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靖国問題について考える
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>>206 大神さん
>>205
>「一人の国民としてどうか(客観的に見てどうか)」と「個人としてどう
>か(自分の気持ちはどうか)」の考えはそれぞれ違うものなのですよ。
>反対派、賛成派以前にこれを混同している場合は、所詮はその意見は意味が
>無いものです。
僕の何にこの答えを返しているのか不明ですねえ。
困ったことに。
おそらく大神さんが僕の言っていることを僕の意図とは違うところで合点しているのでしょう。
>>人々一人一人の靖国参拝に込める意味が言語的に決めちゃいます。
>ですからこのようなことは決めるのはいいが、賛成・反対の根拠に
>なり得ません。個人的に好き嫌いで義務を決めれれば納税の義務なんて
>さてどうなるでしょう。
うーん、困りましたねえ。
なんでしょうね、このレスは・・・うーむ。
なんと言えば僕の書いている内容を理解してもらえるんでしょうね。
賛成反対のを論ずる前提条件に関する考察なんですけどね。
「靖国参拝の可否」を論ずるには「靖国参拝」の意味が定まらなきゃいけません。
でなくては「靖国参拝」を評価できない。
大神さんが「こういう意味である」と仰って、その意味を前提に可否を論じても
そもそものその「意味」が「眼に見えない辞書(これが存在するから実在の辞書も存在する)」
に照らして食い違っていたら、そこから先の議論はこの辞書が通用する範囲では意味がなくなります。
この辞書の内容はある象徴(ここでは靖国参拝という行為)を個々の各人がどうとらえるかによって決まります。
個々の各人がどうとらえるかによって「バラバラに」決まるのではなく、文化を共有する社会の総体として
一定の意味が定まります(言語的に決まるとはそういうことです。)。
実際、参拝賛成派も反対派も同じ辞書を共有しています。
つまりは中国侵略に対する反省の度合いに応じて賛否を決めています。
靖国参拝は言語的には単なる哀悼や単なる忠義だけを注目しての賞賛などにはなっていないのですよ。
客観的に通用する基準(それが何かが難しいですが)に照らして、その意味での靖国参拝はどうなのか、本来議論すべきでしょう。
しかし、別の辞書を取り出してそれに基づいて議論しようとする人たちに同対処すべきか。
本当にその人たちはその辞書に基づいて考察・行動しているのか。
いったいどこを読めば「好き嫌いを賛否の根拠に据えて良い」という主張に読めるのか
まったく不明なのでなんとも手探りのレスになります。
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