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法華経について
1
:
管理者
:2002/08/29(木) 17:45
スレッドテーマのご提案がありましたので、立ち上げます。提案文は以下の通り。
14 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/29(木) 12:41
『法華経』について、なんでも語り合うというスレッドを希望します。
2
:
いちりん
:2002/08/29(木) 17:55
ブッダが悟りを開いた地であるブッダガヤから、北に100キロくらいのところに、ラージギールという村がある。
そこは、ブッダが晩年を過ごしたマガダ王国の首都(王舎城・ラージャグリハ)だったところ。このラージャグリハが、いまのラージギールだ。
ちなみに、そこから北に13キロくらいのところに、ナーランダ寺院がある。そこでは、700年間も仏教研究がされていたという。はるばる、玄奘が中国から来て、唯識などを学んだりもした
そのラージギールに、霊鷲山がある。
インド人は、霊鷲山のことをグリッタクータと発音していた。
サンスクリットでGrdra-kuta(グリッドラ・クータ)。そこから「ぎしゃくっせん」という音写がでてた。Grdraというのは、禿鷲の意味だとか。
きっと禿鷲が飛び交うような山だからも、霊鷲山と呼んだのだろうかと思っていたら、ふもとを歩いていて、分かった。
それは山頂の形が、鷲に見えるのだ。鷲のクチバシと羽根を広げたような形をしている。ああ、なるほど、それで霊鷲山かと。
3
:
いちりん
:2002/08/29(木) 17:59
『法華経』が説かれたのは、霊鷲山だ。浄土三部経も、霊鷲山で説かれている。さらには、禅宗で語り継がれている、拈華微笑の法門も霊鷲山だ。
その意味では、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、臨済宗などとの日本仏教にとって、きわめて大切な地が、この霊鷲山である。
さて、その『法華経』であるが、その説法の、会座には、おびただしい数の聴衆が参列する。
序品には、「大比丘衆、万二千人」「学無学、二千人」「菩薩摩訶薩八万人」「「釈提桓因、其の眷属二万の天子」「自在天子、大自在天子、其の眷属三万の天子」……とキリがないのでやめるが、なにしろすごい数。まあ二十万人〜何百万人くらいだろうか。
しかも、人間ばかりではない。菩薩から天界の神々から、修羅とか竜王みたいなものから、いろんな衆生が集い来ていた。文字通り読めば、ものすごく広大なスペースが必要になる。
ところが実際に、霊鷲山の山頂に行くと、せいぜい数十人くらいが座れるスペースしかない。高く険しい山でもなく、サンダル履きでわりと簡単に登れてれてしまう。途中まで私はロバに乗っていったが。
隣の山は、霊鷲山よりも高い山で、リフトなんかがついていて、インド人の観光客はそちらに行っていた。その山の山頂には、日本山妙法寺のお寺があって、一日中、太鼓叩いて南無妙法蓮華経と唱えていた。インドの人たちは、霊鷲山にはほとんど思い入れもないから、日本山妙法寺のお寺の方が珍しいみたいだ。
「霊山一会厳然未散」(霊山一会、厳然として未だ散らず)
「常住此説法」(常に此に住して法を説く)
このように釈迦が法華経で説いているので、法華に縁のある人は、霊鷲山はとても思い入れがある山だ。ま、しかし、実際に行くと。やはりイメージは崩れてしまう。
インドの人たちは、シヴァ神とか偉大な神々は、ヒマラヤに住んでいると思っている。
カイラス山とか、カンチェンジュンガとか、やはりすごい。
サンダル履きで登れる霊鷲山とちがって、かたや8000メートル級の山だ。ヒマラヤの頂を遠くから眺めていると、なるほどなあ、たしかに神々しい。神さまがほんとに居そうだわいと感じる。
4
:
現時点
:2002/08/29(木) 21:27
霊山一会厳然未散
この言葉は、どのように理解すればよろしいでしょうか。
教えていただければ幸いです。
5
:
五月雨
:2002/08/29(木) 22:30
いちりんさんは霊鷲山を直に見てこられたのですか!スゴイですね。
私はヒマラヤみたいにドドーンと大きな山を想像していました。確か六万恒河沙の地涌の菩薩が出現した所ですよね。せいぜい数十人くらいが座れるスペースでは困りますね。山から相当数がこぼれ落ちた事でしょう(笑)後世で法華経を書いた人々は、霊鷲山を見たことが無いのでしょうか。もっと霊鷲山のお話を聞かせて下さい。
6
:
いちりん
:2002/08/29(木) 22:45
ここに、霊鷲山の写真があります。
ここが頂上ですから、写真では50人くらいが正座すると、もういっぱいですね。
http://www2g.biglobe.ne.jp/~koetsu/india/budha3.htm
http://www5.ocn.ne.jp/~seigadou/india1.html
7
:
いちりん
:2002/08/30(金) 11:13
『法華経』じたいは、お釈迦さまが亡くなって、おそらく五百年後あたりにできたお経なんでしょうね。
お釈迦さまが、あのあたりにおられたのはたしかですね。王舎城もあるし、祇園精舎も近くですし、ブッダガヤも近くです。
実際に、霊鷲山では説法されたかも知れません。
まあ、お弟子さんが、どれくらい居たのかわかりませんが。第一次仏典結集のときには、五百人の覚醒者(阿羅漢)がいたことになっています。
ともあれ、生きたお釈迦さまがおられて、百人くらいの出家の弟子がいたんでしょうね。それで、日々、瞑想と説法をされていた。
そのことを素材にして、数百年後に、大乗仏教が語られると、ものすごいSFXみたいになってしまうわけです。
たとえば、「見宝塔品」あたりを読みますと、────
地中から、高さ五百由旬、縦横二百五十由旬の七宝づくりの塔が湧き出し空中に留まったとか。
娑婆世界は一変し清浄な世界となり、諸佛が集まって来て、高さ五百由旬の宝樹の下の五由旬のところにある獅子座に座った。
各方面にいた釈尊の分身が、八方に座した。十方の四百萬億那由他の国土(星)に諸佛が遍満しているのが見える。
この宝塔なんてのも、おそらく地球的な規模の巨大さかも知れません。そうして、この銀河系宇宙のみならずあらゆる宇宙からの仏さんが来集するわけですね。
こういうお話を、もすこし自分たちのイメージに近づけると、────
日蓮さんが亡くなって、七百五十年くらいたちますよね。で、その日蓮さんが説法したというお話を、いまの平成のときに、経典であらわす人たちがいる。
まあ、日興さんあたりが、「わたしは師匠からこのように聞きました」という語りで、あらわすようなスタイルですね。すべての経典は、弟子の阿難が、お釈迦さまから聞いたことを話すというスタイルです。
そのものがたりは、身延山の庵に、何千万人という人が集まり、全宇宙の仏やら菩薩が集まる。そして、日蓮さんは、眉間からレーザービームのような光を発して、全宇宙を照らして浄化する。東京ドームの一億倍くらい巨大な宝塔がにょきにょきと現れる。
空中にどわーーと浮遊して、そこから説法される。で、聞いている大衆も、あれあれいう間に、空中に浮かんでしまう。
そんなものがたりが、真実だとして、書かれる。そして、それが外国に伝わって、翻訳されて。ものすごい金言として大切にされてゆく。
そうして、あるとき身延山の日蓮さんの庵の後を訪ねてみたら、まあ5DKくらいの、日の当たらない湿気の多い場所であった。
……とまあ、そういう感じでしょうか。
8
:
現時点
:2002/08/31(土) 00:22
いやぁ、日蓮さんの眉間からレーザービームが、どわー、これには大笑いしてしまいました。
まったくもって、法華経製作者は、何を考えていたんでしょうかねぇ。空想にもほどがあるって言うものですね。
9
:
いちりん
:2002/08/31(土) 00:53
わたしは大乗経典は、リアリティとして読みません。
ひとつのまあ、文学作品、宗教文学、あるいは壮大な詩としてとらえています。なので、
──いかに「幻」=ファンタジーとしての構成が豊かであるか──
というところで、とらえています。
そうすると、『法華経』というのは、数多くの経典の中で、白眉だとは思いますね。
で、大切なのは、やはり感性でとらえることだと思っています。
天台がこうたら、妙楽がああたら、なんとかの釈によるとこうで、かの先生はこういっておられて、……とえんなえんとやっていますと、疲れて感性が摩滅して、大切なハートが死にますね。
で、ハートが死ぬと、『法華経』の蓮の花はしぼんでしまいますでしょう。
しぼんだ華の数を、八つだのいや九つだ、種が先か実が先か、根っこがああでとやっても、意味がないのでしょうね。
賢治は、こう書いています。
「大きな勇気を出して、すべのいきものの、ほんとうの幸福をさがさなければいけない。
それは、ナム・サダルマ・プンダリーカ・スートラというものである」
わたしは、『法華経』というとき、いつも、サダルマ・プンダリーカ・スートラ
──白い蓮の華が、朝の光に照らされて開く──
というイメージを持っています。
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