[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
インド・天竺・中洋スレ
15
:
とはずがたり
:2014/06/20(金) 18:11:12
>>14-15
「廉潔」こそが格好の標的
ネルーを「高い理想」と「廉潔」の持ち主だと評する向きは少なくない。だが「高い理想」「廉潔」こそが、中国の格好の標的と成る。ネルーが心臓麻痺に至る道筋をたどる。
死への一里塚は1954年6月、ネルーと中国の周恩来首相(1898〜1976年)との共同声明だった。声明は、2カ月前に締結された《インドとチベット間の印中通商・交通協定》の前文がベース。即(すなわ)ち(1)領土・主権の相互尊重(2)相互不可侵(3)相互内政不干渉(4)平等互恵(5)平和共存−をうたった《平和5原則》。
ネルーの狙いは、朝鮮戦争(1950〜53年、休戦)の混乱に紛れチベット侵攻の残虐度を上げた中国との「対話と協調」にあった。大東亜戦争(41〜45年)によりアジアから欧米列強を駆逐したにもかかわらず、チベット問題を契機に再び列強がアジアに介入する、冷戦のアジア飛び火を憂慮。5原則を軸に印中間での解決を目指したのだ。
想像上の環境に住む愚
ネルーは56年、チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世(78)を仏陀生誕2500年祭に招いた。反対する中国を説得、招待を実現させた。ダライ・ラマはネルーや訪印した周と会談を重ね、インドへの亡命やチベット人大虐殺停止などを訴えた。周が善処を“確約”したことで、ネルーはダライ・ラマの亡命を拒み帰国を促した。
ところが、チベット人蜂起を受けた59年3月のダライ・ラマの印亡命→チベット臨時政府樹立を機に印中国境で9月、両軍が武力衝突。62年には中国軍8万が奇襲・侵攻し、印軍1万は戦死・行方不明3000/捕虜4000を出す大敗北を喫する。
ネルーの完全な読み誤りであった。実のところネルーは、印中国境線に関し、印政府に先手先手で画定を表明させ、その後に予想される中国側の非軍事=外交上の抗議に備えていた。平和5原則を最大限利用して、国境画定交渉の風上に立たんと欲したのだ。
甘い、と言わざるを得ない。そもそも印中は、中国軍がチベット中央部を侵攻した50年以降きな臭い関係が続く。ただ当時、中国は建国1年目で軍の創建期だった。従って、54年の平和5原則で時間を稼ぎ→59年の武力衝突でさらに牽制(けんせい)しながら軍事的な手応えをつかみ→優位を確信するや周到な準備を経て62年、本格的に侵攻した−のである。5原則を最大限利用したのは中国側で、しかも米国とソ連が核戦争手前まで至る《キューバ危機》に世界の耳目がくぎ付けの渦中での侵攻という、絶妙な時機が選ばれた。
ネルーはわずか1年半後の64年(首相在任中)に亡くなる。社会主義的な計画経済の行き詰まりが死を早めた部分もあるが、ネルーは中国軍の奇襲直後にこう漏している。
《現代世界の現実に疎くなり始め、自分たちで勝手に作り上げた想像上の環境の中に住んでいたことを思い知らされた》
反戦平和/平和憲法=第9条/集団的自衛権=戦争する権利…。日本が《勝手に作り上げた想像上の環境の中に住んでいる》愚を《思い知らされる》のは、中国がわが国領土を占領して後のことになるのだろうか。
(政治部専門委員 野口裕之)
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板