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欧州情勢・西洋事情
176
:
チバQ
:2014/10/21(火) 21:41:25
http://mainichi.jp/select/news/20141022k0000m030069000c.html
ベルリンの壁崩壊:核心の質問やらせ? 伝説の記者会見
毎日新聞 2014年10月21日 20時12分
【ベルリン篠田航一】1989年の「ベルリンの壁崩壊」からまもなく25周年。当時、壁崩壊を後押ししたのが「旅行の自由化」を発表した旧東ドイツ政府の記者会見だった。「今すぐ出国できる」との発表を聞き、東ベルリン市民が国境検問所に殺到。壁は一夜にして崩れ落ちた。だが、東独政府が想定していた出国自由化の時期は「即時」ではなかった。世界史の流れを変えたと言われる「伝説の記者会見」の経緯を追った。
89年11月9日午後6時すぎ、高まる自由化の機運に押され、東ベルリンでの政府会見場で東独与党、社会主義統一党のシャボフスキー政治局員が「旅行の自由化」を発表した。この時、イタリアの通信社記者、エーマン氏が「いつからか」と質問。シャボフスキー氏は手元の資料で確認できず、うっかり「今すぐと認識している」と答えてしまった。これがテレビなどで伝わると、市民は一斉に国境に押し寄せた。
「実は東独政府が考えていたのは、出国ビザを取得した上での翌10日からの統制の取れた自由化でした」。ポツダム現代史研究所のハンスヘルマン・ヘルトレ博士(59)はこう話す。東独高官らは、この措置で出国するのは10万人ほどと見積もっていたという。「シャボフスキー氏のミスがなければ、歴史の流れは変わっていたかもしれません」とヘルトレ氏はみる。
ところが、後年、エーマン氏は爆弾発言をする。「会見前、シャボフスキー氏とは別の高官から『出国自由化の時期を必ず質問するように』と言われていた」。事実なら、いわゆる「やらせ質問」だ。社会主義体制の最期を悟った政権中枢が、壁の崩壊を早めるために質問をさせたとのシナリオだ。
シャボフスキー氏は後に「ばかげた作り話。質問は突然で、打ち合わせなどなかった」と「やらせ疑惑」を否定。東独高官とされる人物も既に他界しているため真相は不明だが、25年前の会見に参加していた元ビルト紙記者、ペーター・ブリンクマン氏(69)に話を聞くことができた。
「あの会見ではエーマン記者だけでなく、私も『いつからか』と質問しました。記者ならごく当たり前の疑問ですからね。同様の質問は矢継ぎ早に飛びました」。やらせがなくても、当然の質問だったとの見方だ。会見記録を分析したヘルトレ氏も「ブリンクマン記者も同様の質問をしています」と認めた。
だが、早くから「私が質問した」と主張し続けたエーマン氏だけが後にドイツ統一に貢献したとして勲章を受章し、ブリンクマン氏は「無冠」のまま。「この決定は不公平」と悔しそうだ。
「当日、国境近くにいた兵士や秘密警察にも特段の指示はなかった。体制が持たないのは薄々感じていたが、東独政権内部も、まさか一夜にして世界が変わるとは誰も思っていなかった」。かつて東独秘密警察のメンバーだった男性はこう証言した。自由化を求める人々の圧力という歴史の「必然」に、会見での予想外の質疑応答という「偶然」が重なり、歴史が動いた。それがベルリンの壁崩壊だった。
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