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非自民非民進系保守

3677OS5:2025/12/24(水) 17:46:22
https://news.yahoo.co.jp/articles/322319fef082c45cf5d175584887e4bd2ec18514
「僕は組まない」石破内閣からの連立打診を断っていた維新 180度方針転換で連立政権入りした“三つの事情”
12/24(水) 16:30配信



 公明党の連立離脱から自維連立合意まで激しい政権争奪戦が繰り広げられた2025年。水面下では石破政権時代から連立工作の動きがあったという。維新は党勢が退潮する中、大きく方針を転換し勝負に出た。AERA 2025年12月29日-2026年1月5日合併号より。

*  *  *

 戦後80年、昭和100年の2025年は「歴史の転換期」の予想どおり政治大激動の年だった。「日本初の女性首相」誕生だけでなく、1999年から26年続いた自民党と公明党の連携(うち約23年が自公連立政権)消滅、結党15年余で初の日本維新の会の連立政権入りが起こった。

 第1幕が25年9月7日の石破茂首相の退陣表明、第2幕が10月4日の自民党総裁選による高市早苗総裁選出、第3幕が10日の公明党の連立離脱、第4幕が15日の「自維」両党党首の大筋合意成立、第5幕が21日の高市内閣発足という全5幕、45日間の政変劇だった。舞台裏で四つの連立計画による政権争奪戦が演じられた。公明党の与党継続による「自公維」、国民民主党を含めた「自公国」、立憲民主党が国民民主党に呼びかけて不発に終わった非自民の「立維国」、具体化した「自維」の政権案だ。

 ところが、経緯を探ると、序幕となった水面下の動きが浮かび上がった。石破氏の辞意表明の前、与党が24年10月の衆議院総選挙に続いて国政選挙2連敗を喫した25年7月の参議院選挙の約1カ月後の8月、秘密の連立工作が展開された。

「石破内閣の青木一彦官房副長官からアプローチがあって、何とか仲間になってほしい、みたいな提案が」

 11月11日、維新の浅田均参議院会長が取材に答えて明かした。石破政権での連立参加の打診だ。

 浅田氏はすぐに党の吉村洋文代表(大阪府知事)に伝えた。11月21日にインタビューして確かめた。

「浅田さんから話があったのは事実です。僕は連立は組まないと返事した。連立を組んでも有権者と約束した維新の公約を実現できない。石破政権には政策推進力がなくなっていると思ったから」

 吉村氏は答えた。石破内閣の命運が尽きたのは、これで最後の望みが断たれたからではないか。

■維新が180度の方針転換、小泉政権での連立入り探る

 吉村氏は参院選の前、5月23日の取材では、自民党との連立については反対の立場だった。

「僕はやらないですね。自民党はもともと既得権側の政党だからです。今の自民党である限り、既得権側の政治に入ることになる。維新には何の意味もないと思っていますから」

 その145日後の10月15日、維新は180度の方針転換で高市政権での連立参加に舵を切ったのである。

 吉村氏だけでなく、浅田氏も取材で、「わが党は理念と運動で集まっている政党。大きい組織の自民党と組めば消滅する」と明言していたが、二人とも「自民党にのみ込まれる懸念」を強く意識していたのだ。

 方針変更は7月の参院選の結果が大きく影響したと見て間違いない。自民党の衆参過半数割れが続くことになったため、連立の相手が「既得権側の党」でも、のみ込まれる心配がなくなったと判断したのだろう。「死に体」の石破政権では、メリットがないと計算して「連立ノー」と回答したが、自民党との連立に対する拒否反応は消滅したと思われる。

 維新は次に10月4日の自民党総裁選をにらみ、小泉進次郎氏(現防衛相)の勝利を前提に、小泉政権での連立入りを探った。「その構想はありましたね」と吉村氏は認めた。

「小泉さんは信頼しています。改革の方向性は一致していると思っている。小泉さんを支える菅義偉元首相に対する信頼が僕は非常に強い」


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