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摂受と折伏について
425
:
ひたち
:2005/06/25(土) 22:34:18
答えましたので、通りすがりさんも答えていただけますね。
426
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 22:34:24
議論に割りこむべからず。
427
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 22:35:48
その答え、まったく不可なり。
正しくは
前: 通りすがり 投稿日: 2005/06/25(土) 22:09:36
大経に刀杖を執持し乃至首を斬れという是れ折の義なり与奪途を殊にすと雖も倶に利益せしむ」等云云、
弘決に云く「夫れ仏に両説あり等とは大経に刀杖を執持すとは第三に云く正法を護る者は五戒を受けず威儀を修
せず、乃至下の文仙予国王等の文、又新医禁じて云く若し更に為すこと有れば当に其の首を断つべし
となり。何ゆえ、此文を避けるや
428
:
ひたち
:2005/06/25(土) 22:38:46
その文を在家折伏とした文はありません。
あるのなら出して下さい。
429
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 22:38:53
424の引文は甚だ以て不可なり。
所以は、大聖人持戒・摂受、持杖を引証すればなり。
持戒を以て折伏に配することは、経釈の引証に違背するのみ。
430
:
通りすがり2
:2005/06/25(土) 22:39:07
>>426
「へたれ」な返事だな。
431
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 22:39:43
428、まったくもって是の如し。故に在家折伏を成り立たずなり。
432
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 22:41:05
通りすがり2殿。貴殿の投稿は、統計地盤のルールに違背する耳。
大聖人門下の掲示板にでも立ち去るべし。
433
:
ひたち
:2005/06/25(土) 22:41:32
424はそのような文ではないですが、読めませんか。
434
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 22:41:35
統計地盤は当掲示板なり。
435
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 22:42:47
433、記すこと、解せず。
何を陳ぶるか。
436
:
通りすがり2
:2005/06/25(土) 22:43:48
>>432
そのルールってのはどこに書いてある?
437
:
みてられない
:2005/06/25(土) 22:45:06
犀角独歩さんと大聖人門下の掲示板を荒らした「通りすがり」と同一人物ではないですか。ひたちさんの正当な反論に窮すると上記のような姑息な問答を繰り返すのは如何なものですか。
本来は人を助けるべきご自分の職業で得た能力を、このような形で使われるとは余りに他を馬鹿にしているのではないでしょうか。真摯に議論するように猛省を求めます。
やはり管理人さんは、犀角独歩さんを守るために、この投稿も削除・移動するのでしょうね。
438
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 22:45:08
大聖人、開目抄に折伏を論じるに
大経に刀杖を執持し乃至首を斬れという是れ折の義なり与奪途を殊にすと雖も倶に利益せしむ」等云云、
弘決に云く「夫れ仏に両説あり等とは大経に刀杖を執持すとは第三に云く正法を護る者は五戒を受けず威儀を修
せず、乃至下の文仙予国王等の文、又新医禁じて云く若し更に為すこと有れば当に其の首を断つべし
こと、明白なり。何を他に折伏の定義を求めん。
ならば問う。
大聖人は斬首をなしたるや、国王なりや。
439
:
ひたち
:2005/06/25(土) 22:45:49
>>435
>師子吼を作すこと能わず非法の悪人を降伏すること能わず
持戒であってもこのような比丘は怠け者だというのです。
つまり、師子吼を作す、非法の悪人を降伏するのが真の比丘であるということでしょう。
440
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 22:47:40
みてられない殿。吾は出家にして、独歩氏にあらず。
速やかに管理人殿は調査すればよし。むしろ、吾は通りすがり2殿、みてられない殿こそ、ひたちその人と見る。
IPを調べ、直ちに事実を究明することを望む耳。
441
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 22:48:29
439は438の問いとはならず。
重ねて、答えを求めるものなり。
442
:
ひたち
:2005/06/25(土) 22:48:44
蓮師、すでに斬首を用いていないのです。
撤回されたという蓮師の文を出して下さい。
ただし開目抄以前のものですよ。
443
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 22:51:08
なにをか錯乱するや。斬首なき大聖人。折伏をなすにあらずが吾主張なり。
寧ろ、能仁の後と制止たる斬首を開目抄に認め、それを在家折伏と帰阪するが大聖人の変遷なり。
ひたち氏こそ、この変遷無きを証するの責務あり。
444
:
みてられない
:2005/06/25(土) 22:52:21
犀角さん文字の打ち間違えと、その訂正の仕方が今までと全く同じじゃないですか。
見苦しすぎます。あなたこそ卑怯です。
445
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 22:53:14
管理人氏の調査に委ねる耳。
446
:
ひたち
:2005/06/25(土) 22:53:35
主張していないことを主張したとはいえないのです。
蓮師は涅槃経のポアの思想を引用しても、それを用いなかったという事実があるのです。
それをその後撤回していない以上、有効と判断するのは通常ではないですか。
447
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 22:54:46
撤回あり。すなわち開目抄の引証それなり。
448
:
ひたち
:2005/06/25(土) 22:56:03
引用だけですね。それは撤回にはなりません。
449
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 22:56:38
引用にあらず。折伏の定義なり。
450
:
みてられない
:2005/06/25(土) 22:57:31
>>440
今度は僧侶を騙るなど、言語同断です!じゅあ、出せるものなら今すぐ犀角独歩を出しなさい。
451
:
ひたち
:2005/06/25(土) 22:58:04
蓮師が行った折伏の定義ではないですよ。
蓮師の主張から答えて下さい。
452
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 22:58:44
大経に刀杖を執持し乃至首を斬れという是れ折の義なり与奪途を殊にすと雖も倶に利益せしむ」等云云、
弘決に云く「夫れ仏に両説あり等とは大経に刀杖を執持すとは第三に云く正法を護る者は五戒を受けず威儀を修
せず、乃至下の文仙予国王等の文、又新医禁じて云く若し更に為すこと有れば当に其の首を断つべし
とは、大聖人言うところの、折伏の義。ここに在家折伏に斬首を認め、立正安国論に相違す、すなわち変遷、撤回を言うも、差し支えなし。
453
:
通りすがり2
:2005/06/25(土) 22:59:07
>>440
・俺とひたちとは同一人物ではない。
・俺とみてられないも同一ではない。
また、この掲示板のルール、基本原則は、
1.意見交換、相互理解の場との主旨から、話合いを重んじてください。
ということだ。そのためには対論者が確認を求めればそれに応える必要性がある。
また、この掲示板は2者の間のみで成立しているものではないゆえ、
>議論に割りこむべからず。
>大聖人門下の掲示板にでも立ち去るべし。
という私に対しておまえが命じたことはこの掲示板の趣旨にも反するものだろう。
以上4つの過ちをおまえはおかしているな。
454
:
通りすがり2
:2005/06/25(土) 22:59:28
訂正、3つだった。
455
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 23:00:13
451、まことにもって笑止千万。ならば、問う。
師子吼を作すこと能わず非法の悪人を降伏すること能わず、是くの如き比丘自利し及び衆生を利すること能わず、当に知るべし是の輩は懈怠懶惰なり能く戒を持ち浄行を守護すと雖も当に知るべし是の人は能く為す所無からん
とは、大聖人の言や否や。
456
:
みてられない
:2005/06/25(土) 23:01:05
別の場所で打てば、IPなど違うに決まってるでしょう。そんな幼稚なごまかしを使いますか。
どうせ、○護士と紹介したのも嘘ですね。
457
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 23:02:11
通りすがり2殿。
議論をするに、相手を選ぶは吾勝手に属す。口汚き言を以てルールに違背するという。
立ち去るべし。
458
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 23:02:52
456、意味まったく解せず。
459
:
通りすがり2
:2005/06/25(土) 23:03:02
>>みてられない
独歩が通りすがりを騙ってなんの得がある?
460
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 23:04:34
459、独歩氏を呼び捨てるにするは掲示板ルールに違反する耳。
しか、斯うところは尤もなり。
461
:
ひたち
:2005/06/25(土) 23:04:53
それはそうでしょう。今蓮師がなすところは摂折二門を示すためですから。
立正安国論は経典を引用、開目抄は釈を引用するのみです。
462
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 23:05:53
>開目抄は釈を引用するのみです
しからず。開目抄に既に涅槃経を引く。何を以て釈耳というや。
463
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 23:09:27
ひたち氏、汝
大経に刀杖を執持し乃至首を斬れという是れ折の義なり与奪途を殊にすと雖も倶に利益せしむ」等云云、
弘決に云く「夫れ仏に両説あり等とは大経に刀杖を執持すとは第三に云く正法を護る者は五戒を受けず威儀を修
せず、乃至下の文仙予国王等の文、又新医禁じて云く若し更に為すこと有れば当に其の首を断つべし
の明証を隠匿なくして、論を成ぜず。
立てる論、まったく虚しくある耳。
464
:
みてられない
:2005/06/25(土) 23:09:46
犀角独歩として惨めな負けを認めたくないから、通りすがりとして、ひたちさんを姑息なやり方でやり込めようとしているのでしょう。
大聖人門下掲示板で、まとまな議論のできる相手じゃないと評価されてましたけど、まさにその通りだと思います。
さあ、犀角独歩さん、同時に出れるものなら出て見なさい。
465
:
通りすがり2
:2005/06/25(土) 23:10:09
>>457
相手を選ぶのはおまえの勝手だ。それは全くそのとおり。
だが、ひたちはおまえの対論者だろう。
ならばおまえの勝手だけを通すわけにも行くまい。
確認を求められれば、しっかりと応対してやれ。
>>459
俺は「通りすがり」などという議論をする人間として、
すでに礼を失したハンドルを名乗る者に敬称をつける気などしない。
とはいえ、おまえに敬称を略しているのに
他に敬称をつけるというのではおまえだけを蔑することになる。
だから誰にも敬称をつけないのだよ。
466
:
通りすがり2
:2005/06/25(土) 23:11:15
459じゃなくて460だったな。
467
:
ひたち
:2005/06/25(土) 23:11:37
それは止観の文の引用であって、大経はその中で引用されているだけです。
大経の引用ではないですよ。
468
:
通りすがり2
:2005/06/25(土) 23:14:45
>>464
捨てハン使って無責任なことを言ってるおまえ自身はどうなんだ?
469
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 23:15:09
笑う。釈に引用される経は、経にあらずと言うや。
ならば、問う。大聖人、安国論に引く経文は、経文にあらずや。
470
:
ひたち
:2005/06/25(土) 23:17:54
引用は即蓮師の主張ではないといっているのです。
安国論は経文を直接引いています。ポア思想であってもです。
安国論になす主張はいかがですか。
わかりませんか。
471
:
通りすがり2
:2005/06/25(土) 23:20:08
とりあえず
ひたちの忍耐と
とおりすがりの努力を
信じて俺は去る。
よき議論となることを期待しつつ。
472
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 23:20:42
ならば問う。大聖人の言による折伏とは何ぞや。
473
:
犀角独歩
:2005/06/25(土) 23:21:50
いま手が放せないので追って投稿します。
474
:
ひたち
:2005/06/25(土) 23:24:33
私が考えるところ、開目抄おいては「念仏者と禅宗等を無間と申す」という自身の行動を折伏に拝されていたと考えます。
しかし、本尊抄ではそうではなく、賢王治罰をもって折伏に当てたように変わったと見ています。
475
:
み
:2005/06/25(土) 23:25:28
>>473
犀角独歩(通りすがり)さん、見事に引っかかりましたね(爆)。何とも情けない人だ。
476
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 23:27:17
475、迷惑千万なり。
477
:
犀角独歩
:2005/06/25(土) 23:29:29
通りすがりさん、あとはわたしに議論をお譲りください。追って投稿します。
478
:
通りすがり2
:2005/06/25(土) 23:33:34
>>475
くだらないよ、おまえ。
信仰者たるもの、もっと純粋であらねば。
下世話な邪推に頭をめぐらせ、罵詈雑言とは、
それでは悲しいかな、信仰している意味がないではないか。
誰が同一人物であるかとか、それは管理者が関知すること。
己の力及ばぬところにかかずらうな。
479
:
犀角独歩
:2005/06/25(土) 23:33:53
みさん
わたしは、通りすがりさんではありません。
480
:
通りすがり
:2005/06/25(土) 23:36:05
独歩氏、お元気か。では、吾は引く耳。
汝の文書、やや長いぞ。注意されたし。
481
:
み
:2005/06/25(土) 23:37:21
今度は、さっきから「通りすがり2」さんの偽者ですか?見事にレベルを下げましたね、この啓示版。
482
:
ひたち
:2005/06/25(土) 23:49:25
さて、最後の答えになります。引用します。
「答えて云く
涅槃経に云く「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」等云云、
「仏法を壊乱するは仏法中の怨なり慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり能く呵責する者は是れ我が弟子駈遣せざらん者は仏法中の怨なり」等云云。
夫れ法華経の宝塔品を拝見するに釈迦多宝十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ「令法久住故来至此」等云云、三仏の未来に法華経を弘めて未来の一切の仏子にあたえんとおぼしめす御心の中をすいするに父母の一子の大苦に値うを見るよりも強盛にこそみへたるを法然いたはしともおもはで末法には法華経の門を堅く閉じて人を入れじとせき狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに法華経を抛させける心こそ無慚に見へ候へ、
我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とをみて制せざる者はかくのごとし「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」等云云。
日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親」等云云、
無道心の者生死をはなるる事はなきなり、
教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈せられさせ給い天台大師の南北並びに得一に三寸の舌もつて五尺の身をたつと伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都を見ず」等といはれさせ給いし皆法華経のゆへなればはぢならず愚人にほめられたるは第一のはぢなり、
日蓮が御勘気をかほれば天台真言の法師等悦ばしくやをもうらんかつはむざんなりかつはきくわいなり、
夫れ釈尊は娑婆に入り羅什は秦に入り伝教は尸那に入り提婆師子は身をすつ薬王は臂をやく上宮は手の皮をはぐ釈迦菩薩は肉をうる楽法は骨を筆とす、
天台の云く「適時而已」等云云、仏法は時によるべし日蓮が流罪は今生の小苦なればなげかしからず、後生には大楽をうくべければ大に悦ばし。」
484
:
ひたち
:2005/06/26(日) 00:07:32
ここは、最後の問いに対する答えです。ここで既に、問者は摂折二門を受け入れ、基準に合わない場合の利益がないことを知った上で、では基準に従った蓮師の行動にどういうメリットがあるのかを問うています。ゆえに、ここではそのメリットを答えてこそ問答の論理が完結します。
ここでは、「念仏者禅宗等を責めて彼等にあだまれたる」が蓮師の行動であるわけで、最初の問いと首尾一貫して、蓮師自身の行動に対する問答であることがわかります。
既に、全体集合を示し、不要な部分集合を除き、最後の結論部分です。
485
:
管理者
:2005/06/26(日) 00:09:11
みてられないさん
みさん
貴方のレス、意味が無いように思います。削除するのも面倒なので、このまま放置しておきます。
なお、どうでもよいことですが、盛んに問題にされているので申し上げておきますが、犀角独歩さんと通りすがりさん、通りすがり2さんは、当然のことながら、それぞれ別のIPです。
当掲示板は、同一人物による多重ハンドルは禁止されていません。まぁ、あんまりそんなことしても意味が無いだろうと思うだけです。
実りある議論のみが力であり、それは燦然たる輝きを失うことが無いでありましょう。そのような皆様の議論を期待するのみです。
486
:
犀角独歩
:2005/06/26(日) 00:12:13
ひたちさん、こんばんは。
2週間ぶりということになりますか。
先程、戻り、開けましたところ、えらく長い議論になっておりましたので、読むだけでも時間がかかりました。
安国論のご投稿も拝見しましたが、取り敢えず、ここは開目抄に限らせてください。
摂折文献4典に限っても、それぞれの相違をしっかりと見るのが、文献考証であると思いますから。
よくわからないので、確認させてください。
ひたちさんは、要は開目抄で蓮師は「出家折伏」を主張しているということを仰りたいわけでしょうか。
487
:
ひたち
:2005/06/26(日) 00:15:55
管理人さん
私もよけいな疑難を
>>440
でかけられておりますので、ついでに証明しておいて下さい。何となく気分がよくありませんから。
488
:
ひたち
:2005/06/26(日) 00:20:11
犀角独歩さん
お久しぶりです。
先週も書きましたから、一週間ぶりですね。
私は、今回は問答の論理から考えを進めています。問答は、問いに対する答えが適切でなければ信用を得られないものです。特に、蓮師自身が設けた問答ではなおさらです。
489
:
犀角独歩
:2005/06/26(日) 00:24:42
そうですね。で、ひたちさんの主張なのですが、486のとおりでよろしいでしょうか。
490
:
ひたち
:2005/06/26(日) 00:35:01
犀角独歩さん
独歩さんと折伏の話をする時は、折伏の定義を確認しないといけないよう思います。「出家折伏」とはどういう意味でいわれていますでしょうか。
私は、開目抄の件の問答は、蓮師の行動に対する非難に答えるべく設けられたと見ます。最初の問いと、最後の問いが首尾一貫しているのが一つの証左です。ゆえに、私の主張としては、蓮師の「念仏者禅宗等を責めて彼等にあだまれたる」ような行動を、折伏の範疇に配したということです。第二の問答は、天台真言の学者を責めていますが、あくまで論の中心は蓮師自身の行動であって、「出家折伏」という言葉にまで一般化はできないと思います。
491
:
犀角独歩
:2005/06/26(日) 01:18:17
私は、開目抄における折伏の定義は、やはり、
「止観に云く夫仏両説。一摂二折。如安楽行不称長短是摂義。大経執持刀杖 乃至 斬首是折義。雖与奪殊途倶令利益。等云云。
弘決に云く ̄夫仏両説等者○大経執持刀杖者 第三云 護正法者不受五戒不修威儀。乃至 下文仙豫国王等文 又新医禁云 若有更為当断其首。如是等文 竝是折伏破法之人。一切経論不出此二。」
によると思います。ただ、やや補足すれば引用の止観の文は、摂受の肝心の部分が切れてしまっています。
「[夫佛法兩説一攝二折。如安樂行不稱長短是攝義。大經執持刀仗乃至斬首是折義。雖與奪殊途倶令利益。]若諸見流轉須斷令盡。若助練神明迴心入正皆可攝受。」
また、弘決○/中略があります。
「夫佛[下引佛化爲例。兩説等者。謂攝及折。攝謂養見研心。折謂破無遺芥。故引二經以證折攝。]大經執持刀仗等者。第三云。[善男子。]護正法者不受五戒不修威儀。[應持刀劍弓箭矛槊。護於清淨持戒比丘。文中廣説覺徳比丘昔縁。於過去歡喜如來滅後。此比丘廣説九部制諸比丘。不許畜八不淨物。爲破戒者執持刀劍之所逼切。爾時有王名曰有徳。往説法所共破戒者極生鬪戰。命終生於阿[門@人/人+人]佛國。覺徳亦同生於彼國。而爲彼佛聲聞弟子。下文又云。護法優婆塞應持刀仗。擁護如是持戒比丘。若有受持五戒不得名爲大乘人也。不受五戒執持刀仗爲護正法。乃名大乘。乃至]下文仙豫國王等文。又新醫禁乳云。若有更爲當斷其首。如是等文並是折伏破法之人。一切經論不出此二」
文句はそのままです。
「問大經明親附國王持弓帶箭摧伏惡人。此經遠離豪勢謙下慈善。剛柔碩乖云何不異。答大經偏論折伏住一子地。何曾無攝受。此經偏明攝受。頭破七分非無折伏。各擧一端適時而已」
出家折伏は適宜、造語したものですから、言い方はどうでもいいのですが、以上の経釈からすれば、蓮師は、折伏について、国王・執持刀杖・斬首であるという経釈を挙げています。国王は在家ですから、出家折伏に該当する引用はここにはありません。これをひたちさんは、経釈であって、蓮師の言葉ではないと、お書きになっておりますが、すると蓮師がいう折伏とはなんでしょうか。また、
> 蓮師の「念仏者禅宗等を責めて彼等にあだまれたる」ような行動を、折伏の範疇に配した
と仰りますが、これはまったく意味がわかりません。
上記の大経、止観、弘決、文句のどれを取っても、折伏は国王執持刀杖・斬首をいうばかりです。となれば、折伏される側の結論は斬首以外にありません。それにもかかわらず、なぜ他人があだむことが折伏となるのでしょうか。
492
:
犀角独歩
:2005/06/26(日) 01:24:51
なお、364から366にも記しましたので、併せてお読みいただければと思います。
493
:
犀角独歩
:2005/06/26(日) 02:02:10
ひたちさんのご説明は、わたし以上に長いので、どうにもわかりづらいところがあります。簡潔に言えば、
「問て云く 念仏者・禅宗等を責めて彼等にあだまれたる」以下が蓮師がいうところの折伏であるというのでしょうか。とすれば、わたしは、此は違うと思います。
ここの部分はちょうど、『転重軽受法門』と順番は逆ながら、同等の説明がされているのではないでしょうか。
同法門書では転重軽受法門[是一]、摂受折伏[是二]と二つに分け、論じられます。
これが開目抄では摂受折伏、次に転重軽受と論じているのはありませんか。つまり、ひたちさんが日蓮折伏とする問答部は、転重軽受を論じているという意味です。しかし、転重軽受で法難を受ける原因となった「見壊法者不置呵責」が折伏に当たることにはなっていないと思います。
ここでさらに論を進めると、これは今成師説、また乾闥婆さんとの議論とも拘わりますが、開目抄で悪王折伏を証する文はないという合意は、しかし、転重軽受法門の限りではなく、また、両書が同じ意によって書かれたとすれば、転重軽受に掛かる箇所は、悪王折伏を論じたことになる思えます。しかし、それは文面には見えません。転重軽受法門から本尊抄でみると、賢王・悪王折伏の説・不説は以下のようになっています。
……在家王……賢…悪
転重軽受法門…×…○
開目抄…………○…△
本尊抄…………○…×
494
:
ひたち
:2005/06/26(日) 02:06:27
まず、問いに対して蓮師が4書を引用した目的はなんでしょうか。これらの4書を用いてどのような主張がなされているかということが大事です。それは、これまでも書いてきましたので、とりあえずは保留します。
では、4書を一つ一つ見ていきましょう。その後に続く主張をみれば、実はそれぞれの書が別な目的のために引用されていることがわかります。
止観
「夫れ仏に両説あり一には摂二には折安楽行に不称長短という如き是れ摂の義なり、大経に刀杖を執持し乃至首を斬れという是れ折の義なり与奪途を殊にすと雖も倶に利益せしむ」
これは摂折二門を示し、安楽行を摂受の例とし、大経をもって折伏の例としています。その違いはあっても-*ともに仏説であり、利益があることを示しています。
弘決
「夫れ仏に両説あり等とは大経に刀杖を執持すとは第三に云く正法を護る者は五戒を受けず威儀を修せず、乃至下の文仙予国王等の文、又新医禁じて云く若し更に為すこと有れば当に其の首を断つべし是くの如き等の文並びに是れ破法の人を折伏するなり一切の経論此の二を出でず」
これは先の止観を踏まえていますが、主張するところは、一切の経論此の二を出でずということであるように思います。つまり、安楽行や大経以外の一切の経論も、摂折二門の法門の範疇から外れることはないということでしょう。ここではもはや、特定の経による束縛からはなれています。
文句
「問う大経には国王に親付し弓を持ち箭を帯し悪人を摧伏せよと明す、此の経は豪勢を遠離し謙下慈善せよと剛柔碩いに乖く云何ぞ異ならざらん、答う大経には偏に折伏を論ずれども一子地に住す何ぞ曾て摂受無からん、此の経には偏に摂受を明せども頭破七分と云う折伏無きに非ず各一端を挙げて時に適う而已」
これは、先の一切の経論此の二を出でずを、大経と法華経を例として証明しているといえます。しかし、大事な概念が追加されています。つまり、一切の経論此の二を出でずなれど、時に適う而已なのだということです。すなわち、摂折二門を適時に使い分けるという主張のために引用されているわけです。
涅槃経疏
「出家在家法を護らんには其の元心の所為を取り事を棄て理を存して匡に大経を弘む故に護持正法と言うは小節に拘わらず故に不修威儀と言うなり、昔の時は平にして法弘まる応に戒を持つべし杖を持つこと勿れ今の時は嶮にして法翳る応に杖を持つべし戒を持つこと勿れ、今昔倶に嶮ならば倶に杖を持つべし今昔倶に平ならば倶に戒を持つべし、取捨宜きを得て一向にす可からず」
これは先に引用した文句の理論をさらにハッキリさせるために引用されています。すなわち、平時は摂受であり、法翳る時は折伏だという主張のために引用されています。また、ここでは、「事を棄て理を存して」とあるがごとく、護持正法にはさまざまな形があることを示すのです。形式にこだわらないということでしょう。
こうしてみていきますと、4書は論理の展開に合わせて順番に遺尿されていることがわかるのです。形式を捨てている以上、刎頭にこだわる必要性はないのです。また、蓮師は形式を一度捨てているわけですから、今に形式にこだわるなら明文が必要です。
495
:
ひたち
:2005/06/26(日) 02:09:57
>>491
>> 蓮師の「念仏者禅宗等を責めて彼等にあだまれたる」ような行動を、折伏の範疇に配した
>
>と仰りますが、これはまったく意味がわかりません。
>上記の大経、止観、弘決、文句のどれを取っても、折伏は国王執持刀杖・斬首をいうばかりです。となれば、折伏される側の結論は斬首以外にありません。それにもかかわらず、なぜ他人があだむことが折伏となるのでしょうか。
他人があだむのは結果であって、折伏は「念仏者禅宗等を責め」る蓮師の行動を指すと考えます。
496
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2005/06/26(日) 02:27:45
ひたちさん、ちょっと、論理が飛躍しています。摂折両面に亘るというのは、わたしの主張であって、ひたちさんは日蓮折伏ではないのですか。
> 止観…大経に刀杖を執持し乃至首を斬れという是れ折の義
そのとおり斬首です。
> ともに仏説であり、利益がある
そうですね。折伏一辺倒ではありません。
> 弘決…当に其の首を断つべし
断首です。
> 特定の経による束縛はなれています
ここは止観(天台)に大経斬首を引くを説明しますから、大経・止観から離れていません。
> 文句…大事な概念が追加…時に適う而已
追加というのはなんのことでしょうか。文句の文そのままですが。
> 涅槃経疏
この点については、297に、そして、川蝉さんへのレスで365にも書きました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1117079987/r297
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1117079987/r365
まるでひたちさんは、わたしの投稿は読んでいないのですね。
単に自分の主張だけを長文量で圧倒して、勝ちを取るやり方ですか。
ちゃんと議論しませんか。そのためには、相手(わたし)の主張もちゃんと読んでください。
それとも、白文漢文は読めませんか。読めないのであれば、書き下しますが。
> 折伏は「念仏者禅宗等を責め」る蓮師の行動
そう。これなのです。ですから、念仏・禅を言論をもって責める行動が折伏であるという証拠はなんでしょうか。この部分では、蓮師は、もはや、経釈によらないのでしょうか。
なお、「特定の経による束縛からはなれています」ということは、以上、記したとおり成り立ちません。「仏説に任せ、敢えて自義を存すること無し」は蓮師の主張ですから、仏説(経典)証拠のない蓮師の主張はあり得ません。ですから、仰るよう謗法を責めることが折伏であるというのであれば、たとえば斬首が折伏であるという明証があるように、明証がありましょう。それを挙げてください。
497
:
ひたち
:2005/06/26(日) 02:32:19
>>493
開目抄全体としての結論は「日蓮が流罪は今生の小苦なればなげかしからず、後生には大楽をうくべければ大に悦ばし」ですから、転重軽受といっても差し支えないでしょう。開目抄では論理は並列ではなく、入れ子の構造になっています。転重軽受の中の一論題として摂折二門が展開されるのです。当然ながら、これは開目抄全体のテーマから見れば、小さなサブテーマの一つです。ただ最終的に大テーマと合流して結語に向かうわけです。今は、摂折二門が議論なので、件の箇所に絞り込んで話をしているわけです。
摂折二門関連の問答は、転重軽受の主張の中で出てきた別な関連課題である蓮師の行動規範を正当化するために設けられたサブテーマです。何ゆえ他宗を責めるのかということです。3問答が首尾一貫していますから、この3問3答でこのサブテーマに答えたのです。その際使ったのが、摂折二門というサブルーチンであるということです。
498
:
犀角独歩
:2005/06/26(日) 02:34:00
さて、恐縮ですが、わたしは寝かせていただきます。
また、明日、次回、よろしくお願いいたします。
継続の際は、まずは、こちらからの質問にお応えいただいたのち、それまでのわたしの投稿もお読みくださり、脈絡をつけて、お願いいたします。
何度も同じことを書いたり、既に書いたことをまた書くのは、議論効率が下がります。
わたしにはわたしの投稿もあります。どうか捨て置かず、お読みください。
499
:
犀角独歩
:2005/06/26(日) 02:36:01
> 497
この考えにはほぼ賛同します。
ただし、だからといって、蓮師の行動は折伏に当たらないでしょう。
では、おやすみなさい。498の件、よろしくお願い申し上げます。
500
:
ひたち
:2005/06/26(日) 03:10:02
>>493
何度も議論したつもりですが、蓮師は摂折二門を両方是としたと私は最初から主張しています。
>>152-153
をごらん下さい。
ただし、日本国は破法の国なので、折伏が先なのです。これも最初から主張しています。
>>154
をごらん下さい。
明証は「師子吼を作すこと能わず非法の悪人を降伏すること能わず」です。
蓮師が涅槃経疏は頭に出家をおいたことは事実でしょう。読み間違いにしても故意にしてもです。ゆえに、出家も念頭にあったといえると思います。基本的に涅槃経疏は出家在家をともに比丘としてあつかっているわけで、出家在家をほとんど行動の面で区別していないでしょう。故に蓮師はその意をくんだと考えます。
また、「もし仮にこれが摂折であるとしても、その結論となっているのは「取捨得宜不可一向」(取捨宜しきを得て一向にすべからず)と、そのどちらかであるとしてはいけないというのが文脈です。」としていますが、そうではないでしょう。平時には持戒、法かげる時は持杖とあるわけですから、どちらでもいいとするのは、大いに文脈の読み誤りといえます。また、蓮師の主張するところとも合致しないわけです。
>「仏説に任せ、敢えて自義を存すること無し」は蓮師の主張ですから、仏説(経典)証拠のない蓮師の主張はあり得ません。
ほとんど根拠がない話ですね。立正安国論では「夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む」はどの引用によりますか。本尊抄の「此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」はどの引用によりますか。人の信仰心を楯にするような議論の封じ方と感じます。
501
:
ひたち
:2005/06/26(日) 03:20:49
基本的に独歩さんは、引用と主張の関係を理解されていないのではないですか。引用は主張の基盤にするために用いられるのです。「もし仮にこれが摂折であるとしても、その結論となっているのは「取捨得宜不可一向」(取捨宜しきを得て一向にすべからず)と、そのどちらかであるとしてはいけないというのが文脈です。」と読んでしまえば、その後に続く蓮師の主張が成り立ちません。なぜなら、前3書ではそこまで踏み込んでいないからです。平時には持戒、法かげる時は持杖という引用があって、「無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智謗法の者の多き時は折伏を前とす」という主張が裏付けられるのです。
503
:
管理者
:2005/06/26(日) 07:24:11
ひたちさん
>私もよけいな疑難を
>>440
でかけられておりますので、ついでに証明しておいて下さい。何となく気分がよくありませんから。
みてられないさんと、ひたちさんとは、IPは全く違っています。
どのハンドルと、どのハンドルが同一人物であるとか、違うとか、管理者としてはあまり注視していませんが、解明を求められれば、IPの異同については公開して参りたいと考えています。ただし、IPの異同は、同一人物であるかどうかの傍証にしか過ぎません。複数のネット接続を持っておれば、幾らでも複数のIPで投稿出来るからです。管理者としては、そのような事もあって、多重ハンドルの規制はあまり意味を成さないと考えています事を、念のために申し添えて置きたいと存じます。
504
:
管理者
:2005/06/26(日) 07:30:31
ひたちさん
もうひとつ調査が抜けていました。通りすがり2さんのIPも、ひたちさんのIPとは違っています。
505
:
犀角独歩
:2005/06/26(日) 08:23:10
ひたちさん、おはようございます。
> 蓮師は摂折二門を両方是
> 日本国は破法の国…折伏が先
まず、この2点は確認しました。
> 明証は「師子吼を作すこと能わず非法の悪人を降伏すること能わず」
これは日蓮が折伏をする明証と言うことですか。
獅子吼・悪人降伏が折伏であるというのであればまだしも、獅子吼・悪人降伏不能がどうして、折伏なのでしょうか。この点を補足願います。
> 蓮師が涅槃経疏は頭に出家をおいたことは事実…出家在家をほとんど行動の面で区別していない
これは要するに、開目抄の該当個所で引用される大経、止観、弘決、文句は、出家にも当たると言うことのわけですね。。
> 「取捨得宜不可一向」…どちらでもいいとする
そんなことはわたしは書いておりません。もう少しちゃんと読んでいただけませんか。
ひたちさんと同じく、両意であると言っているのです。この点、認識を改めてください。
> 蓮師の主張するところとも合致しない
これはわたしの意の取り違えからでしょう。
わたしが言っていることは、先の経釈には「執持刀杖・斬(断)首」と書かれている点は動きませんし、それを引用し、折伏の義であるとしている点も動かないということです。
もし、蓮師が折伏をするというのであれば、では、流罪中の罪人である日蓮が武装し、念仏・禅者の首を刎ねないと主張と合致しないことになります。むしろ、これら経釈を日蓮に当てはめてしまうと合致しない故に、ここは日蓮に当たらないのではないかとわたしは言ってきたわけです。ですから、何度も繰り返していますが、折伏の定義:「執持刀杖・斬(断)首」=日蓮の折伏になっていないと言っているわけです。
> 立正安国論では「夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む
いまは開目抄の論じていますから、この点を詳しく書くとずれますので、詳しくは記しません。こんなことは経典を見れば、証明されます。印度応誕の釈尊は殺人はしていません。布施の停止(ちょうじ)は戒律を見れば明らかでしょう。
> 本尊抄の「此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」
この点は本尊抄を論じる際に詳しくいたしたいと思いますが、この結論は開目抄でも挙がる経釈、ならびに不軽品、神力品によっているのでしょう。
しかし、ひたちさんは、この両文が経釈によらないものであるという点は確認しました。
> 人の信仰心を楯にするような議論の封じ方と感じます
どう感じるのかは勝手ですが、あまり、このような言い回しはされないほうがいいでしょう。
ご自身の人間性を疑われかねません。
> 引用と主張の関係を理解されていないのではないですか
これはむしろ、わたしがひたちさんに感じてきたところズバリですが、そのようにお互いに思うとすれば、相互理解にいたっていないと言うことだけでしょう。さらに議論を重ねる必要があるのでしょう。
> 引用は主張の基盤にするために用いられる…「無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智謗法の者の多き時は折伏を前とす」という主張が裏付けられるのです。
ですから、これを裏付ける折伏の定義が「執持刀杖・斬(断)首」である以上、開目抄執筆当時の日蓮の境遇と何も合致しないではないかと言っているわけです。しかし、在家為政者には一致します。
ひたちさんの論の運びでは「見壊法者不置呵責」以降の蓮師の言説・行動が折伏だとするわけですが、ですから、この根拠は何かと問うているわけです。わたしはここは摂折を論じているのではなく、転重軽受法門に「是一、是二」と立て分ける内、転重軽受・滅罪、未来成仏の確信を述べるところではないかと記したわけです。なぜ、これが折伏なのでしょうか。
506
:
犀角独歩
:2005/06/26(日) 08:37:02
一つ漏らしました。
> 日本国は破法の国…折伏が先
> 邪智謗法の者の多き時は折伏を前とす
これは同一の意味と言うことでしょうか。
507
:
川蝉
:2005/06/26(日) 08:44:23
364・365番犀角独歩さんへ。
開目抄の「 折伏を前とす」(学会版235頁11行)
についての
>この「前」とは、どういうこととお考えですか。前(さき)があ
>れば、後があります。
>つまり、ここでは、破法の人には、出家僧侶の摂受は後回しで、
>まず、在家王権者の折伏(法的裁断)が前であるという意味でし
>ょう。これは現在にあっても当然のことで、破法者はまず、国法
>によって逮捕・処罰され(折伏)、後に聖職者の勧誡がなされる
>でしょう。
と云うような解釈は初めて聞きました。驚きました。
一般の刑事犯ならば逮捕し刑務所に入れた後に、いわゆる教誨師達が精神的矯正を援けるという順序でよろしいでしょうが、思想信仰の場合には暴力で言論弾圧した後で法華経信仰に勧誘すると云う順序では独裁国家の圧政そのものになってしまいますね。
末法の初めには、まず僧が逆化折伏(強く言論によって謗法を糾し結縁し、正法に導く化導手段)を正規の弘通方法をとり、摂受は傍軌の弘通方法として用い、在家はその僧を護り、僧俗協力して一国同帰を計ってゆく、公場対論等をもって決着をつけた上、いくら諭しても謗法の指導者が一向に謗法を改めないで謗法の信仰を弘めようとする際には、正法信受の国主が時には強権をもって強制的に誡めるべきであるというのが日蓮聖人の基本的お考えであったと理解しています。
開目抄にある「 折伏を前とす」とは、当時は大判すれば謗法充満本未有善の時であるから、先ず前に、強く言論によって謗法を糾し結縁し、正法に導く化導手段いわゆる折伏を正規の方法として採るべきだと云う意味のはずですよ。
繰り返し申しますが、あの文段は安楽行品にある摂受的化導方法をとらないで、強く言論によって謗法を糾し結縁し、正法に導く化導手段いわゆる折伏を正規の方法として採る事を原因として、迫害をうけているが、末法の初めの謗法充満・本未有善の時には、折伏の化導法(ただし不軽菩薩の跡を紹継する弘通方法)を正規として採り、傍軌として摂受の弘通方法を用いて行くべきだからである、と御自身の弘通方法を説明している箇所です。
迫害を招き起こすところの厳しい謗法批判即ち折伏を採っても良いと云うことは、天台・妙楽大師の釈からも不当でないことが証せられる、と語っている文段です。
「破法の人には、出家僧侶の摂受は後回しで、まず、在家王権者の折伏(法的裁断)が前であるという意味」
などでは決してないはずですよ。
>『開目抄』は、摂受か・折伏かという選択をしているわけではあ
>りません。「末法に摂受折伏あるべし」と、その両意を採ってい
>ます。
「末法に摂受折伏あるべし、いわゆる悪国・破法の両国あるべきゆえなり」とある文の後半分を省いて、「日蓮聖人は摂受か・折伏かという選択をしているわけではない」と論証したいようですね。
しかし、この文は悪国の場合は摂受を正規(部分的には折伏即ちを折伏を傍軌)とし、破法の国は折伏を正規の弘通方法(摂受を傍軌)とすると云う意の籠められている文と思いますよ。
日蓮聖人は当時の日本国を大半の人が謗法、本未有善の人たちであると判じているわけですから、当然のことに摂受を傍軌とし折伏を正規として選ぶと云わんとしている文であると理解すべきと思います。
508
:
川蝉
:2005/06/26(日) 08:45:35
>何がなんでも折伏である、僧侶までが折伏であるという川蝉さん
>のような考えは世を乱す基としかなりません。
もう幾度も繰り返し、日蓮聖人の弘経方法は、強く謗法を責め下種する弘経方法であり、それを日蓮聖人は御自身の採られた折伏の化儀であるとしていると、私は云って来ています。
日蓮聖人の直弟門下はこの日蓮聖人の弘経方法を引き継いでがんばったのですが、世を乱す基などに成っていませんね。
だから、折伏が末法の初めの正規の弘経方法であると云う事は、何も僧侶が謗法者を捕縛・断罪せよなんて叫んで「他宗他派を邪宗・破法と決め、国法をよそに跋扈して、勝手に自分の教え以外の者を処罰して回る(刎頭折伏)」事など意味しないのですよ。
開目抄のこの文段に、天台・妙楽大師の文を引いているのは、ご自分の厳しい謗法批判(逆化)、下種結縁の弘通方法の妥当性を証するためで、なにもご自分の採られる化儀が「他宗他派を邪宗・破法と決め、国法をよそに跋扈して、勝手に自分の教え以外の者を処罰して回る(刎頭折伏)」形態の折伏であると主張しているのではないのですよ。
天台・妙楽大師の文や涅槃経の文をを引いていても、ご自分の折伏の形態は、天台・妙楽大師の言葉にしたがって云えば不軽菩薩の「因謗堕悪必由得益」・「而強毒之」の弘通方法であるとされていたわけです。
「而強毒之」の語句が真蹟御書に無いとしても「而強毒之」は下種と同じ意味合いですから、日蓮聖人の弘通を「而強毒之」の弘通であると表現しても、なんら咎める必要の無いことです。
>川蝉さんが勧める領解は説得性がありません。
これはまったくお互い様ですね。
納得してくれる人の多からんことをお互いに期待しておきましょう。
「日蓮臨終一分も疑ひなく、刎頭の時は殊に喜悦あるべく候…諸の悪人は又善知識也。摂受、折伏の二義は仏説に任す、敢て私曲に非ず。万事霊山浄土を期す。」
の文意について犀角独歩さんは
「まさに為政者の刎頭折伏に自分は従う。在家折伏刎頭に逢うことは全知識であるということでしょう。」
と取るのが妥当で私の理解は恣意的で有ると指摘しているようですが、私は特に、「摂受、折伏の二義は仏説に任す、敢て私曲に非ず」の部分を重点とした解釈を書いて置いたのです。ですから、犀角独歩さんは指摘は当たらないですね。
結局すれ違いの議論となりましたね。
509
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2005/06/26(日) 09:31:02
川蝉さん
> 日蓮聖人は御自身の採られた折伏の化儀
ですから、そんな文書がどこにあるんですか。
滅後の坊さんの解釈にあるだけでしょう。
> 日蓮聖人の直弟門下はこの日蓮聖人の弘経方法を引き継いでがんばったのですが、世を乱す基などに成っていませんね。
まあ、こういう無反省なところは自己肯定には便利でしょう。
つまりは、比叡山に焼かれなければならなかったのは、一方的な迫害であるというわけですか。また、先の戦前の戦争翼賛、世界最終戦争、アジア侵略を鼓舞した日蓮門下は、世を乱したこともないというわけですか。驚くべき暴言ですね。
> 不軽菩薩の「因謗堕悪必由得益」・「而強毒之」の弘通方法であるとされていたわけです。
ねえ、川蝉さん、もう少し、わたしの文章も読んでください。
わたしは「而強毒之」は安楽行・摂受にしか当たっていないことを指摘していますよ。どうして、これが折伏なんですか。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1117079987/r309
先学から言った言葉が、経釈に異なっていれば意味はなしません。
> 「而強毒之」の語句が真蹟御書に無いとしても「而強毒之」は下種と同じ意味合い
これが下種であるとする経釈はなんでしょうか。また、而強毒之の不軽を文句に「不輕之説是口業。故往禮拜是身業。此三與慈悲倶。即誓願安樂行也」と言っていますよ。安楽行は摂受は開目抄に定まるところでしょう。
「因謗堕悪必由得益」にしても、文句記に
「故復亦對四安樂行。四安樂行準前可知。不受四一者。應將罵等委消不受四一之相。本地亦然。文但略對經而已。不輕以大而彊下云云者。爲唱令聞故也。應釋彊毒以作當來聞法之相。具如經文後時得益者也。意業淨下云云者。應釋三業對三力相。復應更對衣座室等。神通室也。説辯座也。善寂衣也。廣對一切準此可見。毀者等者。即生隨從尚猶墮苦。是則撃信毀之二鼓。爲生後之兩因。問若因謗墮苦。菩薩何故爲作苦因。答其無善因不謗亦墮。因謗墮惡必由得益」
といい、四安楽に主付いています。安楽=摂受は開目抄で言うところではありませんでしたか。
> 日蓮聖人の弘通を「而強毒之」の弘通
ですから、上の文句からすれば、日蓮の弘通は安楽=摂受ということでしょう。
なんで、川蝉さんは蓮師真跡遺文に拠らず、解釈にばかり頼って、結論してしまうのでしょうか。解釈は便利で、どんなふうにでも意味をつけられます。何せ、お釈迦様は日蓮である。日蓮は御前様である、先生であるともできますからね。
経釈、真跡遺文をそのままに読もうというのは、そんな過ちに翻弄された過去を繰り返さないためです。そのために真跡遺文に触れているのに、戦争翼賛者・田中智学の息のかかった僧俗の解釈の今後とも御免被ると言うことです。
戦争責任も感じず、歴史的反省もなく、語られる折伏は実に虚しいですね。時代錯誤、社会乖離は、ただの仏教オタク、日蓮・折伏マニアに過ぎません。
510
:
犀角独歩
:2005/06/26(日) 09:57:46
一つ前があったんですね。では、前後しますが。
> 末法の初めには、まず僧が逆化折伏(強く言論によって謗法を糾し結縁し、正法に導く化導手段)
ですから、この証拠はなんでしょうか。日蓮真跡のどこに逆化折伏なる珍重な考えを披瀝しているのでしょうか。言うところの「逆化」とは文句記を転用したものでしょう。
「今略弘經意。故不讀誦但宣不經。二者小典生信尚未爲二因。今經或毀感六根清淨。三者諸經但明順化弘教。此品禮俗逆化通理」
と不軽菩薩但行礼拝を言います。なんで、これが折伏ですか。但行礼拝ですよ。
> 日蓮聖人の基本的お考えであったと理解しています。
それは勝手解釈に基づく理解でしょう。
> 開目抄にある「 折伏を前とす」とは、当時は大判すれば謗法充満本未有善の時であるから、先ず前に、強く言論によって謗法を糾し結縁し、正法に導く化導手段いわゆる折伏を正規の方法として採るべきだと云う意味のはずですよ。
それはそうでしょう。しかし、それが自身に当たるとは記していません。何故ならば、日蓮は折伏の定義「執持刀杖・斬(断)首」に当たらないからです。
> 繰り返し申しますが、あの文段は安楽行品にある摂受的化導方法をとらないで、強く言論によって謗法を糾し結縁し、正法に導く化導手段いわゆる折伏を正規の方法として採る事を原因として、迫害をうけている
これは「折伏」の使い方が如何にも「解釈」に基づき恣意的です。
ここは、日蓮のなす念仏・禅・無間堕地獄という主張は天に捨てられることになった、迫害を受ける原因になったという発問です。摂受ではなく、折伏をしたからだとは書いていないのであって、その摂受の在り方を問題にしていると、わたしも何度も書きました。要は、蓮師の強烈な主張は摂受の範疇か・折伏の範疇かという問です。
川蝉さんはそれを逆化折伏というわけですが、では、このような蓮師の主張が折伏であることを証する経釈は何かと問うと、途端に解釈の羅列です。経釈を挙げてください。
> 末法の初めの謗法充満・本未有善の時には、折伏の化導法(ただし不軽菩薩の跡を紹継する弘通方法)
これは一体、何を言っているのかよくわかりません。文句には不軽=安楽、開目抄には安楽=摂受といい、さらに自ら安楽・化導方法を採らないとしながら、なんで、不軽というわけでしょうか。
> 迫害を招き起こすところの厳しい謗法批判即ち折伏
だから、これがまったくの恣意的な解釈だといっているわけです。
厳しい謗法批判=折伏であるとする経釈は何か、そのような行動を折伏であるとする真跡遺文は何かと問うているのです。川蝉さんの御説を尋ねているわけではありません。端から刷り込まれた「折伏」を置いて、虚心坦懐に経釈、真跡遺文は眺めてみてはどうでしょうか。
> 「末法に摂受折伏あるべし、いわゆる悪国・破法の両国あるべきゆえなり」とある文の後半分を省いて、「日蓮聖人は摂受か・折伏かという選択をしているわけではない」と論証したいようですね。
ぜんぜん、そんなことはありません。
川蝉さんは、折伏の定義「執持刀杖・斬(断)首」をなぜ避けますか。
最初にこの定義を日蓮がしている。では、実際、日蓮はそれに当たるかどうかの論証です。当たりますか。
> 破法の国は折伏を正規の弘通方法(摂受を傍軌)とすると云う意の籠められている文と思いますよ。
そうでしょう。それが賢王による「執持刀杖・斬(断)首」という大経、止観、弘決、文句の定めから主張しているのでしょう。
> 日蓮聖人は当時の日本国を大半の人が謗法、本未有善の人たちであると判じているわけですから、当然のことに摂受を傍軌とし折伏を正規として選ぶと云わんとしている文であると理解すべきと思います。
これもそうでしょう。しかし、このような折伏「執持刀杖・斬(断)首」は日蓮のよくなせることではないと言うことでしょう。
511
:
犀角独歩
:2005/06/26(日) 10:14:01
どうして、議論にならないのでしょうかね。不思議ですね。
もう1回書いておきましょうか。
「日蓮の強烈な主張は折伏である」ことを証明する真跡遺文、釈、経はなんですか。
512
:
乾闥婆
:2005/06/26(日) 10:25:38
ひたちさん、犀角独歩さん。
横レス失礼いたします。
私がお二人の議論を読んでいて感じたすれ違い点なのですが、まず、折伏の行為主体は誰であるのか、という点を確認すべきだと思うのです。犀角独歩さんは刎頭を持って折伏と定義し、ひたちさんは「立正安国論」の再治以前において止施を斬首に変えているので、刎頭折伏は蓮祖の本意ではない、といいます。しかしその止施を誰に求めているのかといえば、時の権力者に要求しているのが「立正安国論」であるはずです。つまり蓮祖は止施にしろ刎頭にしろ、その行為、すなわち折伏を、権力者に要求しているのではないのでしょうか。そう読めば「開目抄」における蓮祖の折伏に関する引用とも齟齬をきたさず、刎頭折伏の定義を他宗誹謗・論難と解釈しなおす必要もなくなるのです。
蓮祖は折伏を国家に要求しているのであって、それは摂受であるところの安楽行品に相違する姿となってしまったとしても、「前」に要求されるべき行為であり、今の日本はその「時」であるのだから、「疑つて云く念仏者と禅宗等を無間と申すは諍う心あり修羅道にや堕つべかるらむ、又法華経の安楽行品に云く「楽つて人及び経典の過を説かざれ亦諸余の法師を軽慢せざれ」等云云、汝此の経文に相違するゆへに天にすてられたるか」という非難は当たらない、といっているのではないでしょうか。
ひたちさんの繰り返し言われる「蓮師自身の行動」とは、国家に対する折伏要求であり、その根拠を明らかにするための他宗論難であるのだと思います。他宗誹謗にかかわる安楽行品との相違が逢難の原因であろう、との批判に対する答えが、止観、弘決、文句、涅槃経疏の引用であり、その後に続く摂折に関する蓮祖自身の言葉なのではないでしょうか。その後に続く問いと答えも、「蓮師自身の行動」を国家に対する折伏要求と、その根拠を明らかにするための他宗論難であると読んでも、何の不都合もないばかりか、刎頭折伏を他宗誹謗・論難と読み替えるよりも、整合性を持って読めなくはないでしょうか。その意味で「蓮師自身の行動」とは摂受を超え出ているように思います。むしろ摂折の二分法自体を超え出ているともいえなくないでしょうか。
513
:
ひたち
:2005/06/26(日) 10:54:09
犀角独歩さん、おはようございます。
>> 明証は「師子吼を作すこと能わず非法の悪人を降伏すること能わず」
>これは日蓮が折伏をする明証と言うことですか。
そうです。最初の問答と最後の問答が蓮師個人の行動に対するものです。第二番の問答は、蓮師とは反対の行動をとった場合の利益を問うものです。,
これは、簡単な論理の問題です。全体集合から不要な部分集合を覗いた残りも全体集合に含まれるということです。全体集合には大概の場合制約があります。この場合の制約は、「折伏の時、摂受を行ずる」ことです。「摂受の時、折伏を行ずる」という制約もありますが、答えをみるとこちらの制約は無視されています。つまり、第二問答は、摂受については論の上にのぼることなく、一向折伏時について答えたものです。この理由はすでに書きました。つまり問者が最初の問答で日本国が破法国で蓮師は折伏をしたと了解したためです。図がかけるといいのですが、、、ためしに書いてみました。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 摂 折 二 門 ┃
┏━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━┫
┃ 時 ┃ 摂 受 ┃ 折 伏 ┃
┣━━━━╋━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━┳━━━━━━━┫
┃ 行 ┃ 摂 受 ┃ 折 伏 ┃ 摂 受 ┃ 折 伏 ┃
┣━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━┫
┃第一問答┃ 廃 除 ┃ 廃 除 ┃ 未 決 ┃ 未 決 ┃
┣━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━┫
┃第二問答┃ 廃 除 ┃ 廃 除 ┃ 廃 除 ┃ 未 決 ┃
┣━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━╋━━━━━━╋━━━━━━━┫
┃第三問答┃ 廃 除 ┃ 廃 除 ┃ 廃 除 ┃ 採 用 ┃
┗━━━━┻━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━┻━━━━━━━┛
第一問答廃除理由:日本国は破法の国であるゆえ
第二問答廃除理由:利益無き故
第三問答廃除理由:利益ある故
この三つの問答は、蓮師の行動についてなされたということを考えて下さい。
>> 蓮師が涅槃経疏は頭に出家をおいたことは事実…出家在家をほとんど行動の面で区別していない
>
>これは要するに、開目抄の該当個所で引用される大経、止観、弘決、文句は、出家にも当たると言うことのわけですね。。
>
事を捨て、理を採るということです。理とは護持正法です。これは第三問答にも明らかです。首尾一貫しています。
>> 「取捨得宜不可一向」…どちらでもいいとする
>
>そんなことはわたしは書いておりません。もう少しちゃんと読んでいただけませんか。
>ひたちさんと同じく、両意であると言っているのです。この点、認識を改めてください。
>
いえ、わたしとは異なる立場です。両意であるはそうでしょうが、平時は摂受であり、法翳る時は折伏という制約を採用していません。
>何度も繰り返していますが、折伏の定義:「執持刀杖・斬(断)首」=日蓮の折伏になっていないと言っているわけです。
>
蓮師は定義していません。それは引用です。引用をどう蓮師が用いたかは主張するところを見なければなりません。ここで問いますが、蓮師が禅宗と念仏者を責めたのは摂受でしょうか。折伏でしょうか。
514
:
ひたち
:2005/06/26(日) 10:54:29
>> 立正安国論では「夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む
>いまは開目抄の論じていますから、この点を詳しく書くとずれますので、詳しくは記しません。こんなことは経典を見れば、証明されます。印度応誕の釈尊は殺人はしていません。布施の停止(ちょうじ)は戒律を見れば明らかでしょう。
>
それほど簡単な問題ではないですよ。直前にポアの思想を経文直接引用で行っています。経文は印度応誕の釈尊の説とは考えていなかったということですか。ポアの思想を引用しながら捨てた理由を証明していないということです。
>> 本尊抄の「此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」
>この点は本尊抄を論じる際に詳しくいたしたいと思いますが、この結論は開目抄でも挙がる経釈、ならびに不軽品、神力品によっているのでしょう。
>
こちらは、楽しみにしております。四菩薩、賢王、出家がどう明文されのかということです。
>> 人の信仰心を楯にするような議論の封じ方と感じます
>ご自身の人間性を疑われかねません。
>
では確認ですが、独歩さんはどのような形にせよ既に日蓮信仰をなされていないと理解していますが、それとは別に「仏説(経典)証拠のない蓮師の主張はあり得ません」と信じていると考えて構いませんか。それであれば、お詫びいたします。そうでなければ、自分の信念でないことを、論に用いたと認識します。
>ひたちさんの論の運びでは「見壊法者不置呵責」以降の蓮師の言説・行動が折伏だとするわけですが、ですから、この根拠は何かと問うているわけです。わたしはここは摂折を論じているのではなく、転重軽受法門に「是一、是二」と立て分ける内、転重軽受・滅罪、未来成仏の確信を述べるところではないかと記したわけです。なぜ、これが折伏なのでしょうか。
>
これは上記の答えを承ってから答えましょう。
515
:
犀角独歩
:2005/06/26(日) 11:12:54
乾闥婆さん
概ね記される同意です。
> 摂折の二分法自体を超え出ているともいえなくないでしょうか
そこなんですね。そう考えてしまったほうが早いわけです。
たしかに大経にも安楽行品にも当てはまらないわけです。
516
:
ひたち
:2005/06/26(日) 11:17:21
>>506
>> 日本国は破法の国…折伏が先
>> 邪智謗法の者の多き時は折伏を前とす
>
>これは同一の意味と言うことでしょうか。
全く同一ではないでしょう。日本国は邪智謗法の者の多き時の集合に含まれるという意味です。その他の国もこの範疇に入ることが考えられます。ただ、蓮師がいた国土は日本国です。
論理の展開は
無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす
邪智謗法の者の多き時は折伏を前とす
日本国はどちらであるか取捨選択をせよということです。
それとも、国ではないというお話ですか。
多い少ないは一人では意味をなさない。
既に前文に「国土』を明示している。
「悪国破法の両国あるべきゆへなり」の「ゆえ」は摂受折伏の存在理由です。
517
:
乾闥婆
:2005/06/26(日) 11:25:36
>>513
ひたちさん。
>つまり問者が最初の問答で日本国が破法国で蓮師は折伏をしたと了解したためです。
そしてそれは蓮祖が今の日本国が破法国ゆえ国家権力に折伏を要請した、その根拠を示すために他宗を論難もした、と読めるわけです。そしてそう読んで不都合はまったくないと思うのですが。
>この三つの問答は、蓮師の行動についてなされたということを考えて下さい。
つまり、そういうことなのだと思います。その行動は私が上記に記したものであっても何の不都合もなく読めるのです。むしろ蓮祖自身が引用した経釈の部分をわざわざ読み替えなくてもよくなるわけです。
518
:
ひたち
:2005/06/26(日) 11:26:57
乾闥婆さん
誤解があるようなので、書いておきます。私が立正安国論を用いているのは、折伏を説明するためではないですよ。昨日の通りすがりさんも同様の誤解をしていました。ポアの思想を蓮師が用いなかった前例として用いたのです。
>摂折の二分法自体を超え出ている
ならば、最初から摂折二門を持ち出す必要はないのです。問者は、摂折二門を問うているわけではないのです。蓮師の行動が摂折二門のどちらでも他宗を責めたという事実は変わらないのです。
わざわざ「一切の経論此の二を出でず」を引用して、自分の行基は摂折二門から越えているでは、仏説によらない我見であるといわざるを得ません。
519
:
乾闥婆
:2005/06/26(日) 11:37:40
>>515
犀角独歩さん。
>たしかに大経にも安楽行品にも当てはまらないわけです。
そうですね。私は「開目抄」を飛躍の多い書であると思っています。後半にも「日蓮は、日本国の諸人に、したし父母也」と感情の高ぶりに任せて飛躍します。有名な三大請願も大きく飛躍します。これは宗教的な霊感のようなものではないかと思います。経釈を重んじる側面と、宗教者として大きく飛躍する側面を併せ持つところが、蓮祖の魅力でもあると、私は思っています。
520
:
犀角独歩
:2005/06/26(日) 12:02:06
ちょっとまってください、ひたちさん。
わたしは「獅子吼・悪人降伏不能がどうして、折伏なのでしょうか。この点を補足願います」と問うているのです。
そうか・違うの返答を待ったわけではありません。
如是種々説法然故不能作師子吼○不能降伏非法悪人。如是比丘不能自利及利衆生。当知是輩懈怠懶惰。雖能持戒守護浄行当知是人無所能為 乃至 時有破戒者聞是語已咸共瞋恚害是法師。是説法者設復命終故名持戒自利利他
という文の内、獅子吼をなすわけでもなく、悪人降伏をするわけでもないのに、なぜ折伏に当たるのかという問です。ここで言われる法師は殺害されて「持戒」であるというですよ。
持戒=摂受、持杖=折伏からすれば、摂受にしか該当しません。この点を問うているのです。
> 廃除
廃除どしていないでしょう。前後の問題に過ぎません。両意ありです。
> 折伏の定義:「執持刀杖・斬(断)首」=日蓮の折伏になっていない
>> 蓮師は定義していません。それは引用です。引用をどう蓮師が用いたかは主張するところを見なければなりません。
これは実に便利な論法ですよね。都合の悪いところは、ただの引用としてしまうわけですか。
引用に関して、蓮師が同用いたかは、開目抄の枠から出ますが、自身の刎頭を臨んでいたわけですから、すこしも刎頭折伏をただの引用としていませんでしょう。
父母の頚を刎ん
法華経の行者の頚を刎ること其の数をしらず
法華経の信心をやぶらずして頭を刎らるる
頚はねられぬ
重科を遮せんが為に自頭を刎んと擬す
剰へ頭を刎んと擬す
こうなると、要はひたちさんの主張は、執持刀杖・斬(断)首は折伏ではなく、「念仏者と禅宗等…諍う心…安楽行品…相違」ことが折伏だという主張でしょうか。
> 蓮師が禅宗と念仏者を責めたのは摂受でしょうか。折伏でしょうか。
どちらとも言えないでしょうね。しかし、言説的に責めることが折伏に当たるという経釈は結局ないわけですから。また、安楽行品からはみ出る故に摂受とは言い難い。そこにおける問答でしょう。原則的には日蓮は僧侶で摂受。しかし、安楽行品に相違。その補足的というか、弁明的な引用が「見壊法者不置呵責」。この問題は、こことは分けて論じたかったのですが、結局のところ、蓮師のこの言説行動は、結局、法華経を涅槃経的に解釈したことによる歪みであるとわたしは思えます。
あくまでも引用だから「執持刀杖・斬(断)首」は折伏ではない、念仏・禅言説攻撃が折伏だとするのには経釈の根拠がないとわたしは言ってきているわけです
それは、敢えて言えば、ひたちさんが、わたしが本尊抄の摂折論を不軽で捌く根拠が希薄であるというのに似ています。ひたちさんが言う箇所が、たとえば、日蓮折伏だとしましょう。しかし、いくら自分の行為が折伏だと力んだところで経釈の証明がなければ成り立たないと言うのが、実は日蓮のロジックであるわけですから、その自説によって斬首ならぬ、自身の首を絞める結果になります。ですから、経釈を求めます。もし、経釈がなければ、これは日蓮その人我欲使った言葉で言えば「己義偏執」という批判からでないことになります。
> 独歩…既に日蓮信仰…理解していますが、それとは別に「仏説(経典)証拠のない蓮師の主張はあり得ません」と信じている
まあ、信じているというか、そのような構成になっているだろうと、おおかた考えております。しかし、矛盾、変遷、自語相違、また、ひたちさんが仰るような根拠なしの発言はあるか・否かも考証の範疇に入れ、真正面から実像を見ようと心がけています。
表の構成はなかなか難儀であったろうと存じます。議論のために労を惜しまれなかったことをお礼申し上げます。
ただ、わたしは該当の文書は摂折で捌くことで一貫しているのではなく、自身の捕縛・擬刎頭・流罪という刑罰を肯定的に説明する一環に摂折があり、該当問答の前半を為し、後半結論は転重軽受の見地から滅罪・未来成仏を宣言するものであると考える点で、ひたちさんと、いまは合意を見ていないと考えております。
では、冒頭の「獅子吼・悪人降伏不能、持戒法師」が、何故、折伏か。
「見壊法者不置呵責」を折伏と考えるか・否かの回答をお待ちします。
521
:
犀角独歩
:2005/06/26(日) 12:04:12
519 乾闥婆さん
このような読み解きは、実に腑に落ちます。
生きては帰れない佐渡流罪の地で、こう述べる日蓮には、感動を覚えます。
522
:
乾闥婆
:2005/06/26(日) 12:13:53
>>518
ひたちさん。
>誤解があるようなので、書いておきます。私が立正安国論を用いているのは、折伏を説明するためではないですよ。昨日の通りすがりさんも同様の誤解をしていました。ポアの思想を蓮師が用いなかった前例として用いたのです。
それはそれでかまわないのです。「開目抄」で折伏を論じるにあたって涅槃経等を引用しておりますが、「立正安国論」もまた涅槃経を通して、謗法者の治罰を止施という形で権力者に要求しています。この二つの主張は、折伏という言葉を「立正安国論」で用いてはいないにしても、「開目抄」から振り返るに、やはり折伏の要求なのではないでしょうか。
>ならば、最初から摂折二門を持ち出す必要はないのです。問者は、摂折二門を問うているわけではないのです。蓮師の行動が摂折二門のどちらでも他宗を責めたという事実は変わらないのです。
問者はまず、逢難の原因を安楽行品にある摂受のあり方に反するからではないか、と問うのでしたね。それに対して蓮祖は摂折が時によることを述べるのでした。摂受に当てはまらない自身の行動に対する説明です。そして折伏の行為者は国家権力なのであり、その行為を要求する蓮祖の行動は、やはり摂受の姿からも折伏の姿からも離れるわけです。「日蓮は、日本国の諸人に、したし父母也」です。摂折の選択を揚棄するような立場に、自身を置いているように読めるのです。
>わざわざ「一切の経論此の二を出でず」を引用して、自分の行基は摂折二門から越えているでは、仏説によらない我見であるといわざるを得ません。
私が「超え出ている」といったのは「揚棄する」という意味においてです。捨てる、のではなく、「超え出ている」のではないかと。「摂受・折伏の二義仏説に依る、敢て私曲に非ず万事霊山浄土を期す」です。自分という個人の判断を超え出てゆくような、大きな霊感に捉えられていると感じます。
523
:
顕正居士
:2005/06/26(日) 14:40:34
天台智邈の教学は経典の内容を化法四教、化儀四教その他の概念を用いて整理し、次にこれを己心に観じる
ものです。「夫佛法兩説一攝二折」というのは七仏通誡偈も勝鬘経の説もぜんぶ包摂して大判しているのです。
安国論では金光明、大集、仁王、薬師等の経文を引証しています。これは天台宗で「國土苦樂」の論題という。
国土に苦を現し楽を現すのも「仏説」(仏の説法)だとするのです。つまり国土に苦を現すのは仏の折伏である。
「二を出でず」とは仏説がであり、仏説とは経典の内容ぜんぶのこと、その中に国土の苦楽という方面もある。
「摂受折伏二義任仏説」はそういう意味です。摂受折伏は仏説、仏の側のことです。玄義の折伏摂受を繰り返し
ている所です。摂受折伏を宣教の方便というのは誤りではありません。しかしそれは仏の側からいうのです。
乾闥婆さんのおっしゃりたいのは、そいういうことではなかろうかとおもいます。
524
:
ひたち
:2005/06/26(日) 15:47:58
>>513
乾闥婆さん
どちらにも読めるでは合意に至りませんね。
そう読むと問答の論理を破壊しますから、私はその説を採れないわけです。
>蓮祖自身が引用した経釈の部分をわざわざ読み替えなくてもよくなるわけです。
4書の引用順について
>>494
に考察を示しました。引用によって何を主張しているかが重要です。蓮師はこの段で何を主張しましたか。としてそれは問答の問いのないようにちゃんと答えていますか。
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