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勤行について

239犀角独歩:2004/10/11(月) 11:55

問答さん:

> 仕事をしながらの書き込みですので、レスが遅れます

どうぞ、お仕事優先で。

> 曼荼羅が観心本尊に当たる

ここなんですね、わたしが引っかかってきたところは。
問答さん、「曼荼羅が観心本尊」というのは齟齬を来していると思われませんか。観心とは心を観る、心で観る、心に観る、いずれであっても心中の本尊の観察という意味です。心の中の本尊、いわば思念ですよ。それが紙に図されたところであるというのは言語矛盾を来していませんか。。

観心本尊とは、該当分の前段を読めば明らかなように、己心の教主釈尊、その教釈尊の己心の四菩薩、まあ己心を二重入籠のように蓮師は記述されています。これは要するに十界所具の菩薩界についに至るところを記述されるものでしょう。つまり、己心における十界十如三世間を観るという止観行から導き出される結論であるわけですね。

蓮師が、しかし、本尊というのは五百塵点成道本門教主釈尊という寿量仏です。それはまた三身所顕無始古仏であるとも言うわけですね。ここまでをたしかに心中に本仏を観じる観心本尊ではあるでしょう。しかし、仏像に刻むこと、あるいは漫荼羅に図することは観心から表象化という別の作業に入っていませんか。たしかに『本尊抄』は観心本尊抄という題名です。ところがそこで記される内容は観心を基礎として、如何にそれを言語化、もしくは実像化してみせるかという蓮師の労作業の軌跡を物語っています。

わたしも嘗て40年に亘り、(石山歴代書写)漫荼羅を本尊として拝んだ一人です。しかし、真跡遺文その他、確実な資料に当たるに就き、漫荼羅が本尊であるという確たる証拠は何一つないことに愕然としたわけです。何より、蓮師が漫荼羅を奉掲した事実も、漫荼羅に向かって勤行をした形跡も何一つ窺えないわけです。ここからの出発です。

ですから、安直に漫荼羅を本尊と認めるわけにはいかない。蓮師の着想をなぞり、そして、どこに辿り着かれたのか、それをしっかりと見極めたいと考えるわけです。ですから、学会が何でも「それは生命だ」と短絡する如く、それが「本尊」であると何でも短絡的に結論を出さずに確実に歩みたいと考える次第です。まあ、これは半ば「つぶやき」のようになってしまいましたが。


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