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現代人が納得できる日蓮教学

99犀角独歩:2005/07/30(土) 11:14:37

―98からつづく―

> 曼荼羅に向かうことの心的作用としての「効用」はなしとはいえない

これはもちろん、当然のことで、効用はあるでしょう。
この効用については、蓮師の原意、祖意を探求とは別に派祖の段階では、中世の段階では、近代では、また、現代ではと、その変遷を整理して分類することが必要であると思います。

> 虚空会の儀式といった物語は、理念世界として、いまだ有効と捉えています。

ここで思い描かれるイメージは、同様の信仰体験を持つわたしには容易に想像できます。その前提でお尋ねしますが、乾闥婆さんは、どのように「有効」とお考えになるのでしょうか。参考にお聞かせ願えませんでしょうか。

> 地域の幹部としてずっと第一線で活動し続けている父に対し、たとえば近代仏教学以降の知識を示してその信仰心を破るような真似は、私にはできませんでした

なるほど。このようなお気持ちは理解できます。わたしも齢80を超えた母にその説明をする蛮勇は俄に生じません。

> 自身の信仰と社会的存在としての自身のあり方を関係させていいのか、分からずに行き詰っている状況は続いています。

このお気持ちもまた、よくわかります。
乾闥婆さんは学会員なのですね。わたしもかつてそうでした。
わたしは池田さんの指導全部をそのまま鵜呑みに立場にはありませんが、活動家であった頃、聞いた指導の心に残っているものはいくつもあります。そのなかで、正確な文字データは記録していないのですが、概ね、以下のようなものがありました。
「地涌の菩薩であるから実践するのではない。実践するから地涌の菩薩なのだ」
そんな論法の「指導」でした。これを読んでわたしは吃驚した記憶があります。教学的には、こういった論法は禁じ手と思ったからです。しかし、「人は生まれによってバラモンになるのではない。行いによってバラモンとなる」と言った原始経典の説とは、しかし、一致します。つまり、この池田「指導」は卓見であったわけです。(もちろん、池田氏をわたしがいまも尊敬しているかどうかとは別問題、また、その他の点を受容するということとも別問題ですが)

結局のところ、日蓮教説から学べるものは、物語を物語と率直に受け入れたうえで、そこから読み取れる精神の、それも自分(自利)と社会に有益な部分(利他)の抽出という方法しか残っていない、わたしには思えます。

> 物語であるゆえに唯一絶対ではありえない

この点で、わたしは日蓮の無謬性を捨てるしかありませんでした。
ここから、「卵が先か・鶏が先か」のような議論になってしまうのですが、日蓮は、特定の目的成就のために、法華経から、更に南無妙法蓮華經という題目を選び取っていったと思えます。


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