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欧州情勢・西洋事情

278旧ホントは社民支持@鹿児島市:2015/01/09(金) 23:05:03
表現の自由の二面性
洋の東西を問わず、風刺は権威や権力の前で異議申し立ての機会をもたず、ひたすら支配を受け入れることを求められる人々の間で、罪に問われるか問われないかのギリギリのラインの、ささやかな抵抗として発達しました。日本でも、有名なところでは、江戸時代の寛政年間に、老中・松平定信のあまりにも厳格な倹約令に不満を募らせた江戸庶民の間で、「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」という狂歌が流行しました。これに象徴されるように、風刺はユーモアやウィットをもって、直接的にではなく間接的に権威・権力を揶揄することで、「憂さを晴らす」ものとして発達したのです。

ただし、近代以前ほとんどの国で権威・権力に対する風刺は規制の対象でした。近代民主主義の母国である英国で、議会制度が確立しつつあった1694年に、それまで規制の対象だった新聞への検閲が廃止されたことは、「表現の自由」が制度化されたものといえます。これらに鑑みれば、「表現の自由」には、権威・権力をもたない「弱者の保護」としての側面があるといえるでしょう。

ただし、あらゆる原理には二面性があります。総じて自由の原理からは、「一方的な支配を拒絶する」ことから「強者の支配から弱者を解放する」という思考が導き出せる一方、「規制をかけない」ことで「既に力をもつ強者の支配を許す」という思考をも導き出すことができます。これに関して、「表現の自由」も同様です。時に「支配される弱者からの異議申し立てを保障する原理」となる表現の自由は、別のシーンにおいては、「支配的な立場の強者が情報やイメージを通じて支配を強化する原理」にもなり得るのです。

パレスチナ出身で、米国ハーバード大学やプリンストン大学で活動したエドワード・サイードは、『オリエンタリズム』(1978)で、近代以降の欧米諸国における絵画、演劇、小説などのメディアや、文学、社会学をはじめとする学問が、「我々」(西洋)と対置する形で「彼ら」(東洋)を捉え、なかでも「イスラーム」に関して(西洋と対照的という意味で)野蛮、残虐、暴力的といったイメージを再生産し、実際の政治的、経済的、軍事的な支配−従属関係を強化する役割を果たしてきたと喝破しました。言い換えると、メディアなどを通じて流布するイスラームのネガティブなイメージは、翻って欧米諸国のポジティブなイメージにつながり、これによって後者が前者に対して実際にもっている優位を固定化する役割を果たしてきたというのです。

近代初頭、英国の哲学者フランシス・ベーコン(1561-1626)は「知は力なり」と断じました。知識、情報、認識枠組み(視座)、課題設定(アジェンダ・セッティング)などを司る力は、全体に対する影響力につながります。それが政府でなく、民間メディアによって提供されるものであっても、基本的には同じです。サイードによると、「アメリカの大半のジャーナリストは自分の会社がアメリカの権力への参加者であることを潜在的に意識して世界のことを報道し、その権力が外国の脅威にさらされると、報道の独立は後退し、忠誠愛国や単純な国家的一体感を暗にうたいあげるものになることがしばしばである」(サイード, 1996, 『イスラム報道』, みすず書房, p.74.)この観点から「表現の自由」を振り返ると、それによって誰もが情報発信の権利を保障される一方で、情報発信能力に長けた者の「ものの見方」が影響力を拡大させることを促すことにも結びつくといえるでしょう。


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