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欧州情勢・西洋事情

280旧ホントは社民支持@鹿児島市:2015/01/09(金) 23:05:56
各国内の「知の格差」
他方、表現の自由が「支配的な立場の強者が情報やイメージを通じて支配を強化する原理」に転じやすい状況は、国際的なシーンだけでなく、各国内部においてもみられます。今回の事件の舞台となったフランスを含む、現在のヨーロッパ諸国の内部におけるホスト社会と移民、とりわけムスリムとの関係において、それは顕著です。

表現の自由が保障され、さらにインターネットの普及により、確かに個々人が情報を発信する機会は、これまでになく増加しました。ただし、その一方で、ネット世界においてもニュース配信は、やはり新聞社やテレビ局など既存メディアに依存せざるを得ません。つまり、ネット普及によって情報発信力のギャップは多少なりとも埋まったとはいえ、やはり既存メディアの発信力は絶大なものがあるといえます。そして、巨大企業であることが多い既存メディアは、ほぼ必然的に、その社会の主流派に近い人間によって構成されます。ヨーロッパ各国でいえば、仮に白人キリスト教徒でなくても、それが中心を占める社会秩序に親和的な人間が多くなったとしても、不思議ではありません。つまり、「表現の自由」が個々人に保障されていても、それを実際に発信できる力においては、社会の主流派と傍流の間に大きな格差があることは確かです。

30年以上前の1981年に出版された『イスラム報道』において、サイードは一本の映画についてのエピソードを紹介しています。1980年に英国人監督によって制作された『王女の死』は、サウジ王家の王女の一人が身分の違いを超えて一人の男性と恋におち、しかしそれが王家の慣習に反したことで、二人とも処刑された実話に基づくドキュメンタリー映画です。これを米国PBSテレビが放送する段になり、サウジ政府が不快の念を発表し、それを米国務省が(ご丁寧に)PBSに伝えたがため、かえって欧米世界での関心を大きくしました。

サイード自身はこのフィルム公開に賛成しながらも、その一方でムスリムでない監督によって描かれたこの映画により、ムスリムが言いたいことも言えないままに、欧米諸国で「残酷な」イスラム流刑罰のイメージを助長したと述べます。「フィルムの製作者とPBSがきづくべきだったことがある。それはムスリム世界や第三世界の人は誰もが承知していることだが、フィルムの内容がどうであろうと、フィルムの製作、つまり情景を映像にする行為そのものが、いわゆる文化的力、この場合は西洋の文化的力に由来する特権なのである。…つまり、ニュースや映像を実際につくって配信すること自体、お金よりも強力であった。サウジ政府は…『いや、実はそうではないのだ』とか、『それはこうなんだ』と述べることも可能である。もちろん、それを効果的にいう方法があり、さらに立ち上がってそれを主張する場所があることが条件になる。サウジの公式スポークスマンにとっては、そんな方法も場所もなく、ただひたすらフィルムの放映を頭から阻止するという文化的に信用を失う道をとるほかなかった。」(サイード, pp.96-98)

この状況は、今のヨーロッパ各国の社会においても、ほぼ同様といえます。ムスリム系市民にも、もちろん表現の自由は保障されています。しかし、主だった新聞社やテレビ局に近いホスト国社会の主流派と比較して、情報やものの見方を発信する実質的な機会は、小さいと言わざるを得ません。そのなかで、特定の文化集団を対象に、それを揶揄するような風刺が大手新聞社に掲載されることは、確かに表現の自由に基づくものでしょうが、それは少数者や弱者の立場からすれば、「多数者あるいは強者の横暴」と映っても不思議でありません。


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