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勤行について

1管理者:2004/09/23(木) 11:36

新しいスレッドテーマの提案が有りましたので立ち上げます。提案文は以下の通り。

47 名前: ROM信徒 投稿日: 2004/09/13(月) 19:24

創価学会の新勤行と観念文(御祈念文と新呼称)です。

 勤行は五座・三座にかわって方便・自我偈一回のみ。(朝夕同じ)
 
 御祈念文

 一、御本尊への報恩感謝
 一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊に南無し奉り、報恩感謝申し上げます。
 末法の御本仏・日蓮大聖人に南無し奉り、報恩感謝申し上げます。
 日興上人に南無し奉り、報恩感謝申し上げます。
 日目上人に報恩感謝申し上げます。
  と祈念の後、題目三唱。

 一、広宣流布祈念
 広宣流布大願成就と、創価学会万代の興隆を御祈念申し上げます。
 創価学会初代、二代、三代の会長を広布の指導者と仰ぎ、
 その死身弘法の御徳に報恩感謝申し上げます。
  と祈念の後、題目三唱。

 一、諸願祈念ならびに回向
 自身の人間革命と宿命転換を祈り、種々の願いが成就しますよう御祈念申し上げます。 (種々の祈念はここで行います)
 先祖代々ならびに会員・友人の諸精霊追善供養のために。
  (回向の中で鈴を打ちます)
  と祈念の後、題目三唱。次に

 世界の平和と一切衆生の幸福のために。
 と祈念の後(鈴)、題目三唱して終了。

以上が正式に決まったそうです。(9月8日総務会於)
尚、すでに会員さんたちには打ち出しとして連絡公表済みです。

そこで、改めて、そもそもの勤行について(観念文含む)諸賢の方々の
ご意見ご賢察を、お願いします。

165ROM信徒:2004/10/06(水) 21:22
>先入観にとらわれず、資料を読まない限り、蓮興二祖の実像に迫ることは出来ないでしょう。

了解しました。

>蓮師が東西奔放

これは語弊がありました。意味は主に鎌倉洛内及び房総と岩本実相寺あたりまでの範囲において
を言ったものです。龍ノ口までの出来事を見ると忙しそうな感じがするからでした。

>修行を簡略化するようなみっともない真似をなさるわけはなかったでしょう。

そうですね。反省します。

>天台寺院に弟子の大半が寓居していた

この事をよく教えられていないのです。結局入倉中はどうだったんでしょう。

166一字三礼:2004/10/06(水) 22:27
犀角独歩さん

> わたしはこの仏像奉安は甚だ不可であると思うわけです。仏菩薩は「塔中」でなければ、『本尊抄』の記述と合致しないと考えます。

確かに『本尊抄』では、塔がすなわち妙法蓮華経とは書いておりませんね。「塔中」と言うからには、犀角独歩さんが仰るとおり、塔の中に妙法蓮華経が収まっていると読み取れます。本化の四菩薩も塔中に入るか否かは別として、妙法蓮華経の左右に並座する釈迦・多宝も塔中に収まる形とのご主張には賛同いたします。

やはり『本尊抄』の「其の本尊の為体・・」からの記述は、虚空会の儀式の再現を意図して描かれたものでしょう。そう考えますと、「宝塔」とされているのは「多宝仏塔」の事と理解できますので釈迦・多宝が並座しているのは塔中である言えると思います。

> わたしは『本尊抄』にいう妙法蓮華経とは経典そのものを指すのではないのかと考えてきました。つまり、法華経典が安置され、そこに多宝仏が居ます宝塔であり、その座を分かち、法華経典の左右に釈迦・多宝が居並び、四菩薩も納まる形であると考えてきました。

ご指摘の事に関しまして、熟考したことがありませんのでご期待には添えないかとは思いますが一言だけ。
「塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏」この場面の考え方ですが。
「昔説かれた古い法華経と関連のある多宝仏」と、「現在法華経を説いている釈迦仏」との間を結び付ける“妙法蓮華経”という事ではないでしょうか。
そうであればこの妙法蓮華経はの性格は、過去に説かれた法華経から現在説いている法華経まで変わらない法華経のエッセンスであり、慣れ親しんだ表現を使えば無始無終、相・絶の二待を超えた絶待妙の妙法蓮華経ではないでしょうか。

私は、妙法蓮華“経”であっても“経”よりも“妙法”に重心がシフトしているように思います。
これは私の浅薄な考えなので、出来ましたら他の諸賢のご意見もお聞かせ願いたいと思います。

167犀角独歩:2004/10/06(水) 23:01

ROM信徒さん:

>> 天台寺院に弟子の大半が寓居
> …入倉中

仰る「入倉」という意味がよくわかりません。一切経の閲覧に蔵に入ったことを仰っているのでしょうか。

蓮師は、ご自身の寺院というものはお持ちではありませんでした。身延入山後も久遠寺とは名ばかりで本当に狭い一宇に住まわれていたわけです。弟子たちと常に一所に居住されておられたわけではありませんでした。
興師ですら、弘安元年に至るまで四十九院の供僧であったわけですね。お弟子の様子には関しては『四十九院申状』『竜泉寺申状』などをお読みになれば、この辺のところはおわかりになるでしょう。

供僧は当然、寺務法要に携わっていたでしょうし、その他、学僧なども準じていたでしょう。極端な話、蓮師はご自身が一宗を立ち上げたという自覚に基づいていたかすら、わたしは疑問を持っています。この人々は当然、天台の修業をされていたわけでしょう。それは換言すれば、蓮師ご自身、天台の修業を日々行われていたからこそ、天台僧が師として仰いだのではないでしょうか。ただし、天台宗と違うのは、そこの唱題という行が添加されたこと、のちに漫荼羅図示授与ということが加わった2点でしょう。この頃には、かなり独自な面も生じていたのかどうか、わたしはこの点にも消極的です。これらの試作は、寧ろ六老方の中でも独り興師が担ったところで、蓮師の修業伸す方に準じて天台を引き継いだ五老方からすれば、奇異に映じた部分もあったのではないかと想像します。

ただ、蓮師は三つの法門を主張されながら、題目と本尊については、よく宣べたものの、ついに戒壇義は語らず終いでした。この点を「志半ば」とわたしが記したことに日蓮本仏論者から反論もありましたが、わたしは蓮師は戒壇義を語ることなく没したと考えます。故に、蓮師が生きておわせば、どのように法門をその後、展開されて行かれたか、それを真剣に考えたのが興師であったのでしょう。試作の場は、まさに重須檀所であったとわたしは考えます。ここに天才・寂仙澄師を得た故に、天台に章安があった如く、興師の試作を、次々と具象化せしめていったのではないのかと、わたしは想像しています。けれど、澄師は寂してしまいます。そのあとを継いだ順師は、しかし、どうであったのでしょうか。この時期には、それでも檀所は安定期に入っていた、けれど、北山の地を引き継ぐ縁故者・代師と法義を継ぐ順師とにひずみが生じていったのではないのかと思えます。
この事情は、『富士一跡門徒存知事』と『五人所破抄』のズレに垣間見ることができるのではないのかとわたしは思っています。両書は同じ興師を仰ぎながら、そこに論じられるところに異見が生じているからです。いずれにしても、重須檀所こそ、ROM信徒さんが162に記されたような種々の試みが次々と行われていった場所だったのではないでしょうか。ここに蓮師在世にはなかった祖師崇拝に基づく御影信仰も発生したのでしょうし、蓮師には闡明に読み取れない漫荼羅を本尊とし安置する様式も発生していったのではないでしょうか。非像もやがて喧しく言われるようになり、興師在世かその後かわかりませんが、ともかく漫荼羅正意論は定着もしていったのでしょう。事檀義も、ここで濫觴を見るのだと思います。

以上、雑駁な記述です。碩学諸師のご叱正を仰ぐものです。

168問答迷人:2004/10/07(木) 06:59

犀角独歩さん

>法華経典が安置され、そこに多宝仏が居ます宝塔

虚空会の段階で、妙法蓮華経という経典が存在していた、という記述は、少なくとも、法華経二十八品にはなかったと思います。何しろ、如是我聞ですから。この点は、蓮祖も良く認識されておられたと思いますので、虚空会の有様を述べられる時に、塔中に法華経典が安置されていた、という構成を取られるとは、僕には考えにくいです。

やはり、妙法蓮華経という経典の法体としての妙法蓮華経であると思います。

169犀角独歩:2004/10/07(木) 07:37

164 空き缶さん:

> 保田…本尊堂には板曼荼羅

板漫荼羅なんですか。紙幅の大本尊ではなくてですか。

> 保田の客殿が旧本尊堂であった

そうですか。これは勉強になりました。

> 譲座本尊は何時頃から客殿にある

資料手放しで恐縮ですが、あの漫荼羅を板に模刻したのは精師で、それを客殿に安置したのではなかったでしょうか。記憶違いかもしれませんが。

170犀角独歩:2004/10/07(木) 08:57

一字三礼さん、お考え有り難く拝読いたしました。

妙法蓮華経の就き、問答名人さんのお問いかけにも関連しますので、以下、記させていただきます。


問答名人さん、

> 虚空会の段階で、妙法蓮華経という経典が存在していた、という記述は、少なくとも、法華経二十八品にはなかった

そう仰ると思いました。
ところがさにあらずです。『見宝塔品』の次に来る『提婆達多品』に「無量劫中 求法華経(吾過去無量劫の中に於て法華経を求めし)」という一節があります。この部分の梵本直訳は以下のようになっています。(より正確に記述すれば、梵本では『提婆達多品』は『見宝塔品』の後半部でありこの二品は一品です)

「かつて余は測ることも数えることもできないほどの劫の昔に、疲れ倦むことなく、『正しい教えの白蓮』という‘経典’を探し求めた」(中P204)

これは、たぶん梵本法華経全体に亘るコンセプトだと思いますが、この創作者たちは法華経典は自分たちが作ったものではない、「測ることも数えることもできないほどの劫の昔」から存在していたのだ、それを自分たちは探し求めてここに呈示しているだけだ、経典はもとより存在していたのだと紙背に籠めています。

現教学に泥んだ固定観念からすれば、妙法蓮華経は法である、このように思いがちですが、少なくとも梵本法華経では法華経と言えば経典であることはお定まりであり、それは要するに聖典信仰という当時世界を席巻していった思想潮流に裏打ちされたものであったのだろうと思えます。印度に登場した釈尊は、かつて計り知れない過去に法華経典によって成仏した物語を再説し現在の法華経典を紡いだのであって、ですから「如是我聞」であることはもちろんのことです。けれど、過去の法華経典もいまの法華経典もそこに差別を置かないのがまた法華経典の在り方でもあります。

もちろん、蓮師は、漢訳妙法華に拠っています。蓮師はまた、一念三千の珠は妙法蓮華経の漢字五文字に裏まれたというコンセプトでもあるでしょう。故に『本尊抄』にいう「塔中妙法蓮華経」は経典か・文字か・法か、これは実に興味深いテーマです。過去数百年の蓮師門下はこれを(南無)妙法蓮華経の五字と見て一塔に刻み、二尊四士を左右に置き、いま一字三礼さんはこれを法と見られた、問答さんは五字の見解でいらっしゃいますか。この点を是非ご教示いただきたく存じます。

わたしは蓮師在世の奉安様式を釈尊一体仏・註法華経と見なす故に経典の可能性を考えているわけです。ただし、確定ではなく思案中です。故に皆さんのご意見を賜りたいと考えている次第です。

> 塔中に法華経典が安置

たしかに多宝塔は多宝如来の舎利を安置する塔です。ですから、そこに法華経典があったとは経から見えません。けれど、蓮師は『本尊抄』に「塔中妙法蓮華経」という一節を書き添えています。これが天台宗より踏襲されたものであるのか・蓮師独自のものであるのかわたしは不勉強でわかりません。しかし少なくとも、法華経で説かれる塔は法華経典安置の塔を標榜していることは明らかではないでしょうか。塔に舎利を置かず法華経典を置くことを促すのが法華経の最たる特徴であることは今さら経証を一々に挙げるまでもないことです。

以下、わたしの態度です。法華経を読む限り、経典、舎利、塔、仏像絵像を崇拝は、読み取れます。しかし、経題が法理であるなどという考えはまったく見られません。たぶん、わたしは天台の五重玄にしてもそれは五字の意義付け説明であって、それをいまのような法理の如く扱う姿勢はないように思えます。ところが日本近代において生命主義の席巻は、妙法蓮華経が生命であり、理法であるかのような錯覚を生じせしめて現在に至っています。ここにいたって、妙法蓮華経は宇宙生命を貫徹する根本法理である、その正体であるかの如く扱われます。わたし達が、知らず影響を受けるこのような法華経の読み方には真っ向から反対するものです。

171犀角独歩:2004/10/07(木) 10:29

問答名人さん、上述のことに関連しますが、「法体」とは何を意味するのでしょうか。
「体」という教学は、実に興味深いところですね。法華教学であれば、やはり什が改竄して九如是と持ち込んだ為体にその端を発すると思います。(いま、資料文献が見つかりませんが、坂本師は什は該当部分を九如是として訳出した旨を直弟子が書き残している文献を紹介しています。これを十如是としたのは南岳か、天台か、ご教示をどなたか垂れていただければ幸甚です)

しかし該当部は『法華論』に「何等法 云何法 何似法 何相法 何体法」と訳することが至当であって、十如是(実際は九如是)という什の訳はまったくの暴挙と云うしかないとわたしには思えます。もちろん、五何法と十如是については、坂本師は『法華玄賛第三之本』『法華玄義第二上』『法華義疏巻三』等を参考にするよう促していますが、いまはその余裕はありません。

まあ、そのような什の訳出の問題は、いちおう、置きます。妙法華でいう「体」とは、十如是の規模から見れば、概観できる相・内面の性をもつ体、すなわち三如是(相性体)の体にほかならないと思います。しかし、什の漢訳の時点で体が直ちに妙法蓮華経を指した意図はないように思えます。問答さんが仰る法体とは、妙法蓮華経という経題の漢訳五字を、直ちに法体と見なされているようにお見受けしますが、そのような意味でしょうか。さらに質問を許されれば、「法体としての妙法蓮華経」とは何でしょうか。

172問答迷人:2004/10/07(木) 11:23

「法体としての妙法蓮華経」とは、十如実相と久遠実成であると言う認識です。

経題の漢訳五字については、蓮祖が「妙法蓮華経の五字に具足」ととかれる所です。十如実相も久遠実成も、妙法等の五字に収まる、という意味では、「法体としての妙法蓮華経」=「経題の漢訳五字」と考えております。

173空き缶:2004/10/07(木) 11:30

犀角独歩さん、大本尊は郷師の遺命によって、広宣流布の時に本堂に安置することになっています。

したがって、今まで一度も安置されたことは無いはずです。

先にも記しましたが、当時本尊堂に安置されたのは、弘安二年の伝蓮師曼荼羅の模刻本尊だと思われます。

174愚鈍凡夫:2004/10/07(木) 11:35

蓮祖は、法華経を説く教主釈尊を擬似的に再現して、それを本尊としようとしていたのではないでしょうか。小生は、蓮祖漫荼羅を本尊としたのは、実は蓮祖ではなく、弟子や信者たちではなかったのかと思います。
当初蓮祖は、漫荼羅を自身の本尊構想を示すために描いたのではないでしょうか。それをいつしか信者たちが常の信仰心を向ける対象として欲し、本尊化していったのではないかと思います。また聖滅後、蓮祖漫荼羅は本尊構想を図顕した唯一の存在であったのではないでしょうか。それで、自然に本尊として広く受けられていったということではないかと思います。

「草木之上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益也」(「観心本尊抄」 昭定P703)

「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり」(「木絵二像開眼之事」 学会版P469)

とありますが、これは法華経を説く教主釈尊の姿を擬似的に再現して、それを「本尊」とせよとの指南とも受け取れると思います。

そして、

「此の時、地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(「観心本尊抄」 昭定P720)

最終的に壮大な虚空会を再現した「一閻浮提第一の本尊」を国家プロジェクトとして、建立しなさいという遺告であろうかと思います。

175愚鈍凡夫:2004/10/07(木) 11:42

>>174:は、ただの妄想かも知れませんが。 (^▽^;)
こういった考えも成り立つのではないかと言うことで。 m(_ _)m

176空き缶:2004/10/07(木) 11:55

愚鈍凡夫さん、こんにちは。

「此の時、地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」の前に「今の自界叛逆、西海侵逼の二難を指すなり」とありまして、この二難がおこった時に「此の時、地涌千界出現して・・」となるわけですが、この当時「西海侵逼」はまだおこっていません。

西海侵逼は、文永11年10月に一応「蒙古襲来」という形で実現します。
それをうけて顕されたのが「万年救護本尊」(文永11年12月日)であるとするのが、高橋麦洲氏などのかねてよりの「万年救護本尊」正統論者の意見なんです。

177愚鈍凡夫:2004/10/07(木) 12:04

空き缶さん、どうも。

生意気ですが、「自界叛逆・他国侵逼」の二難、存じております。
小生が言わんとしているのは、残る二難は切っ掛けにすぎず、最終的に国家プロジェクトとしての「一閻浮提第一の本尊」建立が蓮祖の主眼であったように思います。

178空き缶:2004/10/07(木) 12:15

そういえば、高橋麦洲氏よりも松本勝弥氏の方が先でしたね。(笑い)

179愚鈍凡夫:2004/10/07(木) 12:36

空き缶さん、どうも。
小生が、「自界叛逆・他国侵逼」の二難が切っ掛けにすぎないと判断したのは、「報恩抄」の次の文証があるからです。

「末法のために仏留め置き給う迦葉阿難等馬鳴竜樹等天台伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだひろまらず一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり」(「報恩抄」 学会版P328)

また、

「然れば当世の愚者は仏には釈迦牟尼仏を本尊と定めぬれば自然に不孝の罪脱がれ法華経を信じぬれば不慮に謗法の科を脱れたり」(「善無畏抄」 学会版P1235)

「其の外小菴には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其の室を刎ねこぼちて仏像経巻を諸人にふまするのみならず糞泥にふみ入れ日蓮が懐中に法華経を入れまいらせて候いしをとりいだして頭をさんざんに打ちさいなむ」(「神国王御書」 学会版P1525)

とあります。
どうも、蓮祖在世には、釈迦牟尼仏(釈尊)と法華経のセットが蓮祖の理想であったように思うのです。

ただ、「本尊問答抄(未決)」の下記の文証との整合性の問題がありますが。

「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」(「本尊問答抄」 学会版P365)

反面、同御書に次のような文証もあります。

「答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、例せば儒家には三皇五帝を用いて本尊とするが如く仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし」(「本尊問答抄」 学会版P366)

しかし蓮祖が、ご自身の曼陀羅を信者が本尊とすることに抵抗があったとは思いません。
下記の「此の御本尊」とは蓮祖漫荼羅を指していると思いますが、蓮祖曼陀羅はご自身の本尊観を形として顕したものであるから、本尊としてもかまわないとのご配慮ではなかったかと思います。

「日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために此の御本尊をわたし奉るならば十羅刹定めて偏頗の法師とをぼしめされなん」(「新尼御前御返事」 学会版P907)

180犀角独歩:2004/10/07(木) 17:03

問答名人さん:

> 法体としての妙法蓮華経…十如実相

となりますと、百界千如三千という妙楽がいう一念三千ではないわけでしょうか。
これでは草木成仏の意義も具わらないことになりませんでしょうか。

> 久遠実成

これは釈尊の五百塵点成道を意味するところですが、これがなぜ法体の妙法蓮経なのでしょうか。

181もう一人の通りすがり:2004/10/07(木) 17:13
横からすみません。
問答迷人さん、十如を読めば、妙法蓮華経とおんなじということですか

182ROM信徒:2004/10/07(木) 17:29
とり急ぎです。

>『四十九院申状』『竜泉寺申状』
再読いたします。

>仰る「入倉」という意味
すみません。「入唐」などと同じで「鎌倉に入られている」という意味です。
造語ではありませんが、失礼しました。

昭師については天台籍のままでしたので、独歩さんのお話しは、咀嚼の度合いも
スムースです。ともあれ、僕なりにあたってみます。良い課題です。

ではまた。早々。

183問答迷人:2004/10/07(木) 17:59

あっ、表現が悪かったです。

蓮祖のお言葉を借りれば「此に予愚見をもって前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、其の相違多しといえども、先づ世間の学者もゆるし、我が身にもさもやとうちをぼうる事は二乗作仏(さぶつ)・久遠実成(くおんじつじょう)なるべし。」(開目抄)です。

「二乗作仏」と「久遠実成」に訂正いたします。

184一字三礼:2004/10/07(木) 21:13
横レス失礼します。
犀角独歩さん

> 該当部は『法華論』に「何等法 云何法 何似法 何相法 何体法」と訳することが至当であって、十如是(実際は九如是)という什の訳はまったくの暴挙と云うしかないとわたしには思えます。

経典訳者が原典にかなりの意訳を加えた事は承知しております。
しかし、「添品妙法蓮華経」の序でシャナクッタとダルマギッタがこう記しております。

「竺法護訳と羅什訳とをつぶさに検討すると原典が同一ではないことがわかる。竺法護訳は、多羅樹の葉(インド所伝版)に書かれた写本に基づいており、羅什訳は亀慈国(西域クチャ国所伝)の写本に基づくものである。」(意訳)

現時点では、正法華のテキストしか発見されておりませんが、法華経には、元来、伝播の経緯で複数のテキストは存在していたことを指摘しております。
妙法華の十如是が、正法華の五何法を改竄したものであるかどうかは、両方のテキストを比較しなければわからないことではないでしょうか。

185空き缶:2004/10/07(木) 23:06

犀角独歩さんや愚鈍凡夫さんの卓越した見識の前に、私の執着はいとも簡単にやられてしまいましたね。

私も宗祖は「本門の題目」のみ残し、「本門の戒壇」と「本門の本尊」は後世の課題としたようにも感じます。

話しは変わりますが、犀角独歩さん、私は「原殿書」も「存知抄」や「所破抄」と同様に、興尊の著作と考えるのには慎重です。
もとより興師の直筆は御座いませんが、写本の「原殿書」には、たった一箇所ですが、宗祖を「大聖人」と呼称した個所があります。これが単なる写し間違えかもしれないわけですが、直筆が残る興師遺文の中には「大聖人」という呼称は見つかりません。
「大聖人」の呼称がみられるのは、興師の直筆が無く、ほぼ偽書といわれている「神天上勘文」などの続編関連に出てくる呼称だと思います。
その意味では、「原殿書」よりも他の消息文に現れる、御影に対する興師の姿勢や、「本尊分与帳」に込められた、曼荼羅本尊への興師の思いが私には優先されます。

186犀角独歩:2004/10/08(金) 03:25

問答名人さん、では法体というのは二乗作仏、久遠実成ということでしょうか。


一字三礼さん、ご指摘有り難うございます。
手元に梵本直訳は岩本師のものしかありませんので、五何法に該当すると思われる部分を転載しますと

「それらの現象が何であり、どのようなものであり、いかなるものに似ており、いかなる特徴があり、いかなる本質を持っているのか」

となっております。これを五何法と比較すると

何等法 ― 現象が何であり
云何法 ― どのようなものであり
何似法 ― いかなるものに似ており
何相法 ― いかなる特徴があり
何体法 ― いかなる本質を持っているのか

となり、ほぼ一致している如くです。五何法は『正法華経』ではなく、『法華論』ではなかったでしょうか。『正法華経』で該当部分と思われる箇所は「從何所來諸法自然 分別法貎衆相根本知法自然」でしょうか。たしかに違うテキストに拠っているように思えます。ただ、『法華論』と『正しい教えの白蓮』はよく一致しておりますね。

なお、訳出に就き、まったくご指摘のとおりですが、什の九如是の成句はたしか他にモチーフがあり、それを当て嵌めたことを坂本師が指摘しておりませんでしたでしょうか。いま、資料文献が見当たりません。見つけ次第、また記させていただきます。なお、上述の岩本師の訳出は「 Saddharmapundarika.Ed.by H.Kern & B.Nanjio,St.-Petersbourg 1908-1912 」に拠ったとのことです。九如に該当する部分以外では、妙法華と大部は一致しておりますから、(ほぼ)同一のテキストによるものと思われますが、如何でしょうか。


空き缶さん、ご指摘のところ、尤もであると思います。
一つ参考にお聞かせください。もし興師が身延にあのまま住まわれ、釈迦一体像がそのままであったとしても、漫荼羅本尊のほうを重視されたとお考えになりますか。

187問答迷人:2004/10/08(金) 05:54

>問答迷人さん、では法体というのは二乗作仏、久遠実成ということでしょうか。

同じく開目抄に『華厳乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成(くおんじつじょう)を説きかくさせ給へり。此等の経々に二つの失(とが)あり。一には「行布(ぎょうふ)を存するが故に仍(なお)未だ権を開せず」と、迹門の一念三千をかくせり。二には「始成(しじょう)を言ふが故に曾(かつ)て未だ迹を発せず」と、本門の久遠をかくせり。此等の二つの大法は一代の鋼骨(こうこつ)、一切経の心髄なり。迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失(とが)一つを脱(のが)れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)せざれば、まこと(実)の一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし。根なし草の波の上に浮かべるにに(似)たり。本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前(にぜん)迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門十界の因果をとき顕はす。此即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備はりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。」と有ります。妙法蓮華経の教えとは、二乗作仏・久遠実成であり、法体とは一念三千である、と示されていると思います。

188犀角独歩:2004/10/08(金) 09:28

問答さん、ちょっと整理します。ここのところの遣り取りは、そもそも、わたしの『本尊抄』の「塔中妙法蓮華経』とは法華経典を指すのではないのかという仮定の呈示に端を発しています。それに対して、

> 妙法蓮華経という経典の法体としての妙法蓮華経
> 「法体としての妙法蓮華経」=「経題の漢訳五字」
> 妙法蓮華経の教えとは、二乗作仏・久遠実成であり、法体とは一念三千

というのが問答さんのお応えでした。
これは要するに法華経典に説かれている教えは二乗作仏・久遠実成。
法体は一念三千=(漢訳五字の)妙法蓮華経ということでしょうか。

たしかに『開目抄』では爾前二種の科を挙げ、法華がそれを解消していることは挙げています。けれど、それが法華経の教えのすべてということではないでしょう。あくまで、爾前二種をクリアしていることを陳べているに過ぎません。たとえば、二乗作仏ばかりではなく、説大乗経 名妙法蓮華 名無量義 教菩薩法 仏所護念などといい、二乗作仏ばかりではなく、教菩薩法という側面もあります。また先から引用している『提婆達品』では悪人提婆、変性男子ではあるけれど女人成仏を説く一幕もあります。つまり二乗作仏に止まりません。

また、一念三千の前提である十如(この訳が不可であることはいまは置きます)は諸法実相(この訳も不可と思いますが)を指すのであって、法‘体’ではなく実‘相’となっています。本門にいたり久遠実成が証されることによって(天台教学に添えば)、挙げてくださった蓮師の言のとおり「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備はりて、真の十界互具・百界千如・一念三千」となるのでしょう。しかし、これが法体でしょうか。

問答さんは「虚空会の段階…妙法蓮華経…経典が存在…記述…法華経二十八品にはなかった…如是我聞…虚空会の有様…塔中に法華経典が安置…考えにくい」、このように記されましたね。これは先の記述を併せ考えれば、「塔中妙法蓮華経」とは漢字五字の妙法蓮華経(=一念三千)であるということを仰るわけでしょう。

では、お尋ねしますが、虚空会はそもそも印度での出来事を如是我聞し経典にしたということですね。ここではシャキャムニは中国語を喋っていたのでしょうか。(蓮師の歴史認識では)西暦前1000年の印度でインド人である釈尊が仏法を説いたのでしょう。それにも関わらず、妙法蓮華経の漢字五字をどうして、宝塔内に置くなどと言うことができるのでしょうか。また、それが一念三千であるというのであれば、塔中にそれをどのように置くことができるのでしょうか。

これは漢訳仏典を絶対に扱った中国人天台の過ちに嵌った即断ではないでしょうか。論理的にまったく破綻しているとわたしには思えますが、この点は如何でしょうか。

189問答迷人:2004/10/08(金) 12:24

>妙法蓮華経の漢字五字をどうして、宝塔内に置くなどと言うことができるのでしょうか。また、それが一念三千であるというのであれば、塔中にそれをどのように置くことができるのでしょうか。

蓮師は、釈尊の在世に経巻が存在していなかった事は、経典結集について遺文の随所に触れられている事からも、良くご存知で有ったと考えます。その意味から「塔中妙法蓮華経」の妙法蓮華経は経巻とは考えにくいと思います。

また、当然のことながら、法華経の経文に「塔中妙法蓮華経」等と説かれている訳では有りません。この表現は、あくまでも蓮師が本尊抄に独自に説かれるところです。蓮師は妙法蓮華経の漢字五字を中尊とし釈迦・多宝を脇士とする、蓮師独自の観心本尊を示しておられるのだと思います。

190犀角独歩:2004/10/08(金) 12:35

問答さん:

> 蓮師…釈尊の在世に経巻が存在していなかった…「塔中妙法蓮華経」の妙法蓮華経は経巻とは考えにくい

経巻は確かに存在していなかったでしょう。けれど、同じように漢字五字の妙法蓮華経も存在していませんでした。その意味においては、全く同様です。

> 「塔中妙法蓮華経」…蓮師が本尊抄に独自に説かれる

そのとおりです。

> 蓮師は妙法蓮華経の漢字五字を中尊とし釈迦・多宝を脇士…観心本尊

これは違いますでしょう。該当の『本尊抄』は「妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩…迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士…未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の“仏像”出現せしむべきか」です。
ここでは脇士は四菩薩であって釈迦・多宝でありません。また、ここで言われる観心本尊は文が示すとおり、寿量釈尊の仏像であることは明白です。

191問答迷人:2004/10/08(金) 14:45

>ここでは脇士は四菩薩であって釈迦・多宝でありません。

すでに独歩さんとは、幾度か議論させていただいた箇所ですね。報恩抄には「答へて云はく、一つには日本乃至一閻浮提(えんぶだい)一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂(いわゆる)宝塔の内の釈迦・多宝、外(そのほか)の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士(きょうじ)となるべし」とあります。この文の「脇士となるべし」が、釈迦多宝以下を指すのか、それとも、上行等の四菩薩だけに掛かるのか、という問題です。

この点に付いては、曼荼羅を拝する時、「中尊が南無妙法蓮華経、釈迦多宝が脇士」というのが、僕の偽らざる第一印象なのです。ここで再度議論しても平行線かも知れませんが、この報恩抄の一節をどう解釈すべきか、承りたく存じます。

192犀角独歩:2004/10/08(金) 16:25

> 191

なるほど、この点は確かに過去に議論をしておりました。
初老の呆けとも思えませんが、失念しておりました。

原文でいたしましょう。

「塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩」
「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・竝びに上行等の四菩薩脇士となるべし」

この文を問答さんは同一視されておられますが『本尊抄』52歳、『報恩抄』55歳という3年の時間差は、蓮師法門という蕾が一挙に開花する時期に当たる故にその変遷は一日千秋の相違があるように思えます。ではこの3年の差異はどこに見られるか。最も端的には戒壇義の有無でした。また『本尊抄』の該当部分は「仏像」の係るものであるのに対して、『報恩抄』は「正法」に係るものである差異もあります。

しかし、用語の使用において共通している点があることもたしか話し合いましたでしょうか。「釈迦」「釈尊」の使い分けです。同一の仏である釈迦と釈尊がここでは二重に登場しています。問答さんはさらに中尊・妙法蓮華経五字までも、ここに加えられるという主張を紙背にされておるわけですね。

また、主張は『本尊抄』の該当箇所の一般的な訓読に異議を唱えるものとなっておられます。先ずこの点がしっかりしませんと、食い違いが生じることになりますでしょう。問答さんは、上述の漢文はどのように記されたものとお考えなのでしょうか。訓読をお示しいただけませんでしょうか。

193問答迷人:2004/10/08(金) 17:03

犀角独歩さん

>主張は『本尊抄』の該当箇所の一般的な訓読に異議を唱えるものとなっておられます。

そうでしょうか?一般的な訓読を踏襲しているつもりですが・・・。訓読について、以下のように読んでおります。

原文 塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩

訓読 塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩

194犀角独歩:2004/10/08(金) 17:48

問答さん、上述の訓読でどうして、『報恩抄』と同じになるのでしょうか。
これで、なぜ釈迦・多宝が脇士になるのでしょうか。

195問答迷人:2004/10/08(金) 19:37

対応関係を見てみますと、以下のように読めます。


「本門の教主釈尊を本尊と尊とすべし」→「塔中の妙法蓮華経」

「宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・竝びに上行等の四菩薩脇士となるべし」→「左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩」

ここで、『左右に釈迦牟尼仏・多宝仏』の箇所は、妙法蓮華経を中尊とし、その左右に釈迦と多宝を配しているわけですから、中尊とその脇士を意味していると考えています。

196犀角独歩:2004/10/09(土) 10:40

いえいえ、対応関係を申し上げているわけではありません。
文章をそのままに読む話です。

記される如きの「対応関係」は山中師『御本尊集目録』を見ていない人には通用するでしょう。しかしながら、現存御筆漫荼羅を時系列に見るとき、そこに蓮師の思索の足跡をしっかりと看取れば、この考えは捨てざるを得ません。

『本尊抄』述作の文永10年、蓮師漫荼羅は、いまだ図示の日付すら書き込まれない素朴なもので漫荼羅と呼ぶほどの体裁を整えていません。実際、讃文もありませんから、これは漫荼羅と呼んで好いか、わたしは躊躇いがあります。
中央題目に釈迦・多宝、あるいは他の仏菩薩は記されるものの、四菩薩の勧請はありません。
しかしその後、わずか3年の歳月を経、劇的にその図示は飛躍的に変化を遂げられます。『報恩抄』の頃には四菩薩の勧請は見られるようになります。

『本尊抄』述作の段階で漫荼羅に四菩薩を勧請するという考えに至っておられなかったことは現存御筆漫荼羅が雄弁に語っています。しかし、『報恩抄』の段階では四菩薩は勧請されておられます。つまり、『本尊抄』と『報恩抄』の該当文を漫荼羅相貌と見なすとき、この両文が対応していないことは現存する御筆漫荼羅を比較すれば明らかです。

また、問答さんは『本尊抄』の記述を漫荼羅相貌と断定されたうえでお考えになっておられるようですが、何度も記したとおり、該当の文章は「仏像」についてであることは後文で明白であり、この事実は動きません。また、『報恩抄』の記述は教主釈尊を表すものであり、妙法蓮華経五字に就いてではありません。

中央題目を置く漫荼羅と、中央釈尊像を置く仏像とはその意味するところが異なります。

197犀角独歩:2004/10/09(土) 10:56

やや、訂正します。

> 中央題目に釈迦・多宝、あるいは他の仏菩薩は記されるものの、四菩薩の勧請はありません。

> 『本尊抄』述作の文永10年頃と目される漫荼羅は中央題目の左右に釈迦・多宝で、他の仏菩薩が加わるのですら、年を跨ぎ、翌11年を待たなければなりません。まして、四菩薩の勧請はありません。

198問答迷人:2004/10/09(土) 13:51

犀角独歩さん

ご指摘にお答えする前に、一つ確認させてください。

>仏像

蓮師は、この「仏像」語をどのような意味で使っておられるか、それが問題になると思います。独歩さんは、この点、どのようにお考えでしょうか。ちなみに、大辞泉では次のように書かれています。

仏像→「礼拝の対象として製作された仏の彫像・画像。多く彫像をいう。」

この定義で言えば、「仏像」は「彫像」の意味に使われる事が多いが、画像も含むわけですから、曼荼羅は当然含まれるし、文字曼荼羅も仏像に該当すると思いますが、如何お考えでしょうか。

199犀角独歩:2004/10/09(土) 18:28

問答さん、書き出すと対夢中になって駄文で先鋭化し申し訳ありません。

わたしはこの「仏像」は文字通り、釈尊の絵像、彫塑像であると考えています。寛師の如く仏像を漫荼羅であるなどともちろん、思いません。

何度も記しますが、蓮師は終生、釈迦立像一体仏を随身されたのは紛れもない事実です。もし、この仏像が持ち去られることなく、そして、離山することがなければ、興師もまた、仏像を蓮師の舎利・註法華経と共に大切に扱ったでしょう。

蓮師が『本尊抄』を記されたとき、漫荼羅図示の着想より先行して、寿量仏像造立の着想があったと思えます。天台の草木成仏を殊の外取り沙汰されるもそのためであったと考えます。ただし、仏像と漫荼羅は並行し、両立であったと遺文から窺えるとも考えています。

『本尊抄』では、摂受:折伏=僧:王という関係を示されています。この点は動きません。さらに言えば、漫荼羅:仏像=僧(出家):王(在家)ということもまた論じられているのが同抄ではないでしょうか。故に蓮師は終生、漫荼羅を専らにしましたが、在俗信者の仏像造立を賞賛されると共に、為政者の帰伏と寿量仏像を祀る寺院の建立を心待ちし、ついに果たされず、その生涯を終えられたという流れが看取できると考えております。

なお、「塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩」という文章は仰るとおりにしか訓読できませんね。目が惹かれることは釈迦、釈尊の書き分けです。この文は重文ではないでしょうか。

「塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏」「釈尊脇士上行等四菩薩」はそれぞれ独立した意味を持っていませんか。
宝塔品の説相に従った宝塔の中の妙法蓮華経の左右に釈迦・多宝の二仏並座、これが前文の意味するところでしょう。この段階ではしかし、いまだ地涌菩薩は出現しておりません。その説相は涌出品第15を待たなければなりません。しかし地涌菩薩が出現しても、この段階では迹仏の域ですね。

それが久成を示した寿量品第16に至って、後文で言う「釈尊脇士上行等四菩薩」となったとき、本仏の域となります。つまり、この重文は本迹を分けて記されている如くです。これを蓮師は迹門:本門=釈迦:釈尊と使い分けていらっしゃるとわたしは考えます。

ところで、在世の宝塔中に並座した釈迦牟尼仏と久遠の四菩薩を脇士とする釈尊を併せ描くことは困難を極めると思いませんか。

たとえば、問答さんが生まれたばかりのお姿と、いまご家族を伴っているお姿を一つの図像で表現しようとすることは難しいのと同様です。赤ちゃんの親御さんに懐かれた写真と、いまご家族を伴っている写真の2枚を呈示することは容易いでしょう。しかし、一緒に表現しようとするとこれは実に困難なことです。

在世から示せば、宝塔の中、妙法蓮華経の左右に半座を分かたれ、多宝と並ぶ釈迦牟尼仏となりますが、これでは久成の師弟を表すことはできません。寿量本仏の有様を示そうとすれば、涌出・寿量の説相の如く、四菩薩を脇士と置くほかないと蓮師は思索されたのだと思います。しかし、近成と久成、釈迦と釈尊を一つの図像で表現することの困難を蓮師は感じていたのではないでしょうか。つまり、これを表現することができるのは、まさに『本尊抄』の文の如くしかないということであったと思います。この点は『報恩抄』も同様であると考えます。

漫荼羅では、宝塔品で塔中に妙法蓮華経の左右に釈迦・多宝が並座し、さらに進んで涌出品で出現した四菩薩が‘釈尊’の脇士となったことで本門仏を表していく着想があったのであろうと思うのです。

しかし、これを仏像でやるとなるとどうなるのか。蓮師の思惟の詳細は窺えません。ただ、釈尊脇士四菩薩は寿量仏を表す蓮師の着想であったことは遺文から看取できようかと思います。

今回の議論は「塔中妙法蓮華経」は法華経典ではないのかというわたしの仮定に基づきます。この点にわたしが拘るのは、たぶん、蓮師は随身仏と共に註法華経を置かれていたであろうという想像に基づきます。
仏像の御前に法華経を安置すること、実はこれは仏像を本尊と考えれば、古くから現在に至るまで行われてきたことでした。どなたかが記されていたように、宝前に法華経を置くことは慣習化された奉安です。

仏像の御前に法華経を置くことによって、その仏像は実教仏であることを示せますね。しかし、これでは本門寿量仏であることを示すことはできません。その仏像が寿量仏であることを示すのに蓮師がお考えになったことこそ、四菩薩を脇士として副えるということであったとわたしは考えます。しかし、この仏像の造立、それを祀る堂宇の建立は在家の地涌菩薩の使命である故に、蓮師は漫荼羅を図示に止まり、未来に託されたというのがわたしの考えです。

200問答迷人:2004/10/09(土) 21:18

犀角独歩さん

少しくどいので申し訳ないですが、再度確認させていただきたいと存じます。

>釈尊の絵像、彫塑像であると考えています

本尊抄の次上の文からの文脈を見てみますと、「此等の仏をば正像に造り画(えが)けども未(いま)だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。」となっていますので、この「仏像」は「彫像」と「画像」の両方を視野に入れられたものであると思われます。


>寛師の如く仏像を漫荼羅であるなどともちろん、思いません。

この点は、異論があります。曼陀羅は仏の姿を描いた画像とはなぜ言えないのでしようか。

>仏像と漫荼羅は並行し、両立であったと遺文から窺えるとも考えています。

そうでなくて、蓮師の言われる仏像は「彫像と曼陀羅が並行し、両立であった」と遺文から窺えるのではないでしょうか。

201犀角独歩:2004/10/09(土) 22:24

問答名人さん:

>「仏像」は「彫像」と「画像」の両方を視野に入れられた

当然ではないでしょうか。

> 曼陀羅は仏の姿を描いた画像とはなぜ言えないのでしようか。

字は画では有りません。文字です。
逆にお尋ねするしかありません。漫荼羅がなぜ仏像なのですか。

>> 仏像と漫荼羅は並行し、両立
> 彫像と曼陀羅が並行し、両立

いえ、仏像でしょう。わたしは仏像と漫荼羅は別と考えますので、彫像・画像との平行であるとは考えません。

202問答迷人:2004/10/10(日) 08:15

犀角独歩さん

>字は画では有りません。文字です。

蓮師がなぜ文字を使って曼荼羅を描かれたか、そこには蓮師の何らかの意図が有るはずです。本来の真言の大曼荼羅はご承知の通り、絵曼荼羅です。ところが、文字をもつて描かれた曼荼羅を「大曼荼羅」と呼んでおられます。

蓮師が文字に対するお考えを端的に書かれている遺文、御衣並単衣御書を引用してみます。

「衣かたびら(帷子)は一なれども、法華経にまいらせさせ給ひぬれば、法華経の文字は六万九千三百八十四字、一字は一仏なり。此の仏は再生敗種(さいしょうはいしゅ)を心符とし、顕本遠寿(おんじゅ)を其の寿(いのち)とし、常住仏性を咽喉(のんど)とし、一乗妙行を眼目(げんもく)とせる仏なり。「応化は真仏に非ず」と申して、三十二相八十種好の仏よりも、法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給ひ候へ。」(平成版御書908頁)

ここに示された蓮師の視点に立って文字曼荼羅を捉えれば、「本門の教主釈尊を文字を以って描いた仏画」という事になると思います。

203犀角独歩:2004/10/10(日) 11:02

問答さん:

> 蓮師の視点…文字曼荼羅…本門の教主釈尊を文字を以って描いた仏画

これは明らかに拡大解釈、牽強付会ではありませんか。
引用される所では『法華経』の文字を「仏」であると拝されているのであって、仏像であると仰っておりません。このような拡大解釈が成り立つのであれば、蓮師も引用される『金剛[金*卑]』の

「一草一木一礫一塵。各一佛性各一因果具足縁了(一草一木一礫一塵各一仏性各一因果あり縁了を具足す)」

というのは、問答さんの論法で言えば、塵一つでも仏像と言うことになってしまうでしょう。それともそのような主張ですか。

真跡で見る蓮師の「仏像」の語法は以下のとおりです。一切、木像・絵像を指していることは明らかです。

「仏像の形・仏塔の形を造作」災難対治抄,正元2年(1260)2月39歳
「仏像を崇(あが)め経巻を専(もっぱ)らにす」
「一朝の山川(さんせん)を廻(めぐ)りて崇(あが)むる所の仏像」立正安国論,文応元年7月16日(1260)39歳
「木画(もくえ)の仏像・堂塔(どうとう)等をやき、かの仏像等の寄進の所をうばいとり」顕謗法抄,弘長2年(1262)41歳
「堂塔を斫倒(しゃくとう)し仏像を毀破(きは)し」行敏訴状御会通,文永8年(1271)7月50歳
「山門の堂塔・仏像・経巻数千万をやきはらはせ給ふ」祈祷抄,文永9年(1272)51歳
「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」如来滅後五五百歳始観心本尊抄,文永10年(1273)4月25日52歳
「仏像の前に安置し七日七夜深誠を翹企(ぎょうき)し祈請(きしょう)を勤修(ごんしゅ)す」撰時抄,建治元年(1275)6月10日54歳
「諸像皆無魂無眼(むこんむげん)の者となりぬ。結句は天魔入り替はって檀那をほろぼす仏像となりぬ」清澄寺大衆中,建治2年(1276)1月11日55歳
「百済国の聖明王より仏像経等始めて日本国に送る」一代五時鷄図,建治2年(1275)55歳
「敬って仏像・経教・法師を捧(ささ)げて使ひに附して貢献(こうけん)す」神国王御書,弘安元年(1278)歳
「小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其の室を刎(は)ねこぼ(毀)ちて、仏像・経巻を諸人にふ(踏)まする」神国王御書,弘安元年(1278)歳

204犀角独歩:2004/10/10(日) 11:32

―203からつづく―

蓮師漫荼羅が画像であるというご主張に百歩、譲った場合、では、蓮師はなぜ『本尊抄』の該当部分は「画(絵)像」としなかったのでしょうか。蓮師の真跡では仏像・画像を明らかに書き分けております。もし、該当部分が「画像」となっていれば、まだしも「仏像」であることは動かない事実です。

また蓮師は、絵の具(草)=画像、木材(木)=木像の両面を併せて、草木成仏を主張されるのであって、故に画像のみでは草ばかりで木の成仏義を欠くことになる点は看過できません。つまり、仮に漫荼羅が画像であったとしても、他に木像を造立しない限り、草木に亘る天台に言う草木成仏義を成就しないのです。

「絵像木像にあらわして本尊と仰ぐべし」開目抄上,文永9年(1272)2月51歳
「出仏身血  木画像等」一代五時図,文永8年(1271)50歳
「賢者等は画像(えぞう)にかき奉り、木像にもつくりたてまつらざるらめ」新尼御前御返事,文永12年(1275)2月16日54歳
「かヽる仏なれば木像・画(え)像にうつし奉るに、優填(うでん)大王の木像は歩みをなし、摩騰(まとう)の画像は一切経を説き給ふ」法蓮抄,建治元年(1275)4月54歳
「画像(えぞう)・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし」
「ゑのぐ(絵具)は草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す」四条金吾釈迦仏供養事,建治2年(1275)7月15日55歳
「画像(えぞう)木像の開眼(かいげん)の仏事」報恩抄,建治2年(1275)7月21日55歳
「仏を或は木像、或は画像等にあがめ給ふ」神国王御書,弘安元年(1278)歳
「画像の釈尊を書き奉りし」日眼女釈迦仏供養事,弘安2年(1279)2月2日58歳
「寺々の仏は皆或は画像、或は木像」諌暁八幡抄,弘安3年(1280)12月59歳

205問答迷人:2004/10/10(日) 11:37

犀角独歩さん

>これは明らかに拡大解釈、牽強付会ではありませんか。

そう仰ると思っておりました。もう少しお付き合いください。

そもそも、真言の曼荼羅とは、仏画ではなかったでしょうか。蓮師が文字に認めた御本尊を以って、曼荼羅と呼ばれること自体、独歩さんのお言葉をお借りすれば、「拡大解釈、牽強付会」という事になりませんでしょうか。文字で認めた本尊を「曼荼羅」と呼ばれる以上、蓮師は文字本尊を仏画と認識されていた証拠であると思います。如何お考えでしょうか。

206犀角独歩:2004/10/10(日) 12:56

問答さん、わたしは石山の教学解釈には常に二つの過ちがついて回り、その影響を自分も受けてきたと自覚し、その解消に努めてきたのです。一つは真偽分類を欠くという資料の取り扱いの杜撰さ、もう一つは時系列感の欠如と言うことです。先の問題は当板では厳正な真跡主義、資料を取り扱う方々の真摯な姿勢でよく解消されてきたところです。しかし後者の問題はまだ残っているように思えます。

問答さんは、蓮師が「曼荼羅と呼ばれる」と即断されていらっしゃいますが、『本尊抄』述作の時点で漫荼羅と呼ばれた物的証拠は何等残っておりません。わたしはこの「仏像」と記述された時点で蓮師にはご自身が書したもの(図示という認識もなかったでしょう)を漫荼羅であるという認識はなかったであろうと考えています。もちろん、その数箇年で図示漫荼羅の自覚はしっかりと固まったでしょう。

わたしが問題にしているのは、『本尊抄』述作段階「仏像」に係る蓮師の考えです。つまり、該当文書を日蓮学者の多くは漫荼羅図の如くと陳べますが、しかし、文永10年のこの時点ではまだその考えには至っていない以上、寿量仏を仏像として表すことを意識されていたと考えるほかないと繰り返し申し上げているのです。その証拠にこの当時の書は中央題目に釈迦・多宝、不動愛染に日蓮花押という素朴な様式にしか至っていないからです。是一

では、その後、蓮師は漫荼羅を仏画とお考えになっていたかという点にも触れます。実はわたしはこの点についても懐疑的です。たしかに故高木豊師は蓮師の図示をして「字像」漫荼羅と評したことは夙に有名なところです。わたしも見事な表現であると敬服もいたします。けれど、桐谷師がたしか指摘された点であったと思いますが、大幅の漫荼羅を蓮師は説法の説明に懸けて供していたと言います。もちろん、「亀姫護」と知られる守護本尊としての図示はありますから、祈祷法具としての一面はもちろんあったのでしょう。

けれど、わたしはそもそも「未曾有之大漫荼羅」と自讃されるところは、仏画というより、仏国土図画、それも蓮師当時日本の理想仏国土の表象につき、言われるところではないのかと思うわけです。是二

あと2点付言させていただきます。

脇士の件ですが、わたしはあくまで久成釈尊の脇士は四菩薩に限ると考えます。その故は、たとえば、『法華取要抄』に「華厳経の十方台上の毘盧遮那・大日経・金剛頂経(こんごうちょうきょう)の両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり」とあり、図示はされないものの、多宝如来に別個の脇士を従えていることを蓮師は主張されるからです。

もう一つ。「塔中法華経」が漢字五字か・経典かという問題です。上述にも関連しますが、『曾谷入道許御書』に「不空三蔵の天竺に還り渡って真言を捨てヽ漢土に来臨し、天台の戒壇を建立して両界の中央の本尊に法華経を置きし等是なり」という記述が見られます。ここでいう法華経は、まちがいなく経典であると存じます。

207問答迷人:2004/10/10(日) 14:21

犀角独歩さん

>仮に漫荼羅が画像であったとしても、他に木像を造立しない限り、草木に亘る天台に言う草木成仏義を成就しないのです。

この点は、仰る通りであると思います。ただ、その事は、逆の意味も含みます。木像のみで画像を描かない場合は、これまた、草木成仏義を成就しないわけです。蓮師は仏像として、木像と画像の両方を視野に入れ、伽藍形式における木像群本尊と、紙幅曼荼羅形式の画像本尊の両者をお考えであったと思います。それは、独歩さんが203に「木画(もくえ)の仏像」と示された一節が物語っていると思います。


>蓮師はなぜ『本尊抄』の該当部分は「画(絵)像」としなかったのでしょうか。

これは同じ事ですね、画像に限定しては、草木成仏義を成就しないからだと思います。だから、木像と画像の両方の意義を込めて「仏像」とされたと思います。

>わたしはこの「仏像」と記述された時点で蓮師にはご自身が書したもの(図示という認識もなかったでしょう)を漫荼羅であるという認識はなかったであろうと考えています。

これは違うのではないでしようか。もし「木像」「彫像」と書かれたのなら、仰る通りですが、「仏像」は「木像」「彫像」「画像」を包括した言葉です。画像を視野に入れておられたからこそ「仏像」とされたのだと思います。しかも、既に、その段階で、簡潔ながらも、「大曼荼羅」という賛文は無くとも、文字曼荼羅を書かれていたことは確かなのですから。

>仏画というより、仏国土図画、それも蓮師当時日本の理想仏国土の表象につき、言われるところではないのかと思う

これについては、あの、新尼御前御返事に「此の五字の大曼荼羅(まんだら)を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶(たす)け万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱(のが)るべしと仏記しをかせ給ひぬ。」と説かれているわけですから、独歩さんの仰る「仏国土図画仏画」として書かれたという点は否定するものでは有りませんが、受持・信仰する対象とされていた事は明らかであると思います。

脇士の件、これは考えておりませんでした。仰る通りであろうかと存じます。また、戒壇院に法華経を安置した事例については、了解ですが、もし本尊抄の記述がこの事例を踏襲したとすれば、「両界の中央の本尊に法華経を置きし」ですから、釈迦・多宝が本尊ではなく、「法華経」が本尊という事になりますが、この点、如何でしょうか。

「時系列感の欠如」という問題については、石山は日蓮本仏論に立っていますから、蓮師の思想が時系列で変化して行ったことは、恐らく認めたくないからでしようね。僕自身、時系列感は確かに欠如していると思います。今後、良く気をつけたいと存じます。

208犀角独歩:2004/10/10(日) 14:56

問答名人さん:

> 蓮師…木像群本尊…紙幅曼荼羅形式の画像本尊の両者をお考え

これはそのとおりでしょう。そしてこのことを考えるに当たり、実際的な問題として無産階級である僧侶は仏像・伽藍の建立は在家、もしくは為政者に委ねるのは成り行きであり、そのことを『本尊抄』を解読するに当たり、視野に入れなければならないとわたしは思うわけです。
ただし、何度も繰り返しますが、『本尊抄』述作当時、蓮師にはまだ漫荼羅という着想に至っていなかったであろうというのがわたしが申し上げていることです。もし、この文永10年の時点で、字像漫荼羅の着想があったというのであれば、その証拠を挙げなければなりません。しかし、遺る真跡、題目書は、それを指示しません。

> 木像と画像の両方の意義を込めて「仏像」

繰り返しますが、これは真跡における用法と一致しません。蓮師は両方の意義を籠めて仏像という表現はされていません。

>> …「仏像」…漫荼羅であるという認識はなかった
> …「仏像」は「木像」「彫像」「画像」を包括した言葉

一般の用法としては、そうかも知れませんが、203に挙げたとおり蓮師は包括して使われていません。

以上は問答さんは、仏像という語が木像・絵像を包括して蓮師が使っているという固定観念から導き出されるところでしょうが、もし、そのように主張されるのであれば、「仏像」語が仰るように、木像・画像・漫荼羅に亘ることを示す真跡を挙げる必要があるでしょう。

> 「大曼荼羅」という賛文は無くとも、文字曼荼羅を書かれていた

ですから、これが逆時に歴史を読んでいると思える点なのです。
中央題目・釈迦多宝を書けば漫荼羅であるというのは、それは図示が漫荼羅であるという固定観念に基づくことでしょう。
当初は漫荼羅という着想はなかったが、後に生じたということです。
その証拠に当初のそれには「漫荼羅」という讃文がありません。図示していくうちに漫荼羅という着想が浮かんだと見るのが時系列に添ったものの考え方です。まさか明星池に映った自分が大漫荼羅であったから、その時点から蓮師は知っていたなどと言う伝説を信じてお出でではないでしょう。ここは時系列に添って、その時期に真跡と御筆漫荼羅から考証していくのが学的態度ではありませんか。

> 新尼御前御返事に「此の五字の大曼荼羅(まんだら)を身に帯…

御筆漫荼羅をよくよく見ると折り目痕が残っているものがいくつかあります。つまりこれは折り畳んで袋に入れて、文字通り見に帯けていたということです。同消息の文は要は、この漫荼羅が護本尊であることを意味するものでしょう。

> 「両界の中央の本尊に法華経を置きし」ですから、釈迦・多宝が本尊ではなく、「法華経」が本尊という事になりますが、この点、如何でしょうか。

このようにお考えになりますか。
ここで置かれる『法華経』は意ということではないでしょうか。
「仏作って魂入れず」という言葉がありますが、仏像の魂は経典であるとしたのではないでしょうか。これは仏像の御前に法華経を置くのも胎内に経巻・経文を入れるのも同様の意味合いではないでしょうか。ですから、法華経は本尊ではなく、本尊の意(たましい)ということであろうかと存じます。

209問答迷人:2004/10/10(日) 15:30

犀角独歩さん

>仏像という語が木像・絵像を包括して蓮師が使っているという固定観念

これは、本尊抄の文によって、そう考えているのです。200レスにおいて既に述べた事です。繰り返しになりますが、本尊抄の次上の文からの文脈を見てみますと、

「此等の仏をば正像に造り画(えが)けども未(いま)だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。」となっています。

ここで、「造り」とは「木像、或いは彫像」「画(えが)けども」とは「画像」を指している事は明白でしょう。ここは正法、像法のありさまを述べられている箇所です。しかしながらこの事は、末法にも掛かってきますから、末法出現の仏像にも、同じく木像(或いは彫像)と画像の両方の意味が含まれてきます。もし、木像のみを意味するのであれば、「仏像」ではなく「木像」と表現されていなければなりません。「仏像」を、木像・絵像を包括して蓮師が使っているのは明らかだと思います。

弘長二年の顕謗法抄には「木画(もくえ)の仏像・堂塔(どうとう)等をやき、かの仏像等の寄進の所をうばいとり」とあります。

また、建治二年の清澄寺大衆中にも「日本国の木画(もくえ)の諸像皆無魂無眼(むこんむげん)の者となりぬ。結句は天魔入り替はって檀那をほろぼす仏像となりぬ。」とあります。

これらからも、仏像という語を、木像・絵像を包括したものとして蓮師が使っているのは明らかであると思います。

210問答迷人:2004/10/10(日) 16:06

>206
この当時の書は中央題目に釈迦・多宝、不動愛染に日蓮花押という素朴な様式にしか至っていないからです

これは事実と違っています。本尊抄述作直後の文永10年6月の字像本尊(本尊集№11)には、既に、後の曼荼羅とさして違わない様式で、しかも、大曼荼羅という語句は見られないものの、賛文が書かれています。しかも、翌年の文永十一年の字像本尊(本尊集№13)には、「大曼荼羅」と認められています。

文永十一年の「大曼荼羅」との表現は、身延入山直後からですから、佐前、佐後という思想展開、或いは、三度目の国諌が受け入れられず、伽藍形式の木像本尊を造立する望みが絶たれた事と密接に関連が有る様に思われます。

211犀角独歩:2004/10/10(日) 17:05

問答名人さん:

> ここで、「造り」とは「木像、或いは彫像」「画(えが)けども」…

該当の文書は「此等仏造画」ですよ。此等仏とは、寿量仏以前の仏を指しています。なぜ、この述語がそのあとの寿量仏に係るわけがありますか。

> 木画(もくえ)の仏像…木画
> 仏像という語を、木像・絵像

包括しておりませんでしょう。木画と書き分けていらっしゃります。

> …文永10年6月の字像本尊(本尊集№11)

これは問答さんはネットの画像でご覧になっているので勘違いされるも無理はありません。「文永十 年」と空間が空いておりますね。ここには「一」が入ります。書籍『御本尊集目録』を見ればわかりますが、「文永十一年太才甲戌六月日」です。『冨士年表』などで確認されればおわかりになれますが、文永11年は「太才甲戌」、10年は「太才葵酉」です。
ですから、10年の段階ではこのような形式はないということです。

> 文永十一年の「大曼荼羅」との表現は、身延入山直後からですから、佐前、佐後という思想展開、或いは、三度目の国諌が受け入れられず、伽藍形式の木像本尊を造立する望みが絶たれた事と密接に関連が有る様に思われます。

これはなかなか興味が惹かれる着想です。その根拠をお示しください。

212犀角独歩:2004/10/10(日) 17:37

○第11号について

この「本尊」は御筆漫荼羅ではないと見るのが一般です。

蓮師は、定形の楮紙を何枚かに継ぎ、その表面を木槌で叩いたものを図示にはお使いになりました。ところがこの「本尊」は絹本です。また、「天目受与」とあり、通常の「授与」と異なっています。これは第120号も同じです。この点に就き、山中師は「他筆」とするのが至当であると言います。
また、常師直授と伝わる「天目‘模’ノ御本尊…謀筆」との見解を紹介されています。

213犀角独歩:2004/10/10(日) 17:44

212の文章、やや誤解を招く部分がありました。第120号のほうは「受与」とありながらも御筆というのが一般です。

214問答迷人:2004/10/10(日) 17:50

犀角独歩さん

>該当の文書は「此等仏造画」ですよ。此等仏とは、寿量仏以前の仏を指しています。なぜ、この述語がそのあとの寿量仏に係るわけがありますか。

という事は、寿量仏以前の仏については、「造り」とは「木像、或いは彫像」「画(えが)けども」とは「画像」を指している事については、異論が無いと言う理解でよろしいでしょうか。もし、そうで有るならば、寿量仏以前の仏も、寿量の仏も、仏であるという点では、同じであるわけですから、寿量仏の仏像にも「木像」と「画像」があると考えるのが話の流れではありませんか。

弘長二年の顕謗法抄の「木画(もくえ)の仏像」との表現は、木画と書き分けながら、それらをさらに「仏像」語で括っていることを指摘しています。「仏像」と言った時、「木像」と「画像」を含んでいるのは明らかでは有りませんか。僕の言っている意味がどうして御理解戴けないのでしょうか。不思議です。

>その根拠をお示しください。

根拠とて特にありませんが、状況的に、三度国を諌めても用いられなかった訳ですから、壮大な伽藍の建設は、少なくとも蓮師存命中にはありえないであろう事は、強気の蓮師もさすがに認めざるを得なかったでしょう。つまり、壮大な構想の木像或いは彫像群を擁する伽藍を建設するという蓮師の構想は、この段階で潰えたと思われます。そうすると、観心本尊抄において表明した、本尊出現の予言は外れた事になってしまいます。ここに、にわかに、曼荼羅形式による画像本尊がクローズアップされ、蓮師は、字像本尊としての「大曼荼羅」を書き始めたと考えれるのではないか、という事です。

215れん:2004/10/10(日) 18:16
横レス失礼します。犀角独歩さんと問答名人さんの貴重なご投稿の最中に水をさすようですが…。参考までに記しますと、身延曽存の文永十年七月の所謂佐渡始顕の曼陀羅には「文永八年太歳辛未九月十二日蒙御勘遠流佐渡国同十年太歳癶+天酉七月八日図之、此法花経大曼陀羅佛滅後二千二百二十余年一閻浮提之内未曾有之日蓮始図之、如来現在猶多怨嫉況滅度後、法花経弘通之故有留難事佛語不虚也」とあります。この身延曽存の佐渡始顕の大曼陀羅が蓮師真筆だったなら観心本尊抄執筆後まもなく文永十年七月の時点ですでに蓮師には「大曼陀羅」図顕の意識が明確にあったと思われるのですが。どうでしょうか?横レス大変失礼しました。

216犀角独歩:2004/10/10(日) 18:39

れんさん、此が御筆である可能性はかなり低いのではないでしょうか。『御本尊集目録』を瞥見しても、文永10年は日付記載すらまだ初めていらっしゃらいないとお見受けするからです。
第一、蓮師は当初漫荼羅を「図」と言わず「書」とされておられませんでしたか。
いくえにも納得のいかないところです。

217犀角独歩:2004/10/10(日) 18:47

> 214

いえ、問答さん、違います。
画像は字像漫荼羅という点に異議を唱えているのです。
仏像=画像=字像漫荼羅という論法に異議を唱えているのです。

問答さんも記されていますが、大伽藍であるのに、では画像でしょうか。やはり、正式な木像を仏像とされるでしょう。その意味からもここは仏像だという意味です。

さらに問答さんの主張は木像=画像=字像漫荼羅であるいうわけです。
そうなるといちばん、相違は中央題目が、釈尊像となることでしょう。ここで問答さんが主張されることは題目=釈尊という等式です。ここに異議ありとわたしは申し上げるわけです。
すなわち、仏像と漫荼羅は元来、諸尊配置はもとより、その意義は異なるということです。

問答さんは仏像=画像=字像漫荼羅という主張、
わたしは(仏像=画像)≠漫荼羅という違いです。

『本尊抄』に戻ります。
蓮師の仏と脇士の関係を以下のように示されます。

小乗釈尊――――――――――――迦葉・阿難脇士
権大乗・涅槃・法華経迹門等釈尊―文殊・普賢等脇士
寿量仏―――――――――――――四菩薩

この前提で問答さんは、仏像とは字像漫荼羅であるとこう主張されるわけですね。
また、仏像は木造・画像の両方である。木造と画像=漫荼羅である、こういう主張なのでしょう。

また、問答さんは木像・画像=漫荼羅は同一内容が記される、こういう主張をされたいのでしょうか。わたしは木像と画像は同一内容を表すけれど、漫荼羅は別であるという見解です。

その前提で問答さんは『本尊抄』でいう「仏像」とは画像であり、すなわち字像漫荼羅であると、こう仰るわけでしょう。そして、該当の文書は字像漫荼羅の相貌であると仰るわけでしょうか。しかし、よく該当文書をご覧ください。

「塔中妙法蓮華経/左右釈迦牟尼仏・多宝仏/釈尊脇士上行等四菩薩/文殊・弥勒等四菩薩眷属/迹化他方の大小の諸菩薩万民/十方諸仏」とあり、十界勧請と表されるにも拘わらず、ここでは仏菩薩に限ります。仮に万民を入れたところで、仏・菩薩・人のみであって七界を欠きます。四大天王、三光天子もなく、当初から見られる愛染不動もここには記されません。なぜ、これで漫荼羅相貌と同一と言えましょうか。まして、この当時の書は、こうともなっておりません。もっと言えば、これはたぶん、仏像の配置を表すものでもないでしょう。仏像の配置は寿量仏に四菩薩ということではないでしょうか。

218れん:2004/10/10(日) 19:03
犀角独歩さん。
…此(身延曽存の佐渡始顕)が御筆である可能性はかなり低い…
ご見解参考になりました。御本尊集の図版を見ますと文永八年十月九日の一遍首題?はたしかに「‘書’之」とありますが、翌年の文永九年六月十六日の曼陀羅には「於佐渡國‘図’之」と曼陀羅を「図」と言われているのも事実ですので、文永十年の時点で「図」を使われてもおかしくはないと思っていました。ご教示有難うございました。それでは犀角独歩さんと問答名人さんとの御議論を引き続き静かに拝聴させて戴きます。

219問答迷人:2004/10/10(日) 19:51

犀角独歩さん

>仏像は木造・画像の両方である。木造と画像=漫荼羅である、こういう主張なのでしょう。

御理解戴けてありがたいです。もう少し判りやすく書いてみますと

仏像→木像等と画像の総称

木像等→木像、金像、塑像等で、仏を立体として表現した物全てを含みます。最も、天台・妙楽は金属の像も草木成仏に含めていたかどうかは少し疑問ですが、草木国土という表現もありますから、金属は国土の所産ですから、これも草木成仏の範囲であると考えています。 

画像→絵画、壁画、線刻画等で、仏を平面で表現した物全てを含みます。

問題は、真言の四種曼荼羅ですが、それらはここで言う仏の画像に当たるのかどうかですが、僕は、真言曼荼羅形式の画像を、仏の画像から排除する理由が見当たりませんので、曼荼羅は仏画であると考えています。

さらに、蓮師が字像曼荼羅を「大曼荼羅」と述べられる以上、字像曼荼羅を仏の画像の範疇から排除する理由が見当たりません。

>わたしは(仏像=画像)≠漫荼羅という違いです。

なぜ、字像漫荼羅が仏像の範疇から排除されるべきなのか、もう一つピンと来ません。

>該当の文書は字像漫荼羅の相貌であると仰るわけでしょうか。

あくまでも、本尊=本門教主釈尊の姿を述べられたものであり、木像や画像の設計図にはなっていないと思います。そして、木像群曼荼羅や字像曼荼羅を造り画く時の基本線を示されたものと考えます。

一つには、伽藍における木像群曼荼羅の配置の方向性を示唆されているという面があり、今ひとつには、紙幅に顕される字像曼荼羅方向性を述べられたものであると思います。そして、現実に蓮師は字像曼荼羅を書く段階で、この本尊抄の文を基本としながら、色々と試行錯誤を繰り返されて、弘安式の曼荼羅に到達されてゆかれたのであろうと拝します。

ただ、疑問点が残されている事も事実です。独歩さんが指摘された愛染不動が本尊抄の文では触れられていない、という点です。現存する字像本尊には本尊抄述作前に認められた物も含めて、全て愛染不動が認められています。この点は以上の解釈では説明がつきません。何か見落としている点があるのだと思っています。

220問答迷人:2004/10/10(日) 19:55

訂正です

× 字像曼荼羅方向性
○ 字像曼荼羅の方向性

221愚鈍凡夫:2004/10/10(日) 20:56

横レス失礼します。

「草木之上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益也」(「観心本尊抄」 昭定P703)

「此れ等の仏を正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」(「観心本尊抄」 昭定P712)

「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり」(「木絵二像開眼之事」 学会版P469)

とありますよね。蓮祖は仏像(立体像)と仏画(平面像)について論じているのではないですか。これらの文証からは「漫荼羅」が「木絵二像」の範疇に入っているとは思えないのですが。いかがなものでしょうか。
もし「漫荼羅」が木絵二像の範疇に入っていて、これが蓮祖の本尊であるとの意思表示であるならば、その後の「撰時抄」、「報恩抄」に「日蓮が漫荼羅をもって末法の本尊とすべし」との意味の文証がないのは何故でしょうか。

222犀角独歩:2004/10/10(日) 21:50

れんさん、とんでもありません。どうぞご存分に突っ込みを入れてください。
2号、確かに「図」となっています。
この件につき、お考えをお聞かせ願いたいのです。
わたしはどうも題目・釈迦・多宝・不動・愛染と下の年号・日蓮花押に文字の隔たりを感じるのです。
この部分をあとから書かれた可能性はないでしょうか。

223問答迷人:2004/10/10(日) 22:02

愚鈍凡夫さん

>蓮祖は仏像(立体像)と仏画(平面像)について論じているのではないですか

木絵二像という表現からも、仏の木像(立体像)と仏の絵像(平面像)という捕らえ方であると存じます。木絵二像という表現は、少なくとも、仏像仏画という語法では無いですね。

>日蓮が漫荼羅をもって末法の本尊とすべしとの意味の文証がない

逆に、木像をもって末法の本尊とすべしとの意味の文証もないですね。

いずれも、将来のこととして、広宣流布の暁には、壮大な伽藍建築の中に安置される本門教主釈尊の木像群を考えておられたと思いますから、字像曼荼羅だけを「末法の本尊とすべし」とは仰らないのだろうと思います。


224犀角独歩:2004/10/10(日) 22:16

愚鈍凡夫さん、そうなんです。わたしも漫荼羅が本尊、あるいは仏像・画とは、実は思えないのです。

問答さん、『本尊抄』の「為体〜」を、弘安に至る漫荼羅の着想の始まりと見る考えには、まあ、賛成なのです。ただ、仰るとおり、不動愛染その他、細かいところでまるで一致しません。ですから、該当部分は本尊と仏像と漫荼羅とその後展開する三つの要素の原初的イメージを記したものではないのかと、わたしは考えています。つまり、この一つの着想がやがて、三つに枝分かれしていったということです。

「漫荼羅は仏画か?」と問われれば、「そうは言えるでしょう」とわたしも応えます。では、「蓮師漫荼羅は仏画か?」と問われれば、わたしは、どうもそうは思えません。まして、本尊であるとは思えないわけです。木絵像は本尊ですが、漫荼羅は本尊とはどうも思えないということです。

法華説相を図すれば、たしかに漫荼羅図の大半を占めることはできます。そこに蓮師の密教的な要素が加わり、さらに中国の聖賢、日本の二神が加われば、まさに図の如くでしょう。しかし、そこまでです。なるほど、蓮師は法華経と日本という国土をこのような理想でお考えになっておられたのだとはわかるのです。しかし、ここからは本門教主釈尊は窺えません。在世の釈迦牟尼仏のみですね。

問答さんは中央をご覧になって、妙法蓮華経五字=釈尊である、こうお考えなのでしょう。しかし、『本尊抄』には「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属したまはず、何に況んや其の已外をや。但(ただ)地涌千界を召して八品を説いて之を付属したまふ」と教主釈尊の地涌千界に付属した五字であると明言されています。その付属の本体が教主釈尊であるという等式はどうにもわたしは納得できません。

ですから、中央題目は地涌千界が付属された正体を高らかに標したものであることを顕説する趣を漫荼羅は有している。一方、教主釈尊・四菩薩は久成の師弟を明確にして末法本仏像を示すというまったく違う役割を、漫荼羅と仏像が分け・担っていると思えるわけです。それ故、漫荼羅を仏像・画として同等とする考えにはわたしは頷けないのです。つまり、役割がまるで違うと思えるわけです。

観心本尊はやがて本門本尊と結実していくわけですが、厳密に言えば、この両者もまた異なるものであるとも思うわけです。

以上の点で、問答さんのお考えとわたしの考えは一致見ないのであろうと拝察申し上げるわけです。

225愚鈍凡夫:2004/10/10(日) 22:23

問答迷人さん、どうも。

「草木之上に色心の因果を置かずんば」とありますし、「法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば」とあります。
やはり、絵像とは「色心の因果」、「法華経を心法とさだめて」いない仏画のことではありませんか。故に、「木絵二像」には「法華経」を添えなければならないのではありませんか。蓮祖漫荼羅の場合は、「色心の因果」、「法華経を心法」の両意をも含むわけですから、こんな表現はなさらないと思いますが。

>逆に、木像をもって末法の本尊とすべしとの意味の文証もないですね。

しかし、少なくとも下記のように仏像をイメージさせる文証が「報恩抄」にあります。

「一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」(報恩抄)

やはり小生も、「木絵二像」の本尊と「蓮祖漫荼羅」は、分けて探究すべきものではないかと思います。

226愚鈍凡夫:2004/10/10(日) 22:50

>>224:
犀角独歩さん、どうも。
小生は、先にも記しましたが、「蓮祖漫荼羅」は、ご自身の本尊観を現したもので、当初、「蓮祖漫荼羅」を本尊とする考えはなかったものと思っています。

227問答迷人:2004/10/10(日) 23:12

愚鈍凡夫さん

>蓮祖漫荼羅の場合は、「色心の因果」、「法華経を心法」の両意をも含むわけですから、こんな表現はなさらないと思いますが。

仰るところ、良く判ります。その可能性は否定いたしません。それでは、逆に質問させていただきますが、真言の四種曼荼羅については、愚鈍凡夫さんは、仏画なのか、仏画でないのか、どうお考えでしょうか。お聞かせ頂けると幸いです。

>仏像をイメージさせる文証

ここに言われる仏像とは、仏の立体像の意味でしょうか。もし、そうだとすると、その立体像にも法華経を添えるわけでしようか。どうお考えでしょう。

228問答迷人:2004/10/10(日) 23:41

犀角独歩さん

>問答さんは中央をご覧になって、妙法蓮華経五字=釈尊である、こうお考えなのでしょう。

その通りです。

>教主釈尊の地涌千界に付属した五字であると明言されています。その付属の本体が教主釈尊であるという等式はどうにもわたしは納得できません。

本尊抄の「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。ー中略ー妙覚の釈尊は我等が血肉(けつにく)なり、因果の功徳は骨髄(こつずい)に非ずや。」との文は「釈尊=妙法蓮華経の五字」に限りなく近い表現ではないかと思います。ただ、独歩さんが、「どうにもわたしは納得できません」と仰る事は良く判ります。妙法蓮華経の五字=釈尊という等式は、余りにも突飛で有るからです。もう少し、この突飛さを埋め合わせる事が出来ればと思いますが、遺文を見る限り、どうも簡単には埋め合わせは出来ないようです。

>該当部分は本尊と仏像と漫荼羅とその後展開する三つの要素の原初的イメージを記したものではないのかと、わたしは考えています

この可能性は否定しません。或いは、とも思います。

229愚鈍凡夫:2004/10/10(日) 23:47

真言宗の知識はあまり持ち合わせていませんが、真言の四種曼荼羅とは、「大曼荼羅」「三味耶曼荼羅」「法曼荼羅」「羯磨曼荼羅」のことですか。

**************************************************
つまり、六大より成るこの身体の様相を、曼荼羅というフィルターから見るのである。その曼荼羅に四種ある。大曼荼羅は、如来や菩薩などの形像を一定の方式で並べた絵画。三昧耶曼荼羅は、諸尊の持ちものと印相。法曼荼羅は、諸尊の種子真言、及び経文。羯磨曼荼羅は、諸尊の動作や行為。頌ではこの四者が不離の関係にあるというのだが、それを了解するのはさして難しいことではない。諸尊の姿の中に持ちものや印相は当然含まれ、それが動作と切り離し得ないものであることに心付けば足りる。
だが今は別な見方から解釈しよう。六大の本質は法界である。すると、そこから生じる一々の法は、マンダラシンボリズムにより、具体的な仏身へと置き換え得る。その担う法の内容は種子真言に端的に示され、法の実際の展開は、諸尊の行為としてあらわされる。一つの法の四通りのシンボル化、これが四種曼荼羅であると私は見る。一つの法がこの世に具現される時、どうしても人格の行為と関わった形で現れる他あるまい。そこを重く考えるなら、マンダラシンボリズムを無意味な象徴化と断ずることは出来まい。
さて、この四種曼茶羅は、身体の想定による四要素である。従って衆生身にも、この四要素を当てはめてみることが出来る。ここに衆生身と法の接点がある。
「即身成仏義ノート」より
**************************************************

このことと、蓮祖曼荼羅にどのような相関関係があるのか分かりませんが、真言宗の立場で言うならば、諸仏・諸尊の悟達の世界を表現したものではないでしょうか。
何故、「兩界曼陀羅」を例に引かないのだろうと思いながらレスしています。

> ここに言われる仏像とは、仏の立体像の意味でしょうか。もし、そうだとすると、その立体像にも法華経を添えるわけでしようか。どうお考えでしょう。

蓮祖は法華経を説く教主釈尊を本尊とせよと遺告したのだと思いますから、当然、「法華経」は必須アイテムだと思います。

即身成仏義ノート
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yutakas/sokusinn.html

230問答迷人:2004/10/11(月) 07:26

愚鈍凡夫さん

「即身成仏義ノート」のご紹介有難うございます。

>大曼荼羅は、如来や菩薩などの形像を一定の方式で並べた絵画

>蓮祖曼荼羅にどのような相関関係があるのか

蓮師が、字像曼荼羅に「大曼荼羅也」と書かれるのは、この四種曼荼羅中の「大曼荼羅」を意識されての事であると思います。この点で僕は、蓮師が字像曼荼羅を「仏の画像」として意図していたと思うのです。

>当然、「法華経」は必須アイテムだと思います。

その法華経とは、二十八品の経巻でしょうか、それとも、妙法蓮華経の五字でしょうか、それとも、字像曼荼羅でしょうか。228に挙げた観心本尊抄の文に依れば、妙法蓮華経の五字が一番ふさわしいのではないかと思いますが、如何お考えになられますでしようか。

231犀角独歩:2004/10/11(月) 08:22

問答さん、わたしの考えを簡潔に整理して申し上げれば、仏像は木像で四菩薩、漫荼羅はその四菩薩が付属された妙法蓮華経を所表するところで、その役割を別にするということです。

問答さんは、漫荼羅を仏像であると仰るわけです。わたしは仏像は釈尊・四菩薩像。では、漫荼羅をどう表現すればよいのかと問われれば実に悩みますが、仏画というより、「法図」と言えば、やや近いのではないのかと考えます。

お考えをお聞かせいただきたいのです。

(1)「為体本尊」から始まる文章を漫荼羅図の如くとお考えですか。
(2)それに基づいて記されるところを本尊とお考えですか。
(3)この本尊は末法の衆生のためのものですか。

以上、3点、宜しくお願いいたします。

232問答迷人:2004/10/11(月) 08:45

犀角独歩さん

設問に対して、僕の考えを述べさせていただきます

(1)「為体本尊」から始まる文章を漫荼羅図の如くとお考えですか。

あくまでも、観心本尊を顕されたものですから、これをもって、直ちに曼荼羅図とは言えないと思います。ただ、後の蓮師曼荼羅は、この観心本尊を紙幅に表現されたものであり、密接な関係が有ると思います。

(2)それに基づいて記されるところを本尊とお考えですか。

観心本尊を曼荼羅形式で表現したものは、やはり観心本尊なんだと思います。

(3)この本尊は末法の衆生のためのものですか。

観心本尊が本尊抄の表題にもある通り、末法を標榜されていますので、その観心本尊は、表現形式に拘わらず末法の衆生のため、という事になりますね。ですから、観心本尊を顕した曼荼羅もやはり末法の衆生のためであると思います。

233犀角独歩:2004/10/11(月) 09:37

問答さん、ご回答有り難うございます。
では、その前提で以下の一節はどのような意味になりますか。

「如是本尊在世五十余年之無 八年之間但限八品(是くの如き本尊は在世五十余年に之無し 八年の間但八品に限る)」

この文章は「為体本尊」から始まる一連の文を指していませんか。
となれば、これは「在世八年八品」の本尊ではないでしょうか。

そして、このあとに、改めて本尊と脇士の関係を

小_乗:釈尊/脇士・迦葉阿難
迹門迄:釈尊/脇士・文殊普賢等
寿量仏:釈尊/脇士・四菩薩

と示されています。となれば、本尊は寿量仏/脇士・四菩薩(の仏像)、その付属の正体は妙法蓮華経五字ということになりませんか。

つまり、「為体本尊」から始まる文章は、本尊寿量仏が地涌千界に妙法蓮華経の五字をどのような状況で付属したかを図示したものということになりませんか。つまり、斯かる文章は本尊寿量仏の本地を顕した釈尊が妙法蓮華経の五字をどのような状況で付属したかを説明したものということになりませんか。その後、この文章はさらに十界勧請が整足され、密教的加持の符として愛染不動の種字、さらに中国の聖賢の受容と日本二神(天照八幡)を習合し、漫荼羅となる着想の基礎となっていったのではないのか、とわたしは考えます。
しかし、この場合、漫荼羅は本尊というより、本尊から託された付属の正体をその顛末の説明図、さらに勧請札、祈祷符としての目的にしていったものであり、先にも記したとおり、仏画というより、「法図」と言った趣として図示されたとのではないかと思いますが、如何でしょうか。

234犀角独歩:2004/10/11(月) 09:40

【233の訂正】

誤)本尊は寿量仏/脇士・四菩薩(の仏像)
正)末法の尊は寿量仏/脇士・四菩薩(の仏像)

235犀角独歩:2004/10/11(月) 09:51

もう少し言葉を足せば、法図というより、四菩薩が代表して付属された正体を書き記し、地涌千界としての流布を免許する証書のような意味合いも孕んでいるのではないのかと、わたしは考えるわけです。

つまり、当初は祈祷札であり、発展して、法図としての説明図であり・それ故に勧請札であり、地涌菩薩としての免許証でもあるという複合的な意味を持った図示であったのではないのかと、あれこれ考えあぐねます。

236犀角独歩:2004/10/11(月) 10:33

問答さん、もう一つ、質問させてください。
観心本尊と本門本尊は、どのように違うのでしょうか。

237犀角独歩:2004/10/11(月) 10:38

233、文章がやや混乱していました。ご判読いただければ有り難く存じます。

238問答迷人:2004/10/11(月) 11:10

犀角独歩さん

>これは「在世八年八品」の本尊

そうですね、在世八年の内、さらに八品を説かれた時に限定して、この本尊が虚空に現われた、そういう意味だと思います。

>本尊は寿量仏/脇士・四菩薩(の仏像)、その付属の正体は妙法蓮華経五字ということになりませんか。

その通りであると思います。

>「為体本尊」から始まる文章は、本尊寿量仏が地涌千界に妙法蓮華経の五字をどのような状況で付属したかを図示したものということになりませんか。

その通りであると思います。そして、この事の全体の意義をもって、蓮師は「観心本尊」とされたのだと思います。

>しかし、この場合、漫荼羅は本尊というより、本尊から託された付属の正体をその顛末の説明図、

そうなんですが、そうであるからこそ、地涌千界の人々に取っては、この曼荼羅が観心本尊に当たる、という関係が存するので有ると思います。そうですね、免許図、僕も、そういう意味合いだと思います。

>観心本尊と本門本尊は、どのように違うのでしょうか。

以上のような形で確立された「観心本尊」をもって、三つの秘法中の本門本尊とされた、という関係で有ろうと思います。

なお、今日は、仕事をしながらの書き込みですので、レスが遅れますが、お許し下さい。

239犀角独歩:2004/10/11(月) 11:55

問答さん:

> 仕事をしながらの書き込みですので、レスが遅れます

どうぞ、お仕事優先で。

> 曼荼羅が観心本尊に当たる

ここなんですね、わたしが引っかかってきたところは。
問答さん、「曼荼羅が観心本尊」というのは齟齬を来していると思われませんか。観心とは心を観る、心で観る、心に観る、いずれであっても心中の本尊の観察という意味です。心の中の本尊、いわば思念ですよ。それが紙に図されたところであるというのは言語矛盾を来していませんか。。

観心本尊とは、該当分の前段を読めば明らかなように、己心の教主釈尊、その教釈尊の己心の四菩薩、まあ己心を二重入籠のように蓮師は記述されています。これは要するに十界所具の菩薩界についに至るところを記述されるものでしょう。つまり、己心における十界十如三世間を観るという止観行から導き出される結論であるわけですね。

蓮師が、しかし、本尊というのは五百塵点成道本門教主釈尊という寿量仏です。それはまた三身所顕無始古仏であるとも言うわけですね。ここまでをたしかに心中に本仏を観じる観心本尊ではあるでしょう。しかし、仏像に刻むこと、あるいは漫荼羅に図することは観心から表象化という別の作業に入っていませんか。たしかに『本尊抄』は観心本尊抄という題名です。ところがそこで記される内容は観心を基礎として、如何にそれを言語化、もしくは実像化してみせるかという蓮師の労作業の軌跡を物語っています。

わたしも嘗て40年に亘り、(石山歴代書写)漫荼羅を本尊として拝んだ一人です。しかし、真跡遺文その他、確実な資料に当たるに就き、漫荼羅が本尊であるという確たる証拠は何一つないことに愕然としたわけです。何より、蓮師が漫荼羅を奉掲した事実も、漫荼羅に向かって勤行をした形跡も何一つ窺えないわけです。ここからの出発です。

ですから、安直に漫荼羅を本尊と認めるわけにはいかない。蓮師の着想をなぞり、そして、どこに辿り着かれたのか、それをしっかりと見極めたいと考えるわけです。ですから、学会が何でも「それは生命だ」と短絡する如く、それが「本尊」であると何でも短絡的に結論を出さずに確実に歩みたいと考える次第です。まあ、これは半ば「つぶやき」のようになってしまいましたが。

240問答迷人:2004/10/11(月) 12:30
犀角独歩さん

>ところがそこで記される内容は観心を基礎として、如何にそれを言語化、もしくは実像化してみせるかという蓮師の労作業の軌跡を物語っています。

仰る通りですね。この点に付いて蓮師は同じく本尊抄に次のように述べていますね。

「設(たと)ひ諸経の中に所々に六道(ろくどう)並びに四聖を載(の)すと雖も、法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。」

つまり、蓮師の言わんとされることは、観心を成就することが最重要課題なんだけれども、それには、自身の己心の姿を映す鏡が必要だと。そして、その用の為に、観心本尊を表したのだと。つまり、観心本尊とは、観心を成就するための本尊、「観心用の本尊」なのだと。

観心本尊中の寿量仏・釈尊とは、あなた方一人一人の己心中の寿量仏・釈尊であり、その釈尊より妙法蓮華経の五字を譲り与えられた上行等の四菩薩とは、あなた方の己心中の四菩薩である。この観心本尊をあがめ奉る事は、己心中の釈尊を崇め奉るひとであり、そのときに、あなた方の己心中の四菩薩に妙法蓮華経の五字が譲り渡され、観心が成就するのである、と。

まぁ、概略、こういう感じて考えているのですが、如何でしようか。

241問答迷人:2004/10/11(月) 12:32

訂正です。

× 己心中の釈尊を崇め奉るひとであり、

○ 己心中の釈尊を崇め奉ることであり、

242愚鈍凡夫:2004/10/11(月) 12:45

問答迷人さん、こんにちは。

むむっ、知らぬ間にレスが進んでいる。 (-"-;A ...アセアセ
おそらく、畿内で修行中に兩界曼陀羅を見聞し、強い印象を受けられ、後に法華経虚空会をモチーフにした独自の漫荼羅世界を展開することなったのだと思います。
しかし、蓮祖漫荼羅は当初、本尊観を具体的に顕す設計図のようなもので、諸尊の座配や本門の本尊の意義などを示すためのものだったと思います。
したがって、蓮祖自体も漫荼羅が絵像としての本尊であるとの認識はなかったのではないでしょうか。
それと、本門の本尊に添える法華経は廿八品でしょう。そして、法華経を説く教主釈尊に帰依する意味を込めて本門の題目を唱えるというのが蓮祖のスタンスだと思います。

蓮祖は宝塔の中の釈迦多宝の二仏並座に究極の本尊の姿を見たのではないでしょうか。
そして、この二仏並座を含む虚空会こそが唯一末法の本尊たり得ると主張されたのではないでしょうか。

243問答迷人:2004/10/11(月) 13:13

>したがって、蓮祖自体も漫荼羅が絵像としての本尊であるとの認識はなかったのではないでしょうか。

蓮師は高野山にも遊学していますから、当然四種曼荼羅はご存知のはずです。その上で「大曼荼羅」と書かれたのであれば、絵像、画像として認識されていたと考えるのが自然ではありませんか、重ねてお伺いいたします。

>本門の本尊に添える法華経は廿八品でしょう。

了解です。この点は意見が別れる所ですね。有難うございました。

244愚鈍凡夫:2004/10/11(月) 14:02

「大曼荼羅」の蓮祖遺文における用例を検索してみました。
「あ〜っ、しんどかった」(by 独り言) ( ̄Д ̄;;

「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり、されば此の題目には余事を交えば僻事なるべし、此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり、之に依って一部二十八品の頂上に南無妙法蓮華経序品第一と題したり。」(御講聞書)

「本門寿量品の未曾有の大曼荼羅建立の在所なり云云、」(御講聞書)

「法華経の行者は釈迦如来を始め奉りて悉く大人の為に敬い奉るなり誠に以て大曼荼羅の同共の比丘衆なり、」(御講聞書)

「法華経の本尊を大多勝の大曼荼羅と云うなり、」(御講聞書)

「今末代に入つて此の珠を顕す事は日蓮等の類いなり所謂未會有の大曼荼羅こそ正しく一念三千の宝珠なれ、」(御講聞書)

「今末法に入つて、眼とは所謂未會有の大曼荼羅なり、此の御本尊より外には眼目無きなり云云。」(御講聞書)

「諸経諸宗中王の本尊万物下種の種子無上の大曼荼羅なり。」(百六箇抄)

「此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば諸王は国を扶け万民は難をのがれん、乃至後生の大火炎を脱るべしと仏記しをかせ給いぬ、」(新尼御前御返事)

「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり」(日女御前御返事)

「経に云く「諸法実相」是なり、妙楽云く「実相は必ず諸法諸法は必ず十如乃至十界は必ず身土」云云、又云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」等と云云、伝教大師云く「一念三千即自受用身自受用身とは出尊形の仏」文、此の故に未曾有の大曼荼羅とは名付け奉るなり、仏滅後二千二百二十余年には此の御本尊いまだ出現し給はずと云う事なり。」(日女御前御返事)

「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、」(草木成仏口決)

問答迷人さん、これらは真蹟が存在するのですか?

245問答迷人:2004/10/11(月) 14:09

愚鈍凡夫さん

お疲れ様でした。色々ありますね。だけど真蹟は

「此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば諸王は国を扶け万民は難をのがれん、乃至後生の大火炎を脱るべしと仏記しをかせ給いぬ、」(新尼御前御返事)

これだけです。ただ、曼荼羅の賛文としては、真蹟は多数有りますね。

246愚鈍凡夫:2004/10/11(月) 14:17

問答迷人さん、お忙しい処どうもです。
気を取り直して・・・・・。 (^▽^;)

> その上で「大曼荼羅」と書かれたのであれば、絵像、画像として認識されていたと考えるのが自然ではありませんか、重ねてお伺いいたします。

曼荼羅に「大曼荼羅」と記されているのは、未だ誰も顕したことがない曼荼羅という意味ではありませんか。これが即、絵像、画像であるとは言えないと思います。

247愚鈍凡夫:2004/10/11(月) 14:56

「御本尊図して進候」(「報恩抄送文」 未決)

「日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために此の御本尊をわたし奉るならば」(「新尼御前御返事」 真蹟)

「さどの国と申し此の国と申し度度の御志ありてたゆむけしきはみへさせ給はねば御本尊はわたしまいらせて候なり、」(「新尼御前御返事」 真蹟)

「このまんだら(曼陀羅)を身にたもちぬれば王を武士のまほるがごとく子ををやのあいするがごとくいをの水をたのむがごとく草木のあめをねがうごとくとりの木をたのむがごとく一切の仏神等のあつまりまほり昼夜にかげのごとくまほらせ給う法にて候、」(「妙心尼御前御返事」 未決)

小生が不思議に思うのは、「御本尊」と「曼陀羅」が文章の中に同居しているのは、偽書に見られる特徴で、真蹟及びそれに近い未決書では、「お守」=「曼陀羅」であったり、単に「御本尊」とだけ記されていたりしています。結局、記されている「御本尊」とは「曼陀羅」のことではないかとの推察の域を出ないわけです。真蹟に「曼荼羅=御本尊」と明示されていないのは何故なのでしょう。
まあっ、これが小生の疑問の出発点なのですが。

248問答迷人:2004/10/11(月) 15:19

真蹟に曼荼羅を御本尊とされた文はありますよ。一つは、

「此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば諸王は国を扶け万民は難をのがれん、乃至後生の大火炎を脱るべしと仏記しをかせ給いぬ、ー中略ー日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために此の御本尊をわたし奉るならば」(新尼御前御返事)

又、意味から曼荼羅を御本尊呼ばれたとしか考えられないも文ならもう一つあります。

「御本尊一ぷくかきてまいらせ候。霊山浄土にてはかならずかならずゆ(行)きあ(合)ひたてまつるべし。恐々謹言。」是日尼御書(弘安元年四月一二日)

この御本尊は一幅とありますから、紙幅ですね。通常の絵像を蓮師が書いたという記録が有りませんので、これは字像曼荼羅であると考えられます。

249問答迷人:2004/10/11(月) 15:21

訂正です。

× 又、意味から曼荼羅を御本尊呼ばれたとしか考えられないも文ならもう一つあります。

○ 又、意味から曼荼羅を御本尊と呼ばれたとしか考えられない文ならもう一つあります。

250問答迷人:2004/10/11(月) 15:29

愚鈍凡夫さん

レスが前後します。すみません。

>未だ誰も顕したことがない曼荼羅という意味

「大」字にそんな意味がありましたでしょうか?辞書には載っていないようですが。

それと、蓮師は当時で言えば、東西屈指の知識人です。しかも、八宗を相手に論戦を張られています。当然四種曼荼羅の「大曼荼羅」という表現が密教曼荼羅にあることをご存じないわけは無い。そうすると、同じ表現を用いて、はたして「未だ誰も顕したことがない曼荼羅という意味」を示される事があり得るでしょうか。甚だ不可であろうと思うのです。

251犀角独歩:2004/10/11(月) 15:51

問答名人さん:

> その用の為に、観心本尊を表した

いや、ちょっと待ってください。
大筋記されるところは同意見なんですが、ここだけをもう少し、結論を先延ばししていただけませんか。

蓮師が記されたのはもちろん、真跡遺文(論・抄・消息文・図)です。そして、漫荼羅ですね。
のちに「大漫荼羅」と自讃される図示は、しかし、当初はその様態から祈祷札、御守札の体裁の如く映じます。唯一「大本尊」と記された万年救護本尊もあります。さて、これをどのように考えていくかの道程です。結論、書かれてしまいますと、話が終わってしまいます(笑)

わたしは「観心本尊」とは文字通り、心で観る範疇であると思います。
ですから、それが具象化した段階では観心ではなく、木絵の仏像であると考えます。

問答さんは、漫荼羅は仏(画)像のご見解で、またこれを観心本尊である、こう仰るわけですね。
つまり、観心本尊=仏像=漫荼羅であるということでしょうか。そして、仏像と仏画(漫荼羅)の二本立てというお考えと拝察いたしました。わたしはややニュアンスが異なります。わたしは仏像(画)と漫荼羅の二本立てという考えなのです。

観心本尊を像に刻めば、仏像ということです。では、妙法蓮華経はと問われれば、これは付属の正体です。その付属の有様を記せば『本尊抄』の「為体本尊」以下の文の如くです。しかし、これだけでは観心本尊の文章化の範疇ですね。これをそのまま図示したところで蓮師の漫荼羅にはなりません。他の要素があるわけです。繰り返しになりますが、(四大天王)愛染不動、三光天子、三国の聖賢、日本の二神、そして、ここに記されない他七界の諸衆、さらに讃文、記される経文、日蓮花押、授与者・日付も重要な要素でしょう。つまり、同抄で観心された本尊と、のちに図示された漫荼羅は異なっています。

わたしは蓮師が観心本尊と記すことは、悪く言えば、実はかなり勇み足ではないのかと思っているところがあります。善く言えば、蓮師の独創性となりましょうか。これはどのような意味かと申し上げますと、天台は「言語道断心行処滅」というわけです。言語道、すなわち言語化も出来ない、それどころか心で考えられるところを滅したところであるというわけですね。つまり文字でも心でも顕せないと言うわけです。まあ、勇み足といえば、妙楽が「一念三千」と成句したこともそうなのですが、ここまで言うと話が拡散しますので、これはやめておきます。

ともかく、元来、天台が言語化も、心でも考えることが不可能であるという境地を、蓮師は密教、あるいは儒教の「本尊」語で説明を試みたわけですね。この点は、既に論じましたが、純天台文献の中には、そもそも「本尊」という語は見られないわけです。ですから、本尊で捌こうとした時点で既に天台から実は真言的な要素を帯びることになるのでしょう。ともかく蓮師はその観心本尊を寿量仏・三身所顕無始古仏といい、その弟子を地涌千界菩薩といい、その付属の正体を妙法蓮華経五字と言ったわけでした。

長い前置きになりましたが、心で観られた本尊を象徴化された(仏像)とわたしは考えるのですが、問答さんは、そうではなくて、仏像画=漫荼羅そのものが観心本尊だと仰るのでしょうか。わたしはむしろ具象化された段階で本門本尊ではないかと考えるのですが如何でしょうか。

252犀角独歩:2004/10/11(月) 15:56

愚鈍凡夫さん、問答名人さん

「本尊」語は所謂万年救護本尊に「大本尊」とありますね。
しかし、この「本尊」は四大天王の勧請がなく、総帰命でしたか。この点は空き缶さんがお詳しいでしょうね。

ちょっと、根拠は薄いのですが、蓮師は「御守り」として図示されるとき、四大天王を四隅に勧請せず、本尊と言うなどいう議論を以前しませんでしたでしょうか。

253愚鈍凡夫:2004/10/11(月) 16:06

改めて、1275(文永12)年2月の「新尼御前御返事」を何度も読み直してみました。

「今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて世に出現せさせ給いても四十余年其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品属累に事極りて候いしが、金色世界の文殊師利兜史多天宮の弥勒菩薩補陀落山の観世音日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士我も我もと望み給いしかども叶はず、是等は智慧いみじく才学ある人人とはひびけどもいまだ法華経を学する日あさし学も始なり、末代の大難忍びがたかるべし、我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり此れにゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給いて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給いて、あなかしこあなかしこ我が滅度の後正法一千年像法一千年に弘通すべからず、末法の始に謗法の法師一閻浮提に充満して諸天いかりをなし彗星は一天にわたらせ大地は大波のごとくをどらむ、大旱魃大火大水大風大疫病大飢饉大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人人各各甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏諸菩薩諸大善神等の御力の及ばせ給わざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕ること雨のごとくしげからん時此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば諸王は国を扶け万民は難をのがれん、乃至後生の大火炎を脱るべしと仏記しをかせ給いぬ、」(「新尼御前御返事」 学会版P905〜P906)

そうですね。「此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば」とは、「御守り」としての意味だと思いますが、1275(文永12)年時点で既に「御守本尊」との明示があったのですね。
ご教示有り難うございました。

254愚鈍凡夫:2004/10/11(月) 16:18

問答迷人さん、どうも。

「大」の字にそういう意味があるのではなくて、

「一閻浮提之内未有大曼陀羅也」

とあるのは、別に真言の四種曼荼羅に準える必要もないと思いますから、未だかって誰も顕していない「曼荼羅」だから「大曼荼羅」と表現なさっているのではないですかということです。

255問答迷人:2004/10/11(月) 17:56

愚鈍凡夫さん

了解です。そういう意味に取れなくも無いです。ただ、それって、石山が戒壇板曼荼羅を「大御本尊」と呼ぶのに似てませんか。蓮師ははたして、そういう言い方されたのでしようか。外に、そういう使い方をしておられれば判りますが・・・。

256愚鈍凡夫:2004/10/11(月) 19:48

あっ問答迷人さん、どうも。

蓮祖漫荼羅の「大曼荼羅」との表記が、真言の四種曼荼羅の「大曼荼羅」と関係があるというのは個人的に頷けませんが、いろいろと勉強になりました。お忙しい中、お相手下さり有り難うございました。

257問答迷人:2004/10/11(月) 22:30

愚鈍凡夫さん

僕のほうこそ、しつこい議論にお付き合い戴きまして、誠に有難うございました。ご意見を参考にし、更に考えてまいりたいと存じております。


犀角独歩さん

>それが具象化した段階では観心ではなく、木絵の仏像であると考えます。
>同抄で観心された本尊と、のちに図示された漫荼羅は異なっています。
>ともかく、元来、天台が言語化も、心でも考えることが不可能であるという境地を、蓮師は密教、あるいは儒教の「本尊」語で説明を試みたわけですね。
>わたしはむしろ具象化された段階で本門本尊ではないかと考えるのですが如何でしょうか。

全て了解です。仰る通りであると存じます。従前の考えは撤回いたします。

>「本尊」語は所謂万年救護本尊に「大本尊」とありますね。しかし、この「本尊」は四大天王の勧請がなく、総帰命でしたか。この点は空き缶さんがお詳しいでしょうね。
>ちょっと、根拠は薄いのですが、蓮師は「御守り」として図示されるとき、四大天王を四隅に勧請せず、本尊と言う

守り本尊には四大天王がなく、曼荼羅には四大天王があり、これは本尊とは蓮師は呼ばない、こういう議論でしょうか。

258犀角独歩[TRACKBACK]:2004/10/12(火) 09:42

問答さん、御守本尊のことですが、これは以前、『創価学会の携帯式本尊について』スレッドで、皆さんと話し合いましたね。

この時、明らかに御守本尊と解る何点か見比べて即座に気づいたのは四大天王のことでした。右下に他の諸尊と並べて二天王を勧請する例はあっても、四隅に勧請されていないのです。

以下、わたしのページがいまは見られませんが『御本尊集』のほうが見られます。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1034855362/r43

259犀角独歩:2004/10/12(火) 11:10

当スレッドは『勤行について』ですが、限りなく、その拝む対象への議論が延々となっています。まあ、そこが根本ですから、避けては通れないということになりますでしょうか。

今回、問答さんとの議論になった端緒は、わたしが一字三礼さんに「塔中妙法蓮華経」は経典か・五文字かというご賢察を求めたことに由来します。これにつき「“経”よりも“妙法”に重心がシフトしている」というご賢察を下さりました。問答さんは五字の見解、わたしは経典ということでした。愚鈍凡夫さんも経典という見解を示されました。その後、今回の議論が本尊論へとなだれ込んでいった次第です。

該当分の直前に「此本門肝心於南無妙法蓮華経五字仏猶文殊薬王等不付属之」という一節があり、その後、「為体本尊」以下の文が続くわけですから、文脈からすれば、「塔中妙法蓮華経」は五字と見る問答さんのお考えは至当であるわけです。また、『見宝塔品』には、そもそも宝塔の内の妙法蓮華経などという説相は実はまるでないわけです。ですから、これを敢えて置くとなれば、法としてそれを陳べたとする一字三礼さんのお考えは至極ご尤もであると思います。

では、蓮師が妙法蓮華経の五字ばかりを書した札のようなものがあるのかといえば、これは遺っていません。蓮師の安置の次第は『忘持経事』から類するに、随身一体仏であることは間違いないわけです。そして、たぶんそこには註法華経も置かれていたという類推は大きくは外れないと思われます。

ここのところの議論で、「為体本尊」以下の文は、蓮師己心の、すなわち観心本尊ではないかということで問答さんとわたしはいちおうの一致を見たわけです。これを前提に整理すると、
観心本尊における妙法蓮華経は一字三礼さん仰る如く‘法’、
漫荼羅書写となれば、問答さんが仰ると如く____‘五字’
となるかと思うのです。

では、これを釈尊と脇士四菩薩という仏像で表現しようとしたときは二つの可能性が存することになります。一つは御前に法華経典を置くこと、もう一つは背に漫荼羅を懸けることです。しかし、先頃より考証してきたとおり、蓮師の遺文からは漫荼羅奉懸という事実は全く浮かび上がりません。けれど、興師の確実な文献である『宗祖御遷化記録』では墓所に一体仏と註法華経を共に置くことを遺言されていたことが窺えるわけです。このことを考え合わせ、実際的な仏像奉安では、その御前に法華経典を安置するということになるのではないのかと、わたしはその管見を陳べさせていただくことにします。

260ROM信徒:2004/10/12(火) 19:43
意見というほどでもありませんが少々述べさせていただきます。
御在世当時には仏像(彫刻像)としての釈迦像で立像は金沢文庫で有名な称名寺や、
忍性良寛の極楽寺にもありました。どなたかが上げられていましたが、

「今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。 此の時地涌千界出現して、
 本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。」との宗祖の思いは予言(この言い方はあまり好きませんが)の的中が迫る中、逼迫感さえ漂わせます。そして、
佐渡より鎌倉に呼び戻された蓮祖に対し、頼綱は懐柔策として堂宇建立を持ちかけます。

すでに「題目」は、その宗旨の一端として衆知でしたから置くとして、堂宇に据えるところの「本尊」が彫刻の仏像であれば、これを断る理由は頼綱にはないと思われます。
のちに「総官領」という最高権力を手中にするこの実質的為政者が、蓮祖に懇請をするのは、
これが最初で最後でした。蓮祖にしても「本門の(仏像)本尊」建立に絶好の好機であり、
その場所は、鶴ヶ岡八幡宮の東側、元大蔵幕府のあった跡地の一角にあたる一等地です。
戒壇堂が成就する可能性さえ大きかったという事になります。

さらに仏像にはその表情の問題も発生します。造る人の人選から始まり、「釈迦の五印」中どれを選ぶか、
台座はいかなる種類を用いるか、これらについて蓮祖がまったく無思索だったとも思えませんし、
頼綱の協力は尚の事、必須でもあったでしょう。
宗祖の意中の本尊が仏像様式であるならば、互いに意気投合する事のほうがより自然であるかと思われます。

これ以上は雑駁になりますので控えますが、同時期に書かれた「木絵二像開眼の事」で
三十二相八十種好の(現実に造れば二相欠けざるを得ない)彫刻像を退けて、末法においては
十法界具足をした「仏像」がいかなる姿形によって立ち現れるかを、試みに書かれたのが「本尊抄」なのではないのか、との見方が無理のない感じがします。
以上は私見ですが御文中の「為体」以下の御文は名文中の名文だとも思っています。

また私は立体彫像群を否定しているわけではありません。蓮祖が「お眼」を入れられれば、
さらに必須ではありませんが彫像の胎中にお筆の十界曼荼羅を、手ずから差し込まれたものであれば、
充分御本尊になると思います。

261犀角独歩:2004/10/12(火) 22:30

ROM信徒さん:

> 頼綱は懐柔策として堂宇建立を持ちかけます

この話の根拠はいかなる資料に基づくのでしょうか。

> 「木絵二像開眼の事」…彫刻像を退けて

そうでしょうか。ここには

「三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつ(奉)れば必ず純円の仏なり」

と明確に仏像の御前に法華経典を置くことによって純円の仏となることを明示されています。

> 十法界具足をした「仏像…試みに書かれた…「本尊抄」…見方が無理のない

わたしはまったく、そうは思いません。
『木絵二像開眼事』の文を考慮すれば、仏像の御前に法華経典、そこに四菩薩を副えることによって寿量仏となることは明確なイメージをお持ちなっていたと思われます。

262問答迷人:2004/10/12(火) 22:56

犀角独歩さん

>実際的な仏像奉安では、その御前に法華経典を安置するということになるのではないのかと、わたしはその管見を陳べさせていただくことにします。

賛成です。木像群の、釈迦・多宝二仏並座の前に法華経経典を安置、という事になると思います。

この場合、蓮師のお考えでは、四菩薩は何処に安置する事になるのでしょうね、

263犀角独歩:2004/10/12(火) 23:20

問答さん、ご賛同有り難うございます。

> 四菩薩は何処に安置する

ここですね、やはり重点は。
釈尊一体の場合であれば、その左右に、脇士の奉安の在り方ですね。
漫荼羅の図示を拝すれば明らかなのですが、釈迦・多宝の二仏はこちらを向いていますが、四菩薩は背を向けているわけですが、やはり、こちらを向けるとお考えになっていたのでしょうか。そうなると、漫荼羅の図とは左右が入れ替わり、上行は向かって左側に配置換えとなるのでしょうか?

わたしが、像造立し、奉安するとすれば七宝塔を造り、塔中に法華経典一部、その左右に釈迦・多宝、塔の外に四菩薩を塔に向けて、漫荼羅図の如く並べたいですね。

問答さんでしたら、塔中は、やはり妙法蓮華経五字とされるでしょうか。
…、もちろん、仏像を造立することはないと思いますが(笑)

264問答迷人:2004/10/12(火) 23:57

犀角独歩さん

>問答さんでしたら、塔中は、やはり妙法蓮華経五字とされるでしょうか

それは変ですね。字像曼荼羅には妙法蓮華経五字、木像群曼荼羅には二十八品の妙法蓮華経経典がふさわしいと思います。


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