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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について
838
:
山本
:2004/04/27(火) 00:46
いよいよ犀角独歩さんの新刊が出版されるのですね
楽しみです。いつ頃の予定ですか
839
:
れん
:2004/04/27(火) 18:03
犀角独歩さん・地名さん。こちらこそお二方はじめ皆さんの真摯な御研究・御議論には大変啓発されてますし、大変勉強にもなっています。私も来月正式に創価学会を脱会する運びとなりました。脱会を決断するのには勇気がいりましたが、ここでの皆さんとの貴重な議論が、脱会の決断を後押ししてくれたことも事実です。皆さんのこれまでのご指導ご鞭撻に感謝申し上げるとともに、独歩さんをはじめ皆様に引き続きご指導ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。今後は宗教団体からは距離を置き、無所属の立場で勉強していく所存です。右ご報告まて。
840
:
地名
:2004/04/27(火) 22:03
839 れんさん
こちらこそ大変勉強になります。
古文書を苦もなく拝読されておられ実にすばらしいことと拝察申し上げます。
そうなのですか。なんと申し上げてよいかわかりませんが、
私の方こそ今後とも種々御指導を頂きたくお願い申し上げます。
841
:
犀角独歩
:2004/04/27(火) 22:41
空き缶さん:
山本さん:
有り難うございます。
れんさん:
そうですか。
「脱会」、かつてわたしも通った道でした。
そこには開ける自由な精神と自由な思索がございました。
れんさんのご研鑽とご賢察が、さらに躍進されることと頼もしくも嬉しく存ずるものです。衷心より敬服申し上げる次第です。
842
:
地名
:2004/04/27(火) 22:59
828 地名
>山口範道師の「日蓮正宗史の基礎的研究」によると
>「三大秘法抄」の写本…日親本なり…多宝蔵から…日時上人の筆写本が出て、これが門下最古写本となった。
>「御書目録日記」…行学日朝(上人)の写本で聖滅188年…聖滅116年の日時上人筆のが多宝蔵にあることがわかった」と。
に対して
831 れんさんが
>これまで日時師筆とされてきた御書目録日記事と
>それと同じ筆跡を有する本因妙抄・五人所破事・本門心底抄・三大秘法抄の
>写本が大石寺六世日時師筆と異なることは、
>興風談所の池田令道師が興風叢書〔6〕大石寺某筆御書目録日記事の
>解題「大石寺某筆『御書目録日記事』の解題」において文献考証によって
>論証している。
と記されました。
本日、私も興風叢書[6]「御書目録日記事」を購入し拝読しました。
その結果、れんさんの記されたとおりだと私も思いますので訂正いたします。
843
:
空き缶
:2004/04/28(水) 20:27
犀角独歩さん、私のコミュニティーにも「図解必携 大石寺本尊鑑別」の出版を待ち望む声が届きました。
信濃町富士宮研究所も含め、創価学会・正信会・大石寺宗門とあらゆる所属の方々より注目を集めていますね。
顕正会関係者のカキコがあまりみられないのが不思議ですが、国家諫暁に忙しいのでしょうか?
れんさん、これからも多々ご指導いただきたいと願っています。落ち着きましたら、れんさんにも本をかいていただきたいです。
844
:
地名
:2004/04/29(木) 08:52
843 空き缶さん
信濃町富士宮研究所でのご活躍すばらしいです。
拝読して明晰な内容に大変勉強になりました。
よろしければ二点ほど教えて下さい。
一点は、失礼でしたが空き缶さんの下記の内容について引用させていただくことお許しください。
ここに記されています内容について、もう少し教えていただければ幸いです。
>私は通称「戒壇本尊」は時師の代から造立がはじまり、主師のころまでに大石寺に遷座されたと考
>えています。有師が模刻したものは、富士年表によれば「紫宸殿本尊」ですね。有師の京都遊学後に造立されていま
>すので、「紫宸殿本尊」は先に日尊師が模刻して京都の寺院(現在は要法寺)に安置していますので、所詮は尊門の
>真似事と思っています。つまり有師の代は、大石寺に教学と本尊が無く、京都遊学中にこの二つを他門より輸入し
>たと考えます。本尊は尊門、教学は隆門(八品派開祖・日隆の教学)。
二点目は、空き缶さんのコミュニティー拝見させていただきました。
大本山妙本寺と伊豆実成寺はつながりなどはあるのでしょうか。会津の実成寺には何度か参詣しています。
保田の妙本寺には関心があります。一度参詣したことがあります。
下記も上記掲示板に記された引用をかってにしてしまい大変失礼いたします。
興風談所発行の「興風」誌で、坂井師が日目師→日郷師の相続について言及されていたため
下記も含めて保田妙本寺について学ばせていただければ幸いです。
>万年救護本尊は、誰もが宗祖真筆と認める御筆本尊です。しかも宗祖図顕曼荼羅の中で唯一、宗祖の筆で「大本尊」と書かれた御本
>尊です。(他は皆大曼荼羅・大曼陀羅ですね)
>また尊門出身で後に大石寺貫首になった、日精師もその著作の中で「弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此の年に大曼荼羅を日
>興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり、日興より又日目に付属して今房州に在り」(富士門家中見聞)としています。
>さらに三十一世日因師は「袈裟数珠之事」で「近代上人方は皆正法を失ひ天台真言の邪義に附する故に今日因之を改め近代上人方の
>邪の法を疑ふのみ、一には日主上人の立行関東奥方に残り伝はる故、二には当山古老僧皆之れを伝ふる故、三には当山日目上人の
>相伝悉く房州保田に有る故、四には要法寺二代日大叡山相伝当山に伝ふ、故に知んぬ近代上人方、要法寺日大の邪伝に附するの
>み。」といわれ、日目上人の相伝が保田妙本寺にあることを明かされ、大石寺は「天台真言の邪義」や「要法寺日大の邪伝」が伝え
>られていたことを暴露しています。
大変失礼な書き込みをお許しください。可能でしたらお願い申し上げます。
845
:
犀角独歩
:2004/04/29(木) 12:12
843 空き缶さん:
地名さんの書き込みに誘われ、信濃町富士宮研究所の貴投稿を拝読させていただきました。管見にご賛同いただき、またご紹介のうえ、ご賢察を開陳いただき、まことに有り難うございます。
一点。禅師授与漫荼羅が石北両山にあり、どちらが本物・模写であるかという点。
亨師は両山の漫荼羅を比較し、まったく同一であると述べていたと記憶します。この点はかつてワラシナさんが指摘されたことです。では、まったく同一相貌の紙幅漫荼羅が何故現存するのか?ということが問題になります。山口範道師も紹介していた方法、つまり、表装剥離で正本から影本を取ったと議論されたことでした。
この件に関しては当スレッド35、104、255で空き缶さんも加わってお出ででした。
―― 漫荼羅の和紙はいまの紙に比し、ずっと厚手なので、表面(正本)を剥がすことができる。剥がしても、まだ文字は染み込み残っている(影本)。こうして禅師授与漫荼羅が二舗に分けられた ――
「弘安三年太歳庚辰五月九日、此丘日禅に之を授与す、
(日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。 東京 法道院」
「弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、
(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし、(伯耆漫荼羅と称す)、同上(北山本門寺)」
この記述をそのままに信用すれば、以上のような時系列が認められることになります。
(1)蓮師・弘安3年5月9日図示・「此丘日禅に之を授与す」
(2)興師加筆「本門寺に懸け(奉り)万年の重宝…」
(3)2舗に剥離
(4)石山本:興師加筆「少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し」、そして、「本門寺に懸け奉り万年の重宝…」の文字を削損
すなわち、この分離は興師在世に行われてことになる!と類推されます。
ただ気になるのは、
石「本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり」(興師筆と)
北「本門寺に懸け万年の重宝たるべし」(他筆と)
と亨師が書き分けている点です。徒に訓読にされてしまっているために、多分、白文で記されたであろう加筆の相違が判然としません。けれど、もし、「本門寺・重宝…」の加筆が同一の筆であれば、以上の時系列ということになるでしょう。
もしこの剥離・削損が興師の許で行われたとしたら、本門寺奉懸を興師は意図し加筆。
のちに一舗は「本門寺重宝」の意義を削損し「少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し」と加筆して、禅師へ与え直したなどという類推は可能かも知れません。こうなると北山に保管されたほうが正本であり本門寺奉懸漫荼羅、法道院(現在石山)保管のほうは禅師個人の漫荼羅ということになるでしょうか。
尤も表装を剥離したものではなく、元より片方が(籠抜き拵字などの技法を使った)正確な模写である可能性は否定し切れません。その場合、すると「少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し」の加筆は模写を許さなかったということになるのでしょうか。
いずれにしても、この二舗は同一相貌であるという事実は動かないであろうと思うわけです。
PS:それにしても、わたし富士宮研究所では保田の法類と勘違いされたのですね。まだ妙本寺は参詣したこともありません(笑)
846
:
れん
:2004/04/29(木) 18:12
先日国会図書館に行き完則師の大石寺宝蔵目録をコピーしてきました。弥四郎マンダラについては皆さんが論じられている通りでしたが、目録で気になったのは「色心実相境智根源決・日時筆」でした。これは達師が刊行し娘婿の菅野師の妙観文庫に所蔵とのことが同文庫目録に記録されていましたが、内容は未見なのでわかりません。石山固有の法門書は目師の「日目直授相承」興師弘安五年撰述の「本尊点画伝」道師の三師伝と行師への「本尊秘伝抄」時師の「色心実相境智根源決」でしょうか。以上は富要等にも載らず未公開ですが、ご存じの方はご教示の程を。
847
:
名無し@ピンキー
:2004/04/29(木) 18:41
地名様
大本尊と顕示されているのは、万年救護の本尊以外にも実存致します。
岡山県の日蓮宗寺院に三国救護の本尊、仙台市の仏眼寺に一幅、大本尊と認めが
あり、前者の三国救護の本尊は真筆と立正安国会でも断定しております。
日禅授与の御本尊様の相貌のハッキリとした、写真をお持ちの方は公開して
下さい。
848
:
空き缶
:2004/04/29(木) 18:45
地名さん、こんにちは。
いずれもう少し自分の考えをまとめたいと思いますが、これまでの論議の中で出尽くしていることばかりです。
大要は以下の通りです。
>時師の代から造立がはじまり、主師のころまでに大石寺に遷座
1、道郷係争の終焉により、時師は御影を失った。「日興上人御遺蹟事」より、御影が本門寺建立の時の本堂安置の本尊と推定される。
2、大本尊副書の記述と「家中抄」の記述より、御影と大本尊はセットであると思われる。
3、これらのことより時師には御影の像立と併せて、大本尊の代替をつくるという動機があると推察する。
4、主師撰と伝わる文献に、初めて弥四郎曼荼羅と思われる板本尊の記述がみられる。
5、「奥人」等の資料にも、板本尊に関する記述に時師と主師の名が見える。
6、主師とほぼ同時期に活躍された、保田・小泉の中興である我師撰と伝わる文献に、久遠寺の板本尊が当時大石寺にある旨の記述がある。
こんなところです。
尊師模刻本尊と有師模刻本尊の件は、れんさん引用の「日興門流上代事典」の記述を参考にさせていただいたものです。
隆門教学摂取の件は、日蓮宗宗学全書8巻の「日隆上人略伝」を参考にしています。
實成寺と妙本寺ですが、特別な関係にあるわけではありません。
誤解を招くといけませんので、近日中に實成寺の写真は削除しようと思います。
個人的に、實成寺も蓮・興・目の三師を正師と立てる寺院でありますので、親近感を持っています。所蔵資料も興味のあるものが多いと思います。
いずれにしましても、地名さんから学ぶことが多いわたしですので、私の愚論はあくまでも暇つぶし程度にお考えくださいませ。
849
:
地名
:2004/04/29(木) 18:56
848 空き缶さん
ありがとうございます。
いずれおまとめのおりは、拝読させていただきます。
850
:
地名
:2004/04/29(木) 19:00
847 名無し@ピンキーさん
>大本尊と顕示されているのは、万年救護の本尊以外にも実存致します。
>岡山県の日蓮宗寺院に三国救護の本尊、仙台市の仏眼寺に一幅、大本尊と認めが
>あり、前者の三国救護の本尊は真筆と立正安国会でも断定しております。
ありがとうございます。
私は本尊については今回初めて学ぶ者ですので寡聞にして大本尊は保田妙本寺様の大漫荼羅と思っております。
もしよろしければ、上記の大本尊の腰書等教えていただければ幸いです。
851
:
空き缶
:2004/04/29(木) 19:09
犀角独歩さん、禅師授与曼荼羅の件、私は単純に北山のものが立正安国会の御本尊集に収録されなかった為に大石寺のものが真撰ととらえました。
いとも単純でした。やはり皆さんと私では次元が違いますね。
れんさん、国会図書館への来訪お疲れ様です。コピー代高いですよね。
名無し@ピンキー さん、勉強になりました。ありがとうございます。
852
:
れん
:2004/04/29(木) 20:19
名無し@ピンキーさん、はじめまして。岡山県日蓮宗寺院…三国救護の本尊…立正安国会…真筆と断定…。仙台仏眼寺のものは御筆写真を見たところ保田蔵の大本尊を底本とした偽筆と私は見ます。岡山県日蓮宗寺院所蔵の通称三国救護の本尊は本当に蓮師真筆なのでしょうか?たとえ立正安国会が真筆と断定していても、御筆ないし御筆写真を実見しない限りは私は蓮師筆とは判定しかねます。もしよろしければ、三国救護本尊の図示年月日、図顕讃文、授与書、先聖添書等について詳しく御教示戴ければ幸甚です。
853
:
犀角独歩
:2004/04/29(木) 20:27
禅師授与漫荼羅は北山では寺宝「万年救護本尊」として格護され、寺院の方針としては非公開とのことでした。
パンフレットに載った件を法類の方にお尋ねしたら「知らない」ということでした。
石山は、もちろんこの騒ぎですから、公開することはないだろうと思います。
854
:
犀角独歩
:2004/04/29(木) 20:42
れんさん:
完則の相貌図、ご覧になって、どのような感想を懐かれましたか?
855
:
名無し@ピンキー
:2004/04/29(木) 21:03
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_35.htm
これの事ですか、パンフレットの件
856
:
れん
:2004/04/29(木) 21:46
犀角独歩さん。完則師の相貌図を見た感じでは、ずいぶんとまあ今の弥四郎マンダラとは相貌が違うなぁ、あまりに勧請が少なすぎると言うのが正直な感想です。これでは今の板マンダラが何代目か?と思われても仕方ないですね。やはり弥四郎マンダラの成立には謎が多すぎると感じます。弥四郎国重も明和年間には家中抄の記述により南部実長氏の嫡男説であったことは参考になりました。
857
:
犀角独歩
:2004/04/30(金) 10:48
れんさん:
> 完則師の相貌図…今の弥四郎マンダラとは相貌が違う…今の板マンダラが何代目か?
やはり。わたしも同様の感慨を懐きました。
手元に完則図を含めて三種の座配を写した図、それに憲師の記述を含めて四種類あります。それぞれ出入りがあって一様ではありません。違っているのは勧請諸尊とその座配ばかりではなく、讃文・腰書の文と文字配り、さらには木下図では上部に「若脳乱者頭破七分」「有供養者福過十号」と記されるところまで違っています。これが同じものを写したとは到底信じがたいものがあります。
なお、『日蓮上人』掲載の写真を拡大して、その座配を睨んだとする柳沢図は、禅師授与漫荼羅と諸尊勧請は全同です。また、先にも記しましたが、全同でした。柳沢師はまったく禅師授与漫荼羅は意識していませんが、学会成就本尊は意識していたかも知れません。この漫荼羅は愛染が弥四郎漫荼羅と同じ筆法に拠っていること、また経の最終画が公明点になっていない特徴は弥四郎漫荼羅を写したものと思われます。達師の、正本堂供養者に下付した特別御形木漫荼羅も同様の特徴を示しますので、ある面、同師は顕師より忠実に弥四郎漫荼羅を「書写」した人であったといえるというのがわたしの見解です。
以上の如く、近代の対比では一致するものの、木下図からさらに憲師、完則師と下れば、著しく相違が散見されることになります。
「一枚岩」ならぬ一枚‘板’ではないと思わざるを得ないわけです。
858
:
犀角独歩
:2004/04/30(金) 10:50
【857の訂正】
誤)また、先にも記しましたが、全同でした。
正)また、先にも記しましたが、学会成就本尊も全同でした。
859
:
れん
:2004/04/30(金) 22:13
犀角独歩さん。仰る通りですね。実家にも達師の特別形木マンダラがあるので、あらためてまじまじと観たところ経字と愛染の梵字の書体も独歩さんのご指摘の通りでありました。憲師、完則師の記述による限り、弥四郎マンダラは複数の存在が類推される、というよりも、台座(腰書部分)からマンダラ部分の取り外しが可能ならば、台座は一つだが、やはりマンダラ部分は相貌の違うモノが複数存在するということになりましょうか?先ずは、近日中に発刊される独歩さんの著書を拝読させて戴いて、勉強させて戴きたく存じます。
860
:
名無し@ピンキー
:2004/05/02(日) 18:21
本門寺根源では虫干会の際に宝物の紹介をするパンフを配布しています。
受付に言えば過去の分も含め出してくれますよ
本門寺根源 0544-58-1004
861
:
犀角独歩
:2004/05/04(火) 14:54
859 れんさん:
こちらこそ、今後ともご指導・ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。
> 860
禅師授与漫荼羅については、近日発刊の『図解必携 大石寺本尊の鑑別』で詳しくする予定です。ご参考ください。
862
:
名無し@ピンキー
:2004/05/07(金) 21:22
楽しみです。つい最近になって猿島富久成寺に蔵の宗祖日蓮聖人筆
の写したる紺紙金泥の御本尊を福島の寺院で拝観しました。
因みに、正宗寺院ではないですけど。
863
:
ストレート
:2004/05/07(金) 23:45
某掲示板で石山批判書出版するという直●というかたは、あのロ●●クさんだったんだネ。
最初の出版社は自社判断で出すのをやめたと聞く。その理由を種々聞いて納得。
864
:
みかん
:2004/05/08(土) 02:25
>>863
ストレートさん。
どこのどなたか存じませんが、捨てハン(だよね?)で、
伏せ字で他板の住人の個人攻撃をするのはいただけないと
思いますが。
直人さんがROCKさんなのは、みんな知っていることだし、
彼の書かれる本がすぐれたものか、そうでないかは、
本が出てから実物を見て評価すればいいことではないでしょうか。
> 最初の出版社は自社判断で出すのをやめたと聞く。その理由を種々聞いて納得。
その事情をあなたが本当に聞いたのか、知っているフリなのか知りませんが、
こういう事実かどうか検証不可能な裏情報をもっともらしく振り回すのって、
いささかいただけないと思いますが。いかがでしょうか。
865
:
Happy Birthday!!
:2004/05/08(土) 09:55
御真筆御本尊の発見か!?
『重宝御虫払法要』
日時:5月22日(土) 午前10時
場所:妙盛寺本堂(静岡県静岡市清水草薙北)
主な奉掲御本尊
●日蓮大聖人筆(弘安三年 月 日)[日弁授与之御本尊]
●日興上人筆(元亨四年七月二十二日)
なお、この2幅は日蓮正宗関係の書籍でも確認できない。
その他、日蓮大聖人御影・日興上人御影、日蓮正宗歴代法主の書写御本尊約30幅
866
:
空き缶
:2004/05/08(土) 12:54
伝「御真筆」は、まだまだたくさんあるんですね。
先日は明らかに「模写」と思われるものが、オークションで落札されていましたが。
是非、日蓮正宗圏も所蔵の伝「御真筆」本尊を鑑定され、世に公開されることを希望します。
867
:
名無し@ピンキー
:2004/05/10(月) 21:40
ここに、伝日蓮大聖人筆の御本尊があります。
http://www.eps4.comlink.ne.jp/~shokeiji/mandara1.htm
868
:
犀角独歩
:2004/05/10(月) 22:16
このスレッドのテーマは「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」です。本論に戻しませんか。
必要があれば、上述の議論に相応しいスレッドを提案されては如何でしょうか。
869
:
独り寝
:2004/06/13(日) 20:02
こんにちは。
初めて投稿させていただきます法華講の者です。
様々な御研究。
遡って拝見いたしました。
学究的な態度での真面目な御研究のようですのでお邪魔をするつもりはありませんですが、
一信仰者の「私見」でしかないものですが私の意見をひとつ書き込みさせていただきたいと思いました。
◆私見◆
私は、「弥四郎国重」とは、遠い未来に広宣流布し、いよいよ戒壇堂が建立されることになった時に実在する願主(時の天皇、総理大臣、総講頭などがそれにあたるでしょうが)の名前なのだろうと考えております。
これを事前に仏様が予言しておられるお名前だろう。
そう思います。
でそのお方は、
「やしろ くにしげ」
さんかもしれないし、「やしろ総理・くにしげ天皇」の連名での願主なのか…
私は凡夫なのではっきりとはわかりませんけれども、
とにかく近いお名前の方が実在し、信徒を代表して願主となれるような地位にいる時代、この時に広宣流布し、戒壇堂もできるよ…
という仏様の予言ではないかと思っているものです。
もちろん、学術的な根拠は何もなく、たんなる一信仰者の私見でございますからお笑いくださって結構なのですが、
過去の書き込みを拝見するにつれて、
大聖人様が、「仏様」ゆずっても「上行菩薩」さらにゆずっても、元の来訪を予言せられた大僧侶である。
という、この、未来予知ができたお方である…という視点からの言及がとぼしいように思いましたので、あえてその立場からの見解を述べてみるのも意味があるかしらん、と思った次第です。
つまりは「未来の願主予言説」
とでももうしあげましょうか、
そんな拙い私見でございます。
なお、もちろん、私はお邪魔をするつもりはございませんですから、板の趣旨や話の流れにそぐわない投稿であると御判断されたら、ご自由に御削除くださって結構でございますことを、あわせて申し上げます。
失礼いたしました。
870
:
風来坊
:2004/06/14(月) 12:28
本当に久しぶりに覗いています。
独り寝さん
>、「弥四郎国重」とは、遠い未来に広宣流布し、いよいよ戒壇堂が建立されることに
なった時に実在する願主(時の天皇、総理大臣、総講頭などがそれにあたるでしょうが)の
名前なのだろうと考えております。これを事前に仏様が予言しておられるお名前だろう。
そう考えている方もいらっしゃいますかもしれませんね。
でも、でも日蓮正宗ではそうは言えないかもしれません。
血脈相承を受けてきているはずの大石寺諸師が、「波木井さんの息子」と
しているからです。
(富士宗学要集第五巻)
その他のところでは、他の系図もあることは、過去、こちらの掲示板で
皆様が議論されていましたのでそちらを見ればわかります。
重ねて申し上げれば、血脈相承があるとする以上、日蓮正宗では
独り寝さんのような御意見は通らないかもしれませんね。
871
:
独り寝
:2004/06/14(月) 13:20
風来坊さんこんにちは。
昨日の日曜日に、
独歩さんのサイトから御本尊に関する文章をコピーしたものをゆっくり読んでましたら、丁度弥四郎国重のところをみていた時に、
突然、フッと下のような考えが浮かんできたんです。
なのでそれをそのまま書いてみた次第です。
勿論、
ただの思いつきですので言い張るつもりもなにもありません。
ちなみに偽作、
ということでいえば、そもそも大乗教典自体が非仏説があったりするわけですから、
学問だけを頼りに考えていくなら、
特に大乗仏教の国、
日本の仏教宗派自体がそもそも成り立たないでしょうね。
と思います。
しかし信仰というのはまた別のものでしょう。
そもそも居るか居ないのかもわからない神を、しかし崇めてきているのが人間の歴史。
人の命のより深いところからの欲求によって成り立っているのが宗教だろうと私は思います。
学問は学問。
宗教は宗教でしょうね。
人は自分の命の欲求に従い、
見事な使い分けをしていくものでしょう。
がしかし…
こんなこと書いてると明らかに趣旨に反しますので、風来坊様にはお相手くださったお礼をのべつつ退散いたしますね。
どうもありがとう。
失礼いたしました。
872
:
風来坊
:2004/06/14(月) 14:35
独り寝さん
>退散いたしますね。
いやいや、私は退散させようとしたわけではないのです。
ここの皆さんは真面目ですし優しい方が多いですから、とてもいいお話ができると思います
ので、どうぞまた参加せれることをお勧めします。
やはり、自分の信仰には一つも疑問や不満がないことが望ましいです。
独り寝さんの中にも、弥四郎国重のことだけじゃなく、ほんの少しは疑問とか
あるのではないでしょうか?それを皆さんにぶつけてみたりするのもいいんじゃないかと
勝手に私は思っています。
それがゆるぎない信仰へと発展するかもしれませんよ。
またお会いできること、心からお待ちしてます。(最近は私も全然見れませんでしたが)
873
:
空き缶
:2004/06/14(月) 15:38
独り寝さんはじめまして。
大乗非仏説と本門戒壇之大御本尊偽作説とは根本的に性質が異なると思います。
「本門戒壇之大御本尊」は弘安三年の日禅師授与の曼荼羅という、もとになったものが厳然と存在いたします。
これは御当代の日顕上人猊下様も過去にお認めであることが、故河辺御尊師のメモによっても明らかです。あのメモは、「院達」等でどんなに言訳をされても、その内容をごまかすことはできません。
もし本門戒壇之大御本尊と弘安三年の日禅師授与曼荼羅とが、全くのべつものであるならば、この二つを横に並べて写真公開し世に問えばよいこと。しかしそれができない、何故でしょう?それは、その曼荼羅の大きさ、勧請諸尊の種類・座配、主題・花押の筆法、全てにわたって全くの全同であり、河辺メモの正確さがかえって証明されてしまうからではないでしょうか?
そして御顕示年月日・授与書の改竄を施した、単なる禅師授与曼荼羅の模刻ではなく、あたかもなにか特別な曼荼羅であるがごときを詐称した、大石寺流にいうならばれっきとした偽本尊です。
つまりは犀角独歩さんの論文はまさに的を射たものであるのです。
874
:
れん
:2004/06/14(月) 16:43
独り寝さん、お久しぶりです。私も空き缶さんと同意見で、大乗非仏説と戒壇之板曼陀羅の偽作説とは根本的に性質が違うと思います。空き缶さん、重須七代日国師の「定書」には「予ノ代ニ従上野御正筆御本尊一補買徳之御本尊一補」云々とあり、日国師が上野から蓮師曼陀羅を求め得て重須に所蔵したことが記されています。上野が石山であるなら、もしかしたら日国師が上野から買い得た蓮師曼陀羅とは禅師授与曼陀羅ではなかったかと私は推測してます。上野が禅師授与曼陀羅を手放したのは板曼陀羅偽作に伴うものでないか想像を逞しくしてしまいます。
875
:
れん
:2004/06/14(月) 16:47
訂正。
誤、伴うものではないか想像
正、伴うものではないかと想像
876
:
空き缶
:2004/06/14(月) 18:04
れんさん、お久しぶりです。
非常に面白いですね、大石寺の12世か13世のどちらが売却したのでしょう?
日国師の「定書」には年代を特定できる識語はありますでしょうか?
そして14世の遺文にはじめて弥四郎曼荼羅が出てくるということですね。
さらにそれが56世によって北山から買い戻されるとは、それはそれなりにドラマチックなことですね。
877
:
海が好き
:2004/06/14(月) 18:28
みなさん、はじめまして
ちょっと教えて、いただきたいのですが?
「日蓮百話」高橋勇夫(東方出版)に
富木尼は熱原弥四郎国重のむすめ、南条伊予守定時に嫁して一子をもうく、
六老僧の一人、伊予房日頂である。(105P)
浅間神社の流鏑馬の神事の際に信徒の四郎坊に重傷を負わせ、また弥四郎を
暗殺するなどの行動に出た。(241P)
光日房は本書中にあるように、子の弥四郎の勧めで信仰に入り、(271P)
と、あります。いま、おもしろがって読んでいるのですが、
この本は、あまり信用しないほうが いいのでしょうか?
878
:
れん
:2004/06/14(月) 18:58
空き缶さん、日国師の「定書」(日興門流上代事典P632所収)には「天文第伍天丙申十月廿九日」とありますから、天文五年(西暦1536年)ですね。年代としては石山十三代日院師の代ですね。もっとも「従上野御正筆御本尊」=日禅授与曼陀羅かとは私の単なる推測で想像の域を出ないことは申し添えておきます。ただ弥四郎曼陀羅が日禅授与曼陀羅を底本としたと見られる以上、上野と重須との間の蓮師曼陀羅の移蔵を様子を示す重須日国師の「定書」は板曼陀羅成立を考える上で参考資料にはなると思います。
879
:
れん
:2004/06/14(月) 19:01
またまた訂正。
誤、移蔵を
正、移蔵の
失礼しました。
880
:
空き缶
:2004/06/14(月) 19:22
れんさん、早々の御返事ありがとうございます。
海が好きさん、『「日蓮百話」高橋勇夫(東方出版)』は法華宗系の出版物でしょうか?「東方出版」からは法華宗(本門流)の書籍が、多く出版されていると思いますがいかがでしょう。
富士門にて「熱原弥四郎」といえば「滝泉寺申状」に弘安二年八月に斬首されたことが書かれている、「弥四郎坊男」のことを指すと思われますが、お示しの「日蓮百話」によれば日頂上人は弥四郎国重の孫に当たりますね。
なかなか面白い説であると思いますが、「富木尼は熱原弥四郎国重のむすめ」とはどのような文献あるいは伝承をもとにされたものかは興味を引きます。
同書の巻末などに参考とした文献類がかかれてあると思いますが、教えていただけませんか?
881
:
空き缶
:2004/06/14(月) 21:04
れんさん、西暦1536年とは日蓮正宗冨士年表によれば日国師の晩年ですね。(1536年10月9日寂)
日国師の「定書」が「天文第伍天丙申十月廿九日」という、日国師の死後10日目にして書かれていることを考えますと、日国師の弟子による「日国師御遷化記録」的なものであろうかと推察いたしました。
いずれにしましても、年代的にみて重要史料たることは動かないですね。
882
:
空き缶
:2004/06/14(月) 21:06
何度もすみません、「日国師御遷化記録」というよりは「日国師伝」ですね。
883
:
れん
:2004/06/14(月) 21:27
空き缶さん。日国師は富士年表では天文五年十月九日の帰寂が伝えられいるそうですが、日国師は同月廿九日に「定書」(上代事典には正本北山本門寺蔵、日国花押と記載あり)を定置されているので、それ以降の帰寂と考えた方が自然と思います。恐らく富士年表の記載の方が誤伝と思います。
884
:
海が好き
:2004/06/14(月) 22:32
空き缶さん
〇本書執筆参考文献
・日蓮上人遺文全集講義(日蓮上人遺文全集講義刊行会編 平楽寺書店・ピカタ)
・日蓮上人遺文講義(日蓮上人六百五十遠忌報恩記念会編集 日本仏書刊行会)
・望月・仏教大辞典(望月信享編 世界聖典刊行会)
・本化聖典大辞林(田中智学監修 師子王文庫)
・仏教語大辞典(中村元著 東京書籍)
・コンサイス・仏教辞典(宇井伯寿監修 大東出版)
・日蓮大聖人・御書辞典(創価学会教学部編 創価学会)
・法華経(坂本幸男・岩本裕訳注 岩波文庫三冊)
・法華三部経章句索引(真読・兜木正亨編 佼成出版)
・日蓮(戸頃重基・高木豊編 岩波・日本思想大系14)
・親鸞集・日蓮集(兜木正亨・新間進一校注 岩波・日本古典文学大系82)
・日蓮主義聖語録(中川日史著 平楽寺書店)
・法華経講義(織田得能 東方出版)・録内啓蒙上・下
・日蓮(紀野一義著 日本の名著)・日蓮(田村芳朗著 NHKブックス)
・日蓮とその門弟(高木豊著 弘文堂)・日蓮(高木豊著 評論社)
・講座日蓮、五冊(宮崎英修・田村芳朗編 春秋社)
・日蓮上人と諸人供養(中村錬敬著 平楽寺書店)
・日蓮のことば(渡辺宝陽著 雄山閣)
・日蓮上人名言集(日蓮宗現代宗教研究所編 隆文館)
・日蓮の伝記と思想(日蓮宗現代宗教研究所編 隆文館)
・日蓮の旅(新月通正著 朝日ソノラマ)
・日本国語大辞典(日本大辞典刊行会編 小学館)
885
:
空き缶
:2004/06/15(火) 01:36
れんさん、以前某掲示板にて波木井坊竜尊氏が「日蓮正宗冨士年表」のことを「小学生の使う事典以下」と蔑んでいましたが、こういうことがあるからなんですね。
私も日蓮正宗冨士年表は、上下巻ものと平成二年版とを所持しており、何かにつけて参考にさせていただいていますが、チョッとショックですね。
海が好きさん、ありがとうございます。お手数おかけしました。
どれもそれなりの研究書だと思われますが、、「日蓮百話」自体は原典をもとにした書物ではなさそうですね。
私にはどの参考文献をもとに、熱原弥四郎国重が日頂上人の祖父に当たるとされたのかが判りません。
千葉に「熱原氏」という一族があり、富木氏がその系譜に属する氏族なのか、それとも富木氏はもともとは熱原出身なのか?
886
:
犀角独歩
:2004/06/15(火) 07:26
869独り寝さん:
はじめまして。あなたの投稿を読んでわたしが思ったこと。
一つ。法華講員であるというが、石山とは違う異説を唱えている点。中世の石山は弥四郎国重を円師の嫡男と言い(精師)、現石山は、弥四郎男に模した日蓮己心の人物という(達師)。
未来の「やしろくにしげ」、こんな荒唐無稽な夢想は個人で考えるのは、自由。しかし、まじめに論攷しているところにはまるで馴染まないものでしょう。
一つ。「学問は学問。宗教は宗教」ということもまた、石山とは違う異説である点。石山では古来より「一信二行三学」といい宗教と学問を不可分であると主張してきた(亨師)
学問と宗教が別ならば、教学研究は不要ということになり、富士学林という石山の大学も不要と言うことになるでしょう。
行学なき信仰がだめだというのは日蓮已来の考え。日蓮自体、当時の日本を代表する今で言う総合大学比叡山に学んでいるわけです。
学問から離れた宗教を、わたしは個人的に鰯の頭を信じることと異ならないと思います。この考えに基づく議論は以下のスレッドでしました。
鰯の頭も信心?
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1083757197/l100
まあ、個人的には、石山の解釈とは違う異説を唱えることはけっこうなことであると思います。ただ、根拠なき思いつきの「私見」は確かに笑い話以上の意味は持たないと思います。それをまた、わたしは信仰であるとも思いません。
887
:
空き缶
:2004/06/15(火) 20:02
れんさん、大石寺が創価学会を破門した後に、日蓮正宗を離脱していった僧侶のグループで「憂宗護法同盟」というのがあるそうですが、その憂宗護法同盟の著作である「法主詐称」には、禅師授与曼荼羅について「一旦紛失後、天文8年頃、北山本門寺が所蔵。」とあります。
この書籍も、何を参考文献として書かれたのか、全くの不明である為確証あるものではないと思いますが、「一旦紛失」が重須での盗難事件、「天文8年頃、北山本門寺が所蔵」を日国師定書をもとにした著者の年代の勘違い・記憶違いと考えれば、憂宗護法同盟という僧団の考えが少しわかるような気がします。
888
:
れん
:2004/06/15(火) 20:45
空き缶さん、ご指摘の憂宗護法同盟著「法主詐称」の文を見ますと、上野から重須に移蔵されたという蓮師曼陀羅が禅師授与曼陀羅である可能性は否定出来ないものと思えてきました。上野には石山と禅師建立の東光寺がありますが、上野が石山ならば精師の代ではなく天文年間以前の時期に弥四郎曼陀羅が禅師授与蓮師曼陀羅を底本として偽作された可能性も考えられます。弥四郎曼陀羅そのものに関しては、先ずは今月を目処に出版される犀角独歩さんの御本を拝読させて戴いた上で考察を深めて行きたいと考えております。
889
:
愚鈍凡夫
:2004/06/15(火) 21:56
空き缶さん、れんさん、お久しぶりです。
このことは以前、空き缶さんに質問したことだったと思うのですが、日禅授与漫荼羅が何故北山にあるのでしょうか。
日禅師は日興師に蓮祖授与曼陀羅を預けっぱなしにしておいたのでしょうか。もしそうだとすれば、その理由はなんだと思われますか?
解けない謎の一つですので、是非お知恵を拝借したいと思います。
890
:
愚鈍凡夫
:2004/06/16(水) 07:28
皆さん、お早うございます。
>>889
:
慌てて投稿したため、ちょっと表現が変なので訂正します。
誤→日禅師は日興師に蓮祖授与曼陀羅を預けっぱなしにしておいたのでしょうか。もしそうだとすれ ば、その理由はなんだと思われますか?
正→日禅師は日興師に蓮祖漫荼羅を預けっぱなしにしておいたのでしょうか。もしそうだとすれば、そ の理由はなんだと思われますか?
に訂正します。悪しからず。 m(_ _)m ゴメン!!
891
:
空き缶
:2004/06/16(水) 14:56
愚鈍凡夫さん、禅師授与の曼陀羅についての動向は細かいことはわかりません。
せいぜい以下の流れが想定できるくらいと思われます。
弘安三年五月九日 宗祖より日禅師に授与
正応三年 禅師大石寺南之坊創建(はたして当時安置した本尊はなんであったか?)
―――宗祖滅後、師僧である日興師があづかり添書きする―――
永仁六年前後 再び日禅師へ授与される。(興師本尊分与帳と禅師授与曼陀羅の添書きがほぼ全同であることから、この前後に再授与されていると思われる。)
(正中二年十一月十二日 盗難により重須より紛失か?)
※興風談所「日興上人全集」補註により、この事件自体が信憑性に乏しいと考えカッコ書きとしました。
元徳二年 日禅師、東光寺・妙音寺を創建。
元徳三年 三月十二日 日禅師、大石寺南之坊にて遷化。
元弘三年 二月 七日 日興師重須にて遷化。
以後、二百年強の歳月を経る。
天文 五年頃 大石寺より重須(北山本門寺)が買い取る。
明治の頃 日応師が買い戻す。
以上です。御覧の皆様の加除訂正をお願い致します。
892
:
れん
:2004/06/16(水) 16:28
愚鈍凡夫さん、お久しぶりです。お尋ねの禅師授与蓮師曼陀羅の動向についてですが、私の考えも、空き缶さんと同じです。禅師が自らに授与された蓮師曼陀羅を興師に預けっ放しにするとは余り考えられず、興師により本門寺云々の添書がなされた後、程なくもとの如く禅師の住坊(南ノ坊か)に御遷座されたと思います。南ノ坊(大石寺)から重須への禅師授与蓮師曼陀羅の移蔵は、空き缶さんの御類推の如く天文年間のことと私は推定しております。以上ご参考まで。
893
:
犀角独歩
:2004/06/16(水) 19:37
れんさん:
空き缶さん:
愚鈍凡夫さん:
禅師授与漫荼羅についてですが、これはまったく同一のものが2舗あることが前提ではないでしょうか。
【北山】弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし、(伯耆漫荼羅と称す)
【石山】弘安三年太歳庚辰五月九日、此丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。 東京 法道院。
そして、法道院から石山に移管されたものに、河辺メモに言う如く模写の形跡が残っていると言うことでした。
これを1舗の漫荼羅として論じると混乱が生じると思いますが、如何でしょうか。
894
:
問答迷人
:2004/06/16(水) 19:44
空き缶さん
禅師授与蓮師曼陀羅は、同じものが二幅現存しています。一つは、日応師が買い取って、現在大石寺宝蔵にあるもの。もう一つは、北山本門寺にあるもの、これが、北山が大石寺から買い取ったものなんだと思います。これら二幅は、日興上人の書き込み部分に差が有るだけで、後は全同のようです。冨士宗学要集にも二幅が記録されています。果たして、日応師が買い取ったものは、如何なる流転を重ねたものなのか、非常に興味が湧きます。
895
:
問答迷人
:2004/06/16(水) 19:50
犀角独歩 さん
レスの内容が重なってしまいました。ただ、北山が大石寺から買い取ったということが、大変興味深く思ってロムしていました。
896
:
空き缶
:2004/06/16(水) 20:04
犀角独歩さん、お久しぶりです。
禅師授与曼陀羅二鋪の内、一鋪は模写・臨写などによって再現されたものと思われますが、興尊の添書が興尊の本尊分与帳にある記載と同じであること、北山のほうは立正安国会編御本尊集に未収録となったことを考えれば、やはり現大石寺所蔵のものが真筆である可能性は大きいですよね。
本物の一鋪はその時代時代によって、重須と上野を行き来しており、現在は大石寺に。
問題は何時、二鋪にされたのかということですが、独歩さんは興尊御在世中も考慮に入れているとのことでした。
私は北山が売りに出し、日応師が買い戻すといった直前、明治期ころに行われたのではないかと考えます。
阿部師のいう「模写」とは、曼陀羅の上に白和紙をのせ写し書きしたものをいっているのではないかと考えます。「模写の形跡」とは写し書きした時、墨汁かなにかが本紙の方まで多少染みてきてしまった跡でもあるのではないでしょうか。
もしそうであれば、何百年も前のシミを模写の跡と判別することは、いくら阿部師の鑑定眼をもってしても容易ではないと思います。そう遠くない近世においてできたシミであろうと憶測するしだいです。
897
:
空き缶
:2004/06/16(水) 20:12
問答迷人さん、こんばんは。
「禅師授与曼陀羅」、恐らく阿部師のあのメモが創価学会によって暴露されなければ、こんなに有名になる曼陀羅ではなかったのでしょうね。
いま私は何故大石寺は日禅師授与の曼陀羅を模刻したのか不思議に思っています。相貌が整っているからでしょうか?
898
:
問答迷人
:2004/06/16(水) 20:46
空き缶さん
>北山が売りに出し、日応師が買い戻すといった直前、明治期ころに
北山が売りに出したという記録があるのでしようか?
>何故大石寺は日禅師授与の曼陀羅を模刻したのか
全くもって不可解です。只、日禅師授与の曼陀羅が二幅あることと何か関連が有るように思います。
899
:
問答迷人
:2004/06/16(水) 20:51
空き缶さん
>北山のほうは立正安国会編御本尊集に未収録となったことを
大石寺の日禅師授与の曼陀羅は御本尊集に何番として収録されているのでしょうか?
900
:
空き缶
:2004/06/16(水) 21:24
問答迷人さん
>大石寺の日禅師授与の曼陀羅は御本尊集に何番として収録されているのでしょうか?
大石寺は非公開ですので不収録です。つまり、不掲載という完全否定を免れたというだけで、確実に本物であるという証拠はありません。
可能性はある、という程度です。
>北山が売りに出したという記録があるのでしようか?
申し訳ありません、確証ある記録はありません。
阿部師の言動を記録した例のメモと、「奥人」?に掲載されていた日応師の御状にそれらしき記述があったことくらいです。
「奥人」掲載の書状は、これから探してみます。たしか御本尊売買のことがかかれてあったと記憶しています。
901
:
れん
:2004/06/16(水) 21:28
犀角独歩さん、以前国会図書館で読んだ堀日亨師の富士日興上人詳伝(文庫版ではない)に、亨師は立正安国会の片岡随喜師・山中喜八師等の北山本門寺での蓮師真蹟の写真撮影に同席し、片岡師が北山所蔵の蓮師曼陀羅の内、建治二年二月の鉄砲曼陀羅以外は全て摸写本と鑑定したこと、その際檀家総代が片岡師の鑑定に抗議したことを述べています。実見した片岡師の鑑定が正確ならば、空き缶さんの言われる如く北山蔵本は模写の可能性があります。問答名人さん、以上の理由により北山蔵の禅師授与曼陀羅は安国会の御本尊集に未掲載で、石山蔵も未掲載です。
902
:
問答迷人
:2004/06/16(水) 22:13
空き缶さん
お手数をお掛けします。よろしくお願いいたします。
れんさん
>実見した片岡師の鑑定が正確ならば、空き缶さんの言われる如く北山蔵本は模写の可能性があります。
なるほど。そういう経過が有ったのですね。有難うございました。
ただ、そうなると、石山の禅師授与曼陀羅も模写かも知れません。以前、三学無縁さんが仰って居られた事ですが、北山も石山も、両方とも由井正雪の制作した模写本を掴まされたのかも知れませんね。
903
:
問答迷人
:2004/06/16(水) 22:27
空き缶さん
>(正中二年十一月十二日 盗難により重須より紛失か?)
※興風談所「日興上人全集」補註により、この事件自体が信憑性に乏しいと考えカッコ書きとしました。
富宗要02-021 日順阿闍梨血脈には、「嘉暦第一の暮秋には険難を凌いで本尊紛失の使節を遂げ、」とこの本尊盗難事件に触れられています。事件は間違いなく有ったものと僕は考えてきました。そこでお伺いしたいのですが、補注には、この「日順阿闍梨血脈」の一節についてどのように述べられているのでしょうか?或いは述べられていないのでしょうか?
904
:
犀角独歩
:2004/06/17(木) 00:13
れんさん:
空き缶さん:
非常に旧い投稿なのでお読みになっていらっしゃらないかも知れないので、ご参考までに
*** 転載はじめ ***
『富士大石寺の歴史』
http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/rekisi.htm
158 名前: ワラシナ 投稿日: 2001/11/23(金) 22:27
こんばんわ、問答迷人さま。
*そろそろ出てきそうな話題だったので待っていたら案の定出てきました。
「二種類ある弘安三年五月九日日禅授与本尊」
0、「富士日興上人詳伝下73-74頁」の「正文書、興師御正筆御本尊、各山に珍蔵す
るその脇書」に弘安三年五月九日の日付で二つの日禅授与本尊が並んでいます。
1、最初のが、、
大本門寺の重宝なり。
弘安三年五月九日 日禅上人へ。東京法道院に在り。{富士宗学要集第八巻史料類聚
1、178頁}
2、後のが、、
本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。
弘安三年五月九日 日禅上人へ。重須本門寺に在り。{富士宗学要集第八巻史料類聚
1、215頁}
3、大聖人様もお忙しい中よく二つも書いてくださいました。
だけど、ここで思い出されたのが、かって「徳明」氏に教えられた真跡紙幅本尊の
クローン複製法?です。和紙の表層をうまくはがせば、そっくりコピーさんがもう
一丁できあがる、というあの話です。
のり弁当ののりをはがせば、醤油に染みたおかかは均等ではない。しょうゆにしみ
だご飯と染みない白いご飯の部分が混ざった感じになっている。
表層一枚をはがして下に残った本尊の表面は、墨の汁が表層のやつほど濃くはない
だろう。こういうことがあるんじゃないかな、と考えています。
*** 転載おわり ***
905
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2004/06/17(木) 00:13
―904からつづく―
以上のワラシナさんの投稿を再掲し、わたしが付記したのは以下のとおりです。
*** 転載はじめ ***
94 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/28(日) 11:51
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/r255
…
この方法を、『日蓮正宗史の研究』で山口師が記しているのを副次的に見つけました。
既読であろうかと思いますが、取りあえず、転載します。
剥離表層(これは主として御本尊に見られるものと云われる)、剥離すると本体と影本という両本が出来るが何れも偽物ではない。本体と影本と並べて見ると容易に判別できるが、殆ど所蔵が離れているので一箇処に並べてみることが出来ない(P14)
ロムの方々に少し説明を付せば、川辺メモで問題になった禅師授与曼荼羅は石山にあることになっているのに、実は北山にもあるという指摘をワラシナさんがしてくださった。
なぜ、二体あるのかを説明されたのが、上記のワラシナさんの投稿でした。
和紙が厚みがあるので、うまくすると表層をうまく剥がせ、2枚にすることができる、剥がしても墨は裏のほうまで染みているので、表層を取られても、墨痕・文字はしっかりと残る、そのために真筆の曼荼羅を二体(本体・影本)に分けられる。この方法を使って、二体に分けた禅師曼荼羅が石北両山にあるのではないのかという話です。
*** 転載おわり ***
長い投稿で恐縮ですが、もう少し。
北山所蔵の禅師授与漫荼羅は、写真で見る限り、所謂、模写ではありませんね。ただし、「だから真筆である」という意味ではありません。模写というのは正本と全同に模写できません。しかし、北山禅師授与漫荼羅はかなり正確に弥四郎漫荼羅と一致します。これほどの一致は当時の技術では、剥離表装法、一歩譲っても籠抜以外に考えられません。
河辺メモが言う「模写の形跡」は、では北山蔵の紙幅のためか、それとも、弥四郎漫荼羅のためか、わたしは後者であると考えます。何故ならば、北山蔵の紙幅の筆の勢いは、とても拵字に墨を埋めたものとは見えないからです。
また石山蔵は亨師が「興師加筆」とされるわけで、それをそのまま信頼し、かつ御筆漫荼羅に非ずとすれば、興師は偽作を正筆と思い加筆したことになりますね。そんなことがあり得るでしょうか。それと、北山蔵が模写であれば、何故、興師の加筆を写さず、さらに他筆を加えたのでしょうか。まして、石山蔵は削損されているわけです。
以上の矛盾は、しかし、興師在世当初から表層剥離によってこの漫荼羅が二体に分離されていたと考えれば自然に理解されます。
なお、この漫荼羅がその相貌が全同であることを言ったのは亨師そのひとではありませんでしたか。
れんさんが呈示された売買が事実であれば、むしろ、二体に分かたれていたものが二カ所にある不都合を埋めるためとは考えられないでしょうか。しかし、その後、また別々に所蔵されることになるとしてでもです。
しかし、この当時の売買は自讃毀他の要素を考慮すべき点はないでしょうか?
『誑惑顕本書』の冒頭は「或人来テ問曰大石寺ニ於テ重須本門寺ノ重宝タル鉄砲漫荼羅を買取候」と、石山と偽って模写を信者に開帳して金をだまし取っているという記述で始まっています。この頃の「買った売った」の記述は手放しで信頼してよいものかどうか、わたしが慎重なのは、上述の騒ぎを意識するからでした。
なお、禅師授与漫荼羅は北山では「万年救護本尊」と言われるのであり、さらに『大石寺誑惑顕本書』では「戒壇本尊」とまで言われます。これほどまでに重視されるようになった理由は何か? わたしはその由来は案外『大石寺誑惑顕本書』に不自然に論われる禅師授与漫荼羅の‘宣伝’がその発端ではないのかと疑っているところがあります。
906
:
犀角独歩
:2004/06/17(木) 00:15
895 問答名人さん:
お久しぶりでございます。お声掛け、恐縮に存じます。
907
:
空き缶
:2004/06/17(木) 00:53
問答迷人さん、御返事が遅くなり恐縮です。
まず、興風談所「日興上人全集」では、日順阿闍梨血脈にはふれずに日代師への八通遺状に疑義があることから、盗難事件を認めがたいとしています。
なお日興上人全集の正誤表にも、該当個所の訂正はみられません。
以前、愚鈍凡夫さんなどと、この盗難事件について論議した時も「日順阿闍梨血脈」の文が問題になった記憶があります。
「日順阿闍梨血脈」では「嘉暦第一の暮秋」となっていますが、日代師への八通遺状では「正中二年十一月十二日」となっており、正中二年が西暦1325年であるのに対し、嘉暦は西暦1326年からはじまっていますので、盗難事件自体はあったが日代師への遺状にあるような日付ではないということかもしれません。
次に日応師の書状です。内容は吟味しておりません、私としましては「それらしきことが書いてあるな〜」程度です。皆様方のご判断を仰ぎたく思います。
○藤本家文書(正本:藤本家蔵)
日応上人御状
大暑の節に候処 弥御清適に御信行大慶之至に存候 野衲義も法用に付出京候得共 無事に法護罷在候間御休神被下度候 却説過般御登山に相成方よりの御咄しに宗祖御真筆大御本尊(其際御拝見に入候)御購求に相成候思召も有之趣に付 売方へも其趣申入置候処 度々の督促 殊に今回同人態々出京 身延派へ売込申様の相談も有之 誠に遺憾の至りに候間 可成御購求相成度 若し御承知に相哉候はば 五六日は滞京に候間 至急御返事相成度
夫迄は右売人へも他に売却は差留置候間 一刻も早く否哉御返事待上候 先は右要用のみ 稹々
三十三年七月二十五日
常泉寺にて 大石
藤本勘吉殿
以上ですが、昭和40年代に大石寺に遷座される前は法道院に秘蔵されていたことを考えれば、日応師の代に買い戻されたと考えてもつじつまが合うように思われます。
908
:
れん
:2004/06/17(木) 03:00
問答名人さん、昭和初期の片岡師の鑑定では模写とされたものの、今日の科学的な手法によって模写と実証したわけではないので、最終的な実否は分かりません。独歩さんの904・905におけるご教示を踏まえて考えると重須と石山の禅師授与両蓮師曼陀羅は剥離表装による正本と影本である可能性の方が高いと思います。犀角独歩さん、ご教示ありがとうございます。大変参考になりました。国師の定書の件ですが上代事典の記述では正本が重須にあり、蓮師曼陀羅を国師が買得したのは史実に近いと思います。ただそれが禅師授与のものであるかは断定出来ません。
909
:
問答迷人
:2004/06/17(木) 06:25
空き缶さん
>盗難事件自体はあったが日代師への遺状にあるような日付ではないということかもしれません。
あぁ、それなら納得です。ただ、「嘉暦第一の暮秋」は使節の日付ですので、「盗難事件が有って、一年を経て体勢を整え、使節を出した」と僕は推測しています。
>日応師の代に買い戻されたと考えてもつじつまが合うように思われます。
たしか、法道院の「法の道」か何かにこの件についての記述が有ったと記憶しています。法道院の信徒が古物商で売りに出されているのを見つけて、法道院の法華講でお金を出し合って買い求めたとか。誰が古物商に売ったのかは分かっていなかったのではなかったでしょうか。
れんさん
>蓮師曼陀羅を国師が買得したのは史実に近い
大変重要なご指摘、有難うございます。禅師授与蓮師曼陀羅についての謎解きが一歩進んだのは確かだと思います。
910
:
愚鈍凡夫
:2004/06/17(木) 06:29
皆さんどうも有り難うございます。とても参考になりました。
ただ、日禅師授与漫荼羅が2舗存在するのは何故だろう(レプリカが作成されたのは何故かという意味です)という新たな疑問が沸いてきすね。この漫荼羅以外の蓮祖漫荼羅では駄目な理由があるのでしょうか。
背景には北山と石山の歴史的な暗闘があるのでしょうが、とても興味深い問題だと思います。
911
:
犀角独歩
:2004/06/17(木) 12:59
> 910
わたしも同様の疑問を懐きます。
『誑惑顕本書』に「本門戒壇ハ必重須ニ事極ルト思ヘシサレハ当山第一ノ重宝萬年救護本門戒壇ノ本尊ヲ本門寺ニ懸テ萬年ノ重宝トスヘシト…日禅本門寺立ヘキナレトモ…」とあります。
いまでも北山では禅師授与漫荼羅を「万年救護本尊」と呼んでいますが、ここでは、さらに「本門戒壇本尊」、さらにさらに立つべき人は禅師であると言い、それを興師がなされるので禅師はこの漫荼羅を重須に留め置いたと言います。
わたしは弥四郎漫荼羅は禅師授与漫荼羅の模刻と闡明にしたわけですが、ここで気付けるのは、「一貫して、戒壇本尊はこの禅師授与漫荼羅である」とことです。
それにしても不思議なのは、石山蔵のほうは「本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり」を削損しなければならなかったのかということです。
想像を逞しくすれば、弥四郎漫荼羅に拵字から彫刻して‘法魂’を遷したので、正本の該当の加筆は不用となったと言うことでしょうか。どうにも解せません。
だいたい、この漫荼羅が、斯くも珍重され北石両山ともに戒壇本尊とするのはいったいどのような理由に依るのでしょうか。
冒頭に挙げた『誑惑顕本書』の著者は、有師が本紙を板に張り付けて彫ってしまったと非難するわけですから、禅師授与漫荼羅の模刻であるとは思っていないわけです。それにも関わらず、今の弥四郎漫荼羅はその漫荼羅を素本にしていると見えるわけです。その意味において、893の空き缶さんが仰る「シミ」の出来た時期の予測は重要な意味を持っているとわたしは思います。
912
:
空き缶
:2004/06/17(木) 14:04
皆さんこんにちは。
以前、名無し@ピンキーさんが、大石寺系末寺に所蔵される伝宗祖真筆曼陀羅を宣伝されていましたが、私は富士宗学要集等その他の諸文献にもある通り、正式な鑑定はされてないまでもほぼ宗祖真筆とみてよい曼陀羅本尊が、大石寺系諸寺にもあると思います。
恐らくは其の中の一つに過ぎないはずの「日禅授与曼陀羅」が、昭和40年代にわざわざ大石寺に遷座されるのも不思議でなりません。
大黒師が「日興門流上代事典」にて指摘したことは、宗内の学者の間ではそれなりにささやかれていたことなのでしょうか。
日応師は当時本門宗から離脱し、要法寺の管長らと対峙していた経緯もあり、特に要法寺日守師による「末法観心論」に対する反論書「辨惑観心抄」を執筆されるなどの行動をとられていたと記憶しています。
辨惑観心抄の内容からすれば、末法観心論にも「本門戒壇ノ大本尊」への誹謗があったようですが、幸にも禅師授与曼陀羅との関係には触れられておらず、過去に出尽くした内容の羅列であったようですね。ある意味、気付かれる前に売りに出されている「禅師授与曼陀羅」をなんとしても買い戻し、本山以外のところで秘蔵する必要があったのではないでしょうか。
全ては憶測の域を出ません。
継命新聞社版「日興上人」などにも、日禅師に関することは文献も限られており、明らかになっていないことが多いと書かれています。
913
:
犀角独歩
:2004/06/17(木) 14:36
空き缶さんに引き続き、憶測を述べれば、禅師授与漫荼羅が蔵されていた法道院は、信者向け石山の印刷漫荼羅(御形様と彼らは言う)の印刷を一手に引き受けていた寺院だそうで、そこにまた、どこぞの集団・指導者も絡んでいたとかいないとか…。
法道院がいつの頃からか、この‘業務’を一手に担うことになったのかは知りませんが、その寺院から、禅師授与漫荼羅が出てきて、「模写の形跡がある」のは単なる偶然でしょうか。なんだか手繰れば、吃驚玉が出そうな気配を感じなくもありません。
法道院のあと、漫荼羅印刷を請け負ったのはK印刷でしたか。あそこは石山漫荼羅ばかりではなく、石山の出版物の印刷など全般に請け負っていましたね。
驚いたのは、日蓮宗もお得意さんなんですね、ここは。そうなると、信者向け曼陀羅を印刷するところで、彼らが言う「邪宗」の印刷もやっているということなのでしょうか。
まあ、商売にケチを付ける気はありませんが、信者に下ろす漫荼羅が外注制作というのは何とも有難味がありません。
どうにも、漫荼羅制作には胡散臭さがついて回るというのが、わたしの正直な感想です。
914
:
れん
:2004/06/17(木) 21:33
横レス失礼します。皆さんの御考察大変興味深く拝見しております。特に犀角独歩さんの提示された資料「大石寺誑惑顕本書」の内容に興味津々です。重須で万年救護・本門戒壇本尊とされてきたのも禅師授与蓮師マンダラ、石山の弥四郎板マンダラ(通称本門戒壇大本尊)の底本も禅師授与蓮師マンダラ…。こうして見ると禅師へ授与の蓮師マンダラは興門派における宗定本尊みたいなものだったのではないかとも思えますね。
915
:
鎌龍
:2004/06/18(金) 16:05
独歩さん、はじめまして。少し教えて頂きたいのですが、過去ログの大石寺問題提起の59で、弥四郎曼陀羅が公開されていたことを、日精師が明確にしていると仰られていらっしゃいますが、その書がなんの書か教えて頂きたく存じます。お忙しそうであられますので、お手があきましたらどうぞよろしくお願い致します。見落としなのか、見つけられずにおります。どうかよろしくお願い致します。
916
:
犀角独歩
:2004/06/18(金) 19:44
鎌龍さん、はじめまして。よろしくお願い申し上げます。
915のご質問に該当するわたしの投稿は以下のものでしょうか。
>「秘仏であり、公開されず厳護されてきたから、記録がないのが当たり前」とのことですが、日精上人などは明確に記録に残しています」(2002/01/11(金) 10:24)
しかしこれは「弥四郎曼陀羅が公開されていたことを、日精師が明確にしている」とは、少し意味が違います。
わたしが精師を挙げたのは『日蓮聖人年譜』に「其の嫡子弥四郎国重と申す是即本門戒壇の願主」また、『家中抄』に「大聖戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す今の板本尊是れなり」とあることを指しました。より具体的には、因師『有師物語聴聞抄佳跡上』量師『大石寺明細誌』などに見えます。
精師に掛けてその公開を論じたのは、達師です。
「只今の御影堂は340年前の建立でございますが、それ以前、これよりも小さな本堂が、この前の二天門と称する門の裏の丁度真正面にあった様に思われるのでございます。その当時からこの本堂には戒壇の大御本尊様が安置せられた様に考えられます」(『大日蓮』昭和48年2月号)
というのが資料です。しかし、ここで達師は何を根拠にこのように語ったのかは、わたしは存じ上げません。
ご不明な点は、重ねて問うてください。わたしがわからなくても、れんさんをはじめ、研鑽の志が控えておられます。充分に納得のいく答えを得ることができることと存じます。
917
:
れん
:2004/06/18(金) 21:08
鎌龍さん初めまして。お尋ねの件ですが、私も犀角独歩さんの提示された事項以上のこと分かりませんが、手持ちの資料を提示します。寛永九年に石山に建立された御影堂棟札に「寛永第九年壬申年霜月十五日造立之…本門戒壇本堂 日精在判」とあり、興風談所の池田令道師は著書において「日精上人の棟札に本門戒壇本堂の名称が見えますから、おそらく安置の本尊は当家に伝わる弘安二年の戒壇本尊であったろうと思われます。しかしながら現在の御影堂には延宝七己未年二月十三日 日精在判の板マンダラが安置されておりますので、戒壇本尊の安置は伽藍の開
918
:
れん
:2004/06/18(金) 21:24
堂なった寛永九年より延宝七年までの四十数年間のうちであったと考えられます」(富士門流の信仰と化儀P382)と述べられております。池田令道師の推定は犀角独歩さんが提示された細井日達師の説を補強するものですが、精師の御影堂棟札の「本門戒壇本堂」なる文言からすれば、細井日達師や池田令道師の推定の如く、短期間とは言え、所謂弥四郎板マンダラが現在の御影堂に安置され信徒に公開されていたであろうことは史実ではないかと考えられると思います。以上鎌龍さんの御研さんに資するならば幸いです。
919
:
空き缶
:2004/06/19(土) 00:41
れんさん、日精師は家中抄「日禅伝」にて「日興高祖の本尊を申し請いて日禅に授与す この本尊今重須に在り伯耆曼荼羅と号する是なり。」(聖典P670)と書いていますから、日精師は日禅授与之御本尊を実見している可能性はありますね。
まさか日禅授与之御本尊を実見して「これはヤバイ!」と思って引っ込めたとか。もしこんなことがあったならば笑い話ですけどね。
920
:
鎌龍
:2004/06/20(日) 10:24
独歩さん、れんさん。お忙しい中ご教示くださりまして誠にありがとうございます。大変わかりやすく、またご丁寧な返答賜り恐縮に存じます。十二分に納得です。お二人のご研さんに敬意を表する次第です。ありがとうございました。低頭礼拝
921
:
犀角独歩
:2004/06/20(日) 13:06
れんさん、有り難うございます。なるほど。達師は御堂棟札から言ったわけですね。
空き缶さんがお詳しいところでしょうか。
要山に伝わる板漫荼羅というのはどんなものがあるのでしょうか。
この質問の趣旨は先に挙げた「聖戒壇院の本尊」と弥四郎漫荼羅は同じものを指すのか?という疑問からです。精師は棟札に「戒壇‘堂’」と書いているわけです。
戒壇‘院’とは一致しません。「戒壇院」と読むとやはり想起されるのは尊門相伝なので、となれば、該当しそうな板漫荼羅が要山にあるかどうかという予想に基づきます。
空き缶さん、あるいはどなたかご教示願えませんでしょうか。
922
:
空き缶
:2004/06/21(月) 16:58
犀角独歩さん、こんにちは。
>要山に伝わる板漫荼羅
についてですが、正直なところ実見の機会もなく、資料も極めて少ない為よくわからないというのが本音です。
ただ、要法寺からだされていた「日大上人」という冊子には同寺所蔵の「紫宸殿曼荼羅御形木原版」に「暦応三年庚申八月 日 上行日尊刻彫之」との十文字が入っていることを伝えています。
したがいまして、嘗てれんさんが日興門流上代事典をもとに、要法寺の板曼荼羅が紫宸殿曼荼羅であることを書かれていましたが、その通りではないかと考えています。
923
:
空き缶
:2004/06/21(月) 17:22
>「聖戒壇院の本尊」
につきまして、要法寺の伝承では「上行院」と呼称される堂に重きをおいているようです。「上行院本尊也」との脇書きのあるものは日大師書写の本尊であるそうです。
勉強不足のためか、私には上古において尊門に「戒壇院」思想があったかどうか想像もつきません。これを機会に勉強してみます。
924
:
犀角独歩
:2004/06/21(月) 20:47
空き缶さん、有り難うございます。
石山呼称「紫宸殿」漫荼羅ですか。なるほど。
非常に参考になりました。
925
:
空き缶
:2004/06/24(木) 00:00
犀角独歩さん、通称「紫宸殿漫荼羅」は、何時頃から大石寺にあるのでしょうか?
私は日目師以降は、目師の意思をつぎ天奏を行った(京都へいった)日尊師が所持したのではないかと考えます。朝廷用の曼荼羅であるならば、目師が天奏の際、持参した可能性はあると思います。
つまり、目師以降は京都要法寺(住本寺もしくは上行寺)にあったのではないでしょうか。そして1594年8月以降、京都要法寺から招聘した歴代貫首の誰かが持ち込んだとは考えられないでしょうか。
日有師は京都遊学後に該当曼荼羅の模刻を行っていますが、京都要法寺より該当曼荼羅の御形木(先のカキコ参照)を持ち帰り、掘り下げ模刻した。(ほとんど推理小説です)
朝廷用の大曼荼羅を日尊師が、本門寺用の大本尊を日郷師がそれぞれ預かったと考えれば、日尊師が京都に残り、日郷師が冨士に帰ったという事実もなんとなく理解できます。
926
:
犀角独歩
:2004/06/24(木) 07:42
空き缶さんの推理は本当にいつも興味深いですね。
仰るとおり、紫宸殿板漫荼羅は有師であり、これが弥四郎漫荼羅の身代板漫荼羅と錯綜している点を指摘くださったのは愚鈍凡夫さんでした。
ただ、わたしは目師が伝説のように天奏にこの漫荼羅を所持したかという点には懐疑的です。れんさんがご指摘くださったとおり、あの漫荼羅は授与者を削損してあるわけで、そうなると後世、紫宸殿漫荼羅に仕立て上げられたとあると思えるからです。
たしか志師あたりも盛んに紫宸殿本尊に疑難をかけていましたが、「紫宸殿本尊」は真っ赤な作り話であろうと思えます。
しかし、空き缶さんが仰るように、もし要山にそれがあれば、この往来はどんな経緯なのか、なかなか、興味深いところがあります。
わたしは国主戒壇論という二箇相承の思想性からすれば、紫宸殿本尊こそ、戒壇院本尊でなければならないという整合性を固定して考えるわけです。ですから、思いっきり大胆なことを言えば、もし有師が戒壇本尊と言った漫荼羅があるとすれば、この紫宸殿本尊を置いてはないのではないの?と仮説ながら考えています。では、禅師授与漫荼羅は?となりますが、この点は『大石寺誑惑顕本書』から記しましたが、同漫荼羅を北山では戒壇本尊というわけで、この‘伝説’が生じたあとに、紫宸殿板漫荼羅を引っ込めて、禅師授与板漫荼羅を出して、戒壇本尊として取り替えたのではないのか?という仮説も可ではないのかと、これはかなり想像を逞しくして考えているわけです。
なにせ、「右…造立…本門戒壇」という腰書が記された‘台座’部はその上の板漫荼羅本体とは別で、裏から楔でつないであるだけというのですから、首の継げ換えなど簡単にできる構造のわけですから。
まあ、現段階では憶測と言うほかありませんが、石山ならば、そのくらいのことは平気でやるとわたしは考える次第です。
927
:
犀角独歩
:2004/06/24(木) 08:23
空き缶さん:
勝手なことばかり書いてご質問の点、書き忘れました。
と言いながら、
> 通称「紫宸殿漫荼羅」は、何時頃から大石寺にあるのでしょうか
これはわたしにはわかりません。
有師の時は少なくともあったのでしょうか。
しかし、誰に与えた漫荼羅であったのでしょうね。
928
:
犀角独歩
:2004/08/08(日) 11:04
なんだか今さらですが、弥四郎漫荼羅は、その記録では「二寸二分」と石山住職の書物に現れるわけですから、この点は否定の仕様がありません。
しかし、達師は
「戒壇の御本尊様は楠の厚木です。表から見るとこういう板です。ところが此れは大変な板です。ただの板ではないのです。こういう板になっているのです。だから後ろから見ると丸木です。丸木を表だけ削ってあるわけです」
と、こう発言したわけです。
ここから「半丸太」という形状表現が定着した経緯がありました。
この発言は昭和52年(1977)5月2日でした。
ところが、そのわずか5年前、昭和47年(1972)9月12日には
「戒壇の御本尊様は楠の板である」
とはっきり明言していたわけです。一体この違いは何なのでしょうか。
先頃、『日蓮正宗入門』(宗旨建立750年慶祝記念出版委員会編)を手に取ったところ、
「この御本尊は末法万年の流布を慮られて楠の厚き板に御図顕され、弟子の日法に彫刻を命ぜられています」(P112)
と記されていました。この本の発刊日は平成14年(2002)1月13日で、監修は顕師、現石山の統一見解と見なして差し支えないでしょう。
達師が一貫しているのであればともかく、当の本人すら「板」と言いながら、5年もせずに「厚木…丸木」であると言い、さらにその30年後の現在、現石山はまた「厚き板」と言い換えているわけです。
少なからず、確かに言えることは、いま奉安堂に安置されている弥四郎漫荼羅は「厚き板」なのでしょうか。
929
:
愚鈍凡夫
:2004/08/08(日) 22:10
犀角独歩さん、相変わらずの暑さですね。 ε-(´o`;A アチィ
半丸太にしろ、板にしろ、「弥四郎曼荼羅」をプロデュースした人物は、日有師のアイデアをパクったということでしょうかね。
大石寺テーマーパーク化のプロデュースの手腕を買って、最も可能性の高い容疑者は日精師か?
930
:
犀角独歩
:2004/08/11(水) 12:59
愚鈍凡夫さん:
今日はそれでも涼しいですね。(東京での話ですが)
昨日、『創価学会批判』(日蓮宗宗務院編/昭和30年7月28日)を読みました。この段階で、既に大部の批判は正鵠を得ているのですが、『大石寺誑惑顕本書』に係る部分で、納得がいかないところが残りました。
昨日、三学無縁さんとも話したのですが、この書のなかで取り沙汰される『宝冊』(久遠述記)が、量師『大石寺明細誌』であるという従来の判断(たとえば木下日順師など)、どうもわたしは腑に落ちません。『大石寺明細誌』と、『大石寺誑惑顕本書』で引用される『宝冊』はかなりの出入りがあるからです。
『大石寺誑惑顕本書』に紹介される有師彫刻説を語った浄師の話、また志師も紹介した『宝冊』に載るという弁妙日謄が国学者大堀有注と語ったという同じく有師彫刻説、しかし、こんな話は『大石寺明細誌』には載りません。また載るわけもないと思うわけです。なぜならば、同誌はお上に出したいわば石山の財産(什宝)目録の体裁であるわけですから。ところがこれがさも事実のように引用されているわけです。
また、以下の点で決定的に違っています。
『久遠述記』
仏滅後二千二百二十余年之内未曾有之大漫荼羅也
本門戒壇願主
弥四郎国重法華講衆等敬白
日蓮花押 為現当二世
造立如件
弘安二年十月十二日(『創価学会批判』P17)
『大石寺明細誌』
現当二世の為め造立件の如し、本門戒壇の願主、弥四郎国重、法華講衆等敬白、
弘安二年十月十二日(冨要)
これはたぶん、原文では
為現当二世造立如件
本門戒壇の願主
弥四郎国重・法華講衆等/敬白
弘安二年十月十二日
だと思えます。
「為現当二世造立如件」の位置が違います。
また『久遠述記』では「仏滅後二千二百二十余年之内未曾有之大漫荼羅也」が明記されていますが、『大石寺明細誌』にはこれがありません。
わたし自身、根本的な勘違いをしているのかも知れませんが、この二つの書は、『宝冊』(久遠述記)は『大石寺明細誌』を底本にした書であると思うのですが、これは間違いなのでしょうか。
宮崎英修師に拠れば「宝冊、富士山本門寺文書に載せられた大石寺の記、これは文政6年の記録で大石寺隠士、久遠の述、執筆者慈存、加筆浄眼…久遠述記」(P16)とあるわけです。文政6年(1818)は量師が住持になった翌年に当たります。
関係するかどうかわかりませんが、明治20年(1887)に霑師は同名の書を官庁に提出しています。その間、慶応元年2月28日(1865)石山の大火を挟むわけですから同じ内容であるわけはないと思えます。
これは三学無縁さんが常に主張する点ですが、有師彫刻を言う浄師の言、また、謄師・有忠師の語らいは、その正本を見ないわけです。その資料性は乏しいと言います。しかし、これが既成の事実として取り扱われるのが日蓮宗の弥四郎漫荼羅批判です。
有師寂(1482)を去ること400年も経て言われ始めたこの説の証憑性は如何ばかりのものでしょうか。また、実際に『宝冊』(久遠述記)なる書は、量師当時に記されたものなのでしょうか。また、『大石寺明細誌』である如く語られるのでしょうか。
これは愚鈍凡夫さんに対する疑問と言うことではもちろんないのですが、何かご存じのことがありましたら、ご教示ください。また、皆さんにもお願い申し上げます。
931
:
愚鈍凡夫
:2004/08/12(木) 01:06
犀角独歩さん、ご教示願いたいのは小生の方です。お役に立てず、ごめんなさい。
何れの書もネタ本からのコピペや聞き書きではなく、実見したそのままを記述しているとしたら、「弥四郎漫荼羅」の台座自体が複数存在することになるんでしょうかね。
もし、「弥四郎漫荼羅28号-2004年モデル」なんてのがあったら笑えるでしょうね。 (^◇^)
932
:
犀角独歩
:2004/08/13(金) 19:49
愚鈍凡夫さん:
どうもです。偉く初歩的なことで躓いてしまいました。
因師『有師物語聴聞佳跡上』に出てくる読むからに偽書の『松野殿御書』が精師『家中抄』に言う『上行所伝抄』だと宮崎英修師の文章で、今頃になって知り、自分の浅識を改めて恥じ入ったりしています。
最近はれんさん、空き缶さんほか、皆さんがお出でにならず、残念に思っています。
それでも、愚鈍凡夫さんとお茶のみ話のように、ゆったりとお話しするのもなかなかおつなものであると思っております。
933
:
愚鈍凡夫
:2004/08/13(金) 21:38
「彼の泉阿闍利行功をはげまし日蓮が形をあらわさんが為に七面の明神に祈念せし故か、又天道の至りか、浮木出来せり。此の木を以て一躰ならず三尊まで造る。一尊は大仏なれば身延山に安置せり。」(有師物語聴聞抄佳跡上)
この文証の意味が、
「或る時日法御影を造り奉らんと欲す七面大明神に祈念し給ふ感応の至りか浮木出来せり、此の木を以って戒壇院の本尊を造立し次に大聖の御影を造ること已上三躰なり、其の一躰は纔に三寸なり上行所伝抄の意なり、大聖戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す今の板本尊是れなり」(富士門家中見聞下)
ということですよね。にわかに信じがたい記述でありますが・・・・・。これについて日亨師は、
「精師の記録にですね、余り根拠を書いてないというのが多いのですよ、家中抄始めね。どこからもってきたのかわからんのが多い」(大白蓮華昭和31年11月号)
と、仰ってます(だったら要集に載せるなよ!!)。また、
「古伝に云わく、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、南部六郎実長の嫡男弥四郎国重之を取り上げ聖人に献ず等云云」(富士大石寺明細誌)
と、パニックになりそうな記述があります。日亨師はこの書も、
「ダメです。もう、ひどく立派なことがまちがっている。それで、明細誌が北山問答にとりあげられてね。わしの師匠も困まっちゃった。」
と仰ったとか。
日精師の「家中抄」、日量師の「富士大石寺明細誌(宝冊)」、ともにボロクソに言ってますよね。まるで、七面山の楠なんて「ハッタリ半蔵」に決まってるだろう。と言わんばかりです。
となると、石山の「戒壇之本尊」の依書は、既にここの掲示板で議論された「日興跡条条之事」と「聖人御難事」ということでしょうかね・・・・・。 サムイニャ♪.....(((((ヾ( o=^・ェ・)o ┏━┓←コタツ
すがる藁が細すぎると思うのは小生だけだろうか。 (-。-;)
934
:
犀角独歩
:2004/08/13(金) 22:00
愚鈍凡夫さん、文章に切れがありますね。思わず、莞爾。
それにしても、弥四郎漫荼羅法師彫刻説を認めると、石山が云う「邪宗」のメッカ、それも「邪宗」の神様・七面山の女龍神で祈念して、材となった楠板を得たことも認めなければならないわけですね。「いや、そんなことはない」という石山人はいるやも知れませんが、では「日法彫刻説」は家中抄、有師物語聴聞佳跡上、大石寺明細誌といった「御歴代上人」の文章以外に何の証拠があるのかと問えば、答えはないでしょう。亨師が精師・因師・量師の文面に困るより何より、まるで何も確証がない方がよほど困るだろうにと個人的には思いました。
935
:
愚鈍凡夫
:2004/08/14(土) 00:07
あっ犀角独歩さん、どうもです。
でも何ですね。七面山神話は石山でも諸天善神に合掌OKの時代があったことを示唆しているようにも取れますね。現在は御法度のようですが、嘗ては石山も神道に対して寛大であったように思えます。
頑なまでににカルトへの道を進んでいったのは、差別化による過度な自宗の正当性(ほとんど勘違い)の宣揚にあったのでしょうね。どうも日蓮系の教団は、全体的に他宗への過度な敵対心のみを蓮祖から受け継いだような感想を持ちます。
小生は、法華経は仏道を目指す道に声聞・縁覚・菩薩といった三通りのアプローチがあり、何れも結果的に成仏に至ると説いたのが法華経ではないかと思っています。そういう意味で法華経が好きです。
それなのに、菩薩道以外は絶対にダメと決めつけてしまったことに、蓮祖の間違いがあったのかも知れないと思っています。また、他言語に翻訳されていく度に改竄されていったであろう経典群に、整合性があると考える方が無理があると思います。
スレッドテーマからずれてしまいました。m(_ _;)m ゴメン!!
936
:
犀角独歩
:2004/08/14(土) 01:43
愚鈍凡夫さん:
> 七面山神話…合掌OK…嘗ては石山も神道に対して寛大
これまったくそのとおりだと思います。
明治の神仏分離令で時代は変わったわけですが、それ以前は是の如くですね。富士浅間神社を統括していたのは石山であると聞きました。
興門の歴史を調べれば、そこには八幡社があり、垂迹堂があるわけで、教学的には神仏混淆ですよね。それを戦後のヒステリックな調子から言い出すから、歴代の記述と齟齬を生じることになるのでしょうね。亨師も慈聞師の狸祭りの恐怖から、案外、精因量師の記述を否定して難を逃れようとしたんじゃないかと、わたしなんかは考えてしまいます。
元来、女竜神・七面大権現に祈って光を放った霊験あらたかな楠で彫ったのが戒壇本尊であることを精師も因師も誇らしく思うのが嘗ての石山感覚であったのでしょうね。
あと、菩薩道のみという蓮師感覚、なるほどなと思いました。
わたしはガキの頃から理屈ぽかった。まだ学会にいたとき、先輩から「二乗は成仏しないんだ」と窘められたことがあった。
わたしはひとこと「へえ、だったら、方便品で舎利弗はなんで喜んで小躍りしたんですか? 二乗成仏が法華経で説かれたからでしょう?」(笑)
もっとも法華経には「教菩薩法」という定型句があるわけで、その意味でたしかに菩薩の教えである点は否めませんね。でも、二乗のみならず、女人、悪人成仏を説いた経であるからこそ、珍重されたわけです。愚鈍凡夫さんが仰る点にわたしも賛同します。訳に対する見解も賛成です。わたしは羅什は嫌いです。となると、「南無妙法蓮華経」が成り立たなくなる、困ったものでした。
937
:
愚鈍凡夫
:2004/08/14(土) 08:19
犀角独歩さん、ご賛同いただき有り難うございます。
脱線ついでに、
法華経の本門、中でも寿量品などは阿弥陀如來、大日如來といった無始無終のスーパーブッダを意識して創作されたような感じがします。有始である釈尊を、五百塵点劫という無始に位置づけることによって、ブッダの中のブッダといった優位性を持たせようとしたのではないでしょうか。
強いて言えば、10万馬力の鉄腕アトムを100万馬力にパワーアップしたようなものか?
( ̄〜 ̄;) ウーン
娑婆世界で唯一有縁のブッダであるというだけでは居並ぶスーパーブッダと比べて見劣りするということでしょうかね。
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