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ネットの議論ってそもそも意味あんの?

1うろちい:2006/04/04(火) 09:58:28
このスレは「 誹謗中傷って、何?(1417) 」から分岐しました。

2うろちい:2006/04/04(火) 09:59:11
>>1417 イカフライさん
>***ではなく相互***鑑賞会、ではないですか?

ウオッチ掲示板なんてのは開き直って集団オナニーしてるんでしょうね。
議論ならまだ、セックスになる可能性がある。

ちなみに、ここでの「セックス」てのは「相互作用のある対話」を意味するんだけど、
実際のセックスというのは自分よがりの相互オナニーにもなっちゃうわけで、
また、売春のように性的欲求については片利セックスみたいなのもあるわけですし、
要はネットかリアルかというメディアの問題では無くて相互が相手に対してチャンネルを
開こうとしているかどうかが大事、ってことなんじゃないでしょうか。

ネットの論者ってのが特にその態度に乏しい、ってわけではないと思います。
ネットは時空やしがらみに制限され難いので、隔絶していた2つの集団オナニーの
メンバーを引き合わすことに成功したのだと思います。

3ヤスツ ◆0lcRIkF0ks:2006/04/04(火) 22:51:39
極論するなら、「ないと思う」「意味がない」という感想が「最終結論である」と自分で断じた瞬間に、それについての思考が終わるのだと思います。
思考停止というのは、目指すベクトルの如何に関わらず、「無視」と同程度の脅威であるわけではないかなと思われます。

そういった意味で、イカフライさんの今のお考えが「意味はない」に落ち着くのであれば、それこそ「ではさようなら、ごきげんよう」ということになってしまうのでは、と思います。
ただ、「意味はないと思うが、どうか?」という問いかけをしている時点で、それは「意味がない、という確信がないので、それをテーマに議論(もしくは返答)を希望している」ということなのかなとも思います。
イカフライさんの意見表明に対して、なんの反論も返答も付かず、否定も肯定もされなければ、それはまさに「意味がない」ということになるのかもしれません。

とりあえず、管理人裁定でスレが分離されましたので、以後の関連議題はこちらで、ということで。

4ヤスツ ◆0lcRIkF0ks:2006/04/04(火) 23:09:34
さて、ネットの議論に意味があるかですが、そもそも「議論」に何を求めるかによって、その答えは異なるのではないでしょうか。

現実の議論(ディベートや会議)には、明確な目的があるのと同時に、「時間制限」と「議長」と「採決」と「参加資格」がありますね。

時間制限は「発言の持ち時間」というだけでなく、「会議全体の日程」であったりもします。物別れになったら、二度と顔を合わせるチャンスのない会議もあるでしょうし、毎回物別れなのに顔を合わせることそのものに意義がある会議もあります。日朝協議とか。
ネットの議論には、「いつまでにこれについて採決しなければならない」という時間制限がありません。これは、「急がなくてもいつまでも続けられる」というメリットであると同時に、「結論を急がないため、いつまでも続いてしまう」というデメリットがあります。

また、どういった知識レベル/発言技術/資格があるかどうかといった制限はネットの議論にはありません。誰にでも参加できるという意味では「門戸が開かれrている」というメリットがありますが、「参加者の程度が違いすぎると、話が通じにくくなる(専門家と素人、など)」というデメリットがあり、資格が規定された会議よりも「遠回り」になりがちです。

議長がいないというのもネット議論が、現実の議論と大きく違うところかもしれません。
議長役を掲示板管理者が務める場合もありますが、そういうのはだいたい「掲示板管理者+そのシンパvs対立する発言者群」という図式になってしまい、議長が「削除権」を大盤振る舞いした挙げ句に、議論が成立しなくなって閉鎖、というパターンがよく見られます。
掲示板管理者が、中立的な議長を務めることはほぼ不可能なんですね。
「結論を得ること」が必ずしも目的ではなかったり(反論者の排除が目的なら別ですが)する場合もありますので、ネットの議論において「田原孝太郎のような議長(じゃないな、アレはw)」は不要と言えば不要なのかもしれません。
一般の議論では交互または順番に発言を行う必要があることから、「発言権を振り分ける係」としての議長は必要ですが、発言者が好き勝手に(というより、順番を待たずに)発言できるネットの議論では「発言順を振り分ける係」としての議長はまったく不要なのかも。

ただ、議長役というのが「議事進行の整理」役だとした場合。
かつては緑装薬4さんが、そして私などもごくたまにそれをしますが、「ここまでの議論のまとめ。双方の意見をつきあわせると、合意しているところはここ、対立しているところはここ、考えられる選択肢はこれとこれ、それぞれのメリット・デメリットは……」といった、【まとめ】というのは必要なのかもしれません。議長役がそれをするか、そうでなければそこにいる発言者全員が「まとめ」をする能力を担えるのが理想だとは思います。
私はもともと「ノートを取る人」を自分に課しているつもりなのですが(議論に参加することもあれば、せずに議論の経緯をまとめるだけのこともあったかと思います)、散乱した議論の「合意点と相違点をまとめてみる」という作業をする存在は、ネットの議論ではできればいたほうがいいというか、これがいないとどこまでも話が脱線して散逸していくだけになってしまうのではないかな、と思います。

イカフライさんは疑問を提示して戦線を広げていくタイプの方ですが、「合意点と相違点の再掲」のような作業をされてみるとよろしいんじゃないでしょうか。
自分の意見、人の意見、それぞれの衝突しているところ、いないところ、メリット・デメリットを照らし合わせる作業というものは、一人で考えているだけでは絶対にできませんし、議論が対立し、なおかつ検証が進まなければできませんし。
談話室などもそうですが、適度に立場の違う人が「やりあっている」場のほうが進むこともありますしね。

「採決」についてですが、決を採る必要がないから、ネットの議論は無意味と言うことを、イカフライさんはおぼろげにお感じになっているのではありませんか?
私は、ネットの議論(に限りませんが)は、そこに「最終結論」が出ることがなく、また「結論への恭順を強制できない」という意味においては「ネットの議論は現実の議論に勝てない」とは思います。

これは、「強制以外で相手の意志を変えるスレ」などでもさんざん出てきたことだとは思いますが、他人の意志を変える方法は結局のところ「従わないことによる不利益=罰則を伴う強制」以外にはないんじゃないでしょうかね。
でも、ネットの議論の結果について、それぞれに強制を促すことは当然できないわけで。
となると、ネットの議論というものは「結論を導き出す」「導き出された結論への従属を促す」ためにするものではない、のではないでしょうか。

5ヤスツ ◆0lcRIkF0ks:2006/04/04(火) 23:18:17
そういう意味で、私はネットの議論を現実の議論と同列に見たり、単純に比較して「答えが出ないから意味がない」としてしまうのは早計かもと思います。

現実の議論にも「結論を出すことが目的ではないミーティング」ってありませんか?
例えばブレスト。(brain storming)
個人の見解、断片的な知識などを、複数の人間がとりあえず吐き出し、羅列してみる。
三人寄れば文殊の知恵って奴でして、知識を持っていない人間が、知識を持っている人間の思いつかないアイデアを出すかもしれない。
そのために、「わかっていること」「わからないこと」を照らし合わせ、共同で検証作業をするのが「ブレスト」ですね。

ネットの議論というのは、この「ブレスト」の規模と期間が制限されないもの、ととらえるのがよいかと思いますがいかがでしょう。
そして、ブレストから何かを得られるかどうかというのは、その人次第なんですね。
新たな知識を得られるという場合もあれば、知っていることしか出てこないこともある。
その意味でも、価値をどう決めるかというのは受取手の主観に左右される問題でして、価値判断をされる側(この場合は「ネットの議論」というものそのもの)の全体の客観的価値を、一個人の観測で決めてしまうことは難しかろう、とも。

自分と同じ考えを、全然知らない人が持っていることを確認する、であったり。
自分と全然違う考えの人がいるということを確認する、であったり。
自分と全然違う考えの人と、自分自身の考えを照らし合わせて共通点を探すであったり。
また、相違点を探すであったり。それの妥協点を探す、であったり。
そういうことをするのが「議論」ですよね。

議論で得られた結果を、【持ち帰ってどう処理するか】は、議論そのものの価値や責任の問題ではなくて、結局は「そこから得たことを自分でどうするか」という、自分自身の問題に戻ってくるのではないかなー、と。


人と話をすることが「無益」で終わるということは、世の中にはありませんよ。



(反戦平和論について私の考えが当初(もう4年くらいになります?)と今とで変わったかどうかと言われれば、細部での変化はいろいろあるでしょうね。ただ、「持ち続けている問いについて、納得の出来る回答は未だに多くは聞かれないなあ」ということでしょうかね)

6sage:2006/04/05(水) 20:58:40
意味無いって思うんならやめりゃいいんじゃね?
何でこんなサイトやってるんですか?

7ヤスツ ◆0lcRIkF0ks:2006/04/05(水) 21:00:27
>>6
いや、「意味がないのでは?」という意見を最初に提示されたのはイカフライさんで、イカフライさんはこの掲示板の管理者ではありません。

この掲示板の管理者は>>1-2で集団オナヌー相互鑑賞会を提案したうろちいさんです。

8うろちい:2006/04/06(木) 02:10:04
>>6
>意味無いって思うんならやめりゃいいんじゃね?

僕としては、意味があると思って運営してんですよ。
まあ、しかし、なんでここで話をしているのか、改めて問うてみるのも良いかな?って。

>>7
>集団オナヌー相互鑑賞会を提案したうろちいさん

えーと、「集団オナヌー相互鑑賞会」をしよう、って言ってるんじゃないんですよ。

引き合わしたのだから、セックスになる可能性があるわけです。
このとき「折角だから妄想から脱却して交じり合おう」ってのは積極的な言い方です。
「いつまでも独りよがりじゃ、集団オナニーじゃん」というイカさん的な言い方もできる。
これは表裏一体。どの程度交われたかの結果は、参加者次第。

ここの「結果」に愛想を尽かして去っていったぼーんさんとて、議論に意味が無いとは
おそらく考えていないでしょうね。
ただ、他のこととの天秤で、他のより有益だと考えられることに時間を割くことにしたんでしょう。

この価値判断はある程度合理的だけど、僕は少々異を唱えたい。
唱えたいけど、ぼーんさんは、異を唱える者がここに残るのを見越して安心して去っていったのでしょう。

9ヤスツ ◆0lcRIkF0ks:2006/04/06(木) 02:40:01
>>8
例えばセックスでも、相手と自分が同じ快感を味わったかどうか(セックスという行為から、定量的に均等な快感が得られるかどうか)というのはまた別の話でして。
男は気持ちよくても女はそうでもないかもしれないし、その逆かもしれない。

つまり、行為としてのセックスがあっても、そこから得られる快感・恍惚感というのは、個々の個人の「感じ方」に大きく左右されます。
そして、どのように感じたか、またはどのような尺度・深さの恍惚感を感じたかというのは、これまたひとそれぞれです。
同じセックスをして気持ちよさを感じる人もいれば、その相手は感じていないかもしれないわけで、それによって感じなかった方は「セックス=議論など無意味だ」と考えてしまうこともありうるでしょう。
このたとえに当てはめると、「ネットの議論は無意味=セックスなんか大してよくないよ」という感じ方だった、ということかな、と。

が、童貞の初セックスが気持ちよかったり、開発された処女のセックスが気持ちよかったりするのと同様に、ささやかなセックスでも大きな快感・恍惚感が得られれば、そのセックスが技巧的に劣っていても「次もまたやろう!」という原動力になるわけですから、それには意味があったと思います。
今まで自分のチンコしか見たことのなかった童貞が、女性器に触れるということだけでも、それはそれなりに意味もありましょう。

そのうちに、互いを開発し合って、より高度な技巧を伴うセックスをするようになり、双方が高い快感を得られるようになればいいね、というようなことをうろちいさんは望んでおられるのだろう、その第一歩として「集団相互オナヌー鑑賞会の合体」を目指したのだろう、というのは理解しております。


と、ネットの議論におよそそぐわないというか、多くの人が参加しづらいたとえで恐縮ですが、セックスがそうであるように「相手のツボを開発するためには、相手の反応をつぶさに観察し、相手についてよく知る」ということが何より重要であろうと思います。
それをせずに、相手が自分を喜ばせてくれるのだけを互いに期待し合うのでは、それはベッドの上に2体のマグロがあるだけとなってしまいます。

ネット議論の話に戻せば、
「よく主張すべきであるが、同時によく聞く耳を持つべきだ。相手の主張を自分の言葉に直して再提示し、相手の同意を得るという作業の繰り返しが議論(相互理解)である。また、相違点の追求だけではなく、妥協のできる合意点の追求もすべきだ。信頼醸成は議論を円滑にさせる効果を持つ」
ということかと。
「サイド6」がそうであり、イカフライさん、百拾四さん、NamelessCultさん、緑装薬4さん他の方々とは、直接お会いして杯を傾け交歓する機会をも得ました。(最近は私が多忙になりすぎちゃってて、不義理をしておりますが)
そうしたことは無益ではなかったと思っていますし、そこから得られることというのもあるでしょう。

ネットの議論とは、ネット以外での人との出会いと何ら変わるところはありません。
自分と似ているところをお互いに探しあい、同時に自分と相手は別の人間だということ、相違点に気づきあう。
そういう場所です。
そこから何を得るかは、その人次第ですよ。

私について言えば、「満たされてはいないが、無益だったことは一瞬たりともない」ということです。

10イカフライ:2006/04/06(木) 19:52:32
 うーん、なんていったらいいのかなあ?

 例えば出会いの場としてのネットは、私は非常に価値を見出しているのね(別に男女の出会い系じゃなくても、それも含むけど)。
あと、日常では、まあ、その人の生活形態や交際範囲にもよるけど、ひとつの話をいろいろな人が顔つき合わせてとことん離すってのは、なかなか無いから、その機会ってのもありだとは思う。
たださあ、議論サイトって、結局、議論して何よ?ってこと。
何を得られるのかなあ?って。

 議論そのものは楽しくないよね?
いや、それが楽しい人もいるだろうけれど、私は楽しくは無い。
場合によっては苦痛だったりする。
で、その苦痛を経た結果、なにが生まれるか?なんだよな。

 ここで言えば、目的は「平和造り」だよね。
パンピーが負うには、大きすぎるテーマだけど、平和について議論する事で、自分がどう考え、何を行動したら、少しでも平和に役たてられるのか?ってことだと思う。

 で、ここで何年も議論していて、その目的のためになる何が得られたんだろうか?
なんて、今更考えてしまったわけですよ。

 例えば、ネットを通じてできる平和運動、みたいな事を見つけたい、くらいに思っているわけ。

うーん、やっぱ上手くいえないな。

11イカフライ:2006/04/06(木) 20:51:17
そうだな。
 例えば、ホワイトバンドについて議論するとする。
あれ買った人は、多分、「世界の貧しい人々のために、少しでも役に立てば」と思った人が殆どだと思うんだ。
でも、ふたを開けたら、当の世界の貧しい人々には一銭も届かなかった。
最初から寄付とは言っていませんよ、って言うけど、でもさあ、みたいな割り切れなさが残るよね。
で、ホワイトバンドってなんだったの?ッてこと、話す。
その時、周囲の人たちだけじゃなく、ネットで多くの人たちと話せることは、良いと思う。
てか、少なくとも私が学生時代にはそういう話出来るような人は、リアルには殆どいなかった。
で、どういうしくみになっていたのか、主催者はどういう人なのか、いろいろ情報を得られるし、それによって考える事も出来る。
でさ、そこで「じゃあ、自分たちは、本当に世界の貧しさをほっとかないために何をするか?何が出来るか?」と為でしょ、この議論。

とっころがさあ。
ホワイトバンドは製造費が高すぎるとか、プロデユースした人は名うての儲け主義とか、ま、この辺まではともかく。
あれは極左の資金源だとか、嘘か真かわからない話が次々でる。
それは、嘘とホントウを見抜くための訓練としても。

結局「ホワイトバンドに乗せられたヤツはバカ」とか
「俺はホワイトバンドの裏側をこんなに知ってるんだぞ、どうだ」みたいな意見が幅占めて、ネットで言い合っただけで終わり、見たいになる事、多くない?

12ヤスツ ◆0lcRIkF0ks:2006/04/06(木) 21:00:51
この板で言えば、「サイド6」という実験は、具体性を持った成果を伴っていると思っています。

・議論に向き合う人々は、それぞれの相違を互いに主張し合うが、自身の主張を相手に優越するものとして主張し、決して譲らないから合意や妥協点が見いだせない。
・では、それらは一度棚上げして、「合意できるものを探す(=信頼醸成)」のはどうか? 例えば、飯・酒・歌・趣味など、「合意点を見つけられる話題」を信頼醸成に使ってみるのはどうか?

そして、「サイド6」というスレが建ったわけですね。
うろちいさんが「それは平和造りとは無関係だから必要ない」といってスレ削除していたら、その後の展開はなかったでしょうね。
が、幸いにも黙認/スレ放置の形で認知されましたので、あのスレは今も続いているわけです。
実は、この平和造りの部屋と言われるうろちい板の中でも、最長の部類に入るスレのひとつとして。

さて、サイド6の効能はと言えば、「他の話題で対立していても、融和的に語れる話題を探る」ということにあったと思います。
不幸な例外を除けば、例えば私とイカフライさんが、その後二度に渡って実際に「会って飲む」「アストロを見る」ということにまで至ったのは、「共通の話題を探す」「接点を探す」というサイド6の効能の延長線上に立ったから、と思っています。
対立していたものが一緒に酒を飲む。
これは「平和」でしょ?

「共通点を知る、相手の興味を知る」という形で腹を探り合うことが、結果的に「その他の対立している議題」を論じるときにも、相手の思惑を考慮する(いい意味で)になったりすることもあるでしょう。

平和にはいろいろな規模があって、「世界平和」は確かにパンピーが扱うのには大きすぎるテーマでしょう。
が、スレ平和ならいけるんじゃないですか?
そして、私が常々申し上げているところの、「マクロな平和論を主張する人は、なぜその方法論をミクロな人間関係に援用させて、ミクロな平和作りに寄与することができないの?」に繋がっていくわけですけれども。
サイド6のような「対立点ではなく、合意できる点を探す」という方法での【平和の作り方】は、むしろ反戦平和論を実践されている方々から、「そうした方法論のミクロな場への援用例」として示されるべきだったのではないか、と思うと少々残念ですが、少なくともこれは「ネットの議論という場を用いて、その主題を実践した実験例」として見て良いと思います。

さんざん書いてたじゃないですか。
「私は、イカフライさんと酒を飲めるくらいには平和になりたいですねえ」と。
で、それは実現されたわけで。

これは成果だと思いますけどねえ。

13ヤスツ ◆0lcRIkF0ks:2006/04/06(木) 22:31:41
そして、「意見が合わないから会わない」「こっちの言い分を聞くまでは会わない」とかたくなな態度を取っているのが、中国共産党の胡錦涛主席と、韓国の盧武鉉大統領です。
「とりあえず対立する部分はあるにしても、会って融和できる話題を探して信頼醸成しましょうよ」と持ちかけているのが日本側ですね。

「意見が合わない、必要性を認めないから出向かない」という、胡錦涛・盧武鉉の態度と同じことをサイド6に対して採っていたのは、今は亡きぼーん氏、今は亡き武蔵・吉岡氏、今もいる中葉氏など。

結局彼らとは「相違を認めた上でもう少し踏み込んだ話をするための信頼醸成」はできませんでした。
こちら側が働きかけても、そういう場を用意しても、テーブルに就かなければ効果はない、ということもわかったと思います。
私の場合はうろちいさんの招きに応じて、「すでに相手が就いているテーブルに、招かれて出かけていく」という選択肢を選びましたが、招かれてやってきた先にいた方々は「他人のテーブルには出られない人が多かった」ということもわかりました。

では、テーブルに就かせるための方法はどうすればいいのか。
結局のところ、「相手を疑っている」という態度をとり続けられる限り、この先へは進めないのでしょう。
そのあたりが、「ネットの議論の限界」なのか、「それに携わる人々の限界」なのかはわかりませんけれども。

ネット上で、それを打破する実験を、なぜ「平和を主張する人々自身が」しないのかな? と、これはいつも思うことです。
平和というのは誰かが与えてくれるのを、口を開けて待っているものなんですか?
自分の平和が阻害されたら、激しく抗議すれば平和になるとか、そういった性質のものなんですか?

このあたり、反戦平和主義をミクロな現場に援用しようとなさらない方々の気持ちは、今もってちーともわからんですよ。

14イカフライ:2006/04/08(土) 09:35:54
>>12-13

良く酒の席では政治の話と野球の話は禁物、といいますね。

サイド6は効果があった、と言うけれど、大人は政治思想が違っても、その話は置いておいて、酒席で雑談くらいできるでしょ。
ただ、サイド6に乗らなかった人はそれをネットでまでやる意味があるのか?って事じゃないですか?

単にネットで楽しく雑談して、時間や場所が合うメンバーを見つけるなら、それこそ雑談サイトで良いと思うんですよ。

あとさ、自分も含めて所詮ネットの議論の重みなんてその程度ってことなんじゃないの?
本当に殺しあわないといけない状況の人間同士。またはかつて殺しあった同士が、そんな風になれるかね?
それこそさ、戦争未亡人とその亭主殺した元兵士とかがね。
そん時に、「戦争ってそういうものなんです」とか「殺さなければ殺されましたから」つー、したり顔の理屈が何の役に立つだろ?
ワシがブログで「あなたは人を殺せますか?」っていいたかったんもその辺なんだけどさ。

15ヤスツ ◆0lcRIkF0ks:2006/04/08(土) 15:25:54
>>14

そこまで言ったら、「ネットの議論になにか意味があるの?」じゃなくて、

「殺し合いをせずに、人と話で何かを解決しようなんて、それって意味があるの?」

という問いにしなければ無意味なのでは?
それこそ、「ネットの」ではなくて、「議論の重み」なんてそんなものかもしれませんが。

サイド6を「国連」や「六カ国協議」に置き換えたって同じことですからね。
最後は「話し合いで解決」ではなくて、「力ずくのわからせる」しかない。
つまり今、イカフライさんはこれまで長年訴えてきた「話し合いにによる平和作り」路線の限界をご自身が認めていらっしゃるということに他ならないように思われます。

もしそうだとするなら、「話し合いで平和は、できればそうなったほうがいい。それが可能だと思うならつきあう。が、それが無意味だと思う相手にはつきあわない」とする、これまでここにいらした多くの反戦平和論に懐疑的な方の基本姿勢を、ようやく肯定して頂けたということでしょうか。


ネットに限らず、議論とは本質的に無意味なものなのかもしれません。
ただ、私がこうした議論を通じて一人だけ「正しい答えが出るわけないこともわかっている。が、こうして同じテーブルについて、結論を先延ばしをし続けている間、我々は無限に戦争開始(対立の暴発)に対する時間稼ぎができる。平和とは、時間稼ぎに他ならない」とした、反戦平和論者の方がいらっしゃいました。
結論の出ない議論に辛抱強くつきあうこと、時間の無駄でしかないかもしれないことにつきあうこと、そのものが「平和という時間稼ぎ」への協力なのだというこの意見は、なかなか的を射ていると思います。

そして、「議論なんて無意味。これ以上、話し合いにつきあう必要はない」といって、日本が自ら設立に参加した世界的な話し合いの場から離脱したことがありました。
松岡洋右による国際連盟離脱。
その後、議論という時間稼ぎに意味などないとした日本は「実力で政治目的を守る」という道に邁進したわけです。

話し合いに最初から結論を持ち込み、その結論に至らない議論を許さないという態度は、思想の左右に限らずしばしば硬直した掲示板やかたくなな論者には見られるところです。
そうした柔軟ではない議論につきあっているうちに、「こんな話し合いに意味はない」と絶望してしまう方も少なくはないでしょう。
それでも「議論」というのは平和という時間稼ぎのためには、有効なのではありませんか?

テーブルを立ったら、後は「問題を棚上げし、以後完全に接触を断つ」か、「議論以外の方法で決着を付ける」しかありません。
私は、ネットの議論とは、問題を棚上げすることは出来ても「議論以外の方法で決着を付ける」ということが、おおむね不可能であること(中には例外もありましょうが。反戦平和系市民団体の掲示板の「内輪もめ」で、実力行使になった例がありますので)からすれば、「結論が出ず、時間稼ぎのための議論が延々続く」とされるネットの議論こそ、実に平和的だと思っています。
ですからこうしてつきあいが途絶えずにいるのだろう、とも。
罵倒でカチンと来ることがあっても、それで殺してやる、という気持ちに仮になったとしても、ネットは手が出せない。出されることもない。
決して「物理的暴力(戦争)に訴えることができない」という意味では、これ以上平和に議論ができる場所は他にないのではありませんか。

その無限のモラトリアムを、活用すべきでしょうね。

前述の「平和とは結論を無限に先延ばししつつ、全員をテーブルから立たせないモラトリアムによって延長される」とした意見は、決してベストではないと思います。
が、現時点でベターな案であろうことは、その反戦平和論者の方も、私も認めるところです。その方は、「それ以上の方法はないか」と苦心しておられました。
私は、おそらくそのモラトリアム論の「平和は作るものではなく、先延ばしするもの」という指摘こそがベスト、というか「限界」であり、完全な平和を求めてそれ以上を踏み越えた時点で、圧迫された側がテーブルを立ってしまうんだろうな、とも思います。
ですが、くだんの方が仰っていた、「モラトリアムというベターな選択以上の、ベストな選択」を、もしかしたら他の方が見つけているかもしれないという一縷の期待を抱いて、こうして「無意味かもしれず、時間稼ぎでしかない、ネットの議論」につきあっているのです。

16ヤスツ ◆0lcRIkF0ks:2006/04/08(土) 15:36:17
私がサイド6は試みとして成果があったといえる、としているのは、まさにその「対立する話題を棚上げにして、同じテーブルに付かせた」ということを言っているのです。

たとえは不快かもしれませんが、北朝鮮を六者協議のテーブルに付かせたようなもので、結論が出なくてもテーブルに引っ張り出すことが「最初の目的」であったとされています。(当初、北朝は交渉すらも拒否していたわけですから、大きな成果です)
現在の六者協議は「協議に結論を求める」「時間稼ぎが不利益になる」という各国の思惑から、なんらかの結論を求める方向にシフトしはじめているため、それを嫌ってなかなかテーブルにつこうとしない方向になったりしています。

この「テーブルに付く」という点では、中国・韓国も同様で、韓国は「テーブルに付く(シャトル会談)条件として、要望を満たすことを要求。叶えられなければ会談拒否」、中国も同様。テーブルに付くことそのものを条件闘争にし、話し合いではなく「話し合って欲しければ条件を認めろ」というテーブル外交渉をしているわけですね。
こうなってしまっては、「テーブルについて話し合いをする」ということそのものがまったく無意味になります。

我々で言えば、「反戦平和を認めなければ議論のテーブルに付かない」「暴力による対立回避以上の方法が提示されないなら議論のテーブルに付かない」と言い合うようなものです。相手の意見を精査する、相互に検証するのが議論でもあるはずです。
結論を受け入れなければ、それを吟味するテーブルに付かず、当初の結論通りにならない議論なら最初から拒否する、という姿勢が正しいはずがない、ということにはご理解頂けるものと思います。

まずテーブルに付くことが、「平和を延長する」ために必要なことという基本に立ち返れば、「(ネットの)議論は無意味」という結論・議論への絶望は、気持ちはわかりますが松岡洋右的な破滅にしか繋がらないだろうこともご忠告申し上げたいと思います。



ネットの議論から得られる意味は、ないと思ったら何もありません。
あると思ったらいろいろなものが見えてきます。
自らの目を塞ぐかどうかは当人の判断ですから、無理に袖引くことはできませんが、この板が長年テーマにしてきた「平和とはどういう状態を指し、どういう性質のものか」を再考するための思考材料としてはよろしいのではないでしょうか。


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