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雑談&連絡スレッド

2417無精髭:2008/07/27(日) 21:20:50
>>2416の冒頭、「森?外」は「森鷗外」です。メモ帳保存時の不具合を直さずに投稿してしまいました)

それでも、もっと意識的に効率良く文章を上手くする為には、本当は誰か師に就いて、文章を添削して
もらうのが一番なのでしょう。自分の悪い癖が客観視されますし、意図や論旨を明瞭に通したりするの
にも好都合な反面、人の手が加えられると、自らの思考過程を写し取った文章にはなり難いという問題点
も挙げられますが。文章を添削された経験のある人なら覚えがあると思いますが、訂正された後の文章を
見ると、全体的にすっきりとした印象がし、内容もスッと頭に入るのだが、どうも自分の書いたものが
もとになっているのに、妙によそよそしいと言うか、言いたい事が言い切れていないような残尿感に似た
もどかしさを覚えるものです。しかし、これよりも重大なのは、他人に添削されることは他人の特殊な
読解に晒されるということに他ならないという現実です※。文法規則や語彙の選択、全体の構成に
ついての教示は、当の作文の読解とは別で、作品よりも作者に働きかけるものとも考えられますから、
こんなことを言うのはおかしなことなのかも知れません。ただ、文章の体裁を整えるといった指導も、
その対象である当の作文の内容をしっかりと把握していることを前提に行われるものなので、だからこそ、
どんなに文章を添削しても文章の意味を変えずに、寧ろはっきりと際立たせることが出来るのでしょう。
ですから、添削の基本には正確な(?)読解が前提として据えられていると思う訳です。簡単に申せば、
添削は読解に裏打ちされているからこそ為される行為であり、他人だろうが自分だろうが、それをやる
者は読解力をかなりのレベルで駆使している筈、と思われるのです。当たり前のことを申しているのかも
知れませんが、結局、添削は読解と作文の結合したものではないか、と申したい訳でして、だとすれば、
添削に限らず、作文行為すら読解を手段として含むのではないか、と思うのです。文章を書く・組み立て
るといった行為は、あるテキストの読解が前提となって成り立つのか、それとも行為レベルで(意味レベル
ではなく)読解と切り離せない、というか同一であるのか、ここまで来るともう私には判然としないのです
が。まぁ、これもきっと考え方そのものが間違っているせいでしょう。

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※それは他人に特権的な読み位置を許す・少なく見積もっても創作の権利の幾許かは他人に委ねるといった
ことが前提になっているかと思われます。かといって、作文指導は、教える者と学ぶ者双方の合意の
上で成り立っているのですから、それが一方にとって不利になるとかいって否定するのはお門違いでして、
私もそういったことを言いたい訳ではありません(まぁ、作文指導上の合意的関係を度外視して考えれば、
或いは支配関係と捉えるならば、色々と違った解釈も出来るでしょうが)。

「文法規則や構文法や語彙は客観的なものだから、それについて指摘・訂正を行う添削というのは、
客観的な読みによって成り立っている。」私はこういった考えに異を唱えたいというか、違和感が
あるのです。その理由については、力量不足なので詳しく書けませんが。

他者による添削の結果、創作者の意図を離れて作品から零れ落ちてしまうもの―――文章の直接的意味とは
異なる、リズムとかニュアンスとかいったものが考えられますが、これらと読み易さ(伝達可能性)の関係
を考えてみるのも面白いかも知れません。例えば、何気ない日常会話はともすれば横道に逸れたり突然飛躍
したりして主題を見失わせるものですが、かといって、必要最低限の言葉だけでは相手に意思が上手く伝わ
らないのだそうで、同じ話題の反復、取り留めのない言い回し、無駄な語句の乱用など、本筋には余計だと
思われる要素から構成されていることが、会話の伝達可能性を支えているという面もあるのだそうです。
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