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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

938愚鈍凡夫:2004/08/14(土) 08:59

「弥四郎漫荼羅」についても、同じことが言えるような気がします。
石山の歴代法主は、蓮祖の漫荼羅の中でも際だって凄い漫荼羅であると何とか位置づけたかったのでしょうね。七面山伝説や熱原法難機縁説に、それを感じます。
蓮祖と直接関係ない漫荼羅を、さも蓮祖の最高傑作であるかのように喧伝することによって、宗門としての生き残りを図ったものでしょうか。

ただ、見方を変えれば、結局「ゆうたもん勝ち」の世界のような気もします。

939犀角独歩:2004/08/14(土) 09:55

> 937,8

愚鈍凡夫さん、またしても賛同します。

法華経を、特に梵本直訳で読むと無始の仏陀ではなく、明らかに五百塵点成道なんですよね。ところがこれをどうしても無始としたい。天台にそんな傾向があったかどうか。少なくとも、当時としては新規参入の大日如来は無始永遠常住でパンチがあった。この背景には全知全能の神なんて言う西風もあったのでしょうね。

まあ、それでも大日・阿弥陀・釈迦を仰ぐ人たちは偶像崇拝というか、仏像・絵像は燃えればなくなる仮のものであるぐらいのことはしっかりと認識していたんでしょう。

ところが弥四郎漫荼羅信仰では、「日蓮大聖人は不滅滅の相を現じ、いまは戒壇の大御本尊様とまします」とか言って、木に漫荼羅図示を彫刻したものを「生身の御本仏日蓮大聖人」だと言い張るわけです。「そう仰ぐ」というのならばまだしも、「魂魄」が漫荼羅に具わっているというんですね。

そして、さらにそれを信じないから、災いが起き、地獄に堕ち、国は亡ぶとまで言うわけです。そこで、せっせと人々は登山参詣と相成り、2000円だかいくらかの参拝料を払って石山は儲かり、1兆円も預貯金があるという。。それを信じさせるだけで、学会は半世紀で20兆円も資産を貯め込む。顕正会ですら、徴税対象の収入は3億円にも上る。では、それらの金がどこに行くかと言えば、神仏には決して届かず、神仏を信じろと囃し立てた連中の懐に転がり込むという仕組みが石山集団の経済循環のわけでしょう。

純粋に信じて、有り難がっている人々の信仰心を否定する気は毛頭ないけれど、端で見れば、「うまい話に引っかかっているだけ」としか見えないわけです。何でうまい話と言うかと言えば、稲田老師じゃないけれど、冷静に眺めれば、「真っ赤な偽物」と溜息を吐きたくなるほど、お粗末な造立奇譚。それも顕師は、たぶん教学部長時代から偽物であることはしっかり認識した(河辺メモ)うえで、正本堂を壊し・奉安堂を建てた。池田さん当たりもかなり早い時期から事実を知っていた(本尊物体発言)でしょうし、浅井さんはどうでしょうか。しかし、「法主血脈」を一度でも否定すれば、石山復帰は100%有り得ないことは充分に承知しているわけでしょう。

「絶対・永遠」の魔法の粉を振り、信じるものは救われる、謗ずるものは地獄に堕ちる。信じなければ国も亡ぶ、信仰していてこんなに幸せだと、熱狂した雰囲気のなかで繰り返されると、なんだか本当に思えてくるのでしょうね。誰だったか「嘘も100編繰り返せば本当になる」と言っていましたね。

940ワラシナ:2004/08/15(日) 14:38
>>928
ちょっと前まで下のように想像してましたが手前に出っ張るのはおかしいと思ってその下の図に訂正して理解しております。
 
 |
||
||<(立掛けられた楠板)
||
||
|___
|   |
|___|(台座のくすのき丸太)


/||
/ ||  
/ ||
/ ||
/ ||
/ ||
_/______||_
| |
|_________|
こう設定したのは「立掛ける」事にこだわった筈と考えたから。だが、これは何代目という発想を視野に入れた危ない考えでもある。

941ワラシナ:2004/08/15(日) 14:46
訂正図を間違えました。半丸太楠を真横から見たときの背中が
                 
/ 左のように右上から左下に下る形状

を書きたかったのであります。

942犀角独歩:2004/11/12(金) 14:01

『素朴な疑問』で議論が進んでおりますが、せっかく、『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』スレッドがありますので、こちらに戻ることといたします。

今月11月3日、先の現宗研ミニ講演の内容をまとめた『大石寺漫荼羅本尊の真偽について ― 所謂「本門戒壇の大御本尊」の図形から見た鑑別』を限定出版しました。次いで、講演で語り尽くせなかった部分を補したプレリリース版『必携/図形 大石寺彫刻本尊の鑑別』を発刊しました。以上2冊は、これは前期依頼分に限り限定印刷をしたものです。現在、増刷中ですので、後期ご依頼くださった方々には、追って、お届けできようかと思います。

以上、そのように考えておりましたところ、本日、途方もない事実を発見いたしました。故にその部分をさらに増補いたすこととしました。後期ご依頼分に関しましては、増補版をお送り申し上げる所存です。以上、よろしくご理解の程、お願い申し上げます。

(管理人さん、この場をお借りしました。有難うございます)

943れん:2004/11/12(金) 15:43
犀角独歩さん、「必携/図形 大石寺彫刻本尊の鑑別」発刊お目出度うございます。
限定出版ということですので、私を含め、PCを使えない環境の者にはなかなか入手しづらいと思いますので、一般への啓蒙という意味も含めて、御著を国会図書館に納本していただき、閲覧できるようご検討戴ければ幸甚に存じます。

944へいわそうか:2004/11/12(金) 17:54
私も「必携/図形 大石寺彫刻本尊の鑑別」を納入したいと思います。
犀角独歩さんの著作をなんとしても拝見したいと存じております。

 平和創価より

945通りすがり:2004/11/12(金) 23:26
東陽堂書店をはじめ仏教関連書店での購入は可能ですか。
私も犀角さんの書籍を拝したいと心より念願しております。

946犀角独歩:2004/11/13(土) 11:42

皆さん、有難うございます。

国会図書館へは納本いたします。
発表後、新事実を発見し、現在、書き換えています。ですから、初版は納本せずとしたいところなのですが、さてどうしようかと考えています。
いずれにしましても、納本後、当掲示板でお知らせ申し上げます。

なるほど。東洋堂その他仏教書店ですか。
どこか一店舗、決めてそちらに置かせていただけばよろしいわけですね。
そうすれば、自由に手に取っていただけますね。
考えてみます。

なお、詳しいことは以下、アドレスへお問い合わせください。
発送をはじめ、その他情報通知などの事務をお願いしています。

瓔珞出版事務局 担当:西川
rmc-info@world.odn.ne.jp

947愚鈍凡夫:2004/11/13(土) 11:51

犀角独歩さん、出版おめでとうございます。 m(__)m
小生も密かに買って、読みたいと思います。 (^_^)v

「おいおい、何かの本と勘違いしてないかぁ?」(by 管理人)

948単己:2004/11/13(土) 16:49
犀角独歩さん、初めまして。一年くらい前からこの掲示板をROMさせて頂き驚きの連続です。
私も是非、本を購入したいと思っています。

942  >本日、途方もない事実を発見いたしました。

この片鱗でもお聞かせ頂けないでしょうか?気になって仕方がありません。
もちろん、差し支えがあるようなら残念ですが増補版が手にはいるまで、首を長くして待ってます。

949れん:2004/11/16(火) 11:40
犀角独歩さん、十一月十三日の午後に無謀にもケイタイで、946のご投稿に記された瓔珞出版事務局 担当西川様のアドレスにメールを送ってみたのですが、やはりケイタイでは無理なようです(T_T)
私としましても、東陽堂書店に犀角独歩さんのご本を置いて戴けるならば、助かります。改めてご検討の程宜しくお願い申し上げます。

950fukuokakenZZ:2004/11/17(水) 12:44
初めまして。創価学会→法華講→宗教を辞めた者です
平成14年イベントで宗門にも嫌気がさし寺院参詣も辞めました。
私は無神論者でもないし宗教はアヘンであると断じたマルクスのような現実主義者でもありません。
出来るものならば宗祖日蓮の教えを信じたかった、でも信じ切れず信じているふりをし続けましたが自分をだますことが出来なくなり宗教から離れました。

さて、私が法華講員として活動していたある日、正宗寺院の住職T師の話を聞きました。
T師は大石寺の教学部に所属しているかたで自ら教鞭を執り若手僧侶の育成にも携わって居られるそうです。
T師の言う所によると大石寺の倉庫(あるいは古文書の保管室)には室町から戦国〜幕末までの古文書が未整理のまま山積みにされているそうです。
その中には戦国大名今川・武田・徳川の寺領の安堵状・諸税の課税とその支払い領収書?等々中世日本史の研究資料として貴重なものも多数あるとのこと。
ここまでが私の聴いた部分、以下は私の推測です
---------------------------------------------------------------------
1,上古から現代までを見ると宗祖から目師の時代までは研究も進んでいるようで明治以降は文献も多数残っているが真ん中の部分(室町〜幕末まで)がすっぽり抜けている(手つかずの資料が山積み)のになぜ宗史の編纂が出来るのか?
2,中世の宗史研究もある程度進めているがその中には宗門にとって非常に都合の悪い部分がある。あるいは都合のいい所だけを抜き取ってつぎはぎの宗史を編纂した可能性はないのか?
3,大石寺は700年の歴史の中で何度も火事に見舞われているが戒壇の大御本尊だけは守り抜いたという。これが事実ならまことに美しい話だが木製の大御本尊が700年間の火事を耐え抜いたというのは少々無理があるのではないか?
4,手つかずで放置されている(とされている)資料の中に大御本尊が焼け落ちたという記録があるのではないか?
5,上に書いたように中世〜戦国の歴史研究資料として貴重なものも多数あるのになぜ公開しないのか?
疑惑の種は尽きません。

951問答迷人:2004/11/17(水) 13:11

fukuokakenZZ さん 始めまして、よろしくお願いいたします。

>室町から戦国〜幕末までの古文書が未整理のまま山積みにされているそうです。

幕末の北山本門寺との「両山問答」では、大石寺は、「火事で焼けてしまって、詳しい事は分からない」等と述べているようです。これが本当なら、それらの文書が表に出ては都合の悪い事があるのでも、焼けた事にして、闇に葬ってあるのではないでしようか。そんな貴重な文書が有るなら、保田妙本寺の様に、静岡県史に「大石寺文書」として公開すれば良いのに、と思いますね。

952れん:2004/11/18(木) 20:00
三位阿日順師撰述「心底抄」眼師写本奥書に石山九世日有師の弟子の南条日住師の筆にて「宝物を以て傳え畢りぬ卒爾に他見有るべからず、文明十七年三月之れを相傳す、當家随分の書と故上人常住御披見申され候なり」とあります。この南条日住師の筆の中の「故上人」は石山九世日有師を指しています。この中で日有師が順師の心底抄を「當家随分の書」とコメントしていたことを南条日住師が書き留めていることから考えますと、この心底抄は戒壇について「仏像を安置することは本尊の図の如し」と記しており、その心底抄を「當家随分の書」とコメントした有師の戒壇論も心底抄と同様「仏像安置如本尊図」だったと考えられます。裏を返すと有師の代の石山には、戒壇に安置するという彫刻本尊は存在しなかったことの一つの傍証になろうかと思います。このことから、現時点において私は彫刻本尊が製作されたのは有師滅後、石山十ニ世日鎮師以降のことではないかと考えています。

954問答迷人:2004/11/18(木) 23:23

れんさん

>戒壇に安置するという彫刻本尊は存在しなかったことの一つの傍証

「一つの傍証」どころか、「仏像安置如本尊図」との考えは、戒壇本尊思想を真っ向から否定していますね。「明確な証拠」に近いのではないでしょうか。今まで、戒壇本尊は有師が建立したのではないかという説を捨てきれずにいましたが、もっと、時代が下るのだと考えを改める事と致しました。ありがとうございました。

955犀角独歩:2004/11/20(土) 03:12

皆さん、しばらくご無沙汰となり、失礼いたしました。

単己さん、はじめまして。
禅師授与漫荼羅に関することです。
増補版の原稿には書きました。

れんさん、種々ご面倒をお掛けしまして、申し訳ございません。
952の慧眼、敬服いたします。

956れん:2004/11/20(土) 11:36
問答名人さん、私が952に記したことが、的を得たものならば、室町期までの富士門流では、石山・重須・西山ともに‘本門寺之戒壇’には仏像安置ということが共通の認識だったことになると思います。しかし有師滅後の石山は不造像・不読誦の教義の延長線上に戒壇義が仏像安置から曼陀羅安置に変化し、彫刻本尊を製作するにいたったのだろうと愚考しております。
犀角独歩さん、瓔珞出版事務局の西川様から、先日ケータイにメールを戴きました。ケータイからでも申し込みできました(汗)。犀角独歩さんの御本の増補版の方を注文させて戴きました。瓔珞出版の出版物では木下師の「板本尊偽作の研究」も気になっております(笑)。犀角独歩さんの御著が送られてくるのを、首を長ーくして待っております。

957単己:2004/11/21(日) 19:12
犀角独歩さん、こんばんは。禅師授与漫荼羅で新たな発見ですか。ワクワクします。増補版や続刊を楽しみしています。
ご多忙のようですが、季節柄お体に気を付けて下さい。

958犀角独歩:2004/11/22(月) 23:56

単己さん、有難うございます。

959犀角独歩:2004/11/23(火) 08:54

れんさん、ご挨拶遅くなりました。
お気を掛けていただき、有り難うございました。
日教研、現宗研の発表以降、さらにいくつかの発見もありました。
それら、著書を通じて皆さんにお伝えしたいと思っております。

960彰往考来:2004/11/29(月) 07:26
はじめまして。彰往考来といいます。当スレッドでの皆様の議論は大変参考になります。今後、議論に参加させてください。

さて、当スレッドの887で空き缶さんが、
>禅師授与曼荼羅について「一旦紛失後、天文8年頃、北山本門寺が所蔵。」

との憂宗護法同盟著「法主詐称」の内容を引用し、
>この書籍も、何を参考文献として書かれたのか、全く不明であるため確証あるものではないと思います

とされていますが、“天文8年”との記載は、昭和57年に大本山本門寺(北山本門寺)が出版した『本門寺並直末寺縁起』の118頁にある「萬年救護御本尊縁起」の中にあります。その内容を少々長いですが以下に引用します。なお、ここで “日弾”とあるのは “日禅”の誤記でしょう。“萬年救護”と“万年救護”の用語不一致を含め原文のママです。

「 萬年救護御本尊縁起  其の三  三枚継

比丘日弾ニ授与 弘安三年五月九日御書判ノ内ニ本門寺ニ懸ケテ萬年ノ重宝タルベシト、実ニ有リ難キ霊妙ノ御筆勢ニテ御書キ遊バシテアリマス
 此ノ御本尊ハ始メ萬年救護ノ御本尊ト奉申リシニ往古悪ル者ノ為メニ紛失セシニ人皇百五代奈良院ノ御字天文八年六月毛利贈三位右馬頭大江元成ノ幕下伯耆國米子ノ城主吉川治部少輔元長古筆ヲ好ミケル故ニ或ル人宗祖ノ御真筆御本尊ヲ勧メケルニ太守元長大ニ喜ビ多クノ黄金ヲ以テ之ヲ求メラレ我朝無双ノ名筆ナリト称美シテ秘蔵セシ所如何ナル因縁カ不思議ニモ其後米子ノ城中城外疫病大ニ流行シテ惨状ヲ極メケレバ諸寺諸山ヘ使者ヲ立テヽ祈願スレドモ更ニ験シナシ依テ太守元長詮議アツテ易者ヲ召シテ之ヲ占ハシムルニ 易者ノ云フニハ近頃求メ玉ヒシ古筆ノ祟リナリト断ハリケレバ元長モ大ニ驚キテ宗祖ノ御真筆ヲ取出シテ能ク能ク改メ玉ヒシニ御書判ノ内ニ本門寺ニ懸ケテ万年ノ重宝タルベシト有ルヲ見テ京都ノ諸本山ヘ聞キ合セ玉ヘバ本門寺ト申ハ富士山麓ニ有之旨本山要法寺第八世日得上人ヨリ申告ゲタレバ國主元長聞届ケ早速當山ヘ使者ヲ立テラレシニ付當山役僧トシテ正林寺南陽坊日長ト檀家総代某トハ縦跣ノ侭同道伯耆米子ノ御役所ニ至リ紛失セシ手続キ具ニ申上無相違ニ次第相分リ請取リ奉リテ帰リ速カニ御宝蔵ヘ還住在シマセシ万年救護ノ御本尊ナレドモ以上ノ縁由ニ依リテ爾来伯耆曼荼羅トモ奉称シカル不思議ノ御本尊ナレバ御利益廣大能ク御拝礼ヲ遂ゲ信心肝要、役僧正林寺南陽坊日長御霊験御迎ヘノ功ニ依リテ當山大学頭十四代ニ昇進セリト伝フ」

つまりこの北山本門寺の縁起要旨は、昔、禅師授与曼荼羅は悪者によって紛失したが、天文8(1539)年6月に伯耆国(今の島根県)の米子城主吉川治部少輔元長が入手した。ところがなんの因縁か城中城外に疫病が大流行し惨状を極めた。そこで調査したところ、この御本尊の御書判の内に『本門寺ニ懸ケテ万年ノ重宝タルベシ』と有るのを見て北山本門寺に環住させた。以上の縁由から伯耆曼荼羅と奉称する、というものです。

空き缶さんは、“天文8年”と日国師定書との関連を議論されていますが、上記文献から直接的には無関係といえます。
なお、“天文8年に吉川元長が入手した”との縁起記載内容ですが疑問があります。これについての考察は追って投稿します。

961犀角独歩:2004/11/29(月) 12:16

彰往考来さん、ご投稿興味深く拝読しました。
いくつか質問をさせてください。

(1)引用の文章は筆者は誰でしょうか。

(2)万年救護本尊という名称はいつどこで、誰によってこの漫荼羅に冠されたのでしょうか。
(3)「本門寺…」という加筆は誰の筆でしょうか。

以上、3点、ご教示いただければ有り難く存じます。

962名無し@富士門流:2004/11/29(月) 12:34

 彰往考来さん、はじめまして。
 皆様お久しぶりです。「空き缶」改め「名無し@富士門流」です。

 彰往考来さん、私も1ヶ月ほど前に片山日幹師の「本門寺並直末寺縁起」を、図書館から借用し拝読しました。
 これによれば、憂宗護法同盟は現北山本門寺蔵「日禅授与曼陀羅」と現大石寺蔵「日禅授与曼陀羅」を混同していたことになりますね。

 もともと「日国定書」による、日禅授与曼陀羅の移動の推論は、現大石寺蔵「日禅授与曼陀羅」に関してのものでした。
 片山日幹師「本門寺並直末寺縁起」に出てくる「萬年救護御本尊縁起」は、現北山本門寺蔵の「日禅授与曼陀羅」であると思います。

 つまり「日国定書」にみえる上野から買い上げた御筆御本尊が、現大石寺蔵「日禅授与曼陀羅」であるとすれば、このころ現北山本門寺蔵「日禅授与曼陀羅」と現大石寺蔵「日禅授与曼陀羅」の両方が、北山に集まった可能性があると考えられると思います。

963kamata:2004/11/29(月) 16:45
独歩さん。必携図解のプレリリース版、きょう届き、さっそく拝読しました。模写という主張だと勝手に勘違いし、細部までおんなじという思い込みにしばられていました。百聞は一見にしかずです、たしかに。北山と大石寺の違いの説明もよく理解できました。しかし、いちばんビックリしたのは最後の仮説です。

964犀角独歩:2004/11/29(月) 22:47

kamataさん、はじめまして。

> 細部までおんなじという思い込み

そうですね。
増補分の原稿には書いたのですが、たとえば第82漫荼羅(石山が言う紫宸殿本尊)の模刻本尊は一見すれば、原本が特定できます。しかし、これを画像処理して、解析すると実は必ずしも同一ではないわけです。それでもこの模刻は第82漫荼羅を‘彫ろうとして彫ったもの’でしょう。原本を誇っているということです。

しかし、石山彫刻本尊は違うでしょう。むしろ、その原本が何であるかを秘匿しようとしているわけです。それを物語るのがレイアウトの特徴が弘安3年5月前後であるのにも拘わらず、そこに刻まれた日付が弘安2年10月12日であるという事実です。半年もあとの原本を偽っているわけです。このような場合、原本が何であるのかを特定されない‘工夫’が施されるのではないでしょうか。つまり、これが臨模原本に加えられた数々の作為であろうとわたしは想像します。彫刻本尊は禅師授与漫荼羅を模刻しようとしたのではなく、それを素材にして弘安2年10月12日本尊を捏造したものです。そんなものを造るのに、どうして、忠実に模刻をするわけがあるのか、こんなことは少し考えればわかります。

では、何故、禅師授与漫荼羅を使用したのか? その理由はもちろん、定かではありません。想像を逞しくすれば、「万年救護戒壇本尊」と称された禅師授与漫荼羅にあやかったのか、もしくは、大きさが原本に適していたか、そんな理由なのでしょうか。

余計なことを記します。一つしかないと思っているものが、実はいくつもある…。これが実は彫刻本尊、禅師授与漫荼羅の不思議を解く鍵なんです。この点については増補版で記しました。皆さんのご叱正を希望します。

以下、kamataさんにではなく、記します。

わたしの考えへの反対を他でとやかく記さず、ここで直接、わたしに投げかけて欲しいと希望します。議論を随所で拡散したくないからです。お願いしておくことといたします。

965彰往考来:2004/11/30(火) 07:14
犀角独歩さん、

961でのご質問にとりあえずお答えします。

>(1)引用の文章は筆者は誰でしょうか。

筆者は不明です。「本門寺並直末寺縁起」の109頁に、「縁起其の二、其の三についての資料を探し求めたが手懸りなし、今は当山に於ける出開帳の事実を裏付けるものとして掲載しておく」とあります。

>(2)万年救護本尊という名称はいつどこで、誰によってこの漫荼羅に冠されたのでしょうか。

残念ながら「本門寺並直末寺縁起」には、答えとなる記載は見当たりませんでした。

>(3)「本門寺…」という加筆は誰の筆でしょうか。
これも(2)と同様にみあたりませんでした。

「本門寺並直末寺縁起」の奥付には、
 監修 大本山本門寺貫主 片山日幹
 編集 静岡県富士宮市北山本門寺内
    本門寺並直末寺縁起編集委員会

とあります。

この本は、北山本門寺法縁寺院の、開山、開基、縁起、沿革(寺伝、古記録、寺跡)歴代譜、宝物などを全国の末寺院から集め集大成したものです。あくまで縁起などを集めているため、著者などは記載がなく内容的に不満な点は多々あります。

「縁起の物語は信仰世界の真実ではあるが、信仰社会から離れた観点では真実ではない。縁起書に書かれた内容が歴史的事実ではないか、または不分明であるにもかかわらず、過去の事実であると主張するところに、偽文書と同様の性格がある。」(久野俊彦・時枝務編『偽文書学入門』2004年、柏書房株式会社、267頁)と、久野氏らが指摘しているように縁起の取り扱いは慎重を要します。
今回のケースでも“天文8年に吉川元長が入手した”との縁起記載内容は史実ではありません。なぜなら、吉川元長は天文17年(1548年)生まれだからです。(『国史大辞典 第四巻』平成2年、吉川弘文館、152頁 など参照) 
ではこの縁起は偽文書として、全く議論の外に投げてよいかと言うとそうでもないのです。上記の『偽文書学入門』25頁に「当然、これらの系図、由緒書等の作成者の手元には、それを作成するための基礎となる資料、文書、記録から伝承にいたるさまざまな史資料が集積されていたはずであり、それに基づいて作成者はその時点における自らの観点に立って、系図・由緒書を作成・叙述したのである。とすると、われわれがこうした系譜・伝承資料を的確に用いるためには、まずその作成のために使われた史資料について、それが事実に基づいたものか、伝承によるものかなどを弁別するところからはじめなくてはならない。」と指摘しているように縁起の内容はまさに玉石混合なのです。宮崎英修氏も「真蹟でなから、真撰でないからといって捨ててしまうのは史実に対し目をおおうことになりましょう。」(『日蓮教学研究所紀要 第10号』2頁)と指摘しているわけです。例えば今回のケースでも“天文8年”が誤記、例えば“天正8年”、であるということも、まあ可能性として考えられるわけで慎重な取捨選択が必要です。そこで、この縁起内容を吉川元長の事跡と対比して検証し私なりの所見を述べてみたいと思います。また、名無し@富士門流さんの962でのご指摘にも追って回答したいと考えます。

966犀角独歩:2004/11/30(火) 08:56

彰往考来さん、ご返答有り難うございました。

片山師の時代の編集ですか。
やはり「万年救護」語の出所は不明ですね。
どうもこの成句には要山ばりの印象が強いというのが個人的な感想です。

真跡、偽文書の扱いは引用されるとおりでしょうね。
ただ、旧来の偽文書扱いというのは護教的・護宗派的であれば、馬鹿らしいので一蹴というのが、ここ掲示板の常の在り方でした。自分の信じることを肯定するために、その実否を挙げられない資料にしがみつく姿は見苦しいという見解です。
然るべき根拠が示されれば、仰るように扱うことは当然のことであろうと存じます。

禅師授与漫荼羅について、彰往考来さんに申し上げるまでもないのですが、ロムの皆さんの参考に記せば、北山漫荼羅には他筆で「本門寺」とあり、石山漫荼羅では興師筆であった「本門寺」が削損されているというのが、いちおうの亨師の見解のようでした。

まあ、非常に穿ったものの見方をすれば、「本門寺」と書き込み、物語を作って当の本門寺に売り込んだとも考えられるわけですが、しかし、そうなると、石山漫荼羅の削損との関係が霞みます。さて、どんなものでしょうか。

967勉強中:2004/11/30(火) 12:11
犀角独歩さん、私も「必携 図解 大石寺彫刻本尊の鑑別」が手元に届きました。

もったいなくも巻末の「謝辞」の中では、新参者の私のことまで紹介戴き至極光栄です。
永年議論されてきました諸先輩方と違い、私は種々のご教授を賜った身であり誠に恐縮です。
次巻以降のご出版も心待ちにしております。ありがとうございました。

968彰往考来:2004/11/30(火) 12:46
犀角独歩さん、

「必携 図解 大石寺彫刻本尊の鑑別」が手元に届きました。拝読させていただきます。

969犀角独歩:2004/11/30(火) 18:52

皆さん、有り難うございます。
書籍は書き上げてみると、どうも不足ばかりが目立ちます。
ご叱正を賜れれば有り難く存じます。

970名無し@富士門流:2004/12/01(水) 00:52

犀角独歩さん、「必携 図解 大石寺彫刻本尊の鑑別」の出版、誠におめでとう御座います。

一般販売はされていますでしょうか。購入方法等、さしつかえなければお教え願えれば幸です。

971管理者:2004/12/01(水) 06:43

ここから注文出来ますよ。当掲示板のtopにリンクを張っておきました。アドレスは

瓔珞出版事務局ネツト書店 http://cart02.lolipop.jp/LA11156772/

972きゃからばあ:2004/12/01(水) 08:51

私も「必携 図解 大石寺彫刻本尊の鑑別」が手元に届き、さっそく拝読させていただきました。

以前、スレッド『素朴な疑問』での1804の犀角独歩さんの発言で、
「批判することが悪ではなく、真実を覆い隠すことが悪なのです。」
とあり、私は大いに同感いたしました。

そして今、さらに、
「真実を立証し、広めることが正義」
と思い、これからも研鑽していこうと思います。

これからもよろしくお願いします。

973犀角独歩:2004/12/01(水) 09:25

管理人さん、有難うございます。

名無し@富士門流さん、拙書、また雅仙堂さん(富士宗学研究会)の書籍は、ご紹介のネット書店に委託してあります。

きゃからばあさん、ご高覧、有難うございます。
忌憚なきご批正を賜りたくお願い申し上げます。
こちらこそ、今後ともよろしくお願い申し上げます。

974名無し@富士門流:2004/12/01(水) 13:31

管理人さん、犀角独歩さん、ありがとう御座いました。

私も遅ればせながら、学ばせていただきます。

975犀角独歩:2004/12/02(木) 10:27

勉強中さん、失礼しました。
967を読み落としておりました。
どうか、ご叱正を賜れれば、有り難く存じます。

976彰往考来:2004/12/03(金) 07:26
犀角独歩さん、

「必携 図解 大石寺彫刻本尊の鑑別」(第2版)を拝読させていただきました。若干、ミスプリントなどが見受けられましたので、僭越ながら指摘事項を列記します。明らかなミスプリントは次回の版で訂正されるか正誤表を作成されることを希望します。

①20頁4行目 「創価学会では (中略) 紙幅の御本尊は、現在(大石寺)御宝蔵に保管されています」と言いました。

これは、『創価学会の偽造本尊義を破す』(平成9年、日蓮正宗宗務院)に引用されている、新階 央という人が書いたと思われる「日寛上人の御本尊下付の正義の証明」という資料に出てくる一説です。
新階という人は不明ですが、あくまで個人の立場で書かれたもののようで、紙幅本尊が保管されているというのは創価学会の公式見解ではありません。

『創価学会の偽造本尊義を破す』は平成9年8月28日に富士大石寺で行われた第46回全国教師講習会での日顕法主の講義ですが、これに対して創価学会では、「一学会員の指摘な宗門破折文書を取り上げ (中略) 大体、公式文書でもない一学会員の私見に法主が目くじらをたてること自体、愚の骨頂」(1997年9月17日、創価新報3面)と“公式文書ではない一学会員の私見”であると指摘しています。少なくとも私が精査した範囲では、創価学会はかかる主張をしていません。何か明確な資料があるのでしょうか?

②21頁8行目 「板本尊は妙海寺のマンダラの模作か偽造か」

これは、安永弁哲著『板本尊偽作論』(1989年、鹿砦社、156頁)では、「板本尊は妙海寺のマンダラの模作偽造か?」となっています。細かい点ですが原本に忠実であるべきです。

③21頁10行目 「弘安三年大弋庚申五月八日」

  これも、安永弁哲著『板本尊偽作論』では、「弘安三年大弋庚辰五月八日」となっています。山中喜八編『御本尊集目録(訂補三版)(昭和56年、立正安国会)で確認しますと、“辰”が正しいことが解ります。

④22頁8行目 「日蓮正宗宗務院」

『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(昭和31年)は「日蓮正宗宗務院」ではなく、「日蓮正宗布教会」の発行です。

⑤22頁13行目 「富士諸伝本尊」
  『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(62頁)では「富士所伝本尊」となっています。
  この本の本文を読む限り「富士所伝本尊」とは“ 富士門流に伝わった御本尊 ”という意味で大石寺彫刻本尊ではないと拝されます。

⑥23頁1行目 「妙海寺大漫荼羅を大石寺彫刻本尊の模写であると断言されました」

『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(68頁)には、「此の妙海寺所蔵の本尊こそ、此の日華上人へ御授与の本尊を臨写したもの」とあり、大石寺彫刻本尊ではなく日華授与本尊と判断されます。なお、大石寺が前言を翻していないのはご指摘のとおりです。

⑦25頁7行目 「サイズがピタリと合ったら」

『板本尊偽作の研究(再版)』(本門社、発行年不詳)41頁では「サイズがぴたりと合ったら」となっています。なお、96頁の参考文献では、発行者を飯能本門社とされていますが、本門社が正しいと思います。

⑧25頁9行目 「編者(木下)が製作したのではないのでわかりません」
『板本尊偽作の研究(再版)』41頁では「編者が製作したのではないから勿論わかりません」となっています。
編者とは木下氏のことですから、( )書きは間違いではありませんが、原本にはないので、書くのであれば(引用者注:木下)とでもすべきと考えます。さらに“ 勿論 ”が抜けています。

⑨28頁2行目 信行寺
29頁2行目 真行寺

栃木県の信行寺のことでしょうか?

⑩31頁5行目 「富要九−一七八頁」

  「富要八−一七八頁」の誤りです。


長くなりました。続きは追って投稿します。

977犀角独歩:2004/12/03(金) 09:28

彰往考来さん:

ご高覧のうえ、数々のミスプリント並びにご叱正を賜りましたことを、感謝申し上げます。さっそく『正誤表』を作成することといたします。また、不的確な表現は訂正し、文も書き換える所存です。

一点のみ、以下の点なのですが、

> 飯能本門社とされていますが、本門社が正しい

とのことですが、手元にある『板本尊偽作の研究』(再版)、『大石寺明細誌の批判』、三国日秀編『創価学会の弱点』では、表紙に「飯能本門社」と書されています。裏表紙『奥付』ではたしかに「本門社」となっておりますので、「はて、どうしたものか」と悩んだ経緯があります。取り敢えず、表記された「飯能本門社」に準じた次第です。如何なものでしょうか。

引き続きご叱正を賜れれば幸甚です。
有難うございました。

978犀角独歩:2004/12/03(金) 10:17

彰往考来さんが976にご指摘をくださった点は実に正鵠を得ております。

(1)について、拙書において、彫刻本尊の原本漫荼羅が宝蔵の保管されていることを創価学会の公式見解と誤解を招く記述をしたことは批判されて然るべきです。
この点に就き、わたしは訂正することを公言します。

また(5)(6)の点に就き、ご指摘の点は明らかにわたしの誤読でした。
謹んでお詫びし、訂正申し上げる所存です。

以上、2点については、販売委託方に直ちに連絡し、販売した方々に『正誤表』と文章訂正を通知申し上げることといたします。また、次回増刷分からは、ご指摘の点を書き改めたうえ、印刷製本を委託することといたします。

彰往考来さんには重ねて御礼申し上げます。
先に記しましたとおり、重ねてご叱正を賜りたくお願い申し上げるものです。

979犀角独歩:2004/12/03(金) 17:24

ご高覧をくださった皆さんには、たいへんに失礼いたしました。
まず『必携/図解 大石寺彫刻本尊の鑑別』の正誤表を以下にアップしました。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/16_seigohyo.gif

追って『大石寺漫荼羅本尊の真偽について』の正誤表もアップする所存です。
当掲示板への投稿同様、打ち間違いが多く、たいへんに失礼いたしました。
反省いたします。

980犀角独歩:2004/12/03(金) 17:36

979、ジャンプしませんでしたら、以下でお願い申し上げます。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/16_seigohyo.gif
http://yohraku.com/16_seigohyo.gif

981愚鈍凡夫:2004/12/03(金) 21:15

>>1216:
大勇者さん、レス有り難うございました(お礼が遅れてごめんなさい)。

ところで犀角独歩さんの本、まだ読んでおりません。増刷版のほうが徳かな〜っと、大阪人らしい発想で思案しておるところです。したがって、皆さんの話題についていけません。 (T.T)
ただ、手に取る日を楽しみに、気持ちはワクワクしております。
((o(▽ ̄*)oワクワクo(* ̄▽)o))

982犀角独歩:2004/12/04(土) 10:18

『大石寺漫荼羅本尊の真偽について』の正誤表です。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/19_seigohyo.gif
(ジャンプしない場合は[アドレス(D)]枠内にコピペしてください)

983犀角独歩:2004/12/04(土) 10:19

あ、愚鈍凡夫さん、お久しぶりです。

なんだか随分と皆さんにはご高覧いただいているのですが、感想その他はお聞きできず、どんなものなのかと思っているこの頃です。愚鈍凡夫さんには早くご高覧を賜り、辛口のジャブをとばしていただきたいと念願しています。

増補版は、さらにできる限り図形・写真を活用しようと思っています。文章はほぼ出来上がっているのですが、図形作成が遅れています。1冊の本でデータ量が2ギガを超える経験はこの世界で20年ほど生きてきましたが、初めてです。ハングアップしたら、Win386.swp が1.5ギガに。(なんて書くとOSを特定され、さらにウイルスやら、キャンサーやらが送られそうで嫌ですが)文章を書くより、こっちのほうで手こずっています。

しかし、ウイルスメールは日増しに鰻登り、何ともはやという気分です。

984愚鈍凡夫:2004/12/04(土) 12:21

あっ、犀角独歩さんどうも。ご無沙汰しております。
小生の処も、ここで公開しているメールアドレスには頼みもせんのにウイルスメールが毎日複数来ますね。小生でもこんな状況だから、犀角独歩さんの処は大変だろうなと想像しています。
これから寒さが厳しくなりますのでお体ご自愛下さい。

ウイルスメールが来るというのは、裏返せば相手には相当応えてるということですからある意味では愉快でもありますけどね。 σ(゜┰〜 )アッカンベー

985犀角独歩:2004/12/04(土) 15:30

※以下の点、既に正誤表で訂しましたが、こちらを借りて訂正を公開します。

(1)『大石寺漫荼羅本尊の真偽について
 ― 所謂「本門戒壇の大御本尊」の図形から見た鑑別』
(2)『必携/図解 大石寺彫刻本尊の鑑別』

(1)P9 L11 (2)P19 L13

誤)大石寺第五九代堀日亨氏は『富士日興上人詳伝』で
「未来勅建国立戒壇建立のために、とくに硬質の楠樹をえらんで、大きく四尺七寸に大聖が書き残されたのがいまの本門戒壇大御本尊」(二七七頁)
であると言います。一方、創価学会では「戒壇の大御本尊は、大聖人が弟子の日法に彫刻をさせたもので、大聖人の直筆である紙幅の御本尊は、現在(大石寺)御宝蔵に保管されています」と言いました。これに対して、大石寺は『創価学会の偽造本尊義を破す』という反論書で
「大石寺の御宝蔵はもちろんのこと、この世のいずこを探しても彼等(創価学会)が言う『紙幅の戒壇の大御本尊』なるものは存在しません」(八九頁)
と明言しております。

正)大石寺第五九代堀日亨氏は『富士日興上人詳伝』で
「未来勅建国立戒壇建立のために、とくに硬質の楠樹をえらんで、大きく四尺七寸に大聖が書き残されたのがいまの本門戒壇大御本尊」(二七七頁)
であると言います。また、大石寺は『創価学会の偽造本尊義を破す』という反論書で
「大石寺の御宝蔵はもちろんのこと、この世のいずこを探しても彼等(引用者注:創価学会)が言う『紙幅の戒壇の大御本尊』なるものは存在しません」(八九頁)
と明言しております。


(1)P11 L12 (2)P22 L4

誤)細井精道(のちの大石寺第六六代日達)氏は反駁書『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(日蓮正宗宗務院)のなかで「妙海寺本尊の模作という僻見を破し妙海寺本尊こそ富士諸伝本尊の臨写なるを教ゆ」と言って、妙海寺大漫荼羅を大石寺彫刻本尊の模写であると断言しました。

正)細井精道(のちの大石寺第六六代日達)氏は反駁書『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(日蓮正宗宗務院)のなかで「妙海寺本尊の模作という僻見を破し妙海寺本尊こそ富士所伝本尊の臨写なるを教ゆ」と言って、妙海寺大漫荼羅を富士所伝本尊の模写であると断言しました。

986れん:2004/12/04(土) 19:14
犀角独歩さん、先頃届きました『大石寺曼陀羅本尊の真偽について ー所謂「本門戒壇の大御本尊」の図形から見た鑑別』を読ませて戴きました。まだ「必携/図形 大石寺彫刻本尊の鑑別」(増補改訂版)が届いていないのですが、今までの偽作論とは異なり、実証的な御論は分かりやすく、大変参考になりました。私が意外に思ったのは、信行寺の板本尊の脇書が大石寺彫刻本尊同様、日蓮花押の下に横並びに記されていることでした。石山系における造立板本尊の脇書はこの様に記されるのが上代における一種の伝統化儀なのだろうと考察した次第です。
なお、富士宗学要集を読みまして、多少穿った見方をすると室町末期の郷門の日我師・江戸初期の尊門日陽師・郷門日前師は文献に石山彫刻本尊について肯定的に記していますから、目師門下の郷門・尊門も石山彫刻本尊の成立に関わっているのではないかと、憶測ですが、ふと思いました。

987犀角独歩:2004/12/05(日) 01:22

れんさん、お久しぶりです。また、ご高覧有り難うございます。

信行寺板本尊、なるほど。さすが、目の付け所が違います。敬服しました。
持っている写真で確認したのですが、よく読み取れません。

「右願主□□
 日□第□□
 阿□□□□(阿闍梨?□□)

遺弟日影代
   □□□
   十月十□□」

三学無縁さんのご指摘ですが「紫宸殿本尊は有師の模刻ということになっているのに、この板本尊は8代影師」です。7代阿師はわずか半年ですから、ここで「遺弟」と言い師匠を指すのは時師ということになるのでしょうか。どうにも解せないところがあります。

仰るように板本尊「制作縁起」を花押下に書くというのは特徴的ですね。
しかし、これが影師からさらに時師に戻れるとなるとやや看過できない話になってきます。これは興味が惹かれます。

> 目師門下の郷門・尊門も石山彫刻本尊の成立に関わっている

なるほど。目師門下ですか。厳格な興師の、その直下の重須が漫荼羅を彫刻しようなどと考えるわけがありませんから、よほど、その線で考えるほうが現実味がありますね。

988通りすがり:2004/12/05(日) 01:51
犀角独歩さん、今日は
信行寺寶蔵に所蔵されし、宗祖形木本尊は現存する末寺で最古の模刻板本尊
として現存していますが、「右願主□□
 日□第□□
 阿□□□□(阿闍梨?□□)

遺弟日影代
   □□□
   十月十□□」
は、黒須野妙法寺に奉安の模刻御本尊も同じく刻まれています。
鮮明なカラー写真が手元にあるので、何らかのかたちで利用してもらいたい
と念願します。私はスキャナーが無いので、宜しければお送りしますので、
お声を掛けて下さい。

989犀角独歩:2004/12/05(日) 08:21

通りすがりさん、有難うございます。
是非お送りいただきたく、もし差し支えなければ、メールを送信いただければと存じます。よろしくお願い申し上げます。

990れん:2004/12/05(日) 17:35
犀角独歩さん、信行寺板本尊の脇書は興風談所刊「日興門流上代事典」日重の項には「右願主薗部日重弟子小輔阿闍梨日経造立/遺弟日影代/応永十九年太才壬辰十月十三日」とあります。詳細は通りすがりさんの写真でご確認下さい。
「遺弟日影」についてですが「奉蔵於奥法宝」収録の日影師書写大曼陀羅には「大石寺遺弟日影(花押)六十一才」の署名が見えます。日時師の法義の実質的な継承者とも見るべき日有師の連陽房聞書には「末法萬年未来永々マテ大石寺ノ別當日目ニテ御座ス事」とあり、この記述から振り返って読み直すと、大石寺遺弟の署名は「大石寺日目の遺弟」の意ではないかとも思われますが如何なものでしょうか?もっとも、三学無縁さんの仰る通り、日時師は石山のすべてを掌握したひとですから、時師の跡を相続した影師の「大石寺遺弟」の署名は時師の遺弟と読んだ方が無難かもしれません。

991愚鈍凡夫:2004/12/06(月) 01:06

横レス失礼します。
「大石寺遺弟」の件ですが、何故、師匠の名ではなく寺院の「遺弟」としたのでしょうか。
これは師匠の「遺弟」という意味ではなく、重須を離れた独自の大石寺門流の「遺弟」と解釈したほうが意味が通じるように思いますがいかがなものでしょうか。

992れん:2004/12/06(月) 08:45
愚鈍凡夫さん、時師は石山歴代ではじめて曼陀羅脇書に「富士大石寺門徒(或いは檀那)何某」と記すにいたっています。これは時師が実質的に石山を完全に掌握したことに伴った、重須から離れた石山の興門における正統性の主張と読めなくもありません。とすると、影師の「大石寺遺弟」も愚鈍凡夫さんの様に解釈できますね。参考になりました。ご意見有難うございました。

993彰往考来:2004/12/06(月) 14:02
「飯能本門社」について、「本門社」が正しいと思うと976で申しあげましたが、その根拠は犀角独歩さんもご指摘されている該当資料の奥付のような記載にあります。
手元にある同社発行の『大石寺明細誌の批判』および『板本尊偽作の研究(再版)』を見てみると、両方とも裏表紙に奥付のような記載があり、ここには、それぞれ「埼玉県飯能市宮本町 振替東京一四四六九八 本門社」、「埼玉県飯能局区内 振替東京一四四六九八番 本門社」とあるので「飯能」が埼玉県の地名でありことが分かります。
但し、これは奥付というより目録に近い内容で、発行年月などの記載もありません。本門社発行の資料中身はガリ版刷りです。
問題の「飯能本門社」という表現は表紙にありますが、よく見ると、「飯能 本 門 社」となっており、「飯能」は一回り小さい字で書かれ、かつ飯能と漢字と連結させています。もし「飯能本門社」が正しい会社名であれば同じ大きさの文字で「飯 能 本 門 社」と書かれるべきと考えます。
もちろん「筑波書林」のように、地名が社名の一部に組み入れられている例はありますが、今回の場合は、「飯能」は埼玉県飯能市を表す地名であり、例えば「神田 三 省 堂」というような表現であると理解すべきと判断いたしました。

994犀角独歩:2004/12/07(火) 10:56

れんさん、信行寺板本尊の制作縁起の記文、有り難うございました。

> 日影…大石寺遺弟の署名は「大石寺日目の遺弟」

このような用法は有りなんですか。なるほど。

ゆいてい 【遺弟】
師の死後に残った門弟。いてい
(三省堂提供「大辞林 第二版」)

というのが一般の用法ですから、師の謦咳に掛かった直弟子が使う言葉であると思っていました。実際にその師を知らない場合は末弟などの語を使うのかと。
(影師は正平7(1352)、目師寂・元弘3(1333)を去ること19年後出生)

ご教示いただきたいのですが、「右願主薗部日重弟子小輔阿闍梨日経造立/遺弟日影代」という縁起はつまり、影師の代に重師の弟子・経師が造立したのが信行寺にある板本尊であるという意味になりましょうか。

995犀角独歩:2004/12/07(火) 11:03

彰往考来さん:

ご丁重なご指摘、まことに有難うございます。

「本門社」「飯能本門社」、さてどうしたものかと考えあぐねております。
以下、画像はその本門社刊の『創価学会の弱点』の表紙です。
こちらでは「飯能本門社」と同一の大きさで記されています。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/sokagakkainojakuten.jpg
(ジャンプがうまくいきません。[アドレス(D)]にコピペしてください)

ただ、たしかに『奥付』?には「本門社」とのみあるわけですね。
悩むところです。

996彰往考来:2004/12/07(火) 12:28
犀角独歩さん、

 『創価学会の弱点』、画像資料拝見しました。
ところで、この本の奥付はどうなっていますか?

推定ですが途中で会社名が変わったことも考えられますね。
本門社では類似社名があってよく解らないからでしょうか。

要はどちらも正しいのでは?

でも統一したほうがよいですね。『創価学会の弱点』も奥
付が『本門社』であれば、『本門社』とすべきと思います。
もし奥付が『飯能本門社』なら、3点とも『飯能本門社』
のほうがよいでしょうね。


彰往考来

997犀角独歩:2004/12/07(火) 16:32

彰往考来さん、『奥付』と言えるものがそれぞれ付されていませんね。

> 要はどちらも正しいのでは?

ええ、そのようなことかと存じます。

ところで、本門社は会社名なのでしょうか。任意団体、もしくは結社名かと思っていました。この名称は、天台系は元より、日蓮系にはありがちな印象ですね。当初、本門社ではじめ、郵便為替もその名称で開いた、けれど、紛らわしいので、あとから名称には「飯能」を付したということでしょうか。

例になるかどうかわかりませんが、、拙書の文中で「北山本門寺」という名称を使いました。しかし、この名称は実際は正しくありません。「富士山本門寺」であり、もっと正確に記せば「富士山本門寺根源」であろうかと思います。しかし、「根源」は寺院名としては一般には馴染みがないので、本門寺と呼称されるのであろうと。しかし、単に本門寺では池上もあれば、西山もあります。そんなことから正式名称ではないけれど、混乱を避けるために「北山本門寺」の名称を用いました。また大石寺は「冨士大石寺」などと呼称されますが、正式名称は「多宝富士大日蓮華山大石寺」です。しかし、他に類似名称がありませんので、単に「大石寺」としました。

本門社も他にその名称があるかどうかわかりませんが、「飯能本門社」とし、裏表紙に住所で「飯能」と記す場合、重複を避け単に本門社としているのかと思いました。

それにしても、本当に微に入り・細に入り、ご賢察を下されましたことを、改めて感謝申し上げます。

998彰往考来:2004/12/07(火) 17:28
訂正です。

960のスレッドで「萬年救護御本尊縁起」を紹介いたしましたが、引用資料名に誤りがありました。

 誤:『本門寺並直末寺縁起』
 正:『本門寺並直末寺院縁起』

です。謹んで訂正いたします。


彰往考来  拝

999れん:2004/12/07(火) 17:53
犀角独歩さん、日影…大石寺遺弟の署名は「大石寺日目の遺弟」これは有師聞書からの類推ですので違うかも知れません。しかし道師以下有師までの石山歴代の申状には「日蓮聖人弟子日興遺弟日〇」と記してますし、特に有師は「末法萬年未来永々マテ大石寺別當日目ニテ御座ス」と言ってますから当たらずとも遠からじと思っています。郷門でも要師の切紙には「富士山日目上人遺弟日要」と記してますし、要師から珍師までの保田妙本寺歴代書写曼陀羅には同じく「富士山日目上人遺弟」の署判がありますから、こういう用法もありということだと思います。
なお、信行寺板本尊の縁起の意味は、独歩さんが仰るとおり、大石寺第八代日影師の代に信行寺第五代日重師の弟子日経師(同寺八代)が造立した板本尊であるという意味になると思います。

1000犀角独歩:2004/12/07(火) 19:08

れんさん、有り難うございました。
興門下の「遺弟」の用法、よくわかりました。
繰り返しになりますが、「なるほど」と。

ご投稿を拝読して、面白いと思ったのは要師が目師「遺弟」を名乗っていることでした。記すまでもなく我師『申状見聞』で日目再来伝説の当人が、自分の宿命(しゅくみょう=前世)の自分自身を師とするというのは、なかなか味わいのある発言だと思った次第です。

1001通りすがり:2004/12/07(火) 19:44
信行寺板本尊と同じように、筑波本証寺に安置の板本尊も縦に授与者の銘が記されて
います。讃岐本門寺では、ほう師(ほうし)が戒壇本尊の為書を縦に認めています。

1002犀角独歩:2004/12/08(水) 08:46

れんさん、信行寺板本尊銘に就き、ご回答御礼忘れていました。
有難うございました。

通りすがりさん、

> 讃岐本門寺…ほう師…戒壇本尊の為書

とは、何でしょうか。ご解説願えませんでしょうか。

1003通りすがり:2004/12/08(水) 11:22
犀角さん、今日は
讃岐本門寺の塔中の中之坊に所蔵されている御本尊に、石山三十七世日王奉(ぽう
すいません、漢字が入力出来ませんでしたので)上人が書写した御本尊に戒壇本尊
の為書をそのまま曼荼羅の下部に書かれています。
右為現当二世造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重敬白
要するに時の貫首だった三十七世王奉師が、讃岐の信徒に戒壇本尊の為書(端書)
を渇仰恋慕する思いに答えて曼荼羅の下部に認めたという事です。

1004犀角独歩:2004/12/10(金) 00:35

通りすがりさん、有り難うございます。
実に興味つきない、ご投稿でした。

1005彰往考来:2004/12/20(月) 07:27

吉川元長と禅師授与曼荼羅について〔1〕

スレッド960及び965の続きです。

『本門寺並直末寺院縁起』に記載の禅師授与曼荼羅の縁起について、
“天文8年に吉川元長が入手した”との縁起記載内容は史実ではありません。なぜなら、吉川元長は天文17年(1548年)生まれだからです。(『国史大辞典 第四巻』平成2年、吉川弘文館、152頁 など参照)
とスレッド965で指摘いたしました。
また『本門寺並直末寺院縁起』で元長は“伯耆國米子ノ城主”されていますが、実際はどうだったのでしょうか。ここでは吉川元長についての事跡などを検証し、縁起と史実を照らし合わせることにより禅師授与曼荼羅が北山本門寺に戻った経緯について検証を試みたいと思います。

吉川元長関連の年表(下記参考資料を参考に作成)
天文17(1548)年、吉川元春の長男として生まれる。幼名鶴寿丸(吉川元春は毛利元成の次男)
永禄 4(1561)年、14才で元服し元資と名乗る
永禄 8(1565)年、18才で出雲尼子氏の本拠富田(とだ)城攻撃に加わる
天正 元(1573)年、元長と改名。父元春とともに伯耆八橋(やはせ)に進駐
天正 3(1575)年、因幡に進出
天正6〜7(1538〜1539)年冬、因幡・伯耆の間に滞在
天正 9(1581)年、10月伯耆八橋(やはせ)の陣にあり
天正10(1582)年、12月高松城合戦後、引退した父のあとを継ぎ家督を相続
天正12(1584)年、仁和寺から弘法大師筆と称する法華経を贈られる
天正13(1585)年、秀吉の命を受け四国に出征
天正14(1586)年、九州に出征
天正14(1586)年、11月15日父元春、豊前小倉の陣中で病没。57才
天正15(1587)年、6月5日九州出征中日向の都於里(とのごおり)の陣中で病死。40才
          ※都於里:宮崎県西都市都於里町
天正19(1591)年、吉川広家(元長の弟,元春の三男)、米子伯耆城の築城に着手

 こうしてみると、元長が伯耆に滞在していたのは、天正元年から天正10年にかけての頃であったことがわかります。天正10年12月に父元春から家督を譲られていますので、それ以後元長は安芸国(広島県)山県郡にある吉川家の火ノ山城に城主として入ったと考えられ伯耆には滞在していなかったと思われます。

1006彰往考来:2004/12/20(月) 07:27

吉川元長と禅師授与曼荼羅について〔2〕

 さて、禅師授与曼荼羅は『本門寺並直末寺院縁起』では「往古悪ル者ノ為メニ紛失セシニ」とあり、北山本門寺から紛失したとされています。これに関連する事件が天正9年3月17日に北山本門寺で起こっています。武田勝頼らの臣により西山本門寺に重宝が奪われた事件です。(堀日亨編『富士宗学要集 第九巻 史料類聚〔2〕』昭和53年、創価学会、24頁) そうすると、奪われた重宝の中に禅師授与曼荼羅が含まれていて、これが当時伯耆国に滞在していた吉川元長に売却された可能性はあるということになります。ということは元長が伯耆で入手した可能性のある時期は天正9年3月(北山本門寺で重宝略奪)から天正10年12月(元長が家督をつぐ)までということになります。なお、天正10年6月2日が世にいう本能寺の変で信長が明智光秀に殺されたときで、このときは秀吉軍と吉川軍は高松城合戦で対峙しており、元長も書画骨董どころではなかったのではと推測します。また、米子伯耆城は天正19(1591)年に吉川広家(元春の三男。元長の遺言で家督を継ぐ)が築城を開始したとされていますので元長が伯耆城主であったとは考えられませんが天正9年当時に何らかの形で元長の居城が伯耆にあったはずです。
 では、禅師授与曼荼羅が北山本門寺に返却されたのはいつと考えられるでしょうか?『本門寺並直末寺院縁起』では、「如何ナル因縁カ不思議ニモ其後米子ノ城中城外疫病大ニ流行シテ惨状ヲ極メケレバ」と伝えています。実際に疫病が大発生したかどうかは不明ですが、天正14年に先代の元春が死去し、続けて天正15年に当主の元長が死去したのですから、家中は大混乱したはずです。そこで家臣が何の崇りであるか調べたところ、この曼荼羅の御書判の内に『本門寺ニ懸ケテ万年ノ重宝タルベシ』と有るのを見てびっくりし、調査すると北山本門寺のものと解ったので慌てて返却した、といったところが真実だったのかもしれません。
 もしそうだとすると、天正9年に北山本門寺から奪われた禅師授与曼荼羅を元長が入手したというのをきっかけとするならば、『本門寺並直末寺院縁起』でいう“天文8年”が“天正8年”の誤りであるとすることはできません。天正8年の時点ではまだ北山本門寺にあったからです。しかし返却されたのが天正18年というのは有り得ると思います。元長は天正15年に亡くなっていますので、北山本門寺に返却されたのが天正18年だったのではないでしょうか。死後3年目というのは、色々調査や手続きなどがあったろうと考えると妥当な線ではないかと考えます。
ここで念のため確かめておく必要のある項目がふたつあります。ひとつは、『本門寺並直末寺院縁起』にでてくる本山要法寺第8世日得上人です。富士年表(昭和56年、富士学林、483頁)によると日得上人は要法寺11代ですが、要法寺の事実上の開祖である日尊上人から数えると8代目になります。しかしながら日得上人は建徳元(1370)年に亡くなっていますので、『本門寺並直末寺院縁起』で議論している時代と全く年代が合いません。参考までに、この頃の要法寺歴代では、17代日法上人は永正13(1516)年寂、18代日在上人は弘治元(1555)年寂、19代日辰上人は天正4(1576)年寂、20代日賙上人は慶長13(1608)年寂ですから天文8年の頃なら日在上人、天正18年の頃なら日賙上人ということになります。縁起作成者がなぜ要法寺第8世日得上人を登場させたか不明です。全く解りません。もしかしたら日得という別人がいたのではないかとも考えられますが推測の域を出ません。

1007彰往考来:2004/12/20(月) 07:28

吉川元長と禅師授与曼荼羅について〔3〕

もうひとつは『家中抄』の記載です。『家中抄』には「日興高祖の本尊を申し請い日禅に授与す此本尊今重須に在り伯耆曼荼羅と号する是なり。」(堀日亨編『富士宗学要集 第五巻 宗史部』(昭和53年、創価学会、197頁)とあります。恐らく“伯耆曼荼羅”がでてくる一番古い資料でしょう。『家中抄』の成立は寛文2(1662)年(富士年表、205頁)ですから、少なくともこのころには、禅師授与曼荼羅は重須(北山本門寺)に在り伯耆曼荼羅と呼ばれていたことが解ります。これは上記に記載した年代と矛盾するものではありません。このことは伯耆曼荼羅という名称が江戸時代中期以後の創作ではないということを示します。ただ『本門寺並直末寺院縁起』に記載された禅師授与曼荼羅に関する縁起自体は江戸時代中期以後の開帳の際にでも使用されたもので後世の創作でしょう。
なお、日向国(宮崎県)には日蓮正宗の名刹である日知屋山 定善寺があります。吉川元長の亡くなった都於里(西都市)と定善寺のある日向市は40Kmくらいの距離でしょうか。非常に近いのでもしやと思いましたが定善寺文書(『宮崎県史 史料編 中世1』平成2年、宮崎県)などには両者の関係を示唆するような史料は見当たりませんでした。

 以上のことから得られた仮説は、
①禅師授与曼荼羅は天正9年に北山本門寺から強奪された
②強奪された禅師授与曼荼羅を吉川元長が天正9〜10年に入手した
③この禅師授与曼荼羅は元長の死後天正18年に北山本門寺に返却された
というものです。
今回の結果は、縁起で伝承された事柄に事実が含まれているという仮定のもとに縁起内容と史実を照らし合わせ検証して得られた仮説です。「吉川元長購入説」とでも名づけましょうか。仮説はあくまで仮説です。縁起の内容など取るに足らぬ、という考えであれば成り立つものではありません。事実、天文8年やら日得上人など史実と照らし合わせると成立しない内容が含まれています。しかしながら、この仮説のような事実がなければ禅師授与曼荼羅を伯耆曼荼羅と称する必要はないわけであり、逆に『家中抄』の成立した寛文2年にすでにこの名称があったということは史実が伝承されている可能性を強く示唆するものと考えます。そこで縁起内容から事実と異なる箇所を抜き去り史実から考察を加えたものです。
最後に一言。天正19年に吉川広家が米子伯耆城の築城を開始しているのは、禅師授与曼荼羅をめぐる家中の混乱を収拾し家臣の心機一転をはかる意味もあったのではないかと思えてなりません。

<参考資料>
河合正治「吉川元長の教養」(藝備地方史研究、第36巻1頁、昭和36年、藝備地方史研究会)
河合正治「吉川元長,吉川元春」(国史大辞典 第4巻、152頁、昭和59年、吉川弘文館)
三坂圭治「吉川元長,吉川元春」(日本歴史大辞典 第3巻、439頁、平成元年、河出書房新社)
佐々木謙『米子伯耆城 改版』平成12年、立花書院、151頁
平井聖 監修『城 第6巻 中国編 甍きらめく西国の城塞』平成8年、毎日新聞社、154頁


彰往考来

1008犀角独歩:2004/12/20(月) 19:19

緻密なご投稿に接し、敬服いたします。
やや質問させていただいてよろしいでしょうか。

> 西山本門寺に重宝が奪われた事件…中に禅師授与曼荼羅が含まれていて…

とのことですが、この根拠はどのような点にあるのでしょうか。
当時の事件を伝える論調から御筆漫荼羅紛失が浮かび上がらないように見えます。
たとえば、『重須と西山と御大事等の本門寺諍ひの事』に「西山日春…重罪は八通の遺書二箇の重書今に見えず」とあります。ここでは北山正当を伝える文書類紛失への憤慨が色濃く見えますが、なにより重宝である蓮組聖人漫荼羅について、全く触れられていないのは不自然ではないでしょうか。むしろ強奪された重宝類に禅師授与漫荼羅は含まれていなかったと窺えると思えますが如何でしょうか。

1009犀角独歩:2004/12/25(土) 10:21

1008の投稿にも関連しますが、禅師授与漫荼羅はそもそも2舗あるわけです。
では一体いつごろから2舗になったのか、ということを以前、議論したかと思います。
石山所蔵本の書き込みは興師筆と亨師はいうわけですが、そうなると、こちらが正本ということになるのでしょうか。
蓮師が、同一授与者・同一日月の漫荼羅が2舗図示されたとは考えづらい。そうなると、剥離表層によって2体に分かったのかという推論は成り立ちます。
しかし、そうなると、興師加筆もともに影じることになります。ところが加筆は違っているわけです。では、興師加筆以前に2体に分離され、その一つに興師は加筆、もう1体は後世に誰某かが加筆した、しかも、加筆する際に、現石山所蔵漫荼羅の「本門寺」の文字を削損し、かつのちに伯耆漫荼羅といわれるようになるほうには「本門寺」と書き足した?、あるいはこの2者にリンクするように思える「本門寺」文字の添削はまったく偶然か?、どうでしょうか。こんなことを興師がするでしょうか。はなはだ不審です。

北山には本来、2舗の禅師授与漫荼羅があったかどうか、その一つは盗難に遭い、のちに戻り、伯耆漫荼羅といわれるようになる「本門寺」の名入り、もう一方は「売りに出され」法道院を経て石山所蔵になった「本門寺」削損。拙書でも取り上げましたが、この2つは加筆が違う前提は繰り返すまでもないでしょう。少なくとも2体は存在するわけです。

彰往考来さんの1005から1007のご投稿は、その片方、伯耆漫荼羅と呼ばれるようになったほうの話であろうと思います。では現石山所蔵のほうがどんな経緯を辿ったのでしょうか。

2舗の禅師授与漫荼羅、これしかし共通しているのは同一授与者・同一日月というばかりではなく、市中に売りに出されて古美術扱いで将来されるという点でも同一です。
「伯耆」漫荼羅は、そこに「本門寺」と書かれてあったから北山に「戻った」、ではしかし、法道院のほうはなんでまた、禅師授与漫荼羅購入にああも夢中になったのでしょうか。まあ、現石山的な(いや、創価学会的、顕正会的というべきかもしれませんが)メンタリティからすれば「ご戒壇様以外は、たとえ真筆でも、未究竟でご本尊とはいえない」とでもなるわけで、故に、この「戒壇の大御本尊」を血脈相承を受けた唯授一人のみが「書写」したものを本尊とするというわけです。(書かれている内容の違いは、相貌を書写したのではなく御内証を写したからだそうで、そんなものをどうして書写というのか不明です。内証でもなんでも、書けば文字としてしか現れない、ところがそれが違うのは内証を書いたからだというのは、単に相貌の違いを取り繕う言い訳以上の意味は持ちません)とすれば、市中に売りに出された「御筆」漫荼羅など、目をくれる必要はなかったことにもなります。

禅師授与漫荼羅は、北山に所蔵されているところに、さらに、もう1舗「舞い戻ってきた」。こちらは講談調の美談のおまけがついている。時間が経、本来あったほうが招来ものより軽視されるにいたった。そこで、「本門寺」の文字を削り取って売りに出して金に換えた。しかし、実はこちらのほうに興師加筆があった(本物かどうか別としてですが)。となれば、案外、伯耆漫荼羅は北山と、興師とも、蓮師とも無縁の一物であったりするかどうか。なんでもあり、富士門下のこと、何が起きていたのか分かりませんが、伯耆漫荼羅といわれるようになるほうが、元々は北山にあったかどうか、また、のちに売り払われることになった現石山所蔵と2舗並存した時期があったかどうか。なかなか興味が惹かれます。

1010彰往考来:2004/12/27(月) 07:41

スレッド1008での犀角独歩さんのご質問にお答えします。

>当時の事件を伝える論調から御筆漫荼羅紛失が浮かび上がらないように見えます。

とおっしゃるのはちょっと首を傾げます。なぜなら当時重須本門寺で御筆漫荼羅が強奪されたという記載は、堀日亨編『富士宗学要集 第九巻 史料類聚〔2〕』(昭和53年、創価学会、以下「富要集九巻」と略します)などを紐解けば、かなり出てくるからです。例えば、
『本門寺日殿申状の案』(「富要集九巻」19頁)
 「御筆本尊等返し給ひ安堵の面目を開き」
『本門寺宝物目録』(「富要集九巻」20頁)
 「一、日蓮御筆漫荼羅大小弐十幅。」
『本尊已下環住の記録』(「富要集九巻」21頁)
 「一、日蓮大上人御真筆漫荼羅大小十一幅。」
   ※引用者注:“大上人”とあるのは「富要集九巻」原文のママ。
『二箇の相承紛失の由来』(「富要集九巻」23頁)
 「其日の乱入に彼の二箇の御相承並に大聖開山御筆の漫荼羅三四十幅濫妨に取られたるか」
等々です。『本門寺宝物目録』と『本尊已下環住の記録』はそれぞれ強奪された重宝類の目録と返却された重宝類の目録です。但し、この2点の資料には疑義があります。堀日亨師は「以上の文献は当時のものにあらず、近代の筆にて文中不可解の事多く、(現存せる家康に謚(し)号の東照神君などというごとき等)、」(『富士日興上人詳伝』昭和38年、創価学会、147頁)と指摘されていまして後世のもののようです。そのため綿密な考証が必要ですが、それについては別の機会にしたいと思います。

>たとえば、『重須と西山と御大事等の本門寺諍ひの事』に・・・。 むしろ強奪された重宝類に禅師授与漫荼羅は含まれていなかったと窺えると思えますが如何でしょうか。

『重須と西山と御大事等の本門寺諍ひの事』は「富要集九巻」23頁にある『妙本寺古記』の中にある資料ですね。ここで堀日亨師は「無題の記録なり筆者年代不明なれども祖滅三百二年後のもの、但し転写のものにあらず」(「富要集九巻」23頁)とされています。祖滅三百二年後は天正11(1583)年で、その時の内容ということです。この資料は「富要集九巻」では先の『二箇の相承紛失の由来』に引き続いて編集されています。内容詳細は略しますが、ご指摘の箇所は、その少し前から読みますと、「重宝類は300年間重須にあったのだから重須にあるのが正しいとの家康裁定で西山本門寺の日春は面目ない結果となった。日春は西山から擯出されるべきで、その重罪は二箇の相承や日代八通の譲状などの重書が紛失してしまったことである。」といった意味と解釈されます。『重須と西山と御大事等の本門寺諍ひの事』は“御大事”であった二箇の相承や、その紛失などに主眼がおかれていますので、ここに記載がないから強奪された重宝類に御筆漫荼羅は含まれていなかったのではないかということにはならないと考えます。

by 彰往考来

1011犀角独歩:2004/12/27(月) 10:09

1010 彰往考来さん:

なるほど。ただし、わたしが強奪に漫荼羅が含まれていなかったというのは、仰るようなこの事件を伝える記事そのものへの疑義からであること、また、実際に漫荼羅が(それも同一の日禅所漫荼羅2舗が含まれているのであればなおさら)、そのことを切実に伝える記載が残っていてもしかるべきではないのかという意味です。この事件から嘆願断食死にいたる直接の原因を陳べる段で漫荼羅を強奪された切実さを感じないと言いたかったわけです。

また、わたしは

> 強奪された重宝類に禅師授与漫荼羅は含まれていなかった

と記したのであって、

> 強奪された重宝類に御筆漫荼羅は含まれていなかった

とは言っておりません。何か勘違いなさっておりませんか。
さらに言えば、わたしは禅師授与漫荼羅を「御筆大漫荼羅」とも言っておりません。

さてでは、具体的に質問いたしますが、この強奪で2舗の禅師授与漫荼羅が売られ、一方は1006の経由で戻り、伯耆漫荼羅と言われるようになったと。では、もう1舗はどうなったとお考えなのでしょうか。

1012犀角独歩:2005/01/01(土) 12:53

『必携/図解 大石寺彫刻本尊の鑑別』は近く増補改訂版をお届け申し上げる所存です。
プレリリース版の段階で概ねご批正を賜った点は、

 (1)禅師授与漫荼羅が原本であれば、細部にわたるまでもっと似ているはずである
 (2)「南」字が禅師授与漫荼羅のほうが大きい
 (3)「經」字が違う

と言った点が最も多かったと存じます。

(1)につきましては、先にも一度陳べましたが、大石寺彫刻本尊は禅師授与漫荼羅を模刻し様としたものではなく‘原本’にしたのに過ぎないからである点を申し述べたいと思います。つまり、何がしかの蓮師御筆をモチーフにして「本門戒壇乃大御本尊」というものを作り上げようとしたものである以上、元の原本を性格に模刻することなど当初から意図されなかったということです。むしろ、敢えてわからなくしようとしたとすら窺えます。つまり、それが臨写・作為からさらに他筆混同という事実です。
しかし、造立されたものが蓮師筆と見えなければ、意図から外れます。そのために利用されたのが禅師授与漫荼羅であったという関係にあるのでしょう。また、その文字を利用した故に中尊題目、四大天玉は酷似しているわけです。特に各文字の大きさ比率は拙書で図解したとおり、ほぼ同一であり、光明点の角度、長さまでほぼ一致するところとなっています。

ただし、(2)の指摘のごとく、写真で見る限り「南」字は大きさ・形貌が異なっているように見えます。しかしそれでも、その各文字大きさの比率はほぼ同等であり、禅師授与漫荼羅を模していることが窺えます。

(3)の「經」字の違いは、そのとおりで旁‘ツ’様となっている部分が、禅師授与漫荼羅は特異にも‘ソ’様となり1画不足しています。しかし、それを補う如くに「華」字・縦棒が「經」旁・1画‘一’を貫き、‘ソ’様の左傍らに伸びた位置と彫刻本尊‘ツ’の1点目とほぼ位置を同じくしています。その他、文字の運筆はほぼ、同じくしており、また、特異な筆法といえる禅師授与漫荼羅「經」糸偏も、特徴を同じくしています。このことから、「經」字の違いは原本とした禅師授与漫荼羅の特異性を補したのが彫刻本尊であるという関係にあると言えます。

なお、増補版で明らかにしましたが、禅師授与漫荼羅の筆法の特異性は「經」字旁に留まらず、もっと着目すべき点があります。それは大廣目天玉の「天玉」の筆法です。
以下、増補版の文を転載します。

――「大廣目天玉」もほぼ一致しますが、「天玉」はややずれています。
 この「天玉」の部分は特筆に価することがあります。
 まず日禅授与の「大廣目」の「天玉」の特異性です。日蓮聖人は「天玉」を書されるに、「天」の最終画から「王」」の一画に連なり、「王」を書き終えて点を打つのに、また「天」最終画を跨いで細い点を打たれました。…日禅授与漫荼羅の「大廣目」の「天玉」では点と言うより、縦一本の太い棒で書されているのです。このような筆法は他に例を見ません。日禅授与漫荼羅の際だった特徴といえます。彫刻漫荼羅の同じ部分を見ると、やはり、「天玉」の最終画は縦棒となっているように見えます。重要な相似と言えるでしょう――

管理者さんがアップくださった禅師授与漫荼羅写真
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_35.htm

と、わたしがアップしている彫刻本尊写真
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaidanmandara/kaidanmandara.html

の大廣目天玉の‘天玉’を見比べてみてください。
その相似には目を見張るものがあります。
なぜ、目を見張るかといえば、このような「天玉」の筆法は、御筆漫荼羅では見られないからです。

『御本尊集』
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

わたしは、大廣目天玉の筆法の一点をとっても、彫刻本尊の原本は禅師授与漫荼羅であると確信します。

1013彰往考来:2005/01/01(土) 16:21
禅師授与漫荼羅の動向について〔1〕

当スレッドの889で愚鈍凡夫さんが禅師授与の漫荼羅についての動向について質問されています。どのような経緯で、北山本門寺が禅師授与漫荼羅を所有するにいたったかは非常に興味のあるテーマです。
日禅師は当スレッドの891で空き缶さんが、まとめておられるように、
正応三年        日禅師、大石寺南之坊創建
元徳三年 三月十二日  日禅師、大石寺南之坊にて遷化
ということになっています。そうすると日禅師が亡くなったあとは禅師授与漫荼羅は大石寺に伝わった可能性が濃厚となります。では、いつ大石寺から北山本門寺へ?という疑問が発生することになります。

しかしながら私は、禅師が大石寺の南之坊を創建したということ、及びその南之坊で亡くなったということを疑問視しています。その理由は根拠資料がはっきりしないからです。
まず南之坊創建ですが、『富士年表』(昭和56年、富士学林、56頁)では正応3(1290)年の項に「日禅 大石寺塔中南之坊を創す(石文)」とあります。「石文」とは同書488頁によれば「大石寺文書」のことですが出典資料の具体名がありません。『静岡県史 資料編5 中世1』(平成元年、静岡県)は、編年体で編纂され比較的よく大石寺文書を収録していますが、正応3年の項にはかかる内容の資料は見当たりません。どうも『富士年表』の根拠は日精師の『富士門下中見聞抄』(以下、「家中抄」と略します)ではないかと推測します。もちろん他の人師による資料が存在する可能性を否定するものではありません。「家中抄」の「日禅伝」には、「大石寺に移り給ふ時、屋敷を下タされ南之坊を開闢す、玆に住して御番を勤仕せらる」(『富士宗学要集 第五巻宗史部』(昭和53年、創価学会、197頁、以下「富要集五巻」と略します))とありますが、内容に疑問点があるので「家中抄」の記載内容を検証することにします。まず「御番」です。同書の171頁に、「元徳二年正月には大石寺の番帳を定め給ふ是レ永代不易の為なり。日目、日郷、日時、三師自筆之レ有り。」とありますが、堀日亨師は同箇所の頭注に「今存在セズ」と記しています。「家中抄」では番帳について引き続き、「四番、少輔阿闍梨日禅 (中略) 七番、越後阿闍梨日弁 (以下略)」(同書172頁)と記しています。ここで出てくる日弁師については『富士年表』の正安元(1293)年の項に「越後房日弁 大石寺塔中乗観坊(蓮成坊)を創す(石文)」(同書61頁)とあります。『富士日興上人詳伝』(昭和37年、創価学会)にある大石寺図をみますと、日禅師の南之坊と日弁師の蓮成坊は隣同士です。(同書251〜257頁)これはちょっと笑ってしまうほどおかしなことです。なぜなら詳細は略しますが日興上人の弟子分帳に「富士の下方市庭寺の越後房(日弁)は日興が弟子なり仍て与え申す所件の如し、但し弘安年中白蓮に背き了ぬ。」(『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』昭和53年、創価学会、6頁)とあるように、日弁師は弘安年中に日興上人から離れています。そして応長元(1311)年、奥州伊具郡甚次郎村(現・宮城県角田市神次郎)で殉教(病死との説もあります)しているのです。同一日号の別人がいたわけではなく、日頂師のように日興上人の基に戻ったということもないのです。御番の件や大石寺図などは後世の創作でしょう。とすると禅師の南之坊創設の件も創作ではないかと思います。少なくとも弘安期よりあとの資料で日弁師と日禅師が並んで記載されているようなものは正当な資料として使用することはできないというのが私の考えです。伝説や偽文書を基に論理を進めれば『新ジンギスカンの謎』(平成16年、叢文社)のように源義経がジンギスカンになってしまいます。難しいことですが資料が使用するに値するものなのか吟味しながら考証しなければいけないのはいうまでもありません。

1014彰往考来:2005/01/01(土) 16:23

禅師授与漫荼羅の動向について〔2〕

 次に南之坊にて御遷化の件です。『富士年表』の元徳3(1331)年の項には「3.12 南之坊開基少輔阿日禅、同坊に寂(大過去帳)」(同書77頁)とあります。「大過去帳」とは同書488頁によれば「大石寺大過去帳」とのことです。しかしながら古い資料では「家中抄」しか記載が見当たりません。「家中抄」には「終に元徳三年辛未三月十二日大石寺南之坊に於て御遷化なり、御墓所今大石寺東南に之レ有り。」(「富要集五巻」197頁)とあります。ところがこの過去帳について堀日亨師は『富士日興上人詳伝』で「現在南之坊の過去帖によっても、禅師の次に日善を繋げてあって爾来二百余年が欠けておる。」(同書、615頁)と指摘されています。ということは、ここでいう“南之坊の過去帖(帳)”は後世のものと考えられます。“御墓所”も同様です。堀日亨師は『富士日興上人詳伝』で「南之坊はいまは西坊地の最南であるが、当時は西大坊の東南隅、すなわち理境坊の北上であり、出仕道から鬼門辺にかけてあったもので、出仕道に上る子持杉の南側に格別古くはないが、南之坊の墓碑がある。「御墓所今大石寺東南に之有り」との精師の記の位置に誤りはないが、いまの碑石はその後のものである。」(同書、615頁)と指摘されています。つまり墓碑はずっと後世のものであり日禅師が本当に南之坊で亡くなったのか疑問であるということになります。

南之坊遷化説とは別に東光寺で亡くなったとする資料もあります。宮崎英修氏は『日蓮聖人遺文辞典 歴史編』(昭和60年、身延山久遠寺、861頁)の「日禅」の項で、「日禅は東光寺において元弘元年(一三三一)三月十二日寂。」としています。元徳三年は八月九日に元弘元年に改暦されていますので三月ですと“元徳”が正しいということになります。それはともかく、ここで東光寺とされた根拠の文献がよくわかりません。『日蓮聖人遺文辞典 歴史編』の「日禅」の項には参考文献として、『富士門家中抄』中(『富要』五巻)、堀日亨『富士日興上人詳伝』、『日蓮宗寺院大艦』の3点を挙げていますが、そのいずれも(「家中抄」は「日禅伝」の項、『日蓮宗寺院大艦』は「東光寺」の項)が日禅師は南之坊で遷化されたとしていて東光寺で遷化されたとは書いていないのです。但し、「家中抄」の「日助伝」(「富要集五巻」222頁)には、「河合の妙光寺と東光寺は由井一家ノ菩提所なる故に日禅住持し給ふ、元徳三年三月十二日日禅終焉の後は日善住持なり」と日禅師が東光寺で遷化されたと示唆する内容を記しています。河合の妙光寺については、「妙光寺は今の妙興寺で河合に現存するが中世延山に転派しておる」(『富士日興上人詳伝』615頁)とあり妙興寺のことです。但し妙興寺は、建武2(1335)年(日禅師が亡くなって4年後)に焼失、元禄年間に再建(『日蓮宗寺院大艦』498頁)されたとあり、かつ妙興寺歴代に日善の名前がないことから日善が妙興寺の住持であったか疑問です。なお、『日蓮宗寺院大艦』によれば妙興寺の開山は日興上人で日禅師は二世です。
東光寺は日禅師の開山で二世は日善ですが三世〜十四世は不明となっています。(『本門寺並本末寺院縁起』(昭和57年、大本山本門寺、261頁)つまり日善の後二百年程度が欠けているのです。この内容は先の堀日亨師による南之坊過去帖の内容、「現在南之坊の過去帖によっても、禅師の次に日善を繋げてあって爾来二百余年が欠けておる。」と同じであることに驚かされます。南之坊と東光寺の両方とも開山日禅、二世日善となり、そのあと二百年くらいが欠けているということです。日善は至徳元(1384)年三月十九日の御遷化(「家中抄五巻」223頁、西暦は引用者)とされていますから、日禅師もしくは日善の寂年後東光寺は無住(住持は重須で兼務か)となり、それから約200年後、天文から天正年間のころ再建されたのではないでしょうか。
 東光寺遷化説もあまり確実な資料を見出せませんでした。しかし上記考証から、南之坊遷化説と並び有力な説であると考えます。

1015彰往考来:2005/01/01(土) 16:25

禅師授与漫荼羅の動向について〔3〕

日禅師の南之坊遷化説をとれば、禅師授与漫荼羅は大石寺に伝わったとすべきですし、東光寺遷化説なら東光寺に伝わった可能性が大です。可能性が大というのは、東光寺は重須本門寺の末寺ですから、もし東光寺が無住となっていたら禅師授与漫荼羅のような重宝は本山である重須本門寺に引き上げられた可能性も否定できないからです。
さて、私は東光寺遷化説をとりますので禅師授与漫荼羅が東光寺に伝わったとして考察を続けます。
スレッドの874でれんさんが、
>重須七代日国師の「定書」には「予ノ代ニ従上野御正筆御本尊一補買徳之御本尊一補」云々とあり、日国師が上野から蓮師曼陀羅を求め得て重須に所蔵したことが記されています。上野が石山であるなら、もしかしたら日国師が上野から買い得た蓮師曼陀羅とは禅師授与曼陀羅ではなかったかと私は推測してます。

と重須七代日国師の「定書」を紹介し、重須本門寺が大石寺から禅師授与漫荼羅を購入した可能性を指摘されています。もっともれんさんはスレッドの878で、
>日国師の「定書」(日興門流上代事典P632所収)には「天文第伍天丙申十月廿九日」とありますから、天文五年(西暦1536年)ですね。年代としては石山十三代日院師の代ですね。もっとも「従上野御正筆御本尊」=日禅授与曼陀羅かとは私の単なる推測で想像の域を出ないことは申し添えておきます。

と単なる推測である点を注意し、さらにスレッドの888では
>上野には石山と禅師建立の東光寺があります

とこの考えの2つの問題点、すなわち
(1)上野=石山か?
(2)「従上野御正筆御本尊」=禅師授与漫荼羅か?
をれんさんが認識され、東光寺の可能性を指摘されているのはさすがというほかありません。ただ、上野=石山ならば石山にはほかにも御本尊があるので上野=石山だけで「従上野御正筆御本尊」=日禅授与漫荼羅であると証明することはできません。もちろん否定はできません。集合理論でいう十分条件であるからです。

ここで注目すべきは日国師の「定書」でいう重須本門寺が上野から「従上野御正筆御本尊」を購入した時期と、東光寺が再建されたと推測できる時期が一致する可能性が高いのです。両方とも日禅師が亡くなってから200年強のことなのです。もし、
(3)上野=東光寺  であれば、
(4)「従上野御正筆御本尊」=禅師授与漫荼羅 となります。東光寺は禅師授与漫荼羅以外の所蔵がまず考えられないので集合理論でいう必要十分条件を満足するからです。

なぜ東光寺は禅師授与漫荼羅を重須本門寺に売却したのかという疑問にも答えることができます。もちろん推測ですが、寺院の再建には資金が必要だからです。
『本門寺並本末寺院縁起』の東光寺の項(252頁)には東光寺が寺宝として日興上人筆本尊を所蔵している旨の記載があります。恐らくこの漫荼羅を東光寺の本尊としていたのではないでしょうか。ちなみにこの日興上人筆本尊は『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所)のNo.294にリストアップされていますが、年号不詳で典拠は『本門寺並本末寺院縁起』とあるのみです。図版等詳細は不明なので模写の類である可能性もあります。

1016彰往考来:2005/01/01(土) 16:26

禅師授与漫荼羅の動向について〔4〕

なお、禅師授与漫荼羅はもともと重須に伝わっていて盗難事件により重須から紛失したという説があります。(当スレッドの891で空き缶さんがまとめておられますが、空き缶さん自身は懐疑的なようです)重須での御本尊盗難事件は正中2(1325)年11月12日とされています。これは日代八通の譲状の第4番目(堀日亨編『富士宗学要集第八巻史料類聚〔1〕』昭和53年、創価学会、162頁)に記載された内容によるものですが、日代八通の譲状そのものが偽作の疑いが濃厚ですので盗難事件はなかった可能性が高いと考えます。
仮に盗難事件があったとしても、日禅師が亡くなられたのは元徳3(1331)年である(『富士年表』昭和56年、富士学林、77頁)ことから、少なくとも禅師授与漫荼羅は大石寺南之坊か東光寺におられた日禅師の手元にあったはずで、重須にはなかったのですから盗難された重須の御本尊の中には入っていなかったと考えます。
参考までに、「日順阿闍梨血脈」(『富士宗学要集第二巻宗義部〔1〕』昭和50年、創価学会、23頁)に「嘉暦第一の暮秋には嶮難を凌いで本尊紛失の使節を遂げ、」とあるためでしょうか、高橋麦州氏は、「嘉暦元年(一三二六)に盗難の重宝類は還住した」(『日蓮大聖人の正義』1991年、みくに書房、128頁)とされていますが私にはどうもよくわかりません。
以上のことから、禅師授与漫荼羅は正中2年の盗難事件に巻き込まれていないという立場に立つものです。


以上の考察結果をまとめます。

①日禅師は、元徳3年(1331)年三月十12日、東光寺にて御遷化
②禅師授与漫荼羅は東光寺に伝わる
③天正5年(1577年)より少し前の頃、東光寺再建の際に禅師授与漫荼羅を重須本門寺へ売却

ということになります。なお、これは私の推測を交えた仮説にすぎないことを付記しておきます。皆様がたのご指導ご鞭撻を期待するものです。特に東光寺御遷化説は「家中抄」のように史実とは異なる記載内容の多い資料を基に組み立てていますので、導きだされた結論に説得力が欠けるのは否定できません。また、日禅師が東光寺で亡くなったとして、その段階で禅師授与漫荼羅が重須本門寺に納められた可能性も捨てきれません。

by 彰往考来

1017れん:2005/01/01(土) 17:53
彰徃考来さん
緻密な御論考に接し、非常に勉強になっております。引き続き御考察御披瀝の程お願い致します。
さて、彰徃考来さんが1014にてご提示の上野東光寺蔵興師筆曼陀羅について、私が平成七年に東光寺さんに問い合わせたところ、「門外不出の故」非公開とのことで、脇書のみご教示戴きました。東光寺の興師御筆曼陀羅は「十界の御本尊」にて脇書「正中二年八月二十四日」とのことです。残念ながら東光寺の興師曼陀羅は非公開のためか「日興上人御本尊集」にも収録されなかったので、真偽の程は定かではありませんが、一応ご参考のために、上野東光寺さんよりご教示戴いた同寺所蔵の興師曼陀羅の脇書を提示しておくものです。

1018犀角独歩:2005/01/01(土) 18:42

やや横道の感想ですが、精師は禅師などにも「遷化」語を使っているのですね。いまさらながら、この点には興味が惹かれました。富要を検索すると亨師も『富士史料類聚』に尊師にこの語を充てていたのは新鮮でした。
現石山の語法では「遷化」語は蓮師からの附法血脈師に限る用語で、その他の出家者には「円寂」を当てることが慣習化しています。しかし中世では、たとえば『安国論愚記』に

「一、牛馬巷に斃れ文。
仏の死を涅槃といい、衆生の死を死といい、而して天子に崩御といい、諸侯に薨といい、太夫に不禄といい、智人に遷化といい或は逝去といい、将軍に他界といい、平人に死といいまた遠行といい、牛馬の死を斃というなり。若し人、不義を行えば則ち牛馬に同じ。
 故に左伝に云く「多く不義を行えば必ず自ら斃る」と云云」

と、その用法が紹介されています。この寛師の説明はなかなか当を得ていると感じます。けれど、「遷化」と「逝去」が同義語であるというのは多少驚きがあります。

彰徃考来さんのご投稿には敬意を表しますが、以下、2点につき、ご教示いただければ有り難く存じます。(まあ、従来どおり、一方通行の疑義に答えない在り方も一つのスタイルとしてありでしょうが。ただ、当掲示板では投げかけられた疑義を無視して、次々と自分の考えだけを披瀝し続けるのは、あまり好ましいとは思えません)

一つ。論考が禅師授与漫荼羅が真筆であるという前提と読めること、また、先ごろから、わたしは疑義を呈しているように、禅師授与漫荼羅は少なくとも、2舗存するわけで、投稿はそのどちらをさしているのか、読み取れません。どちらでしょうか。また、真筆であるとすれば、興師加筆前後の動向が読み取れないこと。この点はどのように考証されているのでしょうか。

一つ。寺院建立などにおいて、寺宝を売却などという不埒な行為が、再建の糧とされるなどということはありえるのでしょうか。

ここは、研究発表の場というより、まったく疑義に答えず、ただ持論だけを一方的に投稿するという在り方は改めていただければと、個人的には希望します。併せてお願い申し上げるものです。

1019彰往考来:2005/01/04(火) 13:32

れんさんへ、

1017での過分な励ましと貴重な情報提供誠にありがとうございました。
こちらこそれんさんをはじめ皆様方の文献探索は勉強させられます。
それにしても東陽堂や国会図書館のコピー代は高いですね。お小遣いがすぐに消えてしまいます。国会図書館は私もよく利用します。以前、立正安国会発行の『御門下御本尊集』をコピーしたときは古典籍の部屋だったので大変でした。最近は地方の県立図書館の所蔵本が比較的地元で簡単に借りられるようになりましたので、まずそちらを探してからというのが最近の私のやり方です。
今後ともよろしくお願いいたします。

1020彰往考来:2005/01/04(火) 13:34
1018での犀角独歩さんのご質問のお答えいたします。年末年始はネットと接続ができないところをウロウロしていましたので、ご返事が遅れました。小生の1月1日の投稿は以前書き溜めたものを、やっと1日に投稿のみできたものです。失礼いたしました。

ご質問は下記2点と拝します。
①禅師授与漫荼羅は2幅あるが論考はそのどちらか?
②寺院建立などにおいて寺宝売却などという不埒な行為が再建の糧とされるであろうか?

まず①です。問題はいつから2幅に?という点をご指摘されているものと考えます。当スレッド845で犀角独歩さんは興師在世中の可能性を指摘されています。引き続きスレッド893でも今回と同様のご質問をされています。これらのスレッドを拝読しますと犀角独歩さんはかなり古い時代から2幅であったとお考えのようです。
私は禅師授与漫荼羅が剥離表装で2幅となったのは明治の頃、北山が売りに出す前と考えますので、“2幅のうちどちらか?”というご質問には答えがないのです。なぜなら当時は1幅だったと考えるからです。また石山(大石寺)にある禅師授与漫荼羅が御真筆であるという前提(あくまで前提ですよ。確定ではありません)で考証を進めています。この前提は空き缶さんがスレッド896で述べておられるのと同じ考えで消去法によるものであり、石山のものが模写、偽筆の類である可能性を排除できるものではありません。すなわち真筆であることを証明できるものではありません。ここに非公開の壁があり、仮に“石山のものは模写であった”と証明されたなら、すべて瓦解してしまう考え方です。このような前提に基づく仮説にすぎないことを最初にご説明しておけば意見の食い違いは発生しなかったのではと反省していて、すべて私の不徳のいたすところです。なお“北山が売りに出す”という事項につき確たる史料が見あたらないのは当スレッドの過去の議論でいわれているとおりです。
恐らく大方のご意見は、禅師南之坊御遷化説であろうと思います。私はそれを否定するにたる史料を持っているわけではありません。従ってそれを否定できる立場にはありません。ただ東光寺御遷化説は南之坊をめぐる資料の不確かさというか素朴な疑問(日禅さんのお隣が日弁さん?)から論証を進めたものです。内容はすでに1013から1016にあるとおりですが、根拠とするものが内容のあやふやな「家中抄」の、それも部分的な記載では主張として弱いという観はあります。
スレッド902で問答迷人さんが触れておられるように由井正雪の模写を石山も北山もつかまされた可能性もあります。またモナリザの例のように古今東西、盗難品の返却には精巧な模写品とのすり替えの噂がたえないものです。私は他の仮説について史実に対して矛盾しない限り否定するものではありませんが疑問点について議論させていただくことはあります。私の仮説につきましても“そのような考え方もできるよね”程度で扱っていただければと思います。もし矛盾点があったり否定する史料がでてきたりで論理が破綻し修正できなければいさぎよく撤回するつもりです。失うものはないわけですから。
さて、②については、“そのようなことが有り得るだろうか”とか“単なる思いつきの域をでない”とかいわれれば確たる史料がないわけで反論のすべはありません。“このようなことが考えられないであろうか”という程度の内容ですので筆力が足りなかったと思います。ま、しかし明治34年4月9日の北山本門寺本末会決議(『本門寺並本末寺院縁起』130頁)を読むと「北山本門寺を以って總本山とす(中略)六ヶ本山は總本山推戴の擔保として其の本山の御霊宝悉皆を總本山の宝庫へ預け置く事」とあるなど北山本門寺の重宝確保にすさまじいものがあり、それらと対比するに有り得ることではないかと思います。広く一般に売るのではなく本山に奉納し代わりに資金を得るという形です。
いずれにせよ史的事実に対してある仮説をたて多くの資料がその仮説と矛盾するかどうか調べている作業の途中です。興師加筆前後の動向というか、北山のものと石山のものの加筆内容が異なる点などは考証中でして愚論を次の「禅師授与漫荼羅の動向〔4〕」以降に記載するつもりです。まだ全く書いていないのでもう少し時間をください。今後ともよろしくご指導を賜りますようお願いいたします。

1021犀角独歩:2005/01/04(火) 14:36

1020 彰往考来さん:

> (1) (丸数字は機種依存文字なんで使用を避けました)

禅師受與漫荼羅の表層剥離は近代に属することというご見解と承りました。
そう考えるのが自然なのですが、しかしいくつの‘宿題’が発生します。
そうなると、伯耆漫荼羅と呼ばれているものは、いま北山にあるものではなく現石山本ということになってしまいますね。そして、北山に戻る縁緒となった「本門寺」の文字は削損されてしまったことにもなります。そして、繰り返しになりますが、表層剥離であるのに、加筆文書に異動がある点が説明できません。この部分は剥離の際に写らなかったといえば、それまでですが、これはかなりこじ付けという印象を帯びることになります。

> (2)…北山本門寺の重宝確保にすさまじいものがあり…

この説明は、どうでしょうか。ならば、どうして、禅師授与漫荼羅が売りに出されたのでしょうか。事実と食い違っているように感じます。

返レス、感謝申し上げます。
今後ともご投稿を楽しみにしております。

1022犀角独歩:2005/01/04(火) 15:04

【1021の訂正】

誤)受與
正)授与

1024彰往考来:2005/01/06(木) 08:14

犀角独歩さん

>1021
>加筆文書に異動がある点が説明できません。この部分は剥離の際に写らなかったといえば、それまでですが

この点は鮮明な写真画像が公開されていないので詳細な検証ができずはがゆい思いですが、剥離の際に写らなかったと考えていますが、愚論を少々禅師授与漫荼羅の動向について〔6〕以降に述べたと思います。
近日中に禅師授与漫荼羅の動向について〔5〕を投稿しますが、〔5〕ではそれには触れていないので、〔6〕までご質問は保留とさせてください。

>どうして、禅師授与漫荼羅が売りに出されたのでしょうか。

これについても〔6〕か〔7〕で愚論を投稿しますので、それまで保留とさせてください。基本的には経済的理由と考えています。

本日からやっと今まで使っているPCで投稿できるようになりました。
犀角独歩さんのご質問は鋭い所をついてこられるので、相当精査してご回答しないと足元をすくわれますからね。(笑)

1025彰往考来:2005/01/06(木) 08:19
>1024

訂正です。

誤:〔6〕以降に述べたと思います。
正:〔6〕以降に述べたいと思います。

1026彰往考来:2005/01/07(金) 07:32
禅師授与漫荼羅の動向について〔5〕

スレッド1016の続きです。

〔4〕で天文5年より少し前の頃に禅師授与漫荼羅を重須本門寺が入手した、と書きましたが、もちろんこれは仮説です。ただ経緯は別にしてこのころ重須本門寺に禅師授与漫荼羅は所蔵されていた可能性が高いと思われます。そして天正9年3月17日に重須本門寺で武田勝頼らの臣により西山本門寺に重宝が奪われた事件が起こりました。(堀日亨編『富士宗学要集 第九巻 史料類聚〔2〕』昭和53年、創価学会、24頁など参照。以下本書を「富要集九巻」と略します)私はこのときに禅師授与漫荼羅も奪われたと考えています。奪われた重宝類の目録は、「本門寺目録」(「富要集九巻」20頁)に記載されていて、それによると日蓮大聖人の御本尊は「日蓮聖人御真筆漫荼羅大小弐十幅」とあります。また戻ってきた重宝目録は「本尊已下環住の目録」(「富要集九巻」21頁)に記載されていて、それによると日蓮大聖人の御本尊は「日蓮大上人御真筆漫荼羅大小十一幅」とあります。すなわち20幅の日蓮大聖人が奪われ11幅の御本尊が返却されたというものです。ただこの「本門寺目録」と「本尊已下環住の目録」は堀師が「入文に怪しむべきありて全くその正偽を知らず、単に当時の宝物の概数を知るの料とするのみ」(20頁)とありますように疑義があります。それは、
(1) 「本門寺目録」の日付が事件発生日の天正9年3月17日であること
(2) 日蓮大聖人を日蓮大上人と表記していること
(3)日興上人を日興聖人と表記していること
(4)「本尊已下環住の目録」で当時現存する徳川家康を東照神君と表記していること
などです。これらのことから「本門寺目録」と「本尊已下環住の目録」は後世のものと考えられます。なお、松本佐一郎氏は「本尊已下環住の目録」について「富要集九巻」のものとは別の『東大史料編纂所写本』を紹介しています。(『富士門徒の沿革と教義』昭和43年、大成出版社、48頁) 「富要集九巻」の底本は北山本門寺本、史料編纂所写本の底本は西山明師文庫本です。両者を比較するとかなり表記に差があるので「本門寺目録」と「本尊已下環住の目録」の2書は相当転写されたようですが表記の差詳細は本論と関係ないので略します。
以上のことから目録内容をそのまま信じることができないので検証してみます。もちろん乏しい資料を用いての作業ですから不十分であることは避けられません。
まず20幅です。これは日代八通の譲状の第4番目(堀日亨編『富士宗学要集第八巻史料類聚〔1〕』昭和53年、創価学会、162頁)に記載された内容「日興に給わる所の御筆本尊以下廿鋪」と数字が同じであることに驚きます。色々考えられますが、実態は、目録作成者が奪われた実数を把握してなく譲状に記載されていた数字を流用したのではないかと推測いたします。
返却された数11幅というのも少し変です。というのは、『富士日興上人詳伝』(昭和38年、創価学会、613頁)に「北山本門寺の聖筆十一幅」と堀師が述べていることから現在の北山本門寺所蔵数は11幅と考えられるからです。(ちなみに『日蓮宗寺院大艦』489頁には「宗祖御本尊十余幅」とあります。これもちょっと不思議ですね。たくさんある歴代のものではなく仮にも宗祖の御本尊ですよ。ちゃんと数えられないものなのでしょうか?会社で棚卸しなどをしている私には理解できませんね。) 少なくとも難を免れた鉄砲漫荼羅と禅師授与漫荼羅の2幅は返却された御本尊の中になかったはずです。鉄砲漫荼羅が強奪を免れた経緯として、『本門寺並直末寺院縁起』(112頁)には「家康公(中略)日出上人へ問ヒ給フ様ハ御本尊聖教等奪ヒ取ラレタトスレバ其山ニハ外ニ何カ陣中守ノ御守リハナキヤト、日出上人ノ申ニハ本山地内大学頭ノ什宝トシテ日蓮聖人ノ真筆漫荼羅壱幅アレバ差上ベクニ付(後略)」とあります。縁起のいうのには本山地内大学頭の什宝であったため難を逃れたというわけですが真偽は不明です。なお禅師授与漫荼羅が返却された経緯はスレッド1005〜1007で考察していますので省きます。
では実際は何幅戻ってきたのでしょうか。天正10年霜月(11月)15日の「日春請文」(「富要集八巻」174頁)には「日蓮御自筆物数合せて六拾六、此の内御筆本尊八通請取り申し候」とあります。8幅であれば現存数などと対比させて矛盾はありません。8幅の場合上記2幅を足しても11幅には1幅不足しますが、この1幅がどれであるかは不明です。

by 彰往考来

1027犀角独歩:2005/01/07(金) 20:13

彰往考来さん:

> 現在の北山本門寺所蔵数は11幅

これは違いますでしょう。
正確に言えば、亨師が11幅と言った、北山がそう言った類の話です。
この事情は各山同様で、どこでも真筆だ、お宝だというけれど、その全部が全部、真筆とは考えがたいことは今さら記すまでもないことでしょう。
亨師の見識眼はせいぜい公式見解としては、あの彫刻本尊でも真筆に数える証憑性の低いものでしょう。

1028オオモリ:2005/01/07(金) 21:32
北山本門寺で真筆といえるのは鉄砲曼荼羅ぐらいじゃないんですか。
正御影だって後世の作でしょね。

1029彰往考来:2005/01/08(土) 07:36
>1027
>1028

誤解を生じさせる書き方で申し訳けありません。ご指摘のとおりでして、
鉄砲漫荼羅しか確実なものはありません。
11幅の大半は模写あるいは剥離表装あるいは偽作の疑いがあると認識
しています。
このあたりは禅師授与漫荼羅の動向〔6〕で触れますので、次号を請う
ご期待とさせてください。9日、10日の連休で書き上げる予定です。
亨師の見識眼もご指摘のとおりです。仙台仏眼寺蔵『飛び漫荼羅』を真
筆とされているなど、エッ!と思うところはあります。

1030犀角独歩:2005/01/08(土) 12:26

彰往考来さん:

返レス有り難うございます。
飛び漫荼羅の伝説も、ドラマチックで昔は感激したものでした(笑)
わたしはこれら真偽論に関しては、けっして彰往考来さんに対してということではなく、富士門のみならず、日蓮門下全般にわたっても、かなり怒っているところがあります。もっと正直になれと言いたいわけです。

石山に限れば、だいたい亨師にしても「ふざけている」としか言いようがないいい加減さがあるわけです。この点は松本佐一郎師にしてもしかりです。
現在で言えば、たしかに正信会、とりわけ興風談所の諸師はそれは立派な古文書研究をなさっていると思います。しかし、こと本尊、特に彫刻本尊のことになるとまるで触れようとしない。この点は、日顕師に喧嘩を売った花野師に言えるわけです。あれだけ立派な研究をしておきながら、結局のところ、彫刻本尊、それから歯にくっ付いた肉が生きている件に関しては口を閉ざして何も言わない。

21世紀にもなった現在、一見して弘安2年10月のものじゃない原本を彫ったものになんら批判も加えず、まして、700年以上も前に抜けた歯にくっ付いている肉がいまだに生きているなんて言う宗派の同座しているだけで、その良識は疑われようというものです。

立派な研究をするのであれば、なおさらのこと、せめて彫刻とお肉については、しっかりとした自分の見解を陳べ、信者を騙してきたこと、生活のためには黙ってきた非を自己批判して、しかるのちに研究を発表するというのが良識・常識ある人間のやることであると思うわけです。まあ、そんな延長から、各山アナウンスの真筆申告など、これほど信頼できないものはないという印象を懐かざるを得ません。

反面、彰往考来さんは実に真面目な方であると拝察申し上げるわけです。けれど、扱っている富士門の良識・常識、さらに上古・中世の非科学的な部分まで、あまりに真面目に取り扱いすぎておられるようにお見受けします。この点はどうでしょうか。

まだ、これからご投稿なさるということで、その中途で嘴を挟むのはややどうかと思いますが、まあ、余計なことを記せば、禅師授与漫荼羅、上古資料でその存在が確認できなければ、結局のところ、売りに出されていたものが「本門寺」の文字を頼りに北山に招来したとき、そこではじめて北山方もその存在を知ったとするのが、もっとも自然な考え方であるとわたしには思えます。質問を一つ足せば、どうしてもそこまで、上古より、禅師授与漫荼羅が存在していたという前提で論を進められるのか、わたしには不思議に思えます。これらの点は、今後のご投稿で闡明になさってくれるものと期待申し上げるところです。

1031彰往考来:2005/01/08(土) 17:55

犀角独歩さん、

>1030
>扱っている富士門の良識・常識、さらに上古・中世の非科学的な部分まで、あまりに真面目に取り扱いすぎておられるようにお見受けします。

 そうでしょうか。もしそう受け取られるとすれば、私の筆力が足りないのでしょうね。
 例えば、私は「家中抄」もよほどのことがないと信じてはいません。精師の時代の現状、「今○○にあり」というようなところですね。これはまあ信じてもよいかと考えます。
 「日代八通の譲状」も私は偽筆と考えますので、その内容は??といういうわけで信じないという立場にたちます。

>上古より、禅師授与漫荼羅が存在していたという前提で論を進められるのか、わたしには不思議に思えます

 う〜ん。考え込んでしまいますね。私が言うのもおかしいですがなぜでしょうね。結局のところ、売りに出されていたものが「本門寺」の文字を頼りに北山に招来したというのも有りとは思っているのです。
 私自身の思い込みが強いのでしょうかね。上古より存在していたと考えると変でしょうかかねえ。それも有りと思いますけどね。
 直接関係ないですが邪馬台国論争も同じです。数少ない資料をたよりに、場所は九州だ畿内だとやっているわけです。
 私は関西出身なので本来は畿内説のほうが自然かもしれないのですが、実際は北九州説なのです。
 これは記紀(古事記と日本書紀)が戦前は、日本国史だったものが戦後一転してすべて作り話となり、最近は記紀の中から見直し論が出ているのと似ていると思いますね。その意味では卑弥呼=天照太神と考えていますし、天岩戸は皆既日蝕と考えています。
 もう一つ。
 犀角独歩さんと意見の食い違いのある理由のひとつは、犀角独歩さんがよく引用される『大石寺誑惑顕本書』を私が所有していないために読んでいないという点があるのではと感じています。
 幸いにも瓔珞出版さんで販売開始されましたので購入して読んでみます。

 参考まで。

 彰往考来

1032犀角独歩:2005/01/08(土) 20:06

彰往考来さん:

禅師授与漫荼羅というのは真筆であるとお考えですか。
すでにわたしは写真を発表しておりますから、他の真筆大漫荼羅と比較は可能ですね。
また、過去の宗宝調査などでも真筆と判断されることはなかった漫荼羅です。
「經」字旁、通常では「ツ」様となっているところが「ソ」となっています。
大廣目天玉の「天玉」は蓮師の筆法と異なっている点は既に指摘しました。
また市中に売りに出ていた骨董美術品であったことは彰往考来さんご自身が指摘されたことでしたね。
このような点から考えて、禅師授与漫荼羅は中世以降に造られた偽筆であるとも考えられるわけですね。そうなると、それを真筆として、禅師が所蔵し、また、東光寺、もしくは南之坊との由緒を考えたりすることは、わたしはどうも納得いきません。

それは恰も、弘安3年5月前後の相貌を持つ彫刻本尊が弘安2年10月に図示された理由を一所懸命に考えるに似ています。上古から見る限り、彫刻本尊の存在は資料からは窺い知れないわけです。それはつまり、そのようなものが存在していなかったことを意味するのでしょう。

同じように、北山、もしくは石山に禅師授与漫荼羅が存在した資料がなければ、そのような漫荼羅は存在しいていなかったと考えることは寧ろ自然ではないでしょうか。ただし、資料として考えられるのは興師『本尊分与帳』ですね。ところが、ここに載る興師文章は、伯耆漫荼羅より、石山所蔵本の加筆と一致しています。そうなれば、伯耆漫荼羅(北山所蔵本)は該当しないことになりませんでしょうか。

元より、わたしは石山本の信憑性をも信じてはいませんが、どちらかと言われれば、石山本が、(仮に偽筆であり、剥離表装されたものであっても)その加筆から正本であると考えるほうが自然であるように思えます。

また、この剥離表装という点ですが、2舗に分かった段階で、加筆部分が文字が欠けたという仮説は立てることは出来ますでしょう。しかし、ならば、何故、わざわざ違えて臨模する必要があったのでしょうか。剥離表装とはまったく同じものを2舗作り出す技法ですね。なのに敢えて加筆部分を換える必要などあったのでしょうか。この点の説明が剥離表装を主張する場合、高いハードルになるとわたしには思えます。

1033犀角独歩:2005/01/08(土) 20:07

―1032からつづく―

なお、彰往考来さんの見解の相違は『大石寺誑惑顕本書』の読不の問題と言うより、資料に現れていないものを「ある」と思うか・「ない」と思うかの違いのように感じます。

ただそれとは別に、禅師授与漫荼羅を万年救護・戒壇本尊と、お宝に担ぎ上げているのはまさに同書です。ですから、斯くも高い評価を与えられたのが同書であれば、この‘時期’にこそ、真偽は別として、この漫荼羅はこのように考えられたと資料は読むべきではないでしょうか。それ以前に、もし禅師授与漫荼羅が「万年救護」「戒壇」本尊ということが言われていなかったとすれば、この書が、この漫荼羅にこの評価を与えた張本人であると読むべきであるとわたしには思えます。いわば、禅師授与漫荼羅を「当山第一ノ重宝萬年救護本門戒壇ノ本尊」と言い切り、保田の第16大本尊に匹敵し、石山の彫刻本尊と同じ戒壇義を有する重宝であると主張したのは実は『大石寺誑惑顕本書』の作者その人なのではないのかとわたしには思えるわけです。ただ、この思いは、それ以前の資料に禅師授与漫荼羅を「万年救護戒壇本尊」とするものがあれば、違っていることになるでしょう。

わたしの一番の関心事は、禅師授与漫荼羅に斯くも高い評価が冠せられた書が流通したときと、禅師授与漫荼羅(伯耆漫荼羅ではなく、石山所蔵本)が売りに出された時期がほぼ一致している点です。また、この時期には石山は大火に見舞われている点も留意します。「万年救護戒壇本尊」とまで賞賛されるものが、剥離表装され2分されるのも変ですし、なにより、売りに出されること自体おかしなことです。同漫荼羅を売りに出したのが阿部さんが言ったように北山であり、かつ『大石寺誑惑顕本書』が北山方の誰某かが記したものであるとすれば、まさにこの書と同漫荼羅の販売は脈絡があることになるとわたしは考えます。また、それにまんまとはまったのが石山方と言うことになるのでしょうか。両山問答では、たしか、この書が投げ込まれたのを讃岐本門寺であるとしていたはずで、当時また、三寺三つ巴の確執もあったと読んだ記憶もあります。

(参:霑師云「先年貴山の先住日信師より讃岐法華寺へ御投与なりし御書とて大石寺誑惑顕本抄と題せるいと珍らしき御名文の書を此の頃始めて拝見」)

まあ、そのような点で、禅師授与漫荼羅を読み解くうえで、この書は必読書と言えようかと思います。

また、同書は禅師授与漫荼羅について陳べ、石山彫刻本尊日有偽造論を展開するばかりではなく、もっと興味が惹かれる物語で始まっています。それは何かといえば、先に名の挙がった「鉄砲漫荼羅」を石山が自分たちが買い取って所蔵していると主張しているという書き出しになっています。また、鉄砲漫荼羅と「神君」との物語はここに載るので、彰往考来さんには禅師授与の件と共に、こちらも興味を惹かれることでしょう。
読後のご感想を楽しみにしております。

1034愚鈍凡夫:2005/01/08(土) 23:12

横レス失礼します。う〜ん。
「本門寺」=「北山」・・・・・。少し首を傾けてしまいました(アヤヤほど可愛くありませんが・・・・・。なにぶんオッサンですから)。 ( ̄ヘ ̄)ウーン
別に禅師漫荼羅を「本門寺」に返すのであれば、「西山」でも良かったのじゃないでしょうか・・・・・。
「北山でなくっちゃダメっ。と言う理由が分かりません」
禅師漫荼羅が、本来「北山」にあったという確たる証拠が希薄であると思うのは小生だけでしょうか?

1035犀角独歩:2005/01/08(土) 23:56

> 1034

いやいや、愚鈍凡夫さん、わたしもそう考えます。

1036愚鈍凡夫:2005/01/09(日) 11:15

あっ犀角独歩さん、どうも。
禅師授与漫荼羅の経緯について、以前、空き缶さんに質問したと思いますが、未だに釈然としません。

1037犀角独歩:2005/01/09(日) 11:28

> 1036

あ、そうでしたっけ。空き缶さんとそんな遣り取りがありましたっけ?


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