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井戸端すれっど「山門前」

85犀角独歩:2002/06/09(日) 08:03

『諌暁八幡抄』について、私も、川蝉さんが仰るところが、字句どおりであろうと思います。

ここで“仏”と聖“人”という字句の使い分けに、特に意味があるのであろうと思うわけです。聖人が本仏を指す意味は元よりあるわけはありません。いや、むしろ、末法出現を本仏などという仏としてしまえば、法華経の説相と相違してしまいます。聖人とは“人”であるという点が法華経の説相を敷衍している点を読み落としてはいけないと私は思います。すなわち、

日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く
斯の“人”世間に行じて 能く衆生の闇を滅し
無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん
是の故に智あらん者 此の功徳の利を聞いて
我が滅度の後に於て 斯の経を受持すべし
是の人仏道に於て 決定して疑あることなけん

という先にも引いた一節です。法華経に由れば、滅後弘教は地涌菩薩に付属され、神力品に上記のようにあるわけです。つまり、末法に出現するというのは仏ではなく、人であるわけでしょう。この点で、まさに『諌暁八幡抄』の記述は法華経と一致しています。

あと、一字三礼さんが指摘された日月の譬も、「日月の光明の 能く諸の幽冥を除く」という一節を含むわけでしょう。

果たして、聖人は、日(日本・南無妙法蓮華経)、月(月支・法華経)の対比で喩えられたのか否か、またご自身が唱え始めた南無妙法蓮華経を、法華教典より上に置いたのかどうか、慎重に考えるべきところです。

ただ、法華経の説相を俯瞰するとき、大きなテーマは弟子に対する記別、そして、滅後弘教付属であることはわかります。言ってみれば、釈尊50年の集大成として、もっと言えば三千塵点已来の集大成として、弟子に記別を与えることで成仏の始終の総まとめをする意味合いを法華経はもっているわけです。しかし、その後、末の世は濁劫悪世である、その時に初発心の弟子である地涌菩薩を召し使い弘教をさせる。この人は世の光明となって、人々の闇を消し去ってくれる。すなわち、滅後は仏ではなく、人(菩薩)によって人々は救われていくという意味を法華経は提示しているのであろうと私は思うわけです。

ここで聖人は日月の、日を日本・日蓮という大自覚に立たれ、月を月支・釈尊と解釈されて、ここに日本国の済度は仏の使い(の使い)人・菩薩として、末法万年という、釈尊・法華説法8年より遙かに長い時間の闇を照らすと宣言したのではないでしょうか。しかし、これは法門の優劣を言うものではなく、衆生闇を晴らす時間的長さの差異を、光明の差異を論じられたものであると思うわけです。

しかし、仏について、寿量品に

而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く
我常に此に住すれども 諸の神通力を以て
顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらしむ

といい、いま、この瞬間にもここに在し、永遠の法を説き続けていらっしゃる。その仏を拝して、弘教するのが地涌菩薩である点も見落としてはならないはずです。


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