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ロシア・韃靼・ユーラシアスレ

1とはずがたり:2014/05/04(日) 19:49:37
東欧・ギリシャ正教・中央アジア・旧ソ連諸国・シベリアなど

新疆とかは大中華スレとは棲み分け微妙な感じで場合によってはこちらにも。

前スレ
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1116784031/?q=%A5%A6%A5%AF%A5%E9%A5%A4%A5%CA

1648とはずがたり:2022/03/11(金) 10:39:06
ウヨのアンドリーのせいでウクライナ人の印象は激悪だったが,それとは別にウクライナ人とは連帯していきたい。が,戦争を停める為ならクリミアぐらいロシアに呉れてやる必要があるのかもしれないとは思ってる。ほんとうはクリミアはタタール人のものなんだろうけどねえ。。

2019年12月09日
「クリミア半島はソ連からウクライナへのプレゼント」というウソ
グレンコ・アンドリー
https://nikkan-spa.jp/plus/1628469

ロシアのクリミア半島侵略を正当化しようとする人々

 前回の記事https://nikkan-spa.jp/plus/1626486?cx_clicks_art_mdl=2_titleで、筆者はクリミア半島は国際法上、ウクライナの領土であり、ロシアによるクリミア占領・併合は弁明しようのない領土侵略であることを説明した。だからクリミア半島の問題解決は、ウクライナへの無条件な返還しかないということも説明した。

 これ以上クリミア半島帰属については議論することはない。ロシアの侵略を正当化するためによく利用されている、ウクライナへの移譲の経緯、クリミア半島の歴史、クリミア半島の人口構成と世論、といった要素は帰属問題とは何の関係もない。

 とはいえ、こういった要素を持ち込もうとする人達がある。そして、これに流され、間違った認識を持っている人がいるのもまた事実だ。

 だから、今回はこのような問題についても解説することにする。繰り返しになるのだが、本稿で扱われる情報は、クリミア半島のウクライナ帰属の根拠ではなく、あくまで補足知識である。帰属根拠は前回述べた通りである。

クリミアはソ連のフルシチョフからウクライナへのプレゼントか

 まずは、ソ連時代にクリミア半島がウクライナへ移譲された経緯について。ロシアの侵略を正当化しようとする人達は、「クリミアはウクライナ出身のフルシチョフによってウクライナにプレゼントされた」という表現を使う。これを聞くと筆者は笑ってしまう。いやぁ、こんなに絶妙に、一語一句、嘘しか書いていない一文を作るには、むしろ才能が要る、というのが筆者の印象である。

 順番に事実を確認しよう。クリミア半島のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国への移譲が決まったのは、1954年1月25日である。その日ソ連共産党中央委員会幹部会がクリミアの移譲を決定し、1954年2月19日にソビエト連邦最高会議幹部会にそれが議決された。幹部会で議長を務めていたのはゲオルギー・マレンコフである。フルシチョフももちろん、他の幹部会メンバーと同じく移譲に賛成したが、これは彼の単独の判断ではなく、ソ連の幹部の共通認識だった。

 フルシチョフは当時、まだ国のトップに立てずにいた。そして、事実上のトップであったマレンコフ閣僚会議議長を引きずり下ろす準備をしていた。クリミア移譲はこのフルシチョフとマレンコフの権力闘争の最中に行われたのだが、両者共にクリミア半島移譲に賛成だった。つまり、この移譲はフルシチョフ単独の判断ではなく、当時のソ連指導層全体の意向であったことが伺える。ちなみに、ウクライナへの移譲に関する議論は1952年の頃から行われていた。

フルシチョフはウクライナ出身ではない

 ところで、そのフルシチョフだが、彼はウクライナ出身ではない。彼はロシア帝国のクルスク県(現在:ロシア連邦クルスク州)に生まれたロシア人である。彼はスターリンに信頼されていたため出世し、1938年から1949年までウクライナ共産党(ソ連共産党ウクライナ支部)の第一書記(トップ)を務めた。長くウクライナにいたため、ウクライナ出身と勘違いされることがあるが、彼はロシア出身である。

 また、彼はウクライナにいた頃、ウクライナに対して特別な思いを持っていた訳ではない。フルシチョフはウクライナにおけるスターリンの抑圧を従順に実行していた。独ソ戦争後、彼はウクライナ独立を目指していた民族運動の残虐な弾圧に加担し、慈悲を見せた兆しはなかった。独立運動家を町の広場で公開処刑すべきだと主張していた。ウクライナにいた頃に、確かに彼は多くのウクライナ出身の側近を持つことになったが、この人達は民族的にウクライナ人だったとはいえ、ウクライナに対する何の思い執着もない共産主義者だった。つまり、フルシチョフはウクライナ人でもなければ、ウクライナに対して特別な感情を持っていた訳でもない。

クリミアがウクライナに移譲された本当の理由

… よくクリミアはロシアとウクライナの長年の友好を記念して移譲されたと言われている。確かにソ連の公式見解はそうであった。しかし、これは後付けの理由で、実際にクリミアの移譲をソ連の指導層が検討していた時、当然このような甘ったるい理由などなかった。

1649とはずがたり:2022/03/11(金) 10:43:54

 実際の理由は経済産業である。ソ連幹部が決定したクリミア移譲の正式な理由は「経済の統一性、地理的な近さと、密接な産業的な、文化的な繋がりを考慮して」ということだった。

 当時のクリミア半島は荒廃していた。1944年にはスターリンの命令によってクリミア先住民であるクリミアタタール人や他の長年クリミアに住んでいた民族は半島から追放された。彼らはクリミアの経済や産業を担っていたので追放後、クリミア経済が崩壊した。

 代わりに半島に来たロシア人の入植者は新しい環境に慣れずに、発展に貢献できなかった。新たに入ってきたロシア人は、「なぜこんなところに行かされたのか」と不満を漏らしていたとすら言われている。ソ連幹部は崩壊したクリミア半島の経済再生に悩まされた。そこで、クリミアの再生をウクライナに任せたらどうかという案が出てきて、最終的に採決された。

 クリミア半島は地理的にウクライナ本土と隣接しており、インフラの面でもウクライナのインフラ体系の一部である。また産業や経済や物流など、すべての分野においても同様にウクライナの一部である。だから、クリミアを直接モスクワが管理するより、ウクライナに任せた方が、効率がいい。

 実際にウクライナ移譲後、クリミア再生が実現された。また、資源の面では、クリミア半島は資源不足で自立できないので、水道水やガス、電気などもすべてがウクライナ本土から調達されている。だからクリミアの移譲は、ウクライナへの優遇ではなく、地理、経済、産業、資源という事情に基づいてなされた極めて自然で合理的な判断である。

クリミア半島は元々ロシアの領土だったのか

 次は、クリミアの歴史を見てみよう。ロシアによる侵略を正当化しようとする人達はよく「クリミア半島は元々ロシアの領土だった」と言っている。それでは、ごく簡単ではあるが、クリミア半島の歴史を振り返ってみよう。

 紀元前七世紀から、クリミア半島の南部には古代ギリシャからの入植者が都市国家を造っていた。

 紀元前五世紀〜紀元後4世紀の約800年間、クリミア半島の東部は、ギリシャ系のボスポロス王国の中心であった。その間、一時期、ローマ帝国の保護国となっていた。同時に北部はスキタイ族の国家に所属していた時期もあった。

 四世紀にはゴート族、五世紀にはフン族に支配されていた。六世紀から九世紀まで、クリミアはビザンツ帝国の一部であった。

 十世紀になると、ウクライナの先祖に当たる古代ルーシが台頭し、クリミア半島の一部を支配するようになった。それぞれの支配も完全なものではなく、現地の部族らと通り過ぎる遊牧民との混在状態であった。十三世紀のモンゴル襲来によって、クリミア半島の大部分はモンゴル系国家のジョチ・ウルスに支配されるが、南の沿岸部は一部はビサンツ帝国、一部はイタリアのジェノヴァ共和国の植民地になる。

 十五世紀ではクリミアタタール人のクリミアハン国が成立する。クリミアタタール人とは、アジアから渡来したモンゴル人やタタール人と、先住民の諸部族が混血してできた民族である。クリミアハン国はクリミア半島を1783年まで300年以上支配した。

 そして1783年にクリミア半島がロシア帝国に併合され、支配は1917年まで続いた。

1650とはずがたり:2022/03/11(金) 10:44:23
ロシア革命のどさくさはウクライナの正統性をそれ程示さないせいかアンドリーは省いているのでこの時期に関してはwikiから転載。纏まった動きはウクライナ,西ウクライナ,クリミアの三つの地域にあったようだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A#%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
ウクライナ独立戦争
第一次世界大戦が勃発すると、ウクライナ西部を巻き込んで東部戦線が形成された。
<ウクライナ>
1917年に2月革命によりロシア帝政が崩壊し、ペトログラードでロシア臨時政府が成立した。それに伴い、同年3月14日にキエフでウクライナ政府としてフルシェーウシキー教授が指導するウクライナ中央議会が成立した。十月革命によってロシアの臨時政府が倒され、共産党のソビエト政権が誕生すると、11月7日に中央議会はキエフを首都とするウクライナ人民共和国の樹立を宣言したが、ウクライナ・ソビエト戦争が勃発したあと、1918年1月9日にウクライナ人民共和国の独立を宣言した。

同年2月8日にロシアの赤軍はキエフを占領したが、2月9日にブレストでウクライナとドイツ、オーストリアの同盟が完結し、中央議会は同盟国の軍事力を借りてウクライナを解放し、3月に首都を奪い返した。4月29日にウクライナの保守階級によるクーデターの結果、中央議会に代わってスコロパードシキー大将の政権が成立した。国号はウクライナ国に改められ、元首はヘーチマンとなった。当国は安定した発展を見せたが、ドイツの連合国への降伏により事態は一転し、1918年12月19日にスコロパードシキー政権が倒され、新たな執政内閣の政権が成立した。国号は再びウクライナ人民共和国となった。

しかし、ドイツ軍の撤退によりウクライナ・ソビエト戦争が再開した。1919年1月6日、ソビエトのロシアは傀儡政権として首都をハルキウとするウクライナ・ソビエト社会主義共和国を樹立した。同年2月5日にソビエト軍はキエフを占領し、ウクライナ人民共和国の政府を亡命させた。1919年から1920年にかけて、ウクライナの支配をめぐりウクライナ人民共和国軍、ソビエトの赤軍、ロシア帝政派の白軍、白軍を支援するフランス軍・イギリス軍・ポーランド軍、ネストル・マフノ率いる無政府主義者の黒軍、ウクライナのゲリラを中心とする緑軍などが争った。1920年冬に戦争がソビエトの赤軍の勝利で終結し、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は西ウクライナを除きウクライナ全域を確保した。

<西ウクライナ>
一方、オーストリア?ハンガリー帝国の解体に伴い、1918年10月19日に西ウクライナのガリツィア・ブコビナ地方に住んでいたウクライナ人はリヴィウを首都とする西ウクライナ人民共和国の独立を宣言した。しかし、11月1日にポーランドが当共和国へ侵入し、ウクライナ・ポーランド戦争が始まった。ポーランド側はフランス、イギリス、ルーマニア、ハンガリーなどによって後援されたが、西ウクライナ側は国際的に孤立していた。1919年1月22日に西ウクライナはウクライナ人民共和国に援助を求め、キエフでウクライナ人民共和国と合同したが、ウクライナ人民共和国の政府はソビエトの赤軍と戦ったため、援軍を派遣することができなかった。こうした中で、右岸ウクライナの併合を目論むポーランドが7月18日に西ウクライナ全地域を占領し、西ウクライナ人民共和国は滅亡した。その後、1920年4月に西ウクライナをめぐってポーランド・ソビエト戦争が勃発したが、1921年3月18日のリガ条約によって西ウクライナのポーランド支配が確定した。

<クリミア>
またクリミアにおいては、1917年、クリミア・タタール人を中心とし、ノーマン・チェレビジハンを初代大統領とする多民族・世俗国家クリミア人民共和国の建国が宣言されたが、1918年にモスクワのソビエト政府により占領され、滅亡した。 (→これをきっかけにクリミアはソ連に於いて当初ロシア領だったといういことか)

1651とはずがたり:2022/03/11(金) 10:45:04
>>1648-1651
 そして1954年に、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国から、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ移譲された。

 ソ連崩壊後は、クリミア半島はそのまま独立したウクライナの領土になった。

 このように、クリミアは何回も支配者が変わっている。それでは、クリミアは「元々」どこの領土なのか? クリミア半島は「元々」ロシアの領土ではない。ギリシャ人に800年支配され、クリミアタタール人の国家が340年存在したが、どちらも、ロシアが支配していた約200年より遥かに長い。だから、ロシアがクリミア半島領有の主張を歴史に求めるのは、まったく正当性がない。歴史的に支配者が何度も変わった地域に関しては「元々ウチの領土だ」という主張自体がおかしい。「元々」の時期を自分に都合のいい時代に設定すれば、多くの国が「クリミアは元々うちの領土だ」と言えるからである。

民族自決権はその地域の先住民に及ぶもの

 最後にクリミアの人口構成と世論について考えよう。現在のクリミア半島の人口構成とはおおよそ、ロシア人6割、ウクライナ人3割弱、クリミアタタール人は1割である。これを根拠にロシアやロシアの侵略を正当化する人達は、クリミア住民は民族自決権に基づいてロシア帰属を選んだと主張する。

 この論理は本当に詭弁の極みである。そもそも、現在の国際関係においては、国境不可侵の原則は民族自決の原則に勝るという慣習がある。…

計画的な移住による人口構成の変化

 さらに、そもそも現在のクリミア半島の人口構成は自然なものではなく、人工的に作られたのである。1783年までにクリミア半島にロシア人は殆どいなかった。戦争でクリミアを取ったロシア帝国は計画的に半島にロシア人を移住させていた。帝国政府はクリミア本当のロシア化を狙い、クリミアタタール人を差別していた。そのため、ロシアの統治に耐えられず、多くのクリミアタタール人はクリミアから移民した。ロシア帝国の130年の間、50万人以上のクリミアタタール人は半島を出た。総人口の100万人もない民族にとっては、大きすぎる数字である。当然、帝国政府はクリミアタタール人の流出を喜び、その代わりにロシア人を住まわせた。

 しかし、とどめを刺したのはスターリンであった。彼は1944年にクリミアタタール人の追放を命じて、ソ連の治安部隊はクリミアに住んでいた全てのクリミアタタール人(当時、約25万人)を強制的に貨物列車に入れて中央アジアに移動させた。移動中や到着直後の過酷な環境で、約5万人つまり5人に一人が死亡した。ちなみに、これもソ連の公式な統計で、クリミアタタール人の活動家の主張によれば、民族の46%つまり10万人以上が死んでいるということだ。

 その結果、クリミアタタール人はクリミアからいなくなり、その代わりにまた新たにロシア人が入ってきた。クリミアタタール人に故郷へ戻ることが許されたのは1989年である。それまでに彼らはソ連当局から、「ファシストの協力者」とレッテル張りされ、50年間も中央アジアで過酷な環境で生きざるを得なかった。だからクリミアタタール人とはロシアに非常に虐げられていた民族である。

 以上の経緯から、現在のクリミア半島の人口構成は自然なものではなく、計画的な移住、民族浄化、弾圧、虐殺の結果である。この経緯から見ると、クリミア半島に住んでいるロシア人には個々人の罪はないが、少なくとも彼らにはクリミア半島の運命を決める権利はどの観点から見てもない。

先住民のクリミアタタール人の意向は?

 それでは、そのクリミアタタール人だが、彼らはクリミア帰属をどう考えているのか。それも明確である。クリミアタタール人のほとんどがクリミア半島はウクライナの不可分の一部であり、クリミアのウクライナ帰属以外の解釈はあり得ないと考えているのだ。

 ちなみに、クリミアタタール人の投票行動からも彼らの姿勢は明らかである。ウクライナでも保守右派、中道派、左派、親露派の政党はあるが、クリミアタタール人は国政選挙のたびに決まってウクライナの右派に投票している。だからクリミアタタール人は立派なウクライナの愛国者である。…


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