってしまうのであろうことは、容易に予想されてしまうのです。宗教とはまさにそのような頽落的日常に楔を打ち込むための物語としてあるのではないでしょうか。そういう意味で、私はまだ蓮祖の打ち立てた、そして受け継がれていった信仰は、まだ現代社会の中で有効であると捉えているのです。誰もが「菩薩道、国家安全、世界平和」に直接的に日々かかわり続けられるものではないでしょう。多くの人たちは日常の仕事に追われ、その生活を守るために必死であると思います。そのような中で、しかし、「菩薩道、国家安全、世界平和」を自身の気持ちの上では意識し続けるということを、私はつまらぬこととは思いません。そのような思いを持ち続け、社会生活をまじめに生き抜くための、楔として蓮祖やその受容された信仰が寄与しているのであれば、たとえば、唱題や曼荼羅といった装置を、私はなくてもいいものとは思わないのです。もちろん違法行為に至ることはまったく別問題であり、取締われ処罰されなければなりませんが。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板