したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

欧州情勢・西洋事情

3451チバQ:2020/03/22(日) 14:43:00
 だが、AfDとの共同歩調を避けるよう警告したクランプカレンバウアー氏の意向を地方の党支部が無視したテューリンゲンの政変は、党首としての指導力に疑問符を付けた。さらに、政変直後メディアの注目が集まった時に沈黙した上、その後、テレビカメラの前で「この決定を支持しない」とメモを読み上げた自信なげな姿が決定打になった。

 2月10日、クランプカレンバウアー氏は「党首と首相候補は一人の人が担うべきだ」と述べ、CDU党首を辞任し、21年秋の連邦議会総選挙に「首相候補」として立候補する考えがないことを発表した。AfDに端を発する政変によって、ユーロ危機や欧州難民危機、英国のEU離脱を「EUの団結」を掲げて乗り切り、国内政治でも安定の象徴になってきたメルケル政治の継承は水泡に帰した。

 なぜ、独戦後史の分岐点となったテューリンゲンの政変が起きたのか。この問題の背景には、独政界に存在する「二つのタブー」がある。

 ◇独政界に存在する二つのタブー

 ドイツの政治でタブー視されてきたのは次の2点だ。

 1)国政政党はいかなる場合も排外的な極右政党と連携しない。民主的な選挙制度がありながら、ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の独裁を招いたことへの反省だ。

 2)アデナウアー初代政権以降長く西独政権を担ったCDUは、不倶(ふぐ)戴天の敵だった東独独裁政党・ドイツ社会主義統一党(SED)の後継である国政野党・左派党とは連立しない。

 国政でCDUと統一会派を組む南部バイエルン州のキリスト教社会同盟(CSU)党首を長く務め、アデナウアー政権以降、閣僚経験も豊富だった故フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス氏は「同盟(CDU・CSUの通称)より右に民主的で合法な政党はあり得ない」と定義付けた。この考えは長くドイツに定着しており、ネオナチ政党・ドイツ国家民主党(NPD)が国政に進出することはなかった。NPDは州議会に進出したことはあるが、他党との協力による政権入りは州レベルでも実現しておらず、一定の封じ込めが機能していた。

 そしてもう一つのタブーであるCDUと左派党の連立は、日本で言うなら自由民主党と日本共産党の関係に例えることができる。自民党は1994年、中道左派の社会党との自社さ連立を組んだが、共産党との連立政権は議論になることさえない。東西ドイツに分裂した冷戦期の激しいイデオロギー対立に加え、CDUと左派党の間には、ベルリンの壁崩壊(89年)以降、急激に進んだ東ドイツの民主化プロセスをめぐる感情的な対立が、今も生々しく残っている。

 「北海道の選挙にロシアが介入したらどう思いますか? しかも、それを(統一ドイツの政治家たちは)民主的な選挙だと言うのです」。ベルリンの壁崩壊の直後に東独首相を務めた左派党名誉党首のハンス・モドロウ氏(92)は18年、記者の取材にこう怒りをあらわにした。

 東独では壁崩壊後に1度だけ民主的な国政選挙が行われた。この時、CDUのコール西独首相は「早期の統一実現」を目指し、CDUの東独組織に西独の人と金を投入。自身も東独各地を遊説して周り、「社会主義勢力との決別」を訴えた。このことをモドロウ氏は今も「他国の政治介入」と見ており、両党が互いにあらゆるレベルでの協力を拒否する背景にある。

 90年のドイツ統一後、前身の民主社会党(PDS)時代を含め左派党は幹部が極左だとして憲法擁護庁の監視を受けた。西独出身者の間では長年、左派党は独裁政党の残存勢力で、「時代の変化に適応できない東独出身者の受け皿」と見なされてきた。メルケル政権内でも最保守のCSUには左派党をドイツ共産党のように非合法政党に指定し、解党させるべきだという意見もあった。こうした積年の対立が背景にあり、CDUは左派党のラメロウ州首相の再選を拒否し、テューリンゲンの政変に至った。だが、当のラメロウ氏は東独独裁とは一切無縁の人物だった。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板