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創価学会の功罪を考える

1586犀角独歩:2005/03/01(火) 10:21:39

1585 彰往考来さん

重ねて御礼申し上げます。
有り難うございました。

> 文応元年…描写…文字漫荼羅が描かれていないのはむしろ妥当

これはたしかに、漫荼羅が描かれていないのは妥当ですね。

蓮師門下の漫荼羅・本尊の変遷は、伊東流罪以降、一体仏、仰るように文永期以降に漫荼羅の図示が始まる。ここまでが蓮師在世の出来事であろうかと存じます。
その後、興師は、一尊四士を自義とし、追って漫荼羅本尊正意がやがて定着しますね。いつの頃と査定されるのか、わたしは存じ上げませんが、その後、一塔二尊四士の奉安様式が京都方面で生じ、それが全国に広がっていた。そんな変遷があろうかと存じます。

一尊四士の仏像奉安は、その理論的原形を文永10年の『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』に求められるでしょう。となれば、文応元年からは13年も以前のこととなります。また、伊東流罪は弘長元年か3年のことですから、伝承の如く、この頃かから蓮師が一体仏像を随身されたとしても、係る史実はそれ以前のことです。ただし、脇士を持たない一体仏は、特に蓮師に係る奉安とは言えないと思えます。

つまり、文応元年の段階では、それまでの仏像奉安、たとえば、一体仏、もしくは、脇士に文殊・弥勒などを置いた形式はあっても、四菩薩(士)を置く奉安が成立していたとはとうてい思えません。

以上のことから、文応元年時点で一尊四士を充てることは、まったく不適時であると思いますが、如何でしょうか。


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