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欧州情勢・西洋事情
3335
:
チバQ
:2019/11/12(火) 18:31:53
◆風穴の国、再びカーテン 「移民は毒」ハンガリーに拡大
1989年8月19日、国境ゲートを抜け、ハンガリーからオーストリアに入った旧東ドイツ市民ら=コンラート・アデナウアー財団提供(共同)
写真
「自国の国境はそれぞれの国が守るべきだ。それは君の責任だ」
東西冷戦下の一九八九年三月三日、モスクワ・クレムリン。ハンガリーの首相だったネーメト・ミクローシュ氏(71)が隣国オーストリアとの国境の鉄条網を撤去すると伝えると、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は答えた。
老朽化した鉄条網は国家財政を圧迫。四十歳でハンガリーの首相に就任した経済学者は、財政破綻寸前だと分かっていた。民主化を進め、ソ連の支配から脱するか、それとも共産主義を押し通すのか。会談後、ハンガリーは徐々に鉄条網を撤去し始めたが、ソ連の軍事介入はなかった。
当時、西側への移動が禁じられていた東ドイツ市民も、共産圏なら一定の条件で渡航が可能だった。国境にほころびが生じたことで、ハンガリーからオーストリア経由で西ドイツに逃れようとする東ドイツ市民が押し寄せた。ハンガリー西部の避暑地、バラトン湖で取材に答えたネーメト氏は「国内の東独難民の数は八万人にもなり、この湖周辺もテントで埋め尽くされた」と振り返る。
ハンガリーは九月、国境を全面開放。二カ月後にベルリンの壁は崩壊し、冷戦終結につながった。ネーメト氏は断言する。「今でも同じ決断をしただろう」
ハンガリー西部バラトン湖畔で、30年前の国境開放について語るネーメト・ミクローシュ元首相=近藤晶撮影
写真
三十年前、欧州を分断していた「鉄のカーテン」に風穴を開けたハンガリー。だが今、当時と逆行する動きが強まっている。
「移民は毒」「イスラム教徒に侵略される」。二〇一五年の難民危機で国境にフェンスを設置したオルバン首相は、排外主義的なポピュリズム(大衆迎合主義)で支持を拡大。難民受け入れに寛容なドイツのメルケル首相を公然と批判してきた。野党ハンガリー自由党のフォドル・ガーボル党首(57)は「国民の恐怖心をあおっている」とオルバン氏を非難する。
排外主義の広がりはハンガリーにとどまらない。東欧の民主化を先導したポーランドや「ビロード革命」を成し遂げたチェコでもポピュリズム政権がEUの難民受け入れ分担を拒否。ハンガリー、ポーランドの両政権はメディア統制や司法介入など強権的な政策を進め、EUとの対立が深まっている。
世界中で広がるポピュリズムの波は、欧州にも新たな分断をもたらした。「今の政治家は目先の選挙のことしか考えていない」。三十年前、国境開放を決断したネーメト氏は危惧する。「フェンスで難民問題は解決しない。長期的な戦略で解決策を考えることがリーダーの責任だ」 (バラトン湖畔で、近藤晶)
<ベルリンの壁> 東独から住民が流出するのを防ぐため、東独政府が1961年8月、西ベルリンを取り囲むように建設。総延長は155キロ。民主化要求の高まりを受け、東独は89年11月9日、旅行の自由化を発表。東西の市民が検問所に殺到し壁は壊された。東独から壁を越えて西へ逃れた市民は5000人に上るが、少なくとも138人が警備兵の銃撃や地雷などで死亡した。
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