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欧州情勢・西洋事情
214
:
チバQ
:2014/11/18(火) 07:48:24
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2014111802000150.html
「西欧並み」暮らし遠く ルーマニア 収入低く出稼ぎ絶えず
2014年11月18日 朝刊
16日夜、ブカレストで、ルーマニア革命を象徴する旗を先頭に、在外投票所の不備に抗議するデモ隊。多くは大統領選でヨハニス氏を支持していた=宮本隆彦撮影
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【ブカレスト=宮本隆彦】ルーマニア大統領選の決選投票は十七日も開票作業が続き、中道右派の国民自由党党首で中部シビウ市長のクラウス・ヨハニス氏(55)が初当選を確実とした。今後は議会多数派の中道左派との協調が課題となる。
選管による開票の中間発表で、ヨハニス氏はビクトル・ポンタ首相(42)に10ポイントの差をつけた。無党派層の投票が増えて投票率が上昇し、司法の独立など汚職対策の強化を訴えたヨハニス氏に有利に働いたとみられる。
ルーマニアの大統領は任期五年で三選は禁止。外交と安全保障を担い、首相のほか情報機関や検察のトップの任命など大きな権限を持つ。ただ議会はポンタ氏らの中道左派が多数派を占め、ヨハニス氏は現在のバセスク大統領と同様、ねじれ状態での政権運営を強いられる。敗北が決定的となったポンタ氏は首相続投を表明したが、党首を務める社会民主党内から退陣要求が出る可能性もある。
パリなど一部の在外投票所では施設の不備から投票ができず、怒った市民がブカレスト市内をデモ行進した。
【ブカレスト=宮本隆彦】ルーマニアは、独裁者のチャウシェスク大統領を倒した一九八九年十二月の革命から間もなく二十五年を迎える。この間、市場経済の導入で経済規模は四・五倍になったが、出稼ぎのため国民の八人に一人が国外に住むなど生活は依然厳しい。革命時に思い描いた「西欧並み」の豊かさに近づこうと、十六日の大統領選で国民は、汚職根絶を掲げたドイツ系のヨハニス氏を新リーダーに選んだ。
ルーマニアは二〇〇七年に欧州連合(EU)加盟を果たしたが、一人当たりの国内総生産(GDP)は一三年でEU平均の半分。月の平均賃金は千五百レイ(約四万九千円)にとどまり、より良い稼ぎを求めて国外への出稼ぎが絶えない。
中部ブラショフ県で暮らすコンスタンティン・ポペースクさん(47)は〇五年と〇九年の二回、フランスで配管工事などに携わった。今は地元の工場に勤めているが「自国でまともな給料がもらえるなら出稼ぎなんてしない」と話す。
国家雇用庁の推計では、国外のルーマニア人は人口の12%に当たる三百万人。「革命直後と、EUとの間でビザが撤廃された〇五年ごろの二回、出国の波が起きた」(ペトル・ブラナリウ雇用庁次長)という。
出稼ぎを減らすには国内産業を育てるしかないが、EUで最悪とされる「汚職体質」が海外企業による進出をためらわせる。
「汚職で国の財産が盗まれるのは悲しい。ヨハニスさんが大統領になれば、まだ希望はあるのだけれども」。ブカレスト中心部の投票所を出てきた一人暮らしの元看護師の女性(73)はそう語った。選挙でヨハニス氏が汚職対策を強調したのに対し、チャウシェスク時代の政権党だった旧共産党の流れをくむ社会民主党のポンタ氏は主要な訴えに含めなかった。
ブカレスト大のボグダン・ムルジェスク教授(51)=現代史=は根深い汚職の一因を「チャウシェスク時代の特権階級が革命後に立場を変えつつも政権や行政を担い続けたため」と説明。民主国家の旧西ドイツに吸収された旧東ドイツと異なり、旧来の行政機構を利用するしかなかったルーマニアの民主化は、ほかの東欧諸国と同様、より困難だったとの見方を示した。
<ルーマニア革命> 1965年に権力を握ったチャウシェスク大統領は、エレナ夫人とともに独裁体制を固め、対外債務返済のためとして国民に耐乏生活を強いた。89年12月、反政権デモが地方からブカレストに波及して政権は崩壊。大統領夫妻は国内の逃亡先で逮捕され、特別軍事法廷で死刑判決を受けた25日に銃殺された。大統領派の治安部隊による市街戦などで1100人の死者が出たとされ、89年の東欧革命では唯一、流血が起きた。
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