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創価学会の功罪を考える

275アネモネ:2003/10/21(火) 01:14
(つづき)
>戦争に敗れ、国民はどん底の不幸にあえぎ、蓮祖の法はまさに穏没せんとしたその時、日本に民主主義が生まれ、時を同じくして戸田先生が牢獄の中から『我地涌の菩薩の棟梁なり、』と宣言してご出現になられたのです。

なにげなく読み流しておりましたが、要するに、日本に民主主義がもたらされなければ、戸田さんの世界一の実力の広布というものも発揮されなかったということになるでしょうか。その因縁を不思議と解釈されておられるところなのでしょう。
けれども、しかし厳密には、現時点における世界一というのは、戸田さんの実力というよりは、民主主義の力ということになりはしないかとも、率直なところ思うところです。
つまり日本の民主主義を定めた現行憲法の、第二十条に保障された信教の自由の恩恵を、第二代会長の戸田さん以降の創価学会は多大にその受けているということになるといえますね。
では、その信教の自由という権利ですが、現在の創価学会は、自らの教団の権利の主張と同じだけ組織外の他の人々、端的にいえば不信の人々に対してもその「信じない自由」の権利を守っていると言い切れるものでしょうか。
自身の権利を主張する者は、他者の権利も侵害してはならないことは、民主主義のお約束、いわば鉄則ですね。

第二十条について、ここに転載しておきます。
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」

信教の自由とは、信じない自由も保障されるものですが、果たして戸田さん以降の現在に至る創価学会は、信心のない人や学会に無縁の他者に対して、信教の自由、つまり信じない自由を尊重してきたといえるものなのかという、素朴な疑問が私にはあります。その点はpundarikaにも投稿しておりますので、時間があればお読み頂ければ幸甚です。
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/3050/1057699995/l100

信じない自由も保障した「信教の自由」のもと、布教活動が出来るようになったにも関わらず、その布教の信念体系の中には、「謗法の者」「退転者」「外道の人」、といった烙印を押して蔑む差別意識が横たわってきているのではないかと思われます。しかし考えてもみれば、そのようないわば差別意識や排他的意識とは、言葉は違えど実は、戦時中に牧口さんや戸田さんが受けた「非国民」という烙印と同じ性質の暴言なのではないかと考えられます。

>それで今回あなたが立ち上げたスレッドにやってきました。

わかりました。
もしも、差し支えなければ、沖浦克治さん自身が体感された戸田さんから学んだことなど、ご自身の人生を通しての体験を、できれば具体的にこの場で語ってみられてはいかがでしょう。いわゆる座談会における体験発表ですね。もちろん、内容によっては突っ込みや反論はあるかもしれません。しかし、その中から創価学会の功罪の功の部分も見えてくるかもしれません。
私は8年で退転いたしましたが、41年もの人生を創価学会に賭けてこられたその信念の思いの丈を、この場で語られてみてみられることは、決して悪いことではないと思います。


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